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一章 フロリダ発、未来行き  

 あなたは、知っているだろうか。

 ひとりの想いが、世界を動かすことがあるということを。


 喧騒から遠く離れた、名もなき片田舎。

 そこに、夢を宿し、生きることを選んだ、ひとりの平成生まれの青年がいた。


 誰もが口を揃えて、「無理だ」と笑った。

「現実を見ろ」と、彼の背中に冷たい言葉を投げかけた。

 だが、彼の目は曇ることなく、ただ前を向いていた。


 夢とは、語るものではない。

 夢とは、叶えるもの――。

 彼は、そう信じていた。


 だからこそ、曖昧な憧れで終わらせず、「いつまでに、何を、どうやって」。

 未来を明確な輪郭で描き出し、ただ一歩ずつ、静かに、しかし力強く進んでいった。


 幾度となく、試練は訪れた。

 それでも彼は、立ち止まらない。

 悲しみを叫ぶのではなく、挑戦を愉しむように笑っていた。


 その姿は、やがて人々の心に火を灯し、小さな希望は、波紋のように広がっていった。


 日本を越え、世界を越えて──。

 彼の志は、静かに、確かに、時代を変えていった。


 今、彼は新たな大地を踏みしめている。

 舞台は、夢を語る者たちが集う国、アメリカ。


 悲壮感ではない。

 そこにあるのは、歓びと誇り。

 そして、人としての強さと、やさしさと、何よりも、変わることのない、あたたかな笑顔。


 彼は、あなたの中に、私の中に、眠る「可能性」を奮い立たせてくれる。

 彼の舞台は今、アメリカのメジャーリーグ。

「勝つ」ことに、夢と希望を抱いている。

 同じ日本人として、これほど誇らしいことはない。


 そんな彼が生まれる一年前――1993年9月。

 彼のように、アメリカという大国に憧れ、日本でのすべてを手放し、挑戦の地へと踏み出した男がいた。


 かつて、情報も手段も、いまほど整っていなかった時代のこと。

 それでも一人の男は、“夢”という名の地図一枚を胸に、遥かなる海を越えていった。


 名は、天草和夫。


 日本では安定した職に就き、家族にも恵まれていた。

 だが、心の奥底には、消えることのない炎のような想いがくすぶっていた。


 ——このまま、終わっていいのか。


 答えは風の中ではなかった。

 それは、彼自身の中に、静かに、だが確かに響いていた。


「アメリカで暮らしたい」

 それは和夫と妻・智恵子にとって、長年の夢だった。

 同時に、それは幾多の試練と向き合う覚悟を意味していた。


 四十を過ぎた和夫は脱サラを決意し、一家四人で新たな地・フロリダへの移住という、大きな一歩を踏み出した。


 成田空港の出発ロビー。

 春の陽射しが差し込む大きなガラス窓の向こうに、巨大な機体が静かに待っていた。


 その機体に向かって歩いていく家族四人――和夫、智恵子、そして十六歳の長男・陽太、十三歳の次男・陸。


 その一歩一歩に、彼らのすべてが詰まっていた。


 陽太は日本の高校を中退した。

 学校生活にはなじめなかったわけではないが、父の夢に賭けるため、アメリカの高校に編入する道を選んだ。


「英語、できるかな……」


 チェックインカウンターの列に並びながら、陽太は不安げに和夫の横顔を見つめた。


「できるさ。お前は柔らかい頭をしてる。親父よりずっとな」


 そんな言葉に、陽太の頬が少しだけ緩んだ。


 陸は小学校を終えたばかりで、日本の中学に通い始めたばかりだったが、途中で退学。

 これからはアメリカの中学校に入る。


「制服ないんでしょ? 毎日スニーカーでいいんだよね?」


 新しい生活に胸を躍らせているふりをしているが、その声には少し震えがあった。


 智恵子は都市銀行で23年働き続けた。

 安定を捨て、保険も年金も途中で打ち切った。


「夢は、守るものじゃなくて、育てるものだと思うの」


 退職願を出す朝、そう言ってスーツの襟を正した妻の姿が、和夫の脳裏に焼き付いていた。


 和夫自身も、長年勤めた外資系の会社を辞め、アメリカ生活という無謀な挑戦に出た。


 英語は片言。頼れる知人もいない。

 それでも――もう、後には引けなかった。


 搭乗口で立ち止まり、和夫は振り返った。

 自分たちが暮らしていた日本の町並み、年老いた両親、馴染みの定食屋、通い慣れた小さな駅。


 全部、もう「帰る場所」ではなくなっていた。


「この飛行機が離陸したら、人生が変わる」


 そう思った瞬間、背中がぞわりとした。

 だが、隣に立つ家族のぬくもりが、それを押し返してくれた。


 陽太はパスポートを強く握りしめ、陸は新しいリュックを背負っていた。

 智恵子の目はまっすぐ前を見ていた。

 怖くても、揺れても、家族の“未来”を信じる強さがそこにはあった。


 和夫は、一歩を踏み出した。

 この足で、自分の人生を、自分で切り拓くと決めたのだ。


「子どもたちに、俺たちの背中を見せる。家族四人で、ここから始めるんだ」


 心の中で、何度もそう繰り返した。


 飛行機が雲を突き抜けると、まばゆい光が差し込んだ。

 それは未来の保証ではなかったが、希望を照らす光だった。


 マイアミのまばゆい太陽は、不安も希望も、すべてを照らしていた。


 和夫が選んだのは、日本料理のレストラン経営だった。


「この街で、日本の味を届けたい」――そう語ったあの日の情熱は、今も胸にある。


 だがその思いとは裏腹に、現実はコンクリートの壁のように、無表情で、冷たかった。


 借りた店舗は、白い壁に囲まれていた。まだ椅子も、調理器具も、看板さえない。


 そこにあるのは、ただ一つ――夢だけ。


 だが夢を「現実」に変えるには、予想以上に険しい道のりが待っていた。


「フードマネジャーの資格が必要です」


 不動産会社の担当者に言われたその一言が、すべての始まりだった。


 フロリダ州でレストランを開くには、食品衛生を監督する責任者として「フードマネジャー」の資格が必須だった。


 試験は、全て英語。


 ――英文のマニュアルは、電話帳のような厚さだ。


 英語は日常会話程度には困らなくなっていたつもりだったが、専門用語が並ぶそのテキストを前にすると、脳が鉛のように重くなった。


「Potentially hazardous food must be maintained at 41°F or below…」


 何度読んでも、意味が頭に入ってこない。温度管理、交差汚染、サニテーション、冷蔵庫の区分け。


 ひとつひとつ辞書を引き、ノートに訳し、それを読み返す。


 その姿を見て、智恵子がそっとコーヒーを差し出してくれた夜も、もう何度あっただろう。


 やっとの思いで試験に合格すると、次に待っていたのは、保健所の厳しい査察だった。


「この床、少し水が溜まってます。滑って危険ですね」


「包丁の収納、適切ではありません」


「冷蔵庫の温度が41度をわずかに超えています」


「ゴミ箱には蓋が必要です。ペダル式のものに交換してください」


 一つひとつ、夢を削るような指摘の連続。


 和夫は何度も「リオープン申請」の書類を手に、無言で店舗に戻った。


 心が折れそうになるたび、彼は白い壁の店内に立った。


 かつて描いた、満席のカウンター。湯気が立つ味噌汁。握りたての寿司を笑顔で受け取る客たち。


 ――その光景だけが、彼を前へと進ませた。


 マイアミの太陽は、今日もまぶしい。その光の下で、和夫は何度でも立ち上がる。

 夢を、ただの夢で終わらせないために。


 やっとオープンすれば、今度は現地スタッフとのトラブルが待っていた。


 アメリカ人のキッチンスタッフは時間にルーズで、無断欠勤も珍しくない。

 何度注意しても、昼休みに携帯を触って離れなかったり、「これ以上やるなら時給を上げろ」と言ってきたり。


 そのたびに和夫は、文化の違いと割り切ろうと努力したが、言葉の壁は大きかった。


 何かを指示しても、「Yes」と言いながら別のことをしていたり、後で「聞いていない」と言われる。


 怒鳴りたくなる感情を飲み込んで、笑顔をつくるのがやっとだった。


 さらに追い打ちをかけたのは、移民としての立場だった。


 就労ビザの手続きは煩雑で、少しでも書類に不備があると許可が下りない。

 ある日、移民局から「追加資料提出」の通知が届き、雇用証明や資産証明など、山のような書類を用意する羽目になった。


 ビザの更新期限が迫るなか、書類が通らなければ、最悪の場合、退去の可能性もある。


 精神的な追い詰められ方は、日を追うごとに増していった。


 1993年、フロリダ・マイアミ。

 そこは、陽光まぶしい楽園のような地でありながら、異文化に対してはまだ根強い警戒心と先入観が残る土地だった。特に食文化においては保守的で、油と塩気の効いたファストフードやステーキ、揚げ物こそが“食べ物”という認識が一般的だった。


 そんな中、和夫が立ち上げた小さな寿司レストランは、まるで異星から降ってきたような存在だった。看板に躍る漢字、静まり返った店内、カウンター越しに真剣な眼差しで魚を捌く職人たち――すべてが、この地の人々にとっては“奇異”であり、“未知”だった。


 店の前を通る地元客は、不安げに店内を覗き込み、首を傾げる。


「生の魚を食べるなんて、正気じゃない」


「火が通っていないなんて、料理として未完成だろう?」


 店に入っても、「寿司」という言葉は通じても、その意味までは伝わらなかった。シャリの温度、ネタの鮮度、醤油の香り――そのどれもが、評価の対象にならなかった。


「マグロって、ツナのこと? マヨネーズで和えてくれない?」


「この緑のやつ、なんだ? 抹茶か? ……辛っ!」


「巻き寿司は好きだけど、海苔の匂いが無理。レタスで巻ける?」


 カリフォルニアロールのような“アメリカナイズされた寿司”は、すでにロサンゼルスやニューヨークの一部で人気を得ていたが、ここフロリダではまだ「寿司=エキゾチックすぎる食べ物」という認識が根強く、客層はごく限られていた。


 衛生面を疑う声すらあった。保健所からの検査は頻繁に入り、地元紙が「生魚を提供するアジア料理店が増加中。安全か?」と煽る記事を掲載したこともあった。


 当時のアジア人差別は水面下で根強く、板前たちは異国の地でただ料理を提供するだけでなく、自らの文化を“弁明”し続けなければならなかった。

 市場に流通する魚の質も日本とは異なり、冷凍物や現地調達の魚に頼るしかないことも多く、素材の扱いには常に苦心していた。


 それでも職人たちは、毎朝出汁を引き、米を研ぎ、一本一本の包丁に気を込めた。カウンターの奥で黙々と寿司を握るその姿には、日本から遠く離れた地で、自らの技と魂を守ろうとする意志が宿っていた。


 やがて、少しずつ事情を理解する常連が現れ、地元の若者たちが“エスニックでクールな食”として寿司に興味を持ち始める。

 だが、その“夜明け”は、当時の和夫にとって、まだ遠く、かすかな予感にすぎなかった。


 売上は伸びず、資金繰りは厳しくなり、支払いの催促が届き始めていた。


 夜、店の片隅に座りながら、和夫はふと思った。


 ――自分は何のために、ここまで来たのだろうか。


 夢を叶えるはずだった異国の地は、今や孤独と不信と恐怖に満ちた、逃げ場のない闇のようだった。


 仕入れのミス、材料の欠品、思うように伝わらない英語、そして想像以上に厚い文化の壁。


 夢に描いていた「和食の店」は、穏やかな舞台ではなく、過酷な試練の連続だった。


 やる気を失った従業員たちに頼るわけにはいかなかった。彼らと共倒れするわけにはいかなかった。


 そして、和夫の「四十歳からの手習い」が始まった。


 厨房に立つのは、これが初めてだった。


 手探りのまま包丁を握り、魚を三枚におろそうとする。だが刃先の感覚が掴めず、力の加減もわからない。気づけば、きれいに整うはずの身は無惨に崩れ、まな板の上にぐったりと横たわっていた。


「……これじゃ、客に出せないよな」


 ポツリと漏れたその声に、カウンター越しから智恵子の笑顔が返ってきた。


「大丈夫よ。二人なら、きっとうまくいくわ」


 そのひと言が、迷いの海を漂っていた和夫の小舟に、そっと追い風を送った。


 迷いながらも、彼は前へ進み始めた。魚の目を見つめ、刃の角度を変え、失敗を繰り返しながら――

 その手には、やがて確かな技術が宿り始めた。


 だが、開店から数ヶ月。客足は思うように伸びなかった。何度も試行錯誤を重ねた料理は、どこかで“本物の味”に届かず、客の反応もまばらだった。


 ある夜、店じまいの後、和夫は厨房の隅に腰を下ろし、智恵子と黙って残り物の味噌汁をすすっていた。時計の針はすでに日付をまたいでいた。


「なあ……俺たち、何か間違ってるのかもしれないな」


 ぽつりと漏れた和夫の言葉に、智恵子はしばらく箸を止めていたが、やがて静かに答えた。


「間違ってるんじゃないと思う。ただ、伝え方を知らないだけよ」


 その言葉は、和夫の心の奥深くにしみ込んでいった。


 翌朝、和夫は市場に行く前に一冊のノートを手に取った。表紙に「伝えるために」と自ら書き込んだそのノートに、彼は少しずつ思いを綴っていくことになる。


「なぜこの料理を出すのか」「なぜこの温度で握るのか」「なぜ魚の目を見るのか」


 自分が何を信じているのか、自分が何を届けたいのか――その“理由”を言葉にしていく作業は、思った以上に骨が折れた。


 それでも彼は、ひとつずつ、言葉を拾い集めていった。


 そんなある晩、店のシャッターを下ろそうとしたとき――


「……すみません。閉店前に少しだけ、お時間をいただけませんか」


 見知らぬ東洋系の男が、一枚の紙を差し出した。そこに記されていたのは、“一週間の営業停止”の通達だった。


 ――保健所の指摘だった。


 異国の地での衛生基準。冷蔵庫の温度管理や食材保管における細かな規則。

 それらに不慣れだった和夫の店は、些細なミスで営業許可を一時的に取り消されたのだった。


「……なんで、こんなことに」


 崩れ落ちるように、その場に膝をついた和夫。


 家賃は三ヶ月滞納。仕入れ業者からの督促状は、机の上に積み上がり、見るたびに心臓が締めつけられる。銀行への返済も延滞が続き、信用は音を立てて崩れていった。


 それでも、朝は来た。

 だが、起き上がるのがつらかった。身体が動かない。心が動かない。和夫は布団の中で天井を見つめ、ただ黙っていた。起きる理由が見つからなかった。


 焦燥と不安に押しつぶされ、気づけば昼間からアルコールを煽るようになっていた。酔って眠る。酔って怒鳴る。冷蔵庫の前でひとり、壁を殴って泣いた。

 雨の音が屋根を叩いていた。まるで何かを洗い流そうとするかのように、激しく、そして冷たく。


 その音は、しんと静まり返った店の中にも微かに響いていた。

 店じまいを終えた厨房では、換気扇のかすかな唸りだけが沈黙を破り、湿った空気がじっとりと漂っていた。


 和夫が冷蔵庫に缶ビールを取りに行こうとしたときだった。


「もうやめてよ、その酒……もう、十分でしょ」


 智恵子の声は、思いのほか低かった。けれど、そこにあったのは怒りではなく、絶望に近い疲れだった。


「……うるさいな」


「うるさい? それ、今の私に言う?」


 和夫は缶を開ける手を止めなかった。


「なにが命がけだよ。夢だって言ったの、お前だろ。俺は……俺は……」


 言葉が続かない。口にした途端、自分がどれだけ惨めか、わかってしまうから。


「だったらせめて、逃げずに向き合ってよ。私たち、何のためにここまで来たの?」


「向き合ってるよ! 俺は毎日、必死に……!」


「嘘よ。逃げてる。酒と、自分のプライドと……全部の責任から!」


 その瞬間、和夫の中で何かが切れた。


「じゃあ、お前はなんなんだよ! 俺の気持ちなんて、一度でもわかったか? 毎日毎日、何が足りないのかもわからずに、魚とにらめっこして……全部、自分の力不足だって、わかってんだよ!」


「だったら、なぜ私にぶつけるの!? 私だって怖いの。毎日、不安でたまらないのに……和夫まで、こんなふうになって、私、もう……」


 智恵子の声がかすれた。震えながら、それでも必死に言葉を吐き出す。


「今のあなた、本当に怖いの……あの日みたいに笑ってくれたあなたは、もうどこにもいない……」


 その言葉が、和夫の心を深くえぐった。


 怒鳴り返す言葉も見つからなかった。震える手を見つめたあと、和夫はゆっくりとその場に膝をつき、顔を両手で覆った。


 ただ、泣いた。悔しさも、情けなさも、どうにもならない無力感も、全部、涙になってこぼれていった。


 静かに流れるラジオから、懐かしい日本の歌が聴こえてきた。切なさと温もりが入り混じったメロディーに、智恵子がふとつぶやいた。


「……まだ、“終わった”って決めつけるの、早いんじゃない?」


 その声はかすれていた。でも、どこかあたたかかった。


 和夫は、ゆっくりと顔を上げた。深く沈んだ海の底から、水面へと手を伸ばすように。


 ——どん底に落ちた。すべてを失った。だからこそ、もう一度始められる。


 和夫は黙って立ち上がり、厨房へと歩いた。冷たいステンレスの台に手を添え、そっと包丁を取り上げる。それはもう、ただの調理道具ではなかった。再び夢へと舵を切る、静かな誓いの証だった。


 まな板に刻まれる音が、店内に響く。魚を焼く音。出汁の香り。そして、湯気とともに立ち昇る新たな希望。


 料理をつくることが、こんなにも心を満たすとは——

 和夫はその夜、初めて「自分が料理人になった意味」を深く知った。



 ある夜、常連のひとりがふとつぶやいた。


「この味には、心が込められているね」


 その言葉に、和夫の手が止まった。こみ上げるものを押し殺しながら、彼は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 努力が、誰かの心に届いている——。その確かな実感が、胸に灯る。


 やがて店の評判は口コミで広まり、いつしか予約で埋まるようになった。客の拍手に迎えられ、料理を運ぶ和夫。その姿を見つめる智恵子の目に、静かな笑みが戻っていた。


 異国の地に根を下ろした、小さなレストラン。

 カウンターの奥には、無数の試行錯誤と、夫婦が積み重ねた歳月のすべてが、静かに息づいていた。


 その歩みは、確かに実を結び始めていた。


 ――ただ、それがまた新たな試練の幕開けになるとは、このとき誰も知る由もなかった。


 フロリダに三店舗、ミシシッピに一店舗、そしてテネシーに一店舗。それは、数々の失敗を越え、夫婦が自らの手で築き上げた“信頼の証”だった。


 新しい土地に足を踏み入れるたび、和夫は市場を歩き、現地の声にじっと耳を傾けた。智恵子は、笑顔で和菓子を手渡しながら、人々の記憶にそっと寄り添っていった。


 その日々の積み重ねが、やがて確かな道を作り出していった。


 ——夢とは、形のないものだ。だが、それを信じて歩き続けた先にこそ、たしかな物語が生まれる。


 語り継がれるべき物語があるとすれば、それはきっと、こうした“傷”と“希望”を抱きしめながら歩んだ、小さな勇気たちなのだろう。


 雨は朝から止まなかった。

 マイアミの空は、長年蓄えてきたすべてを吐き出すかのように、容赦なく店の屋根を叩きつけていた。


 店内には客の姿はなく、冷蔵庫の低い唸りと、天井からぽつり、ぽつりと落ちる雫の音だけが響いていた。

 時間だけが、やけに長く感じられた。


「また、冷凍庫が……止まってる……」

 智恵子がぽつりとつぶやいた。


 開けた冷凍庫の中では、食材がすでに緩み、ドリップが袋の隙間からじわじわと漏れ出していた。開店直前、魚はすでに使い物にならず、葉野菜は変色し、ぐったりとしていた。


 和夫は無言のまま、配電盤の前に立ち、何度もスイッチを上げ下げした。

 カチ、カチ……。だが、機械はうんともすんとも言わない。


 肩を落とし、うなだれたその背中に、今までにはなかった重たい影が、じわりと差し掛かっていた。


 だが、問題はそれだけではなかった。


 従業員の遅刻や無断欠勤、大麻の所持、レジからの現金盗難。厨房や冷蔵庫、エアコンの故障も相次いだ。設備のずさんな扱いが原因とわかっていても、深刻な人手不足の中では、彼らを責めることすら難しかった。


 そして、決定的だったのが――信じていた日本人シェフたちの不祥事だった。


 一人は、違法な魚介類の仕入れで逮捕され、ニュース番組で大きく取り上げられた。

 もう一人は、泥酔運転で事故を起こし、日本に強制送還された。


 異国の地で、同胞の失態によって浴びた視線は、まるで自分たちへの非難のように、重く、冷たかった。


 そんな中、和夫と智恵子の懸命な姿を見ていた従業員たちは、こう口にした。


「こんな大変な仕事、やってられない。やっぱり従業員でいるのが一番だよ」


 その言葉は、二人の努力を、皮肉な形で浮かび上がらせた。


 だが――本当に二人の心を深く傷つけたのは、文化の違いでも、言葉の壁でも、資金繰りの厳しさでもなかった。


 突然、テネシーの店舗から一本の電話が入った。


「パートナーが口座の金……全部、引き出して……姿が見えなくなりました」


 和夫は耳を疑った。携帯の画面が震えていた。

 手が震えていた。

 いや、全身が静かに、しかし確実に崩れていくのを、和夫は感じていた。


 信じていた相手に裏切られた。

 同胞として、家族のように語り合った夜もあった。

 なのに、そのすべてが――金とともに、まるで「最初からなかったこと」のように消えた。


 失敗も挫折も、それをどう受け止めるかで、人生の意味は大きく変わる。

 時間だけが傷を癒すわけではない。


 苦しみとは、正面から向き合い、受け入れ、自分の中で育てていくもの――

 和夫と智恵子は、そう信じていた。


 無数の困難と、あふれるほどの涙。

 それらは確かに二人の心に深い傷を残したが、同時に、決して揺るがぬ強さも刻み込んでいった。


 悔しさも、誇りも、そしてどうしようもない喪失感も――それらすべてを抱きしめたとき、それはもはやただの苦い記憶ではなく、かけがえのない「真の財産」となっていった。


 そんなある朝のことだった。  いつも通りの笑顔で仕込みをしていた智恵子が、突然、声もなく崩れるように床に倒れた。


 病院で告げられた診断は、脳梗塞。幸いにも早期発見と適切な処置により、麻痺などの後遺症は残らず、大事には至らなかった。しかし、和夫は迷わず店を閉めた。


 予約はすべてキャンセルし、掲示板には「しばらくの間、休業いたします」と一枚の張り紙を貼った。


 厨房には、包丁もまな板もそのまま置かれていた。客のいない空間に立ち尽くす和夫は、これまでにない孤独に押しつぶされそうだった。


 ——もう、ここで終わりにすべきかもしれない。


 夜、病室で眠る智恵子の手を握りながら、彼は何度もそう思った。だが、その手がふと弱く握り返してきた瞬間、胸の奥で何かが静かに灯った。


「大丈夫。私たちなら、またやり直せるよ」


 かすかな声で、智恵子はそう言った。涙が止まらなかった。それが、二人の“再出発”の瞬間だった。


 栄光も、挫折も、裏切りも、痛みも――すべてを味わい尽くした今、二人の中には、確かなものが宿っていた。  ——本当に大切なものは、目に見えない場所にあるのだと。


 もう一度、最初から始めよう。焼き台に火を灯し、包丁に心を込め、皿に想いをのせて――


 二人は黙々と厨房に立ち続けた。ひたむきに、がむしゃらに、ただ信じるもののために働き続けた。


 やがてその姿は、少しずつ人々の心を動かし始めた。どれほど踏みつけられても折れることなく、どれほど傷ついても互いを支え合いながら――


 二人の物語は、静かに、だが確かにこの地に根を張っていった。それは、語り継がれる味となり、語り継がれる生き方となった。


 気がつけば、若い従業員たちの目が変わっていた。  かつてのような「我関せず」といった他人事のまなざしではなかった。


 そこに宿っていたのは、自ら動こうとする意思の光。誰かの背中を見て、何かを感じ取ろうとするまなざしだった。


 その変化を目の当たりにして、ようやく気づかされた。若者たちが無関心だったのは、私たち自身の姿勢にこそ原因があったのだと。


 私たちが変わったからこそ、彼らも変わってくれたのだと。


 今の彼らの目には、たしかに「率先垂範」の心が映っている。


 そのまなざしは、いつかの自分たちと、どこか重なって見えた。



 ――それから30年。


 レストランには、かつてのような活気が戻っていた。昼の営業を終え、厨房の片付けが一段落した春の午後。和夫はふと腰を下ろし、窓の外に目をやった。


 若いスタッフたちが、まかないを食べながら楽しそうに笑い合っている。その眩しいほどの笑顔と軽やかな笑い声が、和夫の胸に静かに染み込んでいく。


「いつからだろうな……“バトンを渡す日”を考えるようになったのは。」


 かつて包丁を握りしめていた日々。夢中で駆け抜けた時間が、今ではまるで遠い記憶のように思える。


 あれほど心躍らせたはずの厨房の空気が、今は時おり重たく感じる。肩の奥に染みついた疲労は、もはや一晩の睡眠では抜けきらない。


 和夫はゆっくり立ち上がり、厨房の隅に置かれた一冊のノートに目をやった。智恵子が日々綴っている「今日の気づき」や「スタッフへのメッセージ」の中に、こんな一文があった。


 ――誰かの夢の土台になれるのなら、それで十分じゃない?


 和夫はその言葉を指先でなぞりながら、小さく笑った。


 もう一度、厨房に立つ。だが、それはすべてを自分ひとりで背負い込むやり方ではない。


「次は、あいつらの番だな。」


 そのつぶやきには、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。


 そのとき、智恵子が静かにコーヒーを差し出しながら、そっと言った。


「そろそろ、ね。あなたにも、ゆっくりしてほしい。」


 和夫はその言葉に、小さくうなずいた。


 彼女の手にも、いつの間にか細かな皺が刻まれている。その手に触れるたび、ふたりで築いてきた歳月の重みが、静かに胸に宿る。


小さな店の厨房で静かに受け継がれる“想い”。

それは、技術でも味でもなく、「人の心」に根ざしたもの。


“変わること”と“変えないこと” 次話の二章もお楽しんでいただけたらと思います。



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