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六章 春を追いかけて

 三月の風が、静かに季節の終わりを告げていた。


 裸の木々が夜風に揺れ、きしむ音を立てる。冬の名残を感じさせる冷気は、しんとした家の中にも染み込んでくる。しかし、そんな寒さの中でも、こたつのぬくもりと寄り添うふたりの会話には、確かな温もりがあった。


 電気代を気にしながら冷めたお茶をすする智恵子と、スマホで暖房効率を調べる和夫。長年を共にしてきたからこその、静かで、どこか可笑しみのあるやりとり。それはまるで、生活の詩だった。


 人生の終盤にさしかかるこの家で、ふたりは日々の移ろいと季節の変化を大切にしながら、過去と現在、そして未来をやさしく繋ぎ合わせていた。節約の中にも、相手を思いやる言葉と仕草があふれ、それが何よりの贈り物となって部屋を包んでいく。


 そして、春がやってくる。

 音もなく、しかし確かに、すぐそこに。


「暖かい場所に行けるなんて、夢みたいね」


 和夫は黙って頷き、窓の外に目を向けた。澄んだ夜空には、凛とした光を放つ星々が瞬いていた。


 間もなく、ふたりは寒さを逃れるように南へ向けて旅立つ。陽だまりの匂いを求めて、まだ見ぬ景色と新しい日々に出会うために。


 朝。霜の残る空気の中、レンタカーの後部座席を倒して荷物を積む和夫。その姿を、少し離れて智恵子は見守っていた。


 旅立ちの実感が、じわりと胸に広がっていく。

 白い吐息が空に溶け、静かに消えていく。


「あれも必要、これもいるかしら?」


「マットレス、入った?」


「もう敷いたよ。ぴったりだった」


 車内には厚手のマットレスが敷かれ、その上に掛け布団と枕がふたつ。智恵子は毛布を膝に乗せ、その様子を見つめながら目を細めた。安心と愛おしさが入り混じった、柔らかな表情だった。


「ガスコンロとボンベは? クーラーボックスは?」


 助手席から身を乗り出すと、和夫が荷台の奥を指さした。


「ちゃんと入れてあるよ」


 クーラーボックスの中には、昨夜握ったおにぎりと煎餅、和夫がこっそり入れた缶ビールが一本。折りたたみのテーブルとチェアも、すき間にきちんと収まっていた。これで、どこでもふたりで食事ができる。


 荷台を閉めてエンジンをかけると、アイドリングの音が冬の空気をかすかに揺らした。


 助手席の膝には、地図とガイドブック。ページの間には、無数の付箋が丁寧に貼られている。


 車がゆっくりと動き出す。フロントガラス越しに朝焼けが始まり、オレンジ色の光が空を染めていく。その光が、ふたりの顔をやさしく包んだ。


「さあ、行こうか」


 和夫の声に、智恵子は笑顔で頷いた。


 こうしてふたりは、三月の街を後にし、春を追う旅に出た。


 高速道路の入り口が近づく。和夫はウインカーを出し、アクセルを踏む。車は滑らかに合流し、青空の下を走り出した。


 目指すは九十九里浜。春の匂いを含んだ風が車内を通り抜けていく。旅は順調だった。空も海も上機嫌で、ナビは昼前の到着を告げていた。


 だが、旅には思わぬ出来事がつきものだ。


 突然の渋滞。


 のろのろと進む車列。赤く染まるブレーキランプが延々と続く。空腹が限界を迎え、腹の虫がうるさく鳴る。

 それでも、耐えた。


「アジフライを食べるんだ」——その一心で。


 午後、ようやく九十九里浜に到着。念願のアジフライに舌鼓を打つ。塩気と脂の加減が絶妙で、まさに至福の味だった。


 その後、鴨川シーワールドの賑わいを後にし、車はさらに南へ。道の駅で迎えた初めての夜、ふたりは缶ビールで夕焼けに乾杯した。潮風が髪を撫で、日暮れの光が車窓を淡く染めていく。


「こんな旅も、悪くないね」


 智恵子の笑顔は、夕陽に照らされて、絵画のように美しかった。だが、それは束の間の平穏だった。


 二日目の昼、内房の町にひっそりと佇む中華屋に入った。肌寒い風に背中を押されるようにして、担々麺を注文した。ごまの香りが立ちのぼる丼からは、確かな手仕事の気配が漂っていた。


 ひと口目で、舌にざらつくものを感じた。だが、胡麻と辣油の複雑な熱が喉を通り抜ける頃には、それもひとつの“味”だと思えていた。スープの熱が胃に届くたび、どこか鈍い重さが残ったのは確かだったが、旨さがすべてを塗り潰した。


「うまかったなあ」


 完食した器を眺めながら、そう呟いたときには、すでに胃の奥底で何かが目覚めていたのかもしれない。


 あまりに美しい夕陽に誘われて、ふたりはそのまま砂浜での二度目の車中泊を決めた。缶ビールを一本だけ――その軽い選択が、夜を地獄に変える導火線だったのだろうか。


 深夜。車の天井を叩く音で目が覚める。まるで空が割れ、滝が落ちてきたかのような土砂降りの雨。ヘッドライトの先には白い闇が広がり、潮の匂いが車内にまで染み込んでくる。


「……やばい。海、近づいてきた?」


 急いでエンジンをかけ、後退。ヘッドライトが照らし出したのは、ただの濡れた白い砂浜だった。だがその瞬間、腹の奥を締め付けるような痛みが走った。音もなく、確かにそこにある、ひとつの異変。


 腹痛。それは静かに、だが確実に始まっていた。


 雨はさらに激しさを増し、外に出ることすら叶わない。車内でうずくまり、脂汗を垂らしながら、祈るように時をやり過ごす。だが、限界は唐突にやって来る。


 痛みの波が襲い、もはや猶予はなかった。雨脚がわずかに弱まった瞬間、スライドドアを開けて飛び出す。

 闇の中、トイレまでのわずか十メートル。その距離が、死地へ向かう兵士の行軍に思えた。


 ズボンを下げながら走る。だが、それが致命的だった。砂に足を取られ、顔から転倒。衝撃とともに、最後の理性の砦が崩壊する。沈黙の砂浜に、敗北の記憶が染み込んでいく。


 トイレは真っ暗だった。光のない便座の上で、ただひたすらに痛みに耐える。すでに出すものは残されておらず、残るのは刃のような痛みだけ。


 うとうとしては目を覚まし、またトイレへ。眠りと覚醒のあいだで漂ううち、時間の輪郭は次第に曖昧になっていった。


 やがて、空が白み始める。隣で智恵子が、まるで何事もなかったかのように目を覚ました。


「おはよう。気持ちいい朝ね」


 その一言に、思わず天を仰ぎたくなる。


 ――気持ちいい朝? 冗談じゃない。こっちは一晩、死にかけてたんだ。だが、言葉にする気力もない。ただ静かに腹をさすりながら、車窓の向こうに広がる海を見つめた。


 海は今日も青い。和夫の内臓はまだ、夜の嵐のただ中にあった。


「汚れた体を、どうにかして清めたい」


 そんな願いが通じたのだろうか。ふと目に飛び込んできたのは、古びた看板に書かれた「健康ランド」の文字だった。

 迷わず足を向け、湯に浸かった。じんわりと熱が肌に染み、始まったばかりの旅の疲れを静かに溶かしていく。体が軽くなるのを感じながら、湯船に揺られて目を閉じた。


 ——が、のんびりしすぎた。その日も何も食べず、早めに布団に入ったが、眠りは訪れなかった。深夜、腹の底から嫌な気配が這い上がる。


 始まった。また、あの地獄が。

 腹が鳴る。冷や汗が滲む。立ち上がる。トイレへ。……戻る間もなく、また腹が鳴る。繰り返す。何度も。


 夜は長く、そして惨めだった。体の疲れが骨に染み込むように広がり、眠気など遥か彼方に追いやられて、無情に朝がやってくるのを感じた。目を閉じるたびに、また次の痛みが押し寄せてくるようで、深い眠りには届かない。何度も何度も、時計の針が無情に刻んでいく音だけが部屋に響く。


「医者に行こうか…」

 その言葉が、ようやく頭に浮かぶ。もう限界だ。何とか動かそうと、ぼんやりとした意識の中で足を踏み出す。体はまるで粘土のように重く、踏み出すたびに足が泥に埋まるような感覚がする。ふらふらと歩いていると、小さなクリニックが目に入った。何もかもが遠く、ぼやけて見える中で、ただその建物だけが、まるで救いの手を差し伸べてくれているように感じた。


 看板に書かれていた「9時開院」の文字を目で追いながら中に入ると、すでに待合室は高齢者たちで埋め尽くされていた。それなのに不思議とすぐに診察室に呼ばれる。まるで何かを見透かされているような気がした。


 診察室に入ると、背筋をぴんと伸ばした年配の医師が座っていた。その姿からは、どっしりとした経験と深い知恵がにじみ出ており、ただそこにいるだけで、心がほんの少しだけ安堵した。おそらく、80代後半だろう。目の奥には、幾多の患者と向き合ってきた歳月が刻まれている。鋭い視線には、どこか穏やかさが宿っていて、和夫をじっと見つめていた。


「経過を聞かせて」と医師が促す。

 和夫は、その日々の苦しみを懸命に口にした。声が震え、うまく言葉にならない部分も多かったが、それでもどうにかして症状を伝えることができた。


 医師はうんうんと頷きながらも、淡々と話し始める。

「下痢というものはね、精神的なもんだよ。薬なんかいらん。」


 その言葉を聞いた瞬間、肩透かしを食らったような気分になった。薬もなく、何をしても改善しない自分の体が、無力に感じられる瞬間だった。和夫は絶望的な気持ちを抱えながら言った。


「でも……もう丸三日も止まらないんです。」


 必死に訴えるように言うと、医師はしばらく黙っていたが、ようやく処方箋を手に取った。


「じゃあ薬を出そう。ただし、下痢が止まったらすぐ飲むのをやめなさい。止めないと今度は便秘で苦しむことになるからね。」


 その達観した口調に、どこか心が引っかかる感覚を覚えた。医師の言葉には、薬や治療以上のものが含まれているように感じた。病気や苦しみの先には、どうしても向き合わなければならない現実があるのだということ——その現実を突きつけられた気がした。


 診察を終え、薬を受け取って、和夫はクリニックを後にした。心の中では、少しの安堵が広がっていた。これで、少しでも楽になれるのかもしれないと。


 それからの日々、アジフライと担々麺を平らげてからというもの、彼が口にできたのは、スポーツドリンクとエネルギーの素ばかりだった。

 それはもはや「食事」と呼べる代物ではなかった。液体のカロリーと電解質を、少しずつ体内に落とす。その一滴一滴が、かすかな命綱だった。

 食べ物を目にするだけで、胃が身震いする。体が、その「重さ」を拒絶していた。空腹ではある。だが、それ以上に「恐怖」があった。食べることで始まるあの痛み。まるで、腹の底に棲む悪魔を目覚めさせる儀式のようだった。

 体重は、もう八キロも落ちていた。


「ねえ……家に帰ろうか。そんな体で、旅を続ける意味あるの?」

 助手席で、智恵子がつぶやいた。やさしさと不安が入り混じる声だった。


「意味?意味があるかどうかは、わからない。でも……たかが下痢だけで、こんな楽しい時間を無駄にしたくない。旅は続ける。いや、続けたいんだ」

 たかが下痢。そう言いながらも、彼は知っていた。それが「たかが」ではないことを。


 疲労は、徐々に蓄積していた。体は重く、足取りも鈍くなっていく。それでも彼は、ふと冗談のようにこう言った。


「旅が終わったら、いつものクリニックに行って血液検査を受けるよ。きっと健康優良児の結果が出る。だって、アルコールも飲まず、肉も食べてない。これまでにないくらい、健康的な生活をしてるんだから」


 笑いながら語るその言葉の裏に、張り詰めた一線が見えた。体力は削られ、気力はかろうじて支えていた。


拙い旅の記録に、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

疲れた身体、揺れる心。和夫の旅は、まだ終わりを迎えていません。

次の章では、新たな風景と、新たな出会いが待っています。

ほんの少しでも、続きを読みたいと思っていただけたなら、それが何よりの励みです。

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