10. 猫と犬と最後の日は。
魔の谷に着いてからひと月が経った。
驚くほどゆっくりと、順調に私はここでの生活に慣れ始めていた。
毎日肉の塊のガヴェルに抱きかかえられて寝起きし、
ガヴェルと手をつないで仕事をして回り、
ガヴェルの膝に抱っこされるのを拒否するのに疲れて、されるがままに運ばれて部屋に戻るとこまでを繰り返す。
ほぼほぼ毎日がガヴェル一色だ。
ガヴェル色……茶色か赤だろうか。
なんてあほなことを考える時間も持てるようになっている。脳みそが溶けてしまうのではないかとクソな考えまで浮かんだ。
立派な畝が整い、そこに十センチほどまで成長した野菜の苗を等間隔に植えていく。
「サリー、これが大きくなったら美味しいお芋だって。蒸かすのが僕は好き。サリーは?」
「ガレットが一番ね」
「がれっと? 美味しいの?」
「美味しいわよ。ニコラスがいるなら絶対出てきてるはずだけど」
「えー、知らない。ガレットで出すと、お芋はどうなるの?」
「ん?」
なんか表現が微妙じゃなかったか?
まさか完成した料理がガレットと知らずに食べているんじゃなかろうか。
「ガレットはお芋を使った料理の名前。薄く細く切って、平らにして焼いて食べるの」
「お芋を焼いた料理! 焼くと美味しいよね!」
「ただの焼いた芋じゃないんだけど」
本当に理解できているのか怪しい。
筋肉を育てるのに回っていた魔力が体内に蓄積され始め、多少知能も成長するかと期待しているんだけどその兆候は未だ皆無。
魔力の問題ではないのかもしれない。
まだ十七歳。きっと伸びしろはあるはずだ。
それじゃなきゃ私が困るんだ。一生この馬鹿犬状態のままだったら──悪夢だ。
お互い、この場所をいつ抜け出せるか分からない。
ガヴェルの体内にできた魔魂石は順調に育っているようだ。
だが育ちきったら次は? あの枯れ木老人は次は何を求める?
疑似的に作れるものなのか。それとも魔人と人間のハーフであるガヴェルだからできたのか。もっと、もっと研究を進めたいと思うだろう。
では私はどうなる? 私の力はガヴェルだけでなく魔人にも有効ならば──
一生二人ともここに閉じ込められて実験の対象として扱われるのかもしれない。
ぞっとする。
そしてその一生の間、ガヴェルがずっと馬鹿犬でいてもらっては困るのだ。
だからガヴェルを賢くさせるために、私は少しずつ教育をすることに決めた。
目標はとりあえずガヴェルに十歳並みの知能を持たせること。そんなに高くない目標のはず。きっと何とかなるだろう。
「こっちの畝に十二本の苗、で、残りの畝は三本。苗はあと何本必要?」
「んーっと、十二と十二と、十二。で三十三」
「なんでそうなるの」
目標をもう一度見直しした方が良いかもしれない。
でも一週間で読み書きと計算の基礎がちゃんとできたのは、多少魔力の後押しがあるはず。
期待しすぎないように希望を持とう。でなければやっていけない、私が。
全部ガヴェルのためじゃない。自分のためなのだ。
‡ ‡ ‡ ‡
「サリー、ここ終わったらもう一つ奥の穴に行こうね」
「そうね」
この崖地帯は、私が思っていた以上に幾つもの穴が開いている。まさに、魔の谷。
何が魔人をこの地に導くのか分からない。
幾年、幾十年、幾百年の間に眠った魔人たちの魔力を集めに、私とガヴェルは日々崖の壁に開いた穴に潜る。
少し陰鬱で、そしてどこか、心地よい空間。
男爵家の奥にあった聖堂のような、寂しさ。でもわずらわしさや憂いでとげとげした心を、静寂が優しく撫でて慰めてくれる場所。
陽が沈むと、そびえたつ崖に囲まれたこの場所はあっという間に気温が下がる。
夕食の後、温かな服の上からさらに毛布をかぶせられ、ガヴェルの腕に乗って畑を抜け、崖の合間を縫い、坑道の奥へと進む。
本当は自分の足で歩きたい。まったく贅沢とは程遠い望みは、駄々をこねる馬鹿犬との言い合いに疲れて二日目であきらめた。
もういい。時間の無駄だ。いつか脳が成長すれば、ガヴェルもこの状況がおかしいと気づく。そう、願いたい。
子供の頃から私の願いがかなったことなどないけれど。
「ここは、魔力があまりないのね」
壁にもたれるガヴェルの足の間に挟まり、周囲を漂う魔力の靄を見つめて呟く。
ガヴェルが効率よく魔力を吸収できるように、可能な限り触れ合う面積を増やすための苦肉の策。
誰もいない坑道の奥だし、ガヴェルの胸元にいれば背中から温かいし。仕方がない。
私の呟きに、ガヴェルは前にまわした私の両手をきゅっきゅっと握りながら答える。
「ここで魔人さんが死んだのは多分百年くらい前だと思う」
耳のそばでいつもよりゆっくりと話すガヴェルの声。
最初の日もそうだけど、なんとなくこの魔人たちの眠る墓に来るとガヴェルの雰囲気が普段より大人びるように感じる。
普段が普段なので、そこまで大人になったわけではないのが残念だ。ギャップなどは感じない。そもそもがおかしいのだから。
「百年。そんなにも魔力は残るのね」
「ここは他の所より深いから」
どこかで水が流れる音が聞こえる。地下水だろうか。
坑道の中は上も下も右も左も真っ暗で、意識しないと見えない魔力の靄以外は光はない。
耳が、敏感に音を拾う。
自分の呼吸と、背中に当たるガヴェルの鼓動を。
「なんで、魔人はこの場所で死ぬのを選ぶの?」
魔人たちが住むのは地の底。
墓があるべきはそこではないのか。
私の疑問にガヴェルはすぐに答えず、ムギュムギュと私の両手を揉み続ける。
昼間に畑仕事で酷使した手がじんわりとほぐれて気持ちいい。
手首からゆっくりと手のひらの線をたどって指先まで。絶妙な力加減で優しく押される。
「ね、聞いてる?」
指を折りたたみ、ガヴェルの手を止めれば、むーっと不満げに喉を鳴らす。犬か。
何度か指にぐっぐっと力を入れると、くぅっと鼻を鳴らした。犬だ。
「僕は完全な魔人じゃないからなんとなくだけど」
珍しく前置きをして、ガヴェルは私の両手をぎゅっと包み込む。
「魔人は長く生きるし、強い力を持ってるから弱っていく姿は見られたくないんだと思う」
ぎゅっと今度は体全体で私を包み込む。
背中から伝わる温もりが近くなる。
「まるで、猫みたい」
「猫?」
漂うかすかな靄がガヴェルの肌に溶ける。耳の横をかすめる息に吸い込まれていく。
それを目で追いながら続ける。
「猫は、死期を悟ると身を隠すって言うから」
「飼ったことあるの?」
「屋敷にいたけど、飼ってたっていうより、住み着いてた感じ」
「そっか」
害獣駆除のための猫たち。名前も付けていなかったし、増えても減っても気にしていなかった。
私が飼っていたのは犬だ。茶色いふさふさの毛をした、いつまでたっても自分が子犬だと勘違いしていた馬鹿犬。
「僕は死ぬときはサリーと一緒がいい」
「はぁ? なんで一緒に死ななきゃいけないの」
いきなり何を言い出すのだ。
「あ、違った。えっと、サリーが一緒にいてくれると嬉しい?」
「なんでよ」
なぜ私がガヴェルの最期を看取らねばいけないのか。
順番で言えば、純粋な人間であり、年上の私が逝くのが先だろう。
「うーん、サリーに手を握ってもらって、死ねたら幸せかなって」
死ぬのに幸せとか、馬鹿じゃないの。
そう、口にしようとした唇が無様に震えて引き結ぶ。
赤い、血を流していたあの子。
野犬に襲われて息も絶え絶えで、もうダメだって分かってるのに屋敷に戻ってきたあの子。
頭を撫でたら嬉しそうに目を細めて、抱きしめたら小さく満足げな息を吐いて逝ったあの子。
ああ、どこまでも馬鹿な子だった。でも愛おしい子だった。
ずっと前に庭の土へと返っていったあの子をもう一度抱きしめるように、ガヴェルの両手を同じ強さで握り返した。
次回は月曜10時投稿です。




