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七章 横須賀パーキングの朝

 人間の体というものは、つくづく不思議だと思う。

 あれほど苦しんだ日々が嘘のように、少しずつ回復の兆しが見えはじめると、胃の奥に空腹の感覚が戻ってきた。まるで長い冬を越え、凍てついた地面から、小さな芽が顔を覗かせるように。


 朝、少し肌寒い風がシャツの裾を揺らす中、通り道のコンビニに立ち寄った。

 湯気がこもる店内に入ると、温かい惣菜の匂いがふわりと鼻先をくすぐる。棚の前で立ち止まり、おにぎりにするか、弁当にするか一瞬悩んだが、自然と手が伸びたのは、ファミリーマートで話題の、大谷翔平選手監修のおにぎり。そして、渋めの緑茶。


 隣では、智恵子が迷いなくサンドイッチを手に取っている。


「スモールを二人で分けて飲もうね」


 そう言ってレジに向かう。


「これください。それと、ブラックのスモールを一つお願いします」


「スモール?」


 若い店員が首をかしげる。


「はい、スモールです」


「……スモール? なんですかそれ?」


 後ろから、智恵子がくすくすと笑う。


「ねえ、それ、スモールじゃなくて……エスだよ、エス」


「すみません。Sを一つです」


 レジで受け取ったカップを見ると、「L」の文字がしっかりと印刷されていた。


「Sサイズを頼んだのですが、カップはLになってますよ。料金はSなのに……」


「はあ……ああ、それはサイズの“L”じゃなくて、ローソンの“L”なんですよ。わざわざご丁寧に、ありがとうございます」


 店員は少し面倒くさそうに、それでも笑顔を作って言った。


 そんなこんなで、ようやくコーヒーマシンの前へ。ボタンを押すと、ふわりとコーヒーの香りが広がる。その香りだけで、どこか気持ちが落ち着いた。


 車に戻ると、ささやかな朝食が始まった。

 智恵子はサンドイッチを美味しそうにほおばり、和夫はおにぎりをパクリと。ふたり分の湯気と香りが、窓の外に広がる静かな朝を、ほんの少しあたたかくしていた。


 野島埼灯台を後にし、白浜町の明治百年記念展望台をゆっくりと巡った。太平洋を一望できるその展望台は、昭和四十三年に建てられたもので、房総半島最南端の大地から、海と空がどこまでも続いているように感じられる。視界いっぱいに広がる水平線は、遠い昔の記憶を呼び起こすようで、静かに心を満たしていく。


 そこから車は富津海岸へ向かった。遠浅の海が広がるこの場所は、夏になると潮干狩りや海水浴でにぎわう。だが今は静けさに包まれ、海鳥の声だけが遠くで響いていた。かつて家族で訪れたことのある人も多いのではないだろうか。どこか懐かしさを感じる、素朴な浜辺だった。


 次に向かったのは木更津。市街地に入ると、赤いアーチが印象的な「中の島大橋」が視界に入る。かつて「恋人の聖地」とも呼ばれたその橋を横目に走ると、港町ならではの潮の香りが車内にふわりと漂ってきた。


 新しい商業施設が立ち並ぶ一方で、裏通りには昭和の風情を残す古い商店や食堂がぽつぽつと佇んでいる。どこか懐かしく、あたたかい。まるで、過ぎ去った時代が今もそこに静かに息づいているようだった。


 木更津を過ぎると、再び高速道路に乗り、目的地の横須賀へと向かう。流れる景色は次第に広がり、海の青さが濃くなると同時に、これまで歩んできた人生の断片がふと重なり始める。運転しながら、過去の出来事や人々の顔が心の中に浮かぶ。まるで、景色と共に自分の時間が流れているような感覚だ。


 道中、住宅街や狭い路地を避け、できるだけ広い道を選んで走る。安全運転が何よりも大切だと、改めて感じる。ウインカーを早めに出し、左折時には歩行者や自転車の動きに注意を払いながら、ゆっくりと車を寄せる。今の和夫にとっては、これが一番の安心材料だ。事故を起こせば、この旅はすぐに終わってしまうから、慎重に、確実に。


 横須賀のパーキングエリアは、思いのほか静かだった。午後だというのに、空きスペースはいくつもある。和夫はいつものように、右側に車が停められない端の区画を選んだ。ドアの開閉で隣に迷惑をかけないように──それが、彼なりのささやかな気遣いだった。


 トイレから戻り、車のドアに手をかけたそのとき、視界の隅にわずかな違和感が走った。

 すぐ背後に、別の車がピタリと停められている。左右にはいくつもの空きがあるというのに、まるで意図的に選ばれたかのような近さだった。後部ドアを開ける余地すらない。和夫は一瞬、言葉を失った。


(……なぜ、そこに?)


 眉をひそめ、そっと手の甲でドアを押し開ける。ほんの少しでも触れれば、傷になる可能性がある。そうなれば、ややこしいことになるかもしれない。


 慎重に、息をひそめて……だが、


「なっ、なんだ! ぶつかったぞ!」


 突然、車の窓が下がり、怒声が飛び出した。

 中から現れた男の顔。濁った目、歪んだ口元、額には怒気が刻まれていた。

 その視線が、まっすぐに和夫を射抜いた。


「すみません。ほんのかすかに手の甲が触れただけですが、傷は──」


「触れたって言ったな? てめえ、それでもうアウトなんだよ。逃げるつもりか? 警察呼ぶぞ。いいのか?」


 怒鳴り声が乾いた空気を震わせ、周囲の静けさを破る。

 和夫の胸に、冷たいものがじわじわと広がった。


(まずい……)


 声を荒げる男を前に、和夫の脳裏に過去の記憶がよぎる。

 アメリカで味わった、理不尽な出来事。些細な誤解が、思いも寄らぬ厄介ごとへと発展した日。

 あのときの震える手、冷や汗、言葉を失った夜──。


(……ここで立ち去れば、“当て逃げ”と後で騒がれるかもしれない。そうなったら、もう逃げ場はない)


 逡巡の末、和夫はスマートフォンを取り出した。指先がわずかに震える。

 110番。通報ボタンを押したとき、喉がひどく乾いていることに気づいた。


「事件ですか? 事故ですか?」


「どちらとも……言えません。ほんの少し触れただけなんですが、威圧されていて……後で何を言われるか分からなくて」


 通報から数分後、パトカーがサイレンを鳴らさずに静かに到着した。二台。

 制服姿の警官たちが、現場に無言で歩み寄ってくる。


 男はその瞬間、口を一文字に結び、和夫を睨みつけたままゆっくりと車を降りてきた。


「おい……警察呼んだのか。あんた、やるな……」


 不敵な笑みが浮かんでいたが、その奥には微かな動揺が見え隠れしていた。

 警官が男に事情を尋ね、もう一人が和夫のもとへ歩み寄る。


「……呼んでしまって、すみません。大げさに思われるかもしれませんが、今の時代、万が一のことを考えると……」


「いい判断でした。この場を去っていたら、後でもっと面倒になっていたかもしれません」


 事情聴取が終わり、警官が男に確認を取る。


「何か申し出はありますか?」


 男は視線を逸らし、唇を噛みながら、低く呟いた。


「……ない」


 警官は静かに言った。


「では、“何事もなかった”ということでよろしいですね」


「……ああ、そうだよ。なんだよ……ちっ、最初から警察なんか呼ぶなっての」


「申し訳ありません」

 和夫は深く頭を下げた。だがその胸の奥には、まだ不安と恐怖の余韻が残っていた。


 男が警官に問う。「彼に“お咎め”は?」


「お咎め? 何のですか? 双方が納得して終わっているのに、これ以上の処分はありません。問題があるとすれば、虚偽の主張を続けるほうです」


 その言葉に、男は口をつぐみその場を去って行った。


 和夫は、もう一度深く息を吸った。

 心を整えるための旅だった。だが、現実はそう簡単に穏やかさを許してくれない。

 一瞬の油断が、地獄の入り口になる時代。だからこそ──和夫は冷静に、慎重に行動した。


 それが、正しかったのだと──今は、そう思える。


「今日はここで車中泊だ。こんな気分で運転しては、せっかくの旅が台無しになるからね」


 和夫の言葉に、智恵子は静かに頷いた。


「それがいいわ。せっかくだし、ここで少し贅沢をしてもいいかしら」


「だな」


 車のドアを閉めたその瞬間、「ひゅうっと吹き抜ける風が、潮の香りをほのかに運んできた。まるで、遠くの海からの呼びかけのように。遠くの海がどこかで呼吸しているように思えた。


 駐車場の先、まだ明かりの残る売店のあたりから、焦げ目のついたタレの香りがふんわりと漂ってくる。


「行ってみるか。なんか……そそられる匂いだな」


「ええ。今日はちょっと贅沢してもいい日よね」


 二人は並んで売店へと歩き出した。夜の帳がゆっくりと降りてきて、頭上には一番星がにじんでいた。


 売店の軒先には、大きなメニュー看板が掲げられていた。「海軍カレー」「まぐろ中落丼」「釜揚げしらす丼」──どれも横須賀らしい、海と歴史の町を思わせる品ばかりだった。


 和夫は目を細めてしばらくメニューを眺めたあと、ぽんと指をさした。


「これだな。海鮮大漁丼……見ろよ、まぐろ、サーモン、えび、ホタテ。豪華すぎるだろ」


「贅沢ねぇ。でも似合ってるわ、今夜のあなたに」


 智恵子はそんな冗談を口にしながら、迷うことなく「海軍カレー」の札を手に取った。皿にはルーだけでなく、牛乳と小さなサラダが添えられている。


「栄養バランスばっちりね。こう見えて、私、結構気を使ってるのよ」


 あたりはすっかり夜の色に染まってきた。ミニバンやキャンピングカーが続々と駐車スペースに滑り込んでくる。子どもを寝かせつける若い夫婦、犬を散歩させる中年の男性、車の中でひっそりと読書をする女性。みな、それぞれの旅の途中にいた。


 車内の小さなテーブルに料理を並べ、向かい合って座った。智恵子がふたを開けると、スパイスの効いたカレーの香りがふわっと立ちのぼり、和夫の丼には、宝石のように色とりどりの海の幸がきらめいていた。


「うまそうだな……」和夫が箸を取りながらつぶやいた。


「ほんとに。ねぇ、こういう瞬間って、思い出になるのよね」


 車の窓の外には、また一台ミニバンが滑り込んできた。小さな子どもを抱いた母親が、後部座席で静かに毛布をかけている。


「いろんな旅があるのね」


「それぞれの夜だな」


 カレーの湯気と潮の香りが交じり合うたび、和夫の胸に、かつて子どもたちと海を訪れた日の記憶が、あたかも昨日のことのように蘇った。


 ここは横須賀。

 海の街の入り口で、旅人たちの夜が、静かに交差していた。


 夜明けは静かだった。


 カーテンの隙間から洩れる淡い光に目を細めながら、智恵子は毛布の中で小さく伸びをした。海沿いの朝は少し冷えて、窓ガラスには薄く結露がついている。


 和夫は既に目を覚ましていたらしく、湯を沸かしながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。朝の潮風に混ざって、わずかに磯の匂いが車内に入り込む。


「……おはよう」


「おう。よく眠れたか?」


 智恵子は小さく頷いて、マグカップを受け取った。あたたかな湯気が、目を覚ましたばかりの体にやさしくしみわたっていく。


「朝の空気って、ちょっと特別ね。昨日の夜とは違う匂いがする」


「そうだな。どこか…始まりの匂いだ」


 ゆっくりとした朝食を終えた二人は、車を降りて売店へと歩き出した。観光客の姿はまだまばらで、駐車場には数台の車が静かに眠っていた。


 ショッピングコーナーの扉が自動で開くと、ほのかなバターの香りと共に、木の床を踏む音がやわらかく響いた。


 棚には地元の土産物や、見慣れない横須賀限定商品がずらりと並び、カゴを持つ手がつい動いてしまいそうになる。


「見て、これ。『横濱ハーバー』だって。栗入りのマロンケーキ……」智恵子がそっと箱を手に取る。


「こっちは何だ? チーズカレー煎餅? すげぇ味だな」と言いながら、目を丸くしてパッケージを見つめた。


「挑戦してみる?」智恵子の顔を見て、和夫が苦笑する。


「いや、これは……アメリカでたくさん食った、お前が試してみてくれ」


 二人して笑い合う声が、売店の静けさにふわりと溶けていく


 ふと、和夫の目に「護衛艦いずもTシャツ」と書かれたコーナーが留まった。


「……へぇ、こういうのまであるんだな。お前、似合うと思うか?」


「うーん……ちょっと、昭和の軍人さんぽくなっちゃうかも」


「ほらな、やっぱやめとくわ」


 手に取っては戻し、ふたりでからかい合いながら店内を一周したころ、ショッピングコーナーの片隅から、ふとスピーカー越しに流れてきたのは、懐かしいフォークソングだった。


「……この曲、昔、ドライブでよく聴いたわよね」


「おう。あの頃はカセットだったな」


 智恵子がうなずくと、和夫の顔にも自然と笑みが浮かんだ。記憶のなかの若い自分たちが、遠くの海を目指していた。


 袋いっぱいの土産を手に、売店を出ると、朝日がもう少し高くなっていた。


「さて、そろそろ出発するか」


 小さなエンジン音が再び旅路を始める。

 横須賀パーキングの朝が、柔らかな陽光に包まれながら、そっと背中へと遠ざかっていった。二人の旅路は、まだまだ続いている。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


柔らかな陽光に見送られながら、二人の旅は静かに、しかし確かに続いていきます。

どこか懐かしく、あたたかな空気を胸に、次に訪れる場所では、どんな出会いが待っているのでしょうか。


次回も、静かに揺れる心の旅路に、そっとお付き合いいただけたら幸いです。


▶ 次話へつづく

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