3. 人の話を聞け、馬鹿犬。
同情を多分に含んだ眼でニコラスと呼ばれた幽霊男を見ていると、突然部屋が揺れた。
違う。肉男が動いた。
安っぽい机と椅子がガタガタと音を立てたのに気がとられている間に、目の前に男が立っていた。
でかい。圧がすごい。
男爵家の屋敷前に整列した一個小隊の兵士たちにも感じなかった恐怖が背中に広がる。
頭一つ分以上でかい男は私に覆いかぶさるように体を丸め、そして突如両手を伸ばして私の顔に触れた。
「ひっ!?」
押さえきれなかった悲鳴が喉を震わせる。
太い両手の親指が私の頬を包み、至近距離から深みのある赤い瞳が覗き込んだ。
「んー? んー、やっぱり温かい。ね、サリーは聖女じゃないけど、たぶん特別だよ」
「は?」
巨体のわりにどこか幼い口調で男は尋ねた。
意味が分からない。
突然、何なのだ。
「ガヴェル!」
「ね、何か、分からない? サリーに触ると、すごく気持ちいい」
誰かの声が、岩男のものと思しき名を呼ぶ。
だが男は離れない。
ただ両頬に触れたままの指が、皮膚を引っ張る。
今私はまるで半分潰れたような間抜けな顔になっていることだろう。元々の顔だって、そう魅力があるほうじゃないのに。
眼球の近くまで迫る太い指で瞳をえぐり取られそうな恐怖に、瞳孔が広がった。
「分からない? 目には見えないのかな? サリーは他の人とはどこか違う。なんでだろう。ね、教えて?」
楽し気に、私の瞳を覗き込んで男が言う。
両手、両腕、そして巨大な体すべてで私を囲む。
揺れる目に力を込め、睨むようにして男を見上げる。
意外に愛嬌のある顔をしている。
興味津々に人を覗き込む顔は、昔、屋敷にいた犬に似ている。
何度も私の足元に木の枝を持ってきて、投げるのを待っていた目だ。
よだれでべたべたの木の枝とか、太すぎてどう考えても投げられない枝とか持ってきた馬鹿犬だったけど。
強すぎる男の視線から逃げるように目を逸らすと、男の右目の隣に小さなほくろを見つけた。岩男にポツンとついたそのほくろに、なぜか緊張がほぐれた。
「何、言ってんの?」
「あれ? 分からない? 凄く気持ちいい力が流れてるのに?」
「……魔力?」
「んっと、ちょっと違うかな。あ、だったらあそこを見に行こう」
「え? きゃあ!」
「ガヴェル!」
男の手が私の顔から離れたと思ったら、突如体が浮いて、何か固い感触がお尻に当たる。
目線が普段よりはるかに高い。
この岩男の丸太のように太い腕に乗せられている。
驚いた拍子に上半身がぐらついて、慌てて分厚い肩と首にしがみついた。
「んふ、いいね。行こう」
満足げな声と共に、男が一歩踏み出す。
「は? え、ちょっと」
全く、一切、何も、私の言葉を聞いていない。
最悪だ。うちの犬だって”待て”ができた。
こいつは犬以下か。筋肉で耳の穴がふさがってんじゃないのか、クソッタレ。
男の名前だと思われる「ガヴェル!」という二人の声を置き去りに、男は歩き出した。
そして建物を出たらすぐにその歩みは大股に、続いて小走りになり、最後にはガクガクと視界がぶれるほどの速さに変わった。
「ちょ、っと、とっま」
「喋ると舌、噛んじゃうよ」
こっちの制止の声は聞こえていても聞いてくれない。なんでだ、クソ。
男の足はどんどん進む。
建物から離れ、畑を抜け、数メートルある幅の川をまるで水たまりかのように軽く飛び越え、壁の様に切り立った山へと近づいていく。
まさか、採掘場に行こうというのか。
何のために?
さっき、私の目がどうとか言っていた。見えているのかどうかとか。
つまりは何か見せたいものがあるのだ。
ぶれる視界をなんとか安定するように、男の首に回した両腕に力を込めた。
なんだったら窒息させてもいいと思うくらいに。それなのに筋肉に覆われたこいつの首はなんのダメージもないけど。
呼吸にも走る速さにも何の乱れはない。いっそ悔しいくらいに頑丈だ。
「あとちょっとだから我慢ね」
やたら優しい声が聞こえる。
だったらもっと気遣いを示すべきではないか。
直後、ふっと視界が暗くなった。
顔を上げた先に見えるのは光の出口。採掘場に掘られた洞窟の中に入ったのだ。
それでも肉男の足は止まらない。
背の高い男よりもさらに高く掘られた天井。抱えられているせいで普段の私の頭の位置もはるかに高いが、天井に手が届く気はしない。
緩やかな下り坂になっているのに、男は恐ろしいほどの体幹と筋力で何の問題もないと足を進める。
洞窟に入ってから少し落ちた速度に安心して、固くこわばっていた体の力を抜いた。
それに気づいた男の顔が上がる。前を向け、前を、馬鹿。
私が緊張をほどいたのが嬉しいらしく、年代物の澄んだワインの様な深い赤みを帯びた瞳が細くなった。
限られた光の中でも輝く瞳。珍しさに、私の目は釘付けになる。
「うん、やっぱり見えてる」
岩男が太い眉を柔らかに下げて、上機嫌な犬のように口を左右に大きく広げて笑う。
その彼の歩みが突然止まった。
坑道の最奥近くなのだろう。足元にはまだ削り出したばかりの、人の頭ほどはありそうな石がゴロゴロ転がっている。
男はそんな大きな石をガンガンッと軽く蹴飛ばしてスペースを開け、ゆっくりと丁寧に私を地面に降ろした。
ふらつきそうになる体を男の揺るがない腕が支える。
その優しさがあるのならば最初から出して欲しい。
「ね、見える?」
繰り返される質問に、男の腕にとらわれたまま顔を下に向けてため息を吐く。
まだ体が揺れているみたい。少しくらい休ませろ、クソ馬鹿。
すぐに男の片手が私の顔に添えられ、グイッと上にあげられた。
まったく、クソッタレが。
女の顔をそんなにべたべたと触ったり勝手に動かそうとするなんて、貴族でも平民でも見たことも出会ったこともない。
男性とこんな近い場所で触れ合うことなどなかったというのに、照れや羞恥心など湧くはずもなく。
これは犬だ。なんなら犬畜生よりも聞き分けがない。
犬ならば圧し掛かられようが顔を嘗め回されようが、気にならないことはないが騒ぐほどの事でもないだろう。
「何?」
伸びた首に添えられた男の手はでかく、分厚くてゴツゴツしている。
露わになった喉に当てられた親指に少しでも力が入れば、呼吸どころか脈が止まりそうだ。
表現できない感情がブルリと体を震わせた。
「ここ、いっぱい魔力がある。ね、見えるでしょ?」
嬉しそうに、良く飛びそうな特上の枝を見つけた犬のように男は微笑んで告げる。
その時、煌めく瞳を訝し気に見上げる私の視界で何かが揺れた。
両目が広がる。息を飲む私の呼吸を感じたのか、男の手がそっと離された。
もう一方の腕を腰に回されたまま、私は一歩後ずさる。
男の頭上、体の向こう、広がる坑道の壁一面からうっすらと立ち上るもの。
煙でもない。冬の早朝、外を見た時に広がる靄のような儚い影。
「なに、これ?」
「ほら、やっぱり、見えてる」
「知らない、私、知らない」
子供のように頭を左右に振る。こんなものは見たことなどない。
それなのに男は確信したように言う。
「嘘。分かってる。見えてなくっても、分かってた。ニコも、ドン爺も見えてなかったのに、サリーは見えてた」
勝手に人の名前を呼ぶな。こっちはあんたの名前もほかの奴らの名前も聞いていない。
聞く暇すらなかったのに。
「ね、分かるでしょ」
男の声が弾む。
背中に回されたままの腕に力がこもった。足が僅かに浮いて、かがみこんだ男の体に手を添える。
知らず、指先がかすかに震えていることに気付いた。でも止まらない。
「あんた、何?」
視界を埋める靄の中、男の体からたちのぼるソレに意識が向く。
どんな靄よりも色濃い。この筋肉だらけの男の生命力のように煌めく光。
魔力と言った。
私には魔力が見えていると。
では、この男は何なのだ。
人は魔力を持たない。
では、魔力かもしれないこの靄を纏うこの男は。
ニイッと笑みが広がった。
私にはそれが、森で泥だらけになって戻ってきた馬鹿犬がとびかかってくる直前の笑みのように見えた。
ステイだ、クソッタレが。