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二章 また君と、走りたい

 夜も更け、厨房の喧騒が静けさに変わったころ。和夫は帳簿のページをめくりながら、一人静かに数字を追っていた。眼差しの奥に宿るのは、名残惜しさにも似た影。


 その背後から、柔らかな足音が近づいてくる。


「……ねえ。」


 顔を上げると、智恵子が小さな包みを胸に抱えて立っていた。淡いグレーの風呂敷にくるまれたそれを、そっとテーブルに置く。


「これ、覚えてる?」


 包みの中には、年季の入った手帳と、古びたアルバム。ページをめくれば、セピア色の笑顔が次々と現れる。陽に焼けたフロリダの看板、粗末な厨房、そして若かった二人の姿――。


「この海、見て。あなた、“何もない場所だ”って、よく拗ねてたわよね。」


 智恵子はくすっと笑い、和夫も思わず吹き出した。思い出の波が、音もなく胸を満たしていく。


「それでも……あなたがいたから、ここまで来られたのよ。」


 智恵子の声には、誇りと深い感謝が滲んでいた。言葉のひとつひとつが、彼女なりの労いだった。


 和夫は目を伏せ、静かに頷いた。自分の歩んできた道が、誰かにとって意味を持っていた――それは、何よりの救いだった。


 しばらくの沈黙のあと、智恵子が遠くを見つめるように言った。


「ねえ、日本の四季を、ちゃんと見て回りたいな。春の桜も、秋の紅葉も、白い雪も……」


 そして和夫の目を真っすぐに見つめて続けた。


「でも、その前に……ルート66、走ってみない? 二人で、キャンピングカーでさ。昔みたいに、喧嘩しながらでもいいから、あの果てしない道を。」


 その瞬間、和夫の胸の奥に張り詰めていた糸が、ふっとほどけたような気がした。


 何もないと思っていたこの国で始まった日々。振り返れば、すべてが宝物だった。


 そして今また、「何もない」と思える場所――広大なルート66の先に、新しい日々がきっと待っている。


「……悪くないな。」


 和夫の言葉に、智恵子の瞳が少し潤んで、やわらかく微笑んだ。


 二人の時間は、静かに、けれど確かに、未来へと歩き出していた。


 そして今――。


 RVキャンプ場の朝は、静寂に包まれていた。

 夜露に濡れた大地は、まだ淡い眠りの中にある。そんな時、低く響くエンジン音が、静寂をやさしく破った。


 モナコRV・ケイマンが、まるで川の流れのように静かに滑り出すと、小型SUVがその背を追うようにぴたりと続いていった。


 その姿はまるで、これまで歩んできた彼らの人生そのものだった。

 アメリカという異国の地で築き上げた自由と誇り、そしてこれから始まる新たな旅路。

 華やかさではなく、静かで揺るぎない決意が、車体に滲んでいた。


 ケイマンのドアを開けると、そこには「動く邸宅」と呼ぶにふさわしい空間が広がっていた。


 冷暖房やシャワールームはもちろん、革張りのソファと木目のダイニングが並び、ボタンひとつで姿を変えるリビングが、くつろぎの時間を迎え入れていた。


 温かな光に包まれたその空間は、まるで旅先とは思えぬほどの安らぎをもたらしてくれる。


 キッチンには、使い慣れた調理機器が整然と並び、どこにいても「家庭の味」を奏でる安心感が漂う。


 料理の香りが車内を包むたび、暮らしの豊かさがそっと心に染み入る。

 テレビは長い夜の静けさに寄り添い、洗濯機や掃除機は日常のリズムを守る。


 奥の独立した寝室には、大きなベッドとクローゼットが整い、旅の合間にも確かな休息を約束してくれる。


 湖畔、海辺、あるいは広大な荒野のど真ん中にあっても――。

 この空間だけは変わらない。

 移動手段を超え、彼らの「我が家」として、心の拠り所となる場所だ。


 ドアを閉じれば、どんな風景に囲まれていても、穏やかな暮らしが変わらぬ形でそこに息づく。


 しばらくして、エンジンの低い唸りが静かな朝の空気を切り裂く。

 車体は、まるで滑るように空港を離れ、朝霧に包まれた滑走路がバックミラーにゆらりと映る。


 窓の外、眠る都市の輪郭は柔らかな光に溶け込み、

 アメリカの広大な大地を走る旅は、ただのドライブではなく、

 夢を抱いて降り立ったこの地で積み重ねた笑顔と涙が、再び心に蘇る瞬間となった。


 ルート66――かつて西部開拓の象徴であったこの道は、今や過去と現在をそっと繋ぐ追憶のラインだ。

 舗装のひび割れの一つ一つに、アメリカの歴史と、そこに生きる人々の時間が刻まれている。


 和夫はハンドルを握り、かすかな声に耳を澄ませるように、ゆっくりとアクセルを踏み込む。


「見て、あれ……あの看板、まだ残ってるのね。」


 智恵子が指差す先には、色褪せたダイナーの看板がひっそりと佇んでいた。

 壊れたままの「OPEN」のネオン、剥がれかけたペンキ、そして風にそよぐ破れた旗。


 そのすべてが、かつての賑わいと人々の暮らしの温かさを、微かに呼び覚ますかのようだ。


 車内からは、ラジオのオールディーズが静かに流れ、スピーカーの奥でレコードの針が溝をなぞるようなノイズが、穏やかな空気とともに広がる。

 言葉は交わさずとも、互いの温もりがしっかりと伝わる――そんな沈黙が、今の二人には何よりも心地よかった。


 走る道の両脇には、果てしなく続く麦畑やトウモロコシ畑。

 時折視界を横切るアンティークのガソリンスタンドや、風に踊る星条旗が、ふと昔の記憶を呼び覚ます。


 初めて出店準備に奔走した日々、資金繰りに悩みながら眠れなかった夜、そして常連客の「ありがとう」という笑顔――

 すべてが、目の前の風景と重なり合い、確かに生き続けていた。


「いろいろあったけど…悪くなかったわね、アメリカの暮らしも。」


 智恵子のつぶやきに、和夫は目を細めて深い頷きを返す。


「そうだな。いや、むしろ……最高だった。」

 その一言に、胸の奥にじんわりと実感が広がる。


 痛みも、悔しさも、振り返ればすべてが愛おしく、あの年月があったからこそ今の二人があるのだ。


 失ったものもあったが、それ以上に得たもの――背中を預け、共に歩んできた確信と、静かに積み重ねた信頼が、ここにある。


 いま、ルート66の一本道を進む二人は、もはや目的地を急ぐのではない。

「どこへ行くか」ではなく、「誰と歩むか」――

 それが何よりも大切だと、心から実感していた。


 フロントガラスの向こう、地平線のかなたから太陽がゆっくりと顔を覗かせる。

 オレンジと金色に染まる空が、夜の帳をそっと押しのけ、朝の光が静かにルート66を照らし始める。


 新しい一日が、またひっそりと、しかし確かに始まろうとしていた。


 アリゾナ州の乾いた風が頬を撫でる午後、小さなダイナーに立ち寄ると、年季の入ったネオンサインと擦り切れた革張りのスツールが迎えてくれた。

 カウンター越しに現れた陽気なウェイトレスが、笑顔を絶やさず、手際よくコーヒーを注ぎながら話しかける。


「旅の途中? ルート66を走るなんて、なかなかロマンチックね!」

 その明るさの奥に、決して楽な人生ではなかった過去の影が垣間見える。

 けれど彼女は、毎日を楽しもうとする強い意志を感じさせた。


 その姿に、智恵子は胸を打たれ、人生は環境や境遇だけでなく、どう生きるかによって輝きを増すのだと、静かに心に誓った。


 やがて車は、ニューメキシコ州へと続く。

 窓の外には、見渡す限りの赤土の大地が広がり、遠くまで続く地平線とともに、車のエンジン音すらも吸い込むような静寂が漂う。


 和夫はふと、ハンドルに触れる手を緩め、アメリカでの長い年月――

 苦労と成功、そして帰国を決意したあの瞬間――を思い返す。

 果たして、あの選択は正しかったのだろうか。


 砂漠の広がりの中で問いかけるが、見上げた広い空と穏やかな風が、ただただ今ここに選んだ道を、確かに感じさせた。


 旅の終わりが近づく頃、二人はカリフォルニア州の海岸線にたどり着く。

 沈みゆく夕陽が波間に揺れ、潮の香りがほのかに漂う。

 車を停め、しばしの間、ただ海を眺める。

 やがて智恵子が、そっとワイングラスを差し出す。


「私たちの息子たちに、乾杯。」


 和夫は静かに微笑みながらグラスを合わせ、離れた場所でそれぞれの道を歩む子どもたちを思う。


 だが、その横顔に不安はなく、彼らもまた、新たな旅を続けるのだと確信していた。


 ルート66の旅は、ただの観光ではなかった。

 出会い、記憶、問いかけ、そして確信――。

 これまでの人生を静かに振り返りながら、次の一歩へと歩み出す、大切な時間であった。


 50州を巡る旅の中で、二人は無数の風景と文化、そして人々の温もりに触れてきた。

 広大な平原を駆け抜け、賑やかな都市の喧騒に佇む日々。

 そのたびに、和夫と智恵子は共に笑い、語り合い、時には静かに寄り添いながら、旅路の先で深まる絆を感じ取っていた。


 やがて気づけば、彼らの旅は「過去を確かめる」ものから、「今を味わう」ものへと変わっていた。


 それは、静寂と希望に包まれた新たな旅路――のはずだった。


 ……ほんの数時間前までは。


 最初の異変は、エンジンの水温計が急激に振り切れたことだった。

 ラジエターホースに走ったヒビから、クーラントが小さな滝のように滴り落ち、まるでRVの内臓が破けたかのような惨状に。

 道端に停車し、フードを開けた和夫の目に映ったのは、蒸気を噴き出すエンジンルーム――白煙に包まれたその様子は、もはや地獄の釜の蓋が開いたようだった。


 次に壊れたのは、エアコンのセンサー。

 走行中のRVはまるで灼熱のサウナと化し、外は38度の砂漠地帯。

 車内はそれを超える熱気で、冷蔵庫の中のバターすら液体化。

 智恵子は汗で化粧も流れ落ち、口を開けば「……これ、熱中症ってやつじゃないの?」と青ざめ、和夫は黙ってTシャツの裾で顔を拭った。


 その夜、シャワーでも浴びて汗を流そうと扉を開けた瞬間――「バキッ」という嫌な音と共に、シャワールームのドアが片方だけ外れ、傾いたまま動かなくなった。

 ガムテープで応急処置する和夫の背中には、すでに「男の限界」が滲んでいた。


 だが、地獄はまだ始まりにすぎなかった。


 下水の排水バルブが損傷し、夜中にかすかな「滴る音」が響いた。

 気づけばフロアの片隅に広がる謎の水たまり――その正体を知ったとき、智恵子は小さく叫び、そして無言でモップを取り出した。


 電気系統も次々に崩壊。

 コンセントは火花を散らし、テレビは急に逆さまになった映像を流しはじめる。

 まるでRVが意志を持って狂いはじめたかのようだった。


 そして、トドメはエアサスペンションの破損。

 高速道路上で突然RVが「ガクン」と沈み込んだかと思えば、トランスミッションが地面に接触。

 地響きを立てながら、ケイマンは片輪走行のように斜めに揺れ、後続の車が次々にクラクションを鳴らす中、和夫は必死にハンドルを握りしめた。

 心臓の鼓動は、騒音をも凌ぐ速さで胸を打った。


 命があったのは、奇跡だった。


 こうして、「自由と誇り」を掲げて旅立ったはずのRV生活は、いつしか「修羅と試練」のサバイバルへと変貌を遂げた。


 智恵子は言った。

「……これ、旅じゃなくて、戦争じゃない?」

 そして和夫は、小さく頷いたあと、ひとことだけ呟いた。

「……悪くないな。」


 ――いや、良くはない。


 修理は不可能ではなかった。部品は揃い、手配も済んでいた。

 だが――。


 問題は金だった。

 保険会社に連絡し、保障範囲内での修理申請をしたところまではよかった。

 しかし、そこからが地獄だった。


 数日たっても連絡はなし。

 一週間待っても返答なし。

 痺れを切らして再度問い合わせれば、「担当者が不在です」との一点張り。担当者の名前すら教えてもらえない。

 次にかければ「現在、別件対応中で折り返します」――だが、折り返しは来ない。

 まるでこちらの声は真空に吸い込まれているかのようだった。

 音信不通という名の、企業ぐるみの放置プレイ。


 ようやく繋がった窓口に状況を訴えれば、冷ややかな声が返ってきた。


「ご不満でしたら、訴訟をどうぞ。こちらにも法務部がありますので」


 その声音に、悪びれた様子はまったくなかった。

 むしろ、「訴えられてからが仕事」という態度だった。

 つまり彼らは、裁判に持ち込まれることも計算のうちなのだ。

 時間稼ぎ。面倒くささの押しつけ。

 どうせ個人は途中で疲弊し、諦めるだろうと――そう踏んでいるのだ。


 実際、訴えたところで解決まで半年、下手をすれば一年以上。

 その間、彼らはビタ一文払う必要がない。

 判決が出てから支払っても、彼らの損はほとんどない。

 そういう「勝ち筋」を持った保険会社だった。

 人間の痛みや生活の破綻を、「統計の数字」で処理する機械のような存在。


 和夫は受話器を握りしめ、黙った。

 智恵子も沈黙していた。


 しばらくして、二人の間に重たい沈黙を破るように、冷蔵庫のバターが「ボタッ」と垂れた。


 暑さのせいか、それとも怒りのせいか、頭が痛んだ。


 ――保険とは、万が一の備えではなく、万が一の絶望を長引かせる装置なのかもしれない。


 こうして、和夫と智恵子のアメリカ横断キャンピングカーの旅は幕を閉じた。


 それは、自由を求めて始まった旅だった。

 けれど、最終的に彼らが見たのは、自由の国に潜む冷淡な現実と、不確かな安心の仮面だった。


 残されたのは、壊れたRVと、溶けかけのバターと、そして――静かに手を握り合う二人の姿。


「次は、もう少し静かな旅にしようか」


 そう呟いた智恵子の声に、和夫は小さく笑った。


 アメリカでのRVでの旅は終わった。

 だが、人生の旅は、これからも続いていく。


 過去と向き合いながら未来へと歩み出す和夫と智恵子。

二人の関係は決して順風満帆ではありませんでしたが、積み重ねてきた歳月が、深い絆を育み、今の二人を形作ってきました。

何を成し遂げるかよりも、誰と歩むか――。

この物語を通して、そんな想いが伝わっていれば嬉しいです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

どうぞ第3章も楽しみにお待ちください。

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