22. 真っ直ぐにならない素直さ。
「サリー、それ、本気で、聞いてる?」
一語、一語、言葉を区切るガヴェルの声が怖い。
無意識に体を離しそうになった私を、太い腕が逃がさない。
逆に胸元に引き寄せられ、大きな掌が私の頬から顎を包んだ。指先が耳の後ろの薄い皮膚をさわりと撫でて、くすぐったさに首をすくめる。
視線も、呼吸も、鼓動も全部捕らえられて、逃げ場を失った。
「僕はね、サリー」
柔らかく弧を描く瞳、うっすらと笑みを浮かべる口元。
顔のパーツごとに見る限り、とてもご機嫌なのに、どうしてだろう。
ゾワリと背筋を言語化できない震えが走り、たまらなくなってガヴェルの名を呼んだ。
「ガ、ガヴェル?」
「しー、だよ。サリー」
頬に当てた手はそのままに、親指が私の唇に乗る。
するりと薄い唇の表面を撫でられ、わずかに開いた口から震えた空気が漏れた。
初めて会った日、あの日もガヴェルは私の頬に触れた。
今よりももっと大きくごつい筋肉に覆われた体をしていて、少しでも身じろいだら首を折られるんではないかと恐怖を覚えた。
あれから半年以上が経って、ガヴェルのことを知って、ガヴェルがそんなことをしないと分かっている。
それなのに、体の奥底からこみ上げてくるこの感情はなんだろう。
「サリー、怖がらないで」
怖いはずがない。だって、ガヴェルは私を傷つけないって知ってる。
さっきだって、些細な怪我でも自分のせいだって謝ってきたガヴェルだ。
怖くなんかない。
「目を、逸らさないで」
見てる。ちゃんと、見てるじゃない。
こんな鼻先が触れ合うほど至近距離で、目をそらすこともできない。
「サリーの心から、だよ」
「私の?」
「そう。サリーの心から逃げないで。目をそらさないで」
ガヴェルの顔が迫って、額と額が触れ合う。
二人の微かな呼吸が混ざり合って、空気に溶けて消えた。
「怖がらないで。僕は変わらないよ。ずっと、サリーだけが大好き。それは僕の命が続く限り、変わらない事実だから」
「……一生?」
「うん、一生。僕が、死ぬまで」
そんなことを、たった十八歳で宣言するなんて、馬鹿だ。
人生は長いのに。これからもっともっと、こんな崖に囲まれた狭い世界じゃなくって、たくさんの出会いがあるかもしれないのに。
「サリー、僕の、サリー。僕は、サリーがいるだけで幸せなんだ。僕を信じて?」
甘い声で、ホットワインみたいな瞳で、私の頑なな心に入り込んで、どうしたいの。
何もいらないとか、私だけがいればいいとか、そんなこと言わないで。
だって私は欲張りで。
これからの先、ガヴェルが誰かと出会うことを考えただけで、心の奥がグルグル回って吐いてしまいそうになる。
私だけの人でいて欲しい。そんなこと言いたくないのに。
自分勝手で、貪欲で強欲な自分なんて知りたくなかったのに。
「ガヴェルが、悪い」
「うん、ごめん」
「謝らないで」
「うん、ごめんね?」
「馬鹿」
横暴な私の発言に、ガヴェルは目を細めて甘い微笑みを返す。
そんな包容力のある大人の男みたいなことしないでよ。私が駄々っ子みたいじゃない。
噛みそうになった唇にもう一度指が触れ、ガヴェルの顔が離れていく。
目でガヴェルの動きを追う私に、小さく笑ってガヴェルはそっと私の額に唇を落とした。
「泣かないで」
唇が離れて、今度は目尻に口が寄せられる。
「好きだよ、サリー」
「うん」
右の目尻から、今度は左に。
伏せた瞼にもそっと降ってくる口づけ。
触れたらしぼんでしまいそうな砂糖菓子を扱うみたいに、柔らかく、触れては去っていく唇。
「サリー、サリーは?」
犬の挨拶みたいに鼻先を触れ合わせて、潜めた声でガヴェルが問う。
漂う濃密な空気に、喘ぐように唇を震わせた私に、ガヴェルは優しい追及の手を止めない。
「ね、教えて?」
ねだるような、甘えるような声が私を追い詰める。
馬鹿、ばかばか、ばか。
「……好き」
「うん」
「ガヴェルが、好き」
「僕も、サリーが好き。一緒だね」
目の前の赤い瞳がトロリと溶ける。
そんな簡単なことじゃないのに。
私は魔女で、よく分かんない力を持っていて、きっとこれからもその力に振り回されて生きていかないといけない。
そんなクソッタレな人生にガヴェルを巻き込む勇気なんてなくて、自分の未来から目を逸らしていたかったのに。
ガヴェルが容赦なく私のそんな憶病さに踏み込んでくるから。
私の心の中にそんな風にズカズカと入って来る人なんていなかったから。
だって、家族はみんな自分のことばかりで、私がどんなことを考えているとか興味なくて。
ガヴェルは……ガヴェルは、そのままの私でいいって言うくせに、私をどんどん変えていく。
一人で生きていくことに自信がなくなった。
誰かが隣にいること、誰かの温もりがそばにあることを当たり前だと思ってしまうようになった。
ガヴェルは、私を弱くした。
「核ができたら、ガヴェルは私といなくてもいいんだよ」
魔力を失うことが無くなれば、私は必要なくなる。私と触れ合っていることも、私に頼ることも。
たくさんの知識を持った魔人の魔力がガヴェルの師となるのであれば、こんな小娘の言葉などなんの意味がある。
「サリー、お馬鹿さん」
「ちょっと……」
まさか、ガヴェルに言われるなんて。
くっついたおでこを離し、不機嫌を隠しもせずにガヴェルを睨む。
なのに、こっちが何で怒ってるのかを全く理解していないでへっへっとご機嫌な犬みたいに、ガヴェルはただ微笑みを浮かべている。
悔しくて、ガヴェルの目元のほくろを指先でつまんでみる。
その私の手を取り、すりすりと頬を寄せるガヴェル。
なんでこんなに艶々もちもちのお肌してるの。
んふふっと口元をほころばせるガヴェルに手をとられたまま、ぼんやりと赤銅色の髪を眺める。
「サリーはねぇ、頑張り屋さんだから」
ガヴェルの眠気を誘うようなゆったりとした声に包まれて、ふわふわと心が揺れる。
「サリーは諦めるの早すぎ。僕のこと、そんなにすぐ諦めないでよ。僕、簡単に捨てちゃってもいいの?」
こら、そこで眉を下げるな。しょぼんとするな。
犬か。
犬、だな。
そして私は犬に弱いんだ。
馬鹿犬であっても、捨てられなかった。あの子を捨てられるはずがなかった。
あの子は私の唯一の味方で、誰よりもそばにいてくれた。
ガヴェルは、あの子じゃないし、犬でもないし。
恥ずかしいけれど、私が人生の中で初めて好きになった相手。
そんな簡単に、捨てられるはずがない。
聞き分けのない子供みたいにふるりと首を振る。
ふるふると、何度も。
分かって。分かってよ。
グネグネに曲がった私の髪の毛みたいに、素直じゃない私の気持ち。
「馬鹿だなぁ、サリー。大好きだよ」
ガヴェルの両腕に包まれる。
ふわりと私を囲う柔らかな檻。自分からも、ガヴェルからも逃げずに向き合う距離。
「私、ちょっとだけは、素直になる」
「え?」
「なんか、悔しいから」
「どういうこと?」
耳元で尋ねられる。
この体勢はぴったりくっついていて顔が見えないから、少しは素直な言葉が出せる気がする。
「ガヴェルばっかり大人になって、ずるいから」
「僕、大人になったって思ってもらえるなら嬉しいな」
ふふふっと笑ったのだろう。触れ合った肌からかすかな揺れを感じる。
「でも、サリーはそのままのサリーでいいよ。ちょっと意地っ張りなサリーが可愛いし」
「か、かわ……意地っ張りって」
「ふふーん、サリーは可愛い」
ギュッと自分からガヴェルの体にしがみつく。
熱くなった耳が、真っ暗な視界の中でガヴェルの声と鼓動を聞く。
ガヴェルの体を支えるのは人間としての心臓と、魔人としての核。
そのせいか、どこかゆったりとした鼓動が心地よい。
ガヴェルが目覚めるまで眠れていなかったせいで、一気に眠気が襲ってきた。
「サリー、寝る?」
「うん」
「じゃ、一緒に寝よっか」
「ん」
「ふふっ、素直だ。可愛い」
「ばか」
ガヴェルが私を抱えたままそっと横たわる。
慣れてしまった優しい空間に安堵して、私は平穏な眠りについた。




