三章 静けさの中に灯るもの
帰郷の時が来た。
七十一歳を迎えた和夫は、アメリカでの夢と挑戦にひとつの区切りをつけ、静かな決意を胸に、故郷への帰路についた。
成田空港に着陸し、機体を降りた瞬間、懐かしい日本の空気が二人を優しく包み込む。足元に広がる祖国の土――その感触は、過ぎ去った歳月の重みとともに、安堵にも似た温もりを和夫の心に届けた。そしてそれはまた、新たな日々の始まりを告げる、確かな希望の光でもあった。
飛行機の窓から見下ろしたアメリカの大地――雲の切れ間にのぞく山脈、どこまでも続く平原、果てしない海岸線。目を閉じれば、二人が歩んできた日々が鮮やかに蘇る。フロリダの陽光に包まれたテラス、ミシシッピーの穏やかな流れ、テネシーの深い緑。レストランで交わした笑い声、涙がにじんだ夜の記憶。すべてが、二人の人生という旅路の中で深く結びついていた。
空港のロビーを抜け、日本の風に身をゆだねる。何気ない景色さえ、胸が締めつけられるほど愛おしい。遠く離れた場所から幾度となく思い描いてきたこの地が、いま目の前にある。ようやく帰ってきたのだという実感が、静かに胸を満たしていく。
和夫は、そっと智恵子の手を握りしめた。
「私たちの旅は、まだ終わっていない。」
その言葉には、長年の歩みの重みと、これからを共にするという静かな決意が込められていた。再び、新しい物語のページが開かれる――そんな予感とともに。
気がつけば、帰国してからもう三年が経っていた。
あのとき胸に抱いた不安も、いまは穏やかな日常に溶け込んでいる。
静かな朝。和夫と智恵子は、近くの公園のベンチに腰かけ、満開の桜を見上げていた。春風に揺れる花びらが、まるで二人の新しい生活を祝うかのように、ひらひらと舞い落ちる。その一片一片が陽光に透け、ゆらめきながら、まるで空に還っていくかのように舞い上がった。
澄み渡る空の下、柔らかな日差しが二人を包み込み、心まで温かくしてくれる。
智恵子はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。桜の香りが鼻腔をくすぐり、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。幼い頃、母と一緒に出かけた花見の記憶がふとよみがえり、胸の奥がじんわりと温まった。
和夫は横顔の智恵子をちらりと見て、穏やかな声で言った。
「やっぱり、日本の桜は特別だな。帰ってきてよかった。」
智恵子は微笑んで、そっと頷いた。
「うん。アメリカでは、こんな景色にはなかなか出会えなかったもの。」
その声には、長い時を越えて帰ってきた今だからこそ湧き上がる、静かな感慨がにじんでいた。
二人はしばらく黙ったまま、舞い散る桜を見つめていた。風がふわりと吹くたび、花びらが宙を舞い、空に溶けていく。そのひとときが、なんとも贅沢に思えた。
やがて、和夫が立ち上がって手を差し出す。
「そろそろ、買い物行くか?」
智恵子は少し驚いた顔で和夫を見上げ、それから笑ってその手を取った。
「いいわね。そろそろ冷蔵庫も寂しくなってきたし」
ふたりは並んでスーパーへ向かった。
店に入ると、和夫はすぐに魚売り場に引き寄せられる。
「お、見てみろよ、このアジ。ピカピカだな。あっちじゃこういうの、なかなか手に入らなかったもんな」
智恵子は笑いながら返す。
「目が合ってるんじゃない? 『連れて帰って』って」
「だったら、連れて帰ってやるか」
智恵子は調味料コーナーで立ち止まり、ある瓶を手に取る。
「あっ、これ。昔よく使ってたやつ。懐かしいなあ」
「おお、まだ売ってるんだな。変わらないな、日本は」
「いい意味でね」
夕方になると、和夫が台所に立った。
「今日は俺がやる番だろ。手出し無用な」
「はいはい。じゃあ私はテレビでも見てるわ」
和夫は野菜をざくざく刻みながら、鼻歌まじりで料理を始める。いい匂いが部屋中に広がると、智恵子がにこにこと食卓についた。
「今日も美味しそう」
「だろ?」
「でも、食べ過ぎ注意よ」
「はいはい。先生のご指導、ありがたく頂戴します」
食後、片付けを終えたあと、ふと智恵子が笑いながら言った。
「ねえ、うちってさ……エンゲル係数、絶対高いよね」
「え? それ、海にいるヤツ? エンゲルクラゲとか…」
「違うわよ。食費が家計の大部分って意味よ。ほら、うち、食べることばっかりでしょ」
「それはつまり、幸せってことだろ」
和夫がそう言って笑うと、智恵子もつられて笑った。
「……まあ、いいか。美味しいって、正義だものね」
「うん。君と食べるごはんが、一番うまいよ」
智恵子はちょっと照れくさそうに、でも嬉しそうに、そっと和夫の顔を見つめた。
桜の花びらが静かに舞い落ちるように、日常の一瞬一瞬が、ゆっくりと、確かに――二人の心に染み込んでいった。
「やせ我慢じゃないけどさ、物がないって、案外こんなにも心が軽くなるもんなんだな」
和夫がふとつぶやくと、智恵子はクスッと笑った。
「ほんとね。スッキリして、なんだか気持ちまで晴れるわ」
リビングの窓からは、春の風がカーテンをそっと揺らしている。ようやく落ち着いた日本の暮らし。アメリカでの三十年の生活を思えば、ずいぶん静かだ。
「おい、夜中に俺の足、踏んだ?」
「踏んでないわよ。寝ぼけてるんじゃないの?」
「なんかさ……足が変なんだ。痺れてるような、うずくような……冷や汗も出るし、胃も痛い。」
「ふーん……なんか嫌な感じね。それ、内臓系じゃないの? 病院、行ってきたら?」
「行ってくる……かも。」
「ちょっと待って。私も着替える。」
「おい、なんでお前が?」
「だって……その、気になるじゃない。あなたのこと。」
そう言っていたが、智恵子の目はどこか楽しげだった。
それでも結局、和夫ひとりで病院へと向かった。
――診察室。
医師は静かにモニターを見つめながら口を開いた。
「……ご家族の方は?」
「は? 一応いますけど……何か、マズいこと言うんですか?」
「検査結果ですが……これは精密検査が必要ですね。念のため、紹介状を書いておきます。可能性として、膵臓に腫瘍があるかもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、和夫の視界が揺れた。
「しょ、紹介状って……それ、やばいってことですか?」
「まだ確定ではありませんが、すぐに行ってください。」
重たい封筒を手に病院を出ると、和夫の世界は一気にモノクロになった。
風の音が妙に大きく聞こえる。心なしか、人の声も遠くで笑っているように感じた。
帰宅すると、智恵子が玄関先で待っていた。
「どうだった?」
「……膵臓に影があるって。精密検査。紹介状……」
「えっ……マジで?」
一瞬、顔がこわばったように見えたが――
次の瞬間、智恵子の目の奥に、ほんのかすかに、何かが灯った。
「……そうなの……うん……それは、大変ね……」
数日後。
がん専門の病院で、検査を終えた和夫は、再び診察室に座っていた。
「……あの……どうなんでしょう、やっぱり……?」
医師は柔らかく微笑んだ。
「いえ、安心してください。影のように見えたものは、脂肪のかたまりです。良性で、治療の必要もありません。」
「……は?」
「おそらく、前の病院の画像が古かったか、不鮮明だったのでしょう。精密検査の結果、異常なしです。」
――一気に力が抜けて、和夫は椅子に崩れ落ちた。
帰宅すると、智恵子がまた玄関にいた。
「どうだった……の?」
「……何でもなかった……ただの脂肪だったってさ……」
それを聞いた智恵子は、ほんの一拍の沈黙のあと、ゆっくりと笑った。
「なーんだ。……でも、ちょっとだけ、覚悟したんだからね? あんたの生命保険、今どうなってるんだろって、ちらっと調べちゃったわよ、あたし。」
「おい……!」
「冗談よ。……半分くらいはね。」
和夫は一瞬むっとしたが、次の瞬間には、ふたりして声を上げて笑った。
月に一度の温泉旅行も、変わらない二人の楽しみのひとつだ。行き先は毎回少しずつ違うが、移動は決まって鈍行列車。新幹線や特急では味わえない、あのゆるやかな時間を楽しむために、各駅停車の旅を選んでいる。
各駅停車の列車が、まるで時をなでるように、のろのろと田園を抜けていく。
車窓を流れる風景――広がる田畑、朽ちかけたローカル駅の看板、風に揺れる洗濯物。何気ない光景に目をとめながら、二人は静かに会話を重ねていく。
日々のささやかな出来事、忘れかけていた夢、そして、これからのこと。
「あと十年は、こうして旅行に行けるかしら。」
「二十年は大丈夫だ。俺が荷物全部持つから。」
「ほんと、頼りになるわね。」
列車の揺れに身をまかせ、やがて着いた温泉旅館では、日常から切り離されたような静かな時間が流れていく。三泊四日。何をするでもなく、ただそこにいて、時折笑い合う。その穏やかさが、何よりも贅沢だった。
和夫と智恵子の生活は、静謐で、時折小さな喧騒が波紋のように広がる。
けれど、その波紋さえもどこかあたたかく、ふたりの歩みに彩りを添えていた。つい昨日、誤診という嵐にさらされたばかりなのに、今はこんなにも穏やかだ。
「覚えてる? あのとき私が言ったの。『七十歳までやり遂げましょう』って」
「ああ、覚えてるよ。正直あの時は、『なんだよ、まだやるのかよ』って思ったさ。こっちはもう引退して、のんびりする気満々だったんだから」
「ふふ、知ってた。でもね、あなた、最後まできちんと責任果たしたじゃない。立派だったわよ」
「……やり遂げてよかったって、今は思うよ。悔いはない。あれで一区切りついた気がする」
智恵子は、少しだけ目を細めて、優しく和夫を見た。
「今こうして、落ち着いてるのを見るとね、あの三十年も、ちゃんと意味があったんだなって思えるのよ。子供たちも巣立ったし、ようやく二人の時間が戻ってきたのね」
「まさか、こんな静かな時間が幸せに思える日が来るなんてなあ……」
和夫が言うと、智恵子が笑う。
「あなた、若い頃は“退屈が一番の敵だ”なんて言ってたじゃない」
「言ってたなあ。今はその“退屈”が、宝物みたいに思える」
二人の間に、そっと沈黙が降りた。でもその沈黙は、どこか心地いい。長く連れ添った夫婦だけが持つ、言葉以上に伝わる時間だった。
「来年で、結婚五十年ね」
智恵子がぽつりと言った。
「……半世紀か。すごいな。よくぞここまで」
「あなた、何度途中で投げ出しそうになったか。私、よく頑張ったわ」
「はは、確かに。俺よりよっぽど辛抱強い」
和夫が笑うと、智恵子も声を出して笑った。ふたりの笑い声が、静かな部屋に、柔らかく響いた。
「帰る場所があるって、悪くないね」
「うん。本当にそう思う。ようやく帰ってきた気がする」
智恵子がそっと和夫の手に手を重ねた。その手のぬくもりに、和夫は小さくうなずいた。
「これからは、急がず、焦らず、ぼちぼちいこうか」
「ええ、ぼちぼちね。お互い、無理はしないで」
夜、寝室で二人が灯りを落とし、布団に入る。
窓の外からは春の夜風がそよぎ、遠くでふっと犬の鳴き声がする。
ふたりは静かに目を閉じた。
それは、長い旅を終えたあとの、深くて穏やかな眠りのようだった。
ここまで第三章をお読みいただき、本当にありがとうございます。
和夫と智恵子、ふたりの日常の静かな温もりが、皆さまの心にもそっと届いていたなら、これほど嬉しいことはありません。
人生には時に、予期せぬ出来事が訪れます。驚きや不安に心が揺れる瞬間もあるでしょう。けれど、その揺れの先にこそ、確かな「今」がある――そんな思いを、この章では描きたかったのかもしれません。
次章では、また少し違った光が差し込みます。ふたりの歩みに、新たな出会いや小さな転機が訪れる予感。どうぞ引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
ページをめくるたびに、どこか懐かしい風景や感情が、あなたの心にそっと寄り添ってくれますように。