樹海の底 ②
義樹の手記①
平成八年四月
桜が散るのが早い。例年の一瞬の満ちていく感覚と長い淋しさを感じる。それだけに桜が美しすぎるからだ。ひとつひとつの花弁は白くも仄かな桃色に染まったかに見える。それが沢山集まり、大きな花となる。こじんまりとしておらず、私よりも遥かな巨大な花であるのだ。一年に一度の巨大な花を見上げる瞬間、心の底から高揚するものだ。薄っすらと桃色に染まるその白い花弁は、無垢である。その無垢を心が感じとったとき、私は自分の幼かった頃を思い出す。何も汚れなく、継母の手を引いていた。その温もりを肌で感じていた。当時、私は継母ではなく、母であると信じていた。母そのものだった。幼い私に何も情報もなく、父にとっては後妻である継母は優しく私の手を握り、頭を撫でてくれた。何も知らないことは非常によいことで、狂いのない家族と人生を信じること、未来に希望を抱くこと、健全であること、すべてが整っていたのだ。ただ、私は少し弱かったのだ。腺病質とでもいうのだろうか。よくお腹を壊し、些細なことでよく泣いた。義樹ちゃん泣かないでと継母は柔らかい声で何度となく言ったものだ。愛を確かに感じていた。
家の横の通りを幼い子供たちが通り、そこに希望を見出す自分が歳をとったのだと思いながら見つめることが多くなった。外の空気は優しくも柔らかで、冬の灰色の風景が絵の具で徐々に色づけられるように、私自身の心にも色が添えられるのだ。子供たちの声で桜の無垢な花弁の集まりが、気持ちを奮い立たせる。それは希望だろうか。六十過ぎの男が、将来の終末を見つめる時間よりも、希望を感じてしまうのだ。それに比べ、私の娘はどうだろう。春に寒い時期を耐えて飛び立つ雀たちの集団を見ると思うのだ。誰も手助けをせずに飛び立っていく鳥たちを、私の娘に重ね合わせる。大人と同じく体が成長した人間は、親元を離れて飛び立っていくものなのだ。それは鳥と一緒なのだと。あの小さな雀を見て思うのだ。それなのに、人間とはだらしがない。娘は飛び立つどころか、逆戻りを始めている。一体何を考えているのか、私には理解ができない。私が二十歳のときは、父にこれまで育ててくださり、ありがとうございましたと頭を下げ、自分の将来の道を迷いながらも歩いていったものだ。それが、あの娘はありがとうの一言も言えない。妻にたいしてもだ。小学生の頃までは素直だったと思う。しかし、少しずつずれていった。はめられないパズルのように、私たちの思いとは外れていき、私たちはそんなパズルをはめることすら諦めていったのだ。おまけに、大学を勝手に辞めてからは、妻に私の悪口を言ってるようだ。先生なんて大嫌いだと。先生やってたお父さんは子供を苛めてきたんだとありもしないことを台所で口走っているのを聞いた。私は両手で耳を塞いで慌てて二階の自室に篭ったが、なんということか。娘の情けなさに辟易し、悪とはこういうものなのだと心底思った。私が稼いで建てたこの家で、不自由のない学費も、今日食うものに困らず生活できているのは誰のおかげなのか。感謝するはずの人間に感謝もできずに暴言を吐く。我ながら情けない娘をもってしまったと思う。家族が生活できているのは私のお陰なのだ。それ以上のものはない。父親という存在は尊く、偉いのだ。私の父が医者という職業に就いた偉人であったように。父親を超えることは不可能だが、私は長年中学校の国語教師をやってきたという自負もある。私の父は近所の人間から先生と呼ばれ、頭を下げられた。道を歩けば人が道を開けてくれた。そういう偉人だった。私も父と同じように先生と呼ばれてきた。それが何がいけなかろう? 娘に嫌われるようなことなんて何もしてはいない。悪口を言われる筋合いもない。なんて理不尽なことなのだ。怒りではない。呆れているのだ。私は間違っていないことをこのノートに記そう。強く記そう、私は何ひとつ間違ってはいないのだ。
私は子供の頃から神社に連れていかれることが多かった。継母は体が強く、精神が強くなるように手を合わせないと言って聞かせた。だから、私は神社で祈った。祈っているうちに、心が神と通じ合うような気がした。
「神様が叶えてくれることってあるのよ。この世の中でうまくいかないことが沢山あっても、神様を信じたり、祈ることで物事がうまく進んでくれることってあるの」
継母はそのようなことをよく口にした。私には信じがたかったが、神社にいくと心の汚れが取れるような、清められた水で全身を洗い流されていくような快い感覚に襲われることが多かった。妻にはそんなことを言い聞かせたが、結婚当初からピンと来ないようで無頓着だった。私は理解してもらおうと、神社を巡りによく連れていったが、その度に年寄りくさいと言われた。日本に根付いている精神や巡っていく運命のようなものを神に委ねてはいけないのだろうか。妻はまだまだ私の心に近づいていないようだ。そのわりに、妻はこんなことをよく言った。
「由依はね、生命力が欠けてるの。だから、バリバリ何でも食べないの。これは神様が決めたことだから。そんな未知なものを私は少しだけ信じている」
その気はなかったが、娘が子供の頃、神社に行って神主に悩みを聞いてもらったことがある。そのときの神主は、外で妻と遊ばせていた娘を指さし、あの子ですねと言ってしばらく黙り込んだ。私は何を言うのだろうかと固唾を飲み、白髪の髭を伸ばした神主の顔をじっと見ていた。時折目を瞑り、神妙に何かを感じとっている様子だった。私は、そのとき一瞬だけ、耳に届いた無邪気に遊ぶ娘の声に愛おしさを感じた。それはそのときだけだったろう。
「……あの子はですね、あなたたちご夫婦に望まれてこの世に生まれてきたわけではなかったのです。本当なら男児でした。あなたは女の子よりも男の子を望んでいたのでしょう?」
図星だった。私の胸の鼓動は高鳴った。
「私は本当は男の子が欲しかったんです。子供は一人で充分だと思っていましたし。男の子であれば多くのことが望めると。あぁ、いえ、そういう家柄とか家系とかそういう意味です」
私はうろたえながらそう答えたのを覚えている。
「ですから、男児のような逞しさがあの子にはないのです。心も体もアンバランスなのですよ。理性的な部分は女の子にはありませんから。娘さんには、女性らしくもありながら、何か欠けて育つのではないでしょうか」
「欠けてですか? そんな欠けた子供はいりません。何とかならないでしょうか」
「一か月、毎日、神棚にガラスのコップに水を一晩供えてください。そして、翌朝、娘さんに飲ませてください。そうすれば、そんな欠けは消えていきます」
私はそれだけ聞き、解決策に安堵した。神主に一万円を包んだ和紙の封筒を差し上げ、澄み切った心で帰宅したのだ。私はすべてが解決すると思い、ガラスのコップを念入りに磨き、神棚に供えたのだ。男に生まれなかった欠けた娘の精神と肉体を健全なものにするために、神棚に供えては手を合わせたのだ。その翌朝、娘を宥めながらコップの水を飲ませた。冷たい、まずい、気持ち悪いと言って、娘は飲むのを拒んだ。その様子を見ていると、それは好転反応なのではないかと思った。けれども、娘は一度嫌がってコップを倒して水が全部零れてしまった。
「こんな水、まずいし、飲みたくない」
娘の一言でこの儀式は終わってしまった。未だに私は信じている。あそこで挫折してしまったことが今に通じているのだと。救われなかった。だから、その結果が今なのだと思う。
桜は咲く。あの水はもう戻りはせず、あの時間は取り戻せず、私は今を茫然とする。この豊かで麗しい季節の桜に敬意を払いながらも、神に祈って今後に望むのみである。誰を信じよう。羽ばたいていく鳥たちに委ねようか。娘が立派な人間に生まれ変わることを望んでやまない。
由依は昼間、自室に篭っていることが多かった。定年後週三回図書館のパートに勤めている父も、学童保育所にパートで出向く母とは社会の接点がまるで違い、顔を合わせたくなかった。何かをしていない自分を父や母が納得をするはずがなく、責められているかに感じる。義樹は言葉にして具体的なことを示唆するわけではなかったが、いつも固い表情しかなく、高圧的な雰囲気を醸し出していた。洋間のソファに座っては、ニュース番組しか見ない義樹の後ろ姿を見ると、常に世間という敵に目を光らせ、戦って生きているように思えた。
由依は田村咲と会ったことを思い出し、その時自分自身が閉じこもったトイレの中で壊れていった体と心から逃れられない恐怖を思い出した。なぜなのか。理由を拾い集めても、誰かが断言してくれないかぎり曖昧だった。冷えた美味しくないはずのドリアを平気で食べたことも、相手の機嫌を損ね、自分にぶつけてくる不快な言葉を聞いているうちに心がしだいに整っていったのも疑問だった。高校時代の友人と会って決して楽しくなかった。苦痛な食事と弾むことのない会話。どうにかやり過ごせたことでホッとした。本当は一人がいい。たった一人がいい。
由依は手鏡を取り、顔を眺めた。顔色は白っぽく黄土色のようでもあり、色白ではなかった。二重の目は大きく映ったが、退廃的にすら感じる。量の多い睫毛のせいだろうか。唇には赤みがない。肌の色と似ている。少し上を向いた鼻は丸く、不格好にしか見えない。鏡を見ると、自分をますます好きになれなくなる。芸能人に憧れているわけでもなかった。テレビに出ているタレントや女優、雑誌で思い切り笑んでいるモデルも好きではなかった。今の時代を謳歌し、恵まれた顔や体で他者と選別された世界を生き、とてもとても遠い存在で、何の接点もなかったからだ。人前で平気で笑顔を作れること自体が由依にとっては異常なことであり、繕うことの怖さしかなかった。田村咲ともそうだった。一緒にいても自分は笑顔さえ浮かべることができない。食事も満足にできない。この世から置いていかれている自分から逃げることができずにここまで生きてきたことを憎んだ。
由依は手鏡をベッドの上に置き、本棚に置いてあるアルバムを手に取ってベッドに腰かけた。由依がアルバムの中央付近に付箋を貼ってある。そこを迷いもなく、開く。妙に落ち着いていて、細い指でベッドの小さな引き出しに置かれた二重画鋲を取り出した。プラスチックのケースに入った二重画鋲は昔ながらの懐かしさを感じるものでもあった。その中からひとつだけ右手で取り、由依は開いたアルバムを見つめた。そこには並木小学校三年二組の集合写真と黒のマジックで書かれ、クラスの生徒と担任の先生が写った写真だけが貼られている。男子生徒は半ズボンで、女子生徒は膝くらいのスカート姿。クラス全員がショートカットだった。桜が咲いているこの季節に撮ったものだ。この中で一人だけ微笑んでいるのは担任の赤野美代子だけだ。四十代の女の先生。短めの髪に緩いパーマをかけ、ボルドー色の上下を着、膝下の長めのタイトスカートを穿いている。優しそうな目でこちらを見つめているようにも由依には映った。けれども、由依は容赦はしなかった。右手に持った二重画鋲で赤野美代子の顔の中央に刺したのだ。二重画鋲はぴったりとアルバムに張り付き、担任の先生の顔は隠れてしまった。由依は下唇を噛みしめ、アルバムを閉じて本棚に戻した。
「ああでもない、こうでもないって、グズだって言ったじゃん。だから私は先生の言う通り、グズになったんじゃん。よかったよ、その通りになって」
由依はぶつぶつと小声で呟き、ベッドに横になって体を丸めた。悲しくはなかった。ダムの底に落ちていくような気持ちだった。静寂で暗闇で体が楽になる感覚。ふと明日や次の瞬間の行動に希望を見出せなくなり、由依は体を起こして自室をそっと出て一階の電話が置いてある棚の下の扉を開けた。そこには薬箱が置かれている。普段使う常備薬。由依自身はほとんど飲むことはなく、義樹や和子が飲む風邪薬や解熱剤、胃薬や便秘薬などが置かれている。その中で六十錠の風邪薬を二瓶と四十錠入った解熱剤を持ちだした。どちらも飲みかけで放置されたままの薬だった。
由依はベッドの上に容器から薬を出し、剥き出しにした。両手に乗せると白い錠剤で一杯になった。
「……ほら、こんなに薬がいっぱい。いろんな希望がいっぱいつまっていて、将来もいっぱい。私には思い出もいっぱいあった……だから、もう終わりにしたいんだ」
そう勢いよく言い終わると、薬を口に一気に流し込み、そのまま力任せに飲み込んだ。そのままベッドに伏した。由依はこれですべてが終わり、すべてから解放されると思った。十五分もしないうちに由依の記憶が断片的になって薄らぎ、異様な眠りとこの世を放浪するかのような曖昧な感覚が体中を巡っていく。痛みは鈍り、考えは途切れて途端に消えていく。その後、次第に由依の体と心の感性は現実から離れいき、消失していった。
由依の耳には遠くのどこかで微かな声が聞こえていた。断片しかなかった。
「……けんちん汁は?」
「……なんでこんなことしたの?」
「……死んじゃうよ」
「……ほら、しっかり立ってよ」
「……食べなさい」
「……グズで、臆病で、気が小さくって」
「……あぁ、困らせないでって何度言えばわかるの」
脳の奥で混沌とした言葉の列が流れていく。感情もなく、なだらかな囁きでもあった。由依は死をもって脳が壊れてしまったのだと思った。ただ、そう感じている世界は生でもあるのだと同時に過った。眠くて目は開かず、言葉の断片が頭を通り過ぎていく。誰かが本当に言っているのか確認すらとれない眠りは確実に深かったはずだが、感覚は軽くも鋭くもあった。無駄に眠っている自分を由依は快く受けとめていた。それは現実に向き合わずにいる今であり、苦痛から逃れているからであった。
学童保育所から帰宅した和子は、由依にけんちん汁を作っておくように言っていたが、何もない台所のガスコンロを見て不審に思い、二階の由依の部屋へ行った。ベッドに背中を丸めて横たわった由依の体を揺すっても一向に起きようとしない。傍に薬の瓶や箱が置いてある。このまま娘は死んでしまうのではないか。瞬時に救急車を呼ぶことにしたが、受話器を握った手と声の震えはなかなか止まることはなかった。
飯能駅近くの中井病院に運ばれ、由依はベッドに寝かされては傍らの椅子に和子は黙って座り込んでいた。すっかり眠ってしまっている由依をちらりと見てはまた下を向き、ぼんやりとしてささくれだった手を互いに擦っていた。
「明日あたりになれば、目が少し開くでしょう」
和子の横に来て、若い男の医師が何食わぬ顔で言った。和子は椅子に座ったままわかりましたとだけ言い、また下を向いた。端からすると落ち着いて見えたが、和子は気が動転し、半ば放心状態だった。立ち上がって医師に礼を述べて頭を下げることも忘れていた。
そんなとき、病院についてから、職場である東京の図書館に連絡を入れてあった義樹がやってきた。病院の廊下から迷わず病室に早足で入ってきた。そして、横になっている由依の顔を見ては一言こう言った。
「よく眠っている」
その一言が由依の耳に届いた。父がいて母がいて、私は生きていることを薄っすらと目を開けてぼんやりと確認した。
「帰ろう。ここにいてもどうしょうもない」
義樹はそそくさと廊下に出ていった。和子は義樹の後を追いかける。由依は自分の元を去っていく二人の後ろ姿を見ていた。義樹は由依の存在から逃げるように、病院から逃げるように、その後ろ姿は非情で冷酷に映った。由依の目に涙が浮かんだ。死を選ぼうとした自分、生き残った自分、そして父親の背中。どれをとっても死が近く、涙が零れ落ちた。そして、そのまま不甲斐ない眠りに落ちていった。
台所のテーブルには、和子が近所のデパートで買ったおこわや焼き魚の和の弁当が並べられた。弁当を温めてもらったが、帰宅するときには僅かな温もりしか残らなかった。義樹は、弁当と割りばしが並べられ、和子が湯飲み茶碗に注いだ熱い緑茶を一通り眺め、椅子に座った。和子も黙って座り込んだ。義樹は久しぶりのたった二人の空間を子供が生まれる前の感覚に陥ったが、気持ちは晴れることはなかった。弁当を見ては、不機嫌にも割りばしを手に取って、おこわを一口勢いよく口に放り込んだ。何度も何度も噛みしめた。
「まずいもんだ。一日中保温しておいた飯なんだろう?」
和子はそうねと頷き、花の形をした茹でた人参を箸に取り、
「これ、かわいいわね。私はこんな器用じゃないし、センスないけど、お店の力ってすごいわよね」
と少し笑って言った。
「そりゃぁ、商売だから……」
義樹はそう言った後、黙り込んだ。
いつもならラジオをつけているが、食事を楽しませるような談話を二人とも聞く気もなかった。
由依と二十一年間共にし、当初の希望はどんどんと逸れていき、今は絶望となった。和子はもう嫌と口にした。そして、こう続けた。
「由依が作ったけんちん汁が食べたかったな。温かくって、無骨に切られた野菜が沢山入っていて。冷めたこんなお弁当食べなきゃいけないんだもんね……」
すると、義樹は箸をとめて和子の顔をじっと見て、眉間に皺を寄せた。
「近所の人見ていなかったか」
「え? 何を?」
和子は面食らったように驚いて声を大きくし、義樹の顔を見上げた。
「何言ってるんだ、救急車だよ。何事かってびっくりするだろう。もしかしたら俺に何かあったのかもって思うじゃないか。なぁ、見てなかったろうな?」
義樹は規則正しく喋る。事務的で感情は込められていない。和子はズレを感じたが、義樹と同じように世間の目を気にしていた。あの時は夢中で救急隊の冷静な顔しか見ていなかった。救急車がサイレンを鳴らして家に来て、由依を寝かせて連れていったという記憶しか残っていなかった。
「たぶん、見てなかったと思うけど。それに、娘に何かあったなんて思わなかったと思うわ。だって、若いんだもの。もし聞かれたら、私がちょっと胸が苦しくなったから呼んだって言うわ。検査したけど何でもなかったって……。それなら悪くないでしょ?」
「……まぁ。それにしても、なんという情けないことか」
義樹は深い溜息をついた。無意識のように、義樹は弁当の中身をつついてはどんどんと口に運んでいく。味もない、ただの生きるための餌に過ぎない。和子は、ふと由依がこの世に存在した瞬間を思い出そうとした。人間の赤ん坊をまじまじと見て初めて抱いた体験と、自分の体で育てた生命がこの世に誕生したときのことを、当時は感動したはずだ。涙を流して自然に笑顔になり、素直にかわいいと思ったものだ。だが、時の流れとともに風化していったのか、由依という娘が人格をもって一人の人間と成り立った今、その感動は消えていた。由依を見て、愛おしさやかわいさを心から感じる日常はなくなっていた。思い出せは子育ては辛いことの連続で、悩みと不安は膨れ上がり、心配ばかりで心は埋まっていった。世間に追いついていくため必死だった。後悔ではない。疲れ切っていた。希望ある年齢に絶望を選ぶ由依に戸惑い、怒りさえあった。これからどう接していいやらさっぱりわからずにいた。休まることのなかった年月に悲しくなり、和子は目に零れんばかりの涙を浮かべた。
「あの子はバカだから……。あんな子に育つはずじゃなかった、こんなになるとは思ってなかった」
悔しげに口にした。義樹は黙っては首を傾げては天井を見上げ、長い息を吐いた。
「みっともないことをしおって。子供の頃から言って聞かせたもんだがね。みっともないことはするなって、だらしない人間になるなって。よく言って聞かせていたのに。俺が担当した生徒たちは皆元気がよかったから、その度に比べていた。うちの娘は全然足りないとこばっかりだなぁって」
和子は頬を伝う涙を手で拭いとった。
「……私にはお手上げ。私には、もう……。こんなに努力してきたんだもの。私の心が折れちゃうわよ。あの子にはそれなりに尽くしてきたつもりだし、私なりの正しい指導はしてきたつもり」
「そうだな。大学入れたのに、辞めるし。おまけにこんなことしやがって。なんてみっともないことをするんだ。腹に力が入ってないからこうなるんだ。生きることの根性っていうか、そういうのが全然ない。馬力がそもそもない」
義樹はかつて自分が軟弱で腺病質であった子供時代を重ね合わせていた。自分に娘は似てしまったのだろうかと一瞬頭を過ったが、自分とは関係がなく、別の人格と身体を持ち合わせた一人の人間なのだと言い聞かせた。娘は娘、自分は自分で妻は妻だ。混沌としそうな心を正した。過去は風と一緒に去っていくものだ。この長い年月は台風のように過ぎ去っていったもので、過去は忘れねばならない。少なくとも、自分自身は不都合な過去は捨ててきたつもりだ。捨てられぬ思いはあっても、今を生きるよう努めてきたはずだった。けれども、あの娘は……。義樹は不機嫌にも口を歪めた。
「おまえの子育てがしっかりしてなかったから……」
義樹は自分のせいにしたくなく、和子になすりつけるように言った。
「何よ、あなたは何もしないくせに。逃げて逃げて、由依と向かうこともしないくせに」
和子は急に立ち上がり、三分の一しか食べていない弁当を床に放り投げた。同時に、割り箸を壁に投げつけた。湯飲み茶碗はカタンと音を立てて倒れて茶が流れた。
「何するんだ! 感情的になって」
義樹は声をあげた。和子はそのまま憔悴したように椅子にどっかりと腰掛け、下を向いた。
「喧嘩なんかしたってしょうがないじゃないか。話し合いをするくらいに冷静でなくちゃな。ほらっ、女はすぐ感情に走るんだから。娘もそうなんだ、女だから。感情的になって突っ走って行動に走るんだ。だから今回だってこんなことに……」
義樹は立ち上がり、まぁこんなことしてと文句を言いながら、散らばった弁当の中身をティッシュで拾い上げ、ごみ箱にひとつひとつ捨てていった。
「……子供をもたなきゃよかったわ。こんな思いをするくらいなら……」
和子は脱力したように小声で呟いた。
「今更何を言うか。つまらないことばっかり言うんじゃない。弁当を投げつけるくらい元気があるなら、とっとと片付けろ」
ゴミ箱に弁当を捨て、流し台のところに置いてあった布巾を水で濡らして固く絞り、床を力強く拭いた。
「ワックスが剥げるだろう。そのうちおまえだって六十になるんだ。もう少し大人らしい態度を取らないとな。子供じゃないんだから。少しのことで動揺しない。歳をとれば感情任せに行動なんてしないもんだ」
「……男と女じゃ全然違うよ」
和子は椅子に座り直し、姿勢を正した。
「……まったく」
義樹は流し台で布巾を念入りに洗って布巾を干し、和子の顔を見もせずに背を向けてはそのまま台所を後にし、洗面台の方へ向かっていった。
由依の入院は二日間のみで、三日後の朝には退院した。和子が退院の手続きをし、母親の後ろに隠れるように由依は突っ立っていた。一度死に、一度生き返ったのだ。病院の玄関から見上げた空は青く、晴れやかで綺麗に由依の目には映る。自分の心に少しの生命力が宿り、なぜだかわからず生きる気持ちが湧いた。
和子は由依に市内にある西クリニックに行くよう促した。そこは精神科だ。本当は電車で都内のクリニックに行かせたかったが、由依にその気はなさそうだし、この選択は苦肉の策だった。和子が由依から話を聞き出して説得をしても、耳を傾けるような気がしなかった。薬を多量に飲んだ理由を聞いて探ってみたところで、和子だけが感情的になり、娘の気持ちを無視してしまう予感がする。しかし、それ以上に疲弊していたのだ。してしまったことを蒸し返し、いかに命が大事かと道徳のような指導をするのは心を消耗させるだけで、他人に任せたかった。義樹も同じ気持ちだった。由依の心に触れたくない。触れずに何事もない以前の生活に戻りたいだけだった。ただ、和子の提案には納得がいっていなかった。やはり市内の精神科に行かせるのはリスクがある。和子に条件を出した。通院するには必ず帽子と伊達メガネを着用すること。長期間出入りをしないことだった。
和子は、由依に飯能駅近くの雑居ビルにある西クリニックに行ってみてはどうかと言った。
「お父さんやお母さんに話ができないことってあると思うから。医者に話してみるといいと思うの。正直に話せば聞いてくれると思うし、今何もしていないんだし、気持ちを少し整理するといいわよ」
由依はそれに従った。帽子と伊達メガネ……。父の思惑は由依にはお見通しだった。由依自身が病院に入院したことも、父は許しはしないだろう。あれから家に戻ってきても、義樹は由依に何も話しかけはしなかった。こそこそ生きることがどれだけ苦しいことか。両親の観点はずれていて、由依の視線は傾き、自分の存在を見失いながら生きるのだ。病院から出た瞬間の生への一瞬のエネルギーはいずれ消失していく。その空気がこの家にあることを、由依は薄々気づいていた。
由依は目深に被れる黒いキャスケットと、黒ぶちの伊達メガネ姿で、駅近くの雑居ビルに入り込んだ。道路に向かって三階の窓ガラスには西クリニックと大きな緑の文字で書かれている。三人ほどしか乗れないエレベーターに乗り、三階には古い美容室のようなガラスのドアが待ち構えていた。由依は速くなる心臓の鼓動を感じながら、伊達メガネを外して恐る恐る中に入った。狭い待合室には五人ほど座れるくらいの茶色の椅子には誰もおらず、受付には三十代くらいの髪の長い細身の女性が座っているだけだった。
「初診ですか?」
由依を見るなりそう言った。頷くと、保険証を渡した。すると、これを書いてほしいと問診票とボールペンを渡される。それを手にしてソファに座り、帽子を取った。初めて精神科に来たが、待合室にはオルゴールが流れて静かなものだった。問診票にはひとつひとつの質問が並んでいる。睡眠や食欲、気力……それは内科と似たものだった。一番困っていることという項目がある。由依は手を止めた。困っていることとは何であろう。一体何なのかわからなくなり、頭の中をその質問で埋め尽くした。問診票を見つめながら呼吸を整えようとしたが、心臓の音は速くなるばかりでこの場に座っている自分を受けとめきれない気持ちにさえなった。宙を見ては視点が合わない。ふとここに何しに来たのだろうという疑問さえ浮かんだ。
「一人で来たの?」
急に受付の女性の静かで柔らかな声が飛んできた。
「……はい」
由依は頼りなさげに小声で返事をした。
「……親御さんには内緒でここに来たの?」
「……いえ、そうではないです」
なぜそんなことを聞くのだろうと思った。やはり精神科の敷居は高く、帽子やメガネで変装しなければ行けない場であるのだと由依は思った。なんだか嫌になり、投げやりになった。一番困っていることの欄に『他人と一緒に食べられないこと』と書いた。これが正しいのかわからない。けれども、田村咲と過ごした時間の苦痛が強烈であったのだ。それに、自分が多量の薬を飲み込むこと以上に、恐怖に震えたことは事実であったからだ。一通り問診票の書き、受付に提出した。
しばらくぼんやりしていた。オルゴールの音を聞いていると、心臓の鼓動が少しだけ小さくなる気がした。手には薄っすらと汗を掻いた。医者がどんな人かと思うと、不安であった。怖いこと不安であること。自分の人生がそんなことだらけだったと由依は思う。それを拭うことはできず、ドキドキと胸が高鳴った。
「川西さん、診察室へどうぞ」
急にそう呼ばれ、由依はゆっくり立ち上がり、細い廊下を通って診察室と書かれた奥のドアの前に行った。ノックをして、ドアノブを握って恐る恐る中を覗いた。
「こんにちは。どうぞそこへお座りください」
医者は慣れた様子だった。緊張しているのは自分だけなのだと思いながら、何も言わずに椅子に座った。医者は問診票を見つめて黙ったままだ。
六十歳の西誠治は薄い白髪頭で体は細く骨ばっており、年齢より老けて見える。病院から独立して昨年開業したばかりで、患者は非常に少なかった。自分の年齢や風貌のせいか認知症の患者がほぼ占めたのだと思っていたが、娘のような若い患者は初めてであった。
「両親は健在……、まだ二十一歳なんですね。で、一番困っていること……他人と一緒に……食事のこと、あぁ、もしかして摂食障害?」
西誠治はぼそぼそと言い、同意を求めるように由依の顔を見た。由依はえっと顔をし、医者の顔をじっと見た。自分の父親と同じくらいの年齢だろうか。全身の神経が収縮するようだった。
「緊張するから? そういう人いますよね。人と一緒に食べるのが苦手って人ね」
「……はい、……緊張するからかもしれないです」
由依は腑に落ちないままそう答えた。当たっているようで当たっていない。由依はうまく説明もできず、また西誠治も器用に聞き出すことができずにいた。
「そうですねぇ……。緊張すると気分悪くなって食欲失う人と、逆に食欲旺盛になる人といますね。あなたは前者ですかねぇ。……うぅん、まだ若いんだなぁ。……そうですねぇ、まぁ、頓服出しましょうか。そういう場に面したら、事前に頓服薬を飲むようにしましょう。あなたみたいなタイプは、そういう薬を使って生活をうまくコントロールしていくしかないですからね」
そう言い、医者がカルテにボールペンで書いている姿を由依はじっと見ていた。由依は失望していた。頓服薬で解決するとは思えないが、それですべて解決しようとする医者。俯いて体を固くした。母に勧められてきたのに、これではと思った。西誠治はボールペンを置き、前を向いて由依の姿を見ては言った。
「あなたは少し瘦せているし、フラストレーションがあるんでしょ? カウンセリングがあるからね、今度受けてくださいな。受付で予約していってください」
由依は無表情のまま頷き、そのまま礼を言って診察室を出た。診察はこれで終わりである。釈然としないまま、由依はまた椅子に座った。心は苦しいままだった。精神科医のもとに来ても楽にはなれない。なれるはずもない。由依は理解をしていたが、ここに来て何をどうすればよいのかわからなかった。頓服薬が魔法の薬でこの自分を変身させてくれるのか。できることは自分を殺すことくらい。でも、この前失敗をした。死ぬも生きるも薬のお蔭になるのだろうか。人に見えない心が誰にも通じ合えぬことが苦しい。たとえ通じても楽ではない。由依は考えることで疲れ切った。
「川西さん」
受付で呼ばれ、由依は重い腰をあげる。言われるまま診察代を払う。ついでにカウンセリングの予約をする。処方箋などの一通りを受け取ると、受付の女性はお大事にと丁寧に言う。由依は帽子を被って伊達メガネをし、クリニックを後にしてエレベーターに乗り込んだ。相変わらず誰もいない。
受付で渡された薬局のリストが載った紙を見て、雑居ビルから一番近い薬局に行き、十回分の薬を貰って帰路につく。袋から薬を取り出すと、銀色のシートにはデパスと書かれている。これが何なのかわからない。
「……魔法の……薬」
由依は聞こえない声で呟き、邪魔な伊達メガネを乱暴に外した。
家では和子が待ち構えていた。由依が帰るがいなや、どうだった?と大きな声で言った。由依は何でもないと答え、洋間のソファに座った。
「医者と何を話したの? 何か解決した?」
和子は由依に擦り寄り、聞きたくて聞きたくてどうしようもなくて迫る。由依が膝に乗せていたショルダーバッグを奪い取った。由依は何をするのと言ったが、声には力がない。和子は何かにとりつかれたようにバッグを逆さまにして中身を全部出した。その中の薬の入った袋を手に取り、やっぱりと呆れたように言った。
「心配だったの。ほら、薬。体に悪いでしょ、こんなの飲んだら」
「頓服薬だって言ってたの。辛いときに飲みなさいって。私は緊張しやすくて、食事を人と一緒に食べられなくなるから、そのとき飲みたいと思ってる」
「……この前あんなことしたでしょ? 薬に私が信頼するわけないじゃない。由依がそうしたいなら、私が管理する。必要があるときに言ってくれれば渡すから。頓服なんでしょ、普段は飲まないの。わかった? 薬貰うために医者に行かせたわけじゃないのにね」
「……カウンセリングの予約したから」
由依がそう言うと、和子の態度は一変し、よかったじゃないと希望を見出したかに声を明るくした。
「しっかりカウンセラーと話をして、心を整えるの。わかった?」
由依は頷いた。そうするしかなかった。自分が望んだことではない。偶然そういう流れになっただけだ。傍らでよかったと何度も言う母親の顔を見ると何も言えない。これが正しかったのだろうと思った。




