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八章 老いのかたち、光のかけら

 海のきらめきと潮騒に誘われて、旅に出てから一週間。

 30年にわたるアメリカでの暮らしに区切りをつけ、人生の後半を日本で静かに生きていこうと決めた智恵子と和夫。

 その一歩として選んだのは、初めての土地をめぐる、ふたりだけの小さな旅だった。


 若いころは、どこへ行っても「何をするか」が旅の主題だった。名所を巡り、名物を食べ、写真を撮る――そんな「消費する時間」が当たり前だった。


 今は違う。ただこうして海を眺め、風に吹かれているだけで、胸の奥に何かが沁みてくる。


「こんな時間が、何より贅沢なんだな」

 そんな言葉がふと浮かんで、智恵子はそっと口元を緩めた。


 国道134号を南へ走ると、左手には相模湾の青が広がっていた。智恵子は目を閉じ、深く息を吸い込む。冷たい空気が肺に満ち、心の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。


「この風景の中にいると、自分がどれほど小さな存在か、自然と受け入れられる気がする――」

 そんな思いが、ふっと胸の内に浮かんだ。


 過ぎ去った時間、戻らない人、言えなかった言葉。そのすべてが、目の前の海と空に抱かれ、ほんの少し、やさしさをまとっているように思えた。


 智恵子は遠くの水平線を見つめた。波の音に混じって、遠い記憶の声が聞こえた気がした。


 ――「大丈夫。ちゃんと生きてる。」


 それは誰かの声ではなく、智恵子自身の心の奥底から立ち上ってきた声だった。

 過去も未来も抱きしめながら、今この瞬間を歩きはじめる。旅は、まだ始まったばかりだった。


「こんなに海の近くを走るなんて、ちょっと驚きね」

 窓を開けて潮の香りに顔をほころばせる智恵子に、和夫が笑う。


「俺たち、こっち方面には来たことなかったもんな」


 葉山を過ぎ、潮風がやわらかに車内に流れ込む。松の木が点在する穏やかな海岸線と、静かな住宅街が続く葉山の町は、どこか時間の流れがゆるやかだった。白い壁の古い洋館や、洒落たカフェが点在する小道には、犬の散歩をする地元の人々の姿が見え、ふたりの車を優しく見送ってくれるようだった。港のそばでは釣りを楽しむ老夫婦が寄り添い、遠くに見える裕次郎灯台が、かつての昭和の記憶を静かに語りかけてくる。


 鎌倉も湘南も、ふたりにとっては初めての土地。どの町の空気もどこか穏やかで、ずっと昔からふたりを迎えてくれていたかのようだった。


「知らないはずの景色なのに、どこか懐かしい感じがするのは不思議ね」


「きっと歳のせいだよ。何を見ても“懐かしい”って思っちまう」

 和夫は照れたように笑った。


「こんな景色、日本にもあったのね……」

 智恵子は感嘆したように、目を細める。


「マイアミじゃ見られなかった海だな。いや、こういう空気が、俺たちには必要だったのかもな」


 剱崎では、岬の灯台まで続く細い遊歩道を歩いた。片側には切り立った崖、もう一方には岩場に砕ける白い波。潮風に吹かれながら、智恵子の息が少し荒くなる。かつては漁火が点々と浮かんでいたというこの海も、今はどこまでも静かで、ただ風と波の音だけが耳をくすぐった。

 歳月を重ねた今だからこそ、見えてくる風景がある。

 若いころの智恵子なら、和夫に弱みを見せなかった。今は、素直に頼れる。


「大丈夫? ちょっと息が荒いみたいだね」


 和夫がふと立ち止まり、心配そうに見つめる。


「……そんなこと言うなら、私を支えてよ」


「はい、はい。支えますよ」


 和夫は智恵子の手を取り、ゆっくりと歩く。潮に洗われた岩場の匂い、陽の光に揺れる名もない雑草の影、崖の上から望む海は深く青く、時間の感覚を失わせるほど静かである。遠くには小さな漁船がゆっくりと進み、灯台の白が空と海の青に溶け込むように立っている。


 智恵子はその姿を見つめながら、ふと自分たちの歩んできた日々を重ねる。支え合いながら、ここまで来た。これからも——。

 たとえ歩みが遅くなっても、手を離さずにいられたら、それでいい。


 城ヶ島では磯に降りて波音に耳を傾けた。黒く滑らかな岩肌には小さなフジツボや海藻が張りつき、ところどころ潮溜まりに小さな魚が泳いでいる。岩のすき間から顔を出す蟹が、ふたりの気配にぴたりと動きを止めた。


 観光客の足音が遠ざかると、世界から人の気配が消えたかのようだった。潮騒が一層くっきりと響き、波が岩を撫でる音が、まるで誰かの囁きのように優しく耳を打つ。


 ふたりは黙ったまま、並んで岩に腰を下ろした。言葉を交わさなくても、同じものを見て、同じ風を感じているというだけで十分だった。


 智恵子はそっと目を閉じた。若いころには、こんなふうに何もしない時間が怖かった。何かを成し遂げなければと、いつも急いでいた。今は、ただ波の音に身をゆだねていられることが、何より贅沢に思える。


 和夫は、潮の香りに混じる陽だまりの匂いを感じながら、隣にいる智恵子の肩の温もりを確かめる。人生の海を渡ってきたふたりにとって、この静けさは、ささやかな祈りのようでもあった。


 湘南海岸沿いを西へ――江ノ島、茅ヶ崎、平塚、大磯。

 春の陽射しを受けて波はやわらかに光り、サーファーたちの影が水面に揺れる。潮風には、どこか懐かしい屋台の匂い――焼けたソース、炭の香り、海藻の湿った気配が溶け合っていた。浜辺には、はしゃぐ子どもたちの声、犬を連れて歩く若者たち、異国の言葉が飛び交う旅人たち。それらがすべて、ひとつの風景として優しく流れていく。


 江ノ島大橋・江ノ島弁天橋の上から見下ろす海は、翡翠色に澄み、時おり光の粒を跳ね返していた。島へと続く道は観光客であふれていたが、その喧騒の向こうに、かつての静かな記憶のようなものがふと立ちのぼる。


 その夜、平塚の小さな日帰り温泉で、ふたりは肩まで湯に浸かりながら静かに目を閉じた。湯気が立ちこめ、温かいお湯に包まれ、身体の隅々までほぐれていくようだった。外の景色は見えないが、温泉の中でひとときの静けさを楽しんでいると、遠くから波の音がかすかに聞こえてきた。


 和夫は、静かな温泉の空気に身を任せながら、少し前に二人で歩いた湘南の海岸の風景が、ゆっくりと頭の中に浮かんできた。智恵子も、きっと同じようにリラックスしているのだろうと、ふと考える。


「こんなところがあるんだな。」和夫は、ひとりごとのように呟いた。


 しばらくして、温泉から出た和夫が休憩所に向かうと、智恵子も湯上がりの肌をタオルで包みながらゆっくりと歩いてきた。お互い、無言で目を合わせて微笑んだ。その静かな瞬間が、言葉よりも多くを伝えていた。


 智恵子は、湯上がりの肌に感じるひんやりとした空気を心地よく感じながら、和夫と並んでベンチに腰を下ろした。


「ここ、初めて来たけれど、すごく落ち着くわね。」智恵子が言うと、和夫も頷いた。


「そうだな。初めての場所だけど、何だか懐かしい感じがする。ゆっくりと過ごせるのはいいね。」


 智恵子は目を閉じ、外の海風を感じながら、静かな時間を楽しんでいた。どこかで感じたことのある、穏やかな安心感が二人を包み込んでいる。


 新しい場所で迎えた初めてのひととき。それは、二人にとってかけがえのない時間となっていた。


「マイアミでは、店の支払いのことばっかり考えてた気がするな。オーナーは激務だった」


「あの頃は、それがすべてだったからね」


 智恵子の声には、過ぎた日々への愛おしさと、少しの悔いがにじんでいた。


「でも、こうしてふたりで湯に浸かってる今の方が、よっぽど豊かだと思うよ」


「……そうね。やっと肩の力が抜けたって感じ」


 ふたりの間に、言葉以上のものが静かに流れていた。


「こういう時間が、一番贅沢かもしれないな」


「そうね。誰にも急かされないし、ただぼーっとしていられるのだから」


 やがて旅はさらに西へと続いた。

 渥美半島を目指して車を走らせ、伊良湖からフェリーに乗る。

 甲板に出ると、春とは思えないほど冷たい風が吹きつけ、船体を小さく揺らしていた。

 それでもふたりは並んで立ち、英虞湾に向かう穏やかな海をじっと見つめていた。


 旅は、楽しいことばかりではない。思い出は、時に苦味を伴う。だが、その苦味さえも、やがて深い味わいになるのかもしれない。和夫はそう思いながら、そっと智恵子の手を握った。


 鳥羽に着いたあと、再び車を走らせた。

 中田島砂丘を過ぎ、浜松を抜け、静岡へと向かう道。

 だが、朝から智恵子の顔色は優れず、車内には重い空気が漂っていた。


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


「……胃がムカムカするの。昨日のイカ、当たったのかも」


 道の駅に急停車し、智恵子をトイレに送り出したあと、和夫は自販機の前に立ち尽くした。湿った風が不安を胸に吹き込んでくる。


 その日は車中泊どころではなく、急遽ビジネスホテルを探してチェックインした。部屋に入ると、智恵子はそのままベッドに倒れ込んだ。


「おい、救急行くか? 病院探すぞ」


「……行きたくない。少し休めば大丈夫……」


 しかし夜になっても回復せず、和夫はフロントで近くの救急病院を尋ねた。まるで、昔子どもが熱を出した夜のようだった。


 検査の結果は食中毒。幸い軽症だったが、安心した途端、和夫はソファに崩れ落ちた。


「……おまえが寝込むと、俺、ほんとダメだわ」智恵子が微かに笑った。


「知ってた。でも……心配してくれて、ありがとう」


 翌朝、ようやく再出発しようとした矢先、今度は車のエンジンがかからなかった。


「なんだよ、バッテリーか!? ふざけんな……」


「……ねぇ、やめて。そんな怒鳴ってもどうにもならないでしょ」


 その一言が、和夫の胸に鋭く突き刺さった。怒りの裏にある情けなさと不安が、自分でも透けて見えた。


「……ごめん。ちょっと気が立ってた」


「うん、知ってる。私も、そうだった」


 レッカーを呼び、修理を待つ間、ふたりは喫茶店で静かにコーヒーをすすった。和夫はふと思った。


 この旅は、“夫婦の老後”なんてきれいごとではなかった。体力の衰え、不機嫌、誤解、恐れ……そのすべてを受け止める「現実の旅」だった。


 でも、だからこそ——

 ふたりで生きてきた意味が、そこにあった。


 翌朝、渥美半島の伊良湖からフェリーで鳥羽に渡る。


 船の上で風に吹かれながら、和夫がつぶやく。「俺たち、まだまだ初めてに出会えるんだな」


「そうね。新しいことを一緒に見つけていけるって、贅沢なことかもしれないわ」


 賢島、英虞湾の穏やかな入り江。

 きらめく海を見つめながら、ふたりは静かに微笑みを交わす。


 旅の途中、ふたりは何度も立ち止まり、迷い、ときには言葉を交わすことさえ億劫になることもあった。


 それでも手を離さずに、ここまで来ることができたのは――

 お互いにとって「老いること」が、終わりではなく、新しい形のはじまりだと感じていたからかもしれない。


 目指すはさらに西へ――広島、そして九州へ。

 旅の行く先は、そのままふたりのこれからの人生そのもの。

 まだ知らない景色を、まだ見ぬ日本を、ふたりのまなざしで丁寧に刻みつけていく。


「老い」とは、何かを失うことなのでしょうか。

 それとも、削ぎ落とされた時間の中にこそ、本当に大切なものが浮かび上がるのでしょうか。


 生き甲斐とは、社会の中で何かを成すことだけではありません。

 一杯の味噌汁を味わうこと。

 同じ湯船に浸かること。

 穏やかな夕景を眺めること。

 ――そんな何気ないひとときを、誰かと分かち合うこと。


 その一滴一滴にこそ、人生の輝きは宿っているのかもしれません。


 ともに笑い、ともに老い、ときにすれ違いながらも、

 それでもなお「一緒にいたい」と願える相手。

 そんな人が、そっと隣にいてくれることが、どれほど心強いことでしょう。


 このふたりの旅のように、あなたの人生の風景にも、

 まだ知らない「はじめて」が、そっと隠れているのかもしれません。


 老いるということは、終わっていくことではなく、

 これまで見落としてきた小さな光を、もう一度見つけにいくこと。


 明日もまた、どこかへ向かう勇気――

 それこそが、「老い」の中に秘められた希望なのかもしれません。


 今、あなたは――どんな旅の途中にいるのでしょうか?

 老いるということは、終わっていくことではなく、見落としてきた小さな光を、もう一度見つけにいくこと。

明日もまた、どこかへ向かう勇気――それが「老い」ということかもしれません。

ゆっくりと傾いていく陽の中で、ふたりのシルエットが並ぶ。

風がページをめくるように、旅はまだ続いていきます。

そしてその先に、思いがけない風景が待っていることを、ふたりはまだ知らない。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ふたりの旅路をともに歩んでくださったあなたに、心より感謝いたします。次話も楽しんでいただけたら嬉しいです。


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