四章 旅は、手をつないだ朝から
夕飯の余韻が、まだ部屋の中にふんわり残っていた。ちゃぶ台の上に開かれた旅行雑誌のページを、和夫がゆっくり指でなぞっている。白髪まじりの短い髪に、まぶたの奥に光る小さな好奇心。その顔は、目の前に孫でもいるかのような無邪気さを浮かべていた。
「……なあ、智恵子。ワンボックス借りてさ、車中泊で日本一周してみない?」
声はしっかりしていたが、その背中には、何十年もの人生の重みがしっかりと乗っていた。湯呑みを手にしていた智恵子は、湯気にくすぐられたようにまばたきし、眉間にしわを寄せる。
「えっ……今、なんて言ったの?」
その声は、あたたかみを含んだ“しわ声”とでも呼びたくなるような優しい響き。年季の入った手がわずかに震え、湯呑みをそっと卓に戻した。
「キャンピングカーじゃなくて、もっと気軽なやつ。布団積んで、温泉めぐりでもしながら、ゆったり日本を回るんだ」
智恵子は、そわそわしている和夫の頬をじっと見つめて、静かに息を吐いた。膝のきしみを感じながらも、目は穏やかだった。
「……あんたね、車中泊なんて言うけどさ。腰とか肩、冷えたらどうするのよ? 夜中にトイレ行きたくなったら?」
ちょっとした叱る口ぶりに、和夫は首をかしげて笑った。細い指で頭をかくその仕草は、まるで冒険を思いついた少年のようだ。
「ちゃんと調べてあるって。道の駅とかRVパークって、設備が整ってるとこ多いらしいよ。最近は車中泊ブームなんだってさ」
智恵子は、自分の古びた座布団に手を置き、ふぅっと息をついた。ふたりの間には、長い年月が積み重ねたちょっとした不安と、それでもやってみようという冒険心が、静かに湧いていた。
「毛布、二枚はいるわね。いや、電気毛布も持って行こうか」
「ポータブル電源、買おうか? それで湯たんぽ温めれば――」
「で? そのお湯、どこで沸かすの?」
その問いに、和夫はまた少しとぼけた笑顔を返した。そしてそれを見た智恵子も、ふっと笑う。その笑顔は、ふたりの長い人生を映す鏡のようだった。
「じゃあ、まずは一泊。近場でお試しから始めましょう」
“智恵子隊長”のひと言に、和夫は両手を合わせてうなずいた。畳に落ちたやわらかな灯りが、ふたりの新しい旅立ちをそっと祝福しているようだった。
一泊の車中泊を終えた翌朝。
和夫は、いつものように畳に手をついて、ゆっくり立ち上がった。腰に手を当てて、うっすらとした筋肉痛を感じながらも、その顔には確かな満足感がにじんでいた。智恵子も寝袋をたたみながら、ひとつ小さなため息をつく。
「意外と、楽しいもんね。車中泊って」
「だろ? てんてんと旅するのってさ、旅館より自由があっていいんだよ。気に入った景色があれば、そのままそこに泊まれる。それがまた最高なんだよな」
「うん。でもね、たまには温泉宿にも泊まりたいわ」
「ああ、そりゃそうだな」
――ただ。
和夫には、本番の旅に出る前に、どうしても片づけておきたいことがあった。
一つ目は目の検査。二つ目は、外国の運転免許を日本の免許に切り替える手続きである。
──朝の訪れとともに、和夫と智恵子は肩を並べて玄関を出た。空気は水のように澄み、頬を撫でる冷気には土と草の匂いが混ざっている。吐く息が白くふわりと宙を舞い、二人の胸に潜む期待を映し出しているようだった。
「なんだか、遠足の朝みたいだな」
和夫がふっとつぶやく。智恵子は薄く笑いながらも、震える体をぎゅっと抱きしめた。
「遠足って……これから行くのは眼科よ、目の検査」
「だからだよ。目が悪かったら、旅は延期だろ? ちゃんと見てもらわなきゃ」
そう言いながら、和夫は智恵子の手をそっと握る。冷たい手のひらが、言葉以上に確かに心を温めた。
──眼科の入り口には、すでに十人以上の高齢者が列をなしていた。午前8時45分の窓口開設を前に、新聞を広げる老人、両手をこすり合わせる老婦人、杖を握りしめた男たち。
誰もが診察券をぎゅっと握りしめ、その指先がわずかに震えていた。
「こういう時間も、悪くないわね」
智恵子のつぶやきに、和夫はそっと頷いた。
「旅って、家を出た瞬間から始まってるのかもしれないな」
──やがて開門のチャイムが鳴り、人の列がゆっくりと動き出す。まるで何かに導かれるように、中へと吸い込まれていった。
受付を済ませ、待合室に入ると、そこにはさらに多くの患者たち。
壁際の長椅子に静かに並ぶ影。車椅子で目を閉じる人。暖房の効いたはずの空間には、それでも冷えた緊張の空気が漂っていた。
しばらくして看護師に名前を呼ばれると、和夫は立ち上がり、検査室へ向かった。
白い壁、無言の蛍光灯、殺菌臭の漂う空気。そこで淡々と進められる視力検査、眼圧測定、眼底撮影、視野検査。まるで誰かの夢の中を歩いているようだった。
──そして、診察室。
和夫より年嵩の医師が、肘掛け椅子に腰を下ろしていた。白衣に隠れた背中が、どこか重たく沈んで見えた。
「こちらにおかけください」
「はい」
「……わたしはね、遠回しに言うのは好きじゃありません。結論から申し上げます」
一瞬の間を置いて、医師は口を開いた。
「黄斑変性が、かなり進行しています。半年後には――ほとんど見えなくなるかもしれません」
その言葉は、静かに、しかし確実に和夫の内側へと突き刺さった。
「見えなくなる? この、私が……?」
声にならない呻きが、喉の奥から漏れる。深い井戸の底から響くようなその声に、隣にいた智恵子は思わず肩を震わせた。
目の前の景色が、音もなく崩れていく。
頭の中で、ガラスが割れる音がした。光も、色も、日常そのものも、足元から崩れ落ちていく感覚。
「先生! 治療方法は……治せるんですか!」
医師は眼鏡の奥で目を細め、ゆっくりと首を横に振った。
「加齢黄斑変性は、視力の中心に障害が出る病気です。以前は治療法がほとんどなく、失明に至る例もありました。現在では、薬で進行を抑えたり、視力をある程度回復できる場合もあります」
冷静で、どこか機械的な口調。けれど、その事実が胸に落ちるたびに、和夫の心の奥で何かが崩れていった。
「車の運転は……?」
「無理です。危険すぎます」
とどめのようなその一言に、和夫の視界が一瞬、真っ暗になった。
運転できない? もう旅もできない? 智恵子の手を引いて歩くことさえも?
それは、世界を彩ってきたすべてが、色を失い、沈んでいくような感覚だった。
医師の最後の一言が終わると、しんとした静けさが診察室を包んだ。
和夫の鼓動だけが、耳の奥で妙に大きく鳴っていた。
頬を伝う汗がひやりと冷たく、手のひらに握った膝の感触が遠のいていく。
目の前の医師の口が、まだ何かを話しているように見える。だが、声はもう届いてこなかった。
背中を支える椅子の感覚が消えた。まるで足元の床が、音もなく抜け落ちていくようだった。
視界の中心が、ゆっくりと霞んでいく。ぼやけた光の輪郭。智恵子の肩も、壁の時計も、遠くへ離れていく。
光があったはずの場所に、薄墨のような闇がじわじわと広がっていく。
その闇は、やさしいものではなかった。音もなく、色もなく、ただ冷たく、すべてを飲み込んでいく。
言葉にならない孤独が喉の奥にからまり、息がうまく吸えない。
まばたきひとつで、これまでの日常が崩れ落ちていく――そんな錯覚すらあった。
和夫はただ、深く深く沈んでいった。智恵子が隣にいることさえ、遠くなっていく。
「一緒に治療を頑張っていきましょう。松本さん!」
「……松本? 先生、それは違います。私の名前は天草、天草和夫です」
「えっ、松本さんではないんですか?」
「はい、天草です」
しばらくの沈黙ののち、医師はあわててカルテをめくり直した。眉間に深い皺を寄せ、何度も書類に目を走らせたあと、まるで自分の心音までも隠そうとするように、低く、申し訳なさそうな声で呟いた。
「……申し訳ありません。別の患者さんのカルテと取り違えていたようです」
その瞬間、診察室の空気がわずかに揺れた。誰かが重たい荷物を降ろしたような、目に見えない波が、和夫と智恵子の間を通り抜けていった。
「……それでは、私は……?」
絞り出すような声で問う和夫に、医師は今度こそ彼の名を正確に呼んだ。
「天草さん。精密検査の結果、加齢に伴う軽い老化の兆しはありますが、特に異常は見られません。ご安心ください」
医師の「特に異常は見られません」という一言は、張り詰めていた緊張を一瞬で解き放った。と同時に、自分たちがくぐり抜けた「異常なし」という甘い救いが、まるで蜜のように深く、とろりと喉へ落ちていくように感じられた。
外に出ると、昼下がりの柔らかな光が差していた。朝の冷たさとは違う、やわらかな温もりが頬を撫でてゆく。その心地よさの中に、くぐり抜けてきた「異常なし」の安堵感が、どこか不自然に感じられた。
ひとまず、目は大丈夫そうだ。
それだけで今日は、少し世界が明るく見える。
とはいえ、安心した瞬間によぎったのは──
誰かの痛みに、そっと腰かけてしまったような、居心地の悪さだった。
「まあ、人生ってのは、そういうもんかもしれないな」
次は、いよいよ“本丸”。
あの、ややこしくて気が遠くなるような「外免切り替え」の手続きだ。
だけど今日は、いい風が吹いている。
大丈夫、きっとなんとかなる。……たぶん。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
一つひとつの出会いが、人生にどんな意味をもたらすのか——
それを問いかけながら、物語は次の章へと進んでいきます。
あなたの心に、ほんの少しでも何かが残りますように。そう願いながら…。