静止軌道上の殺し屋
過去に「即興で物語を作る」という題でしゃべった話を大幅に増補して小説にしたものです。
<注意!>
やや過激な言動、行動、被害の描写がみられるので、モラル・ハラスメント耐性の低い方、過去に虐待やモラル・ハラスメントを受けていた方は、十分にその点を留意して読むかどうか決めてください。途中で読むのをやめるか、途中を読み飛ばすのも選択肢に入れてください。
「廉路を、殺してください」
東京都新宿区、某所。
汚い雑居ビルの一室で、妙齢の女性が恨みつらみの籠った声を吐いた。彼女の前には、低反発の黒いソファにどっしり構えたやや長髪の男が、彼女を見据えて座っている。
「了解いたしました。この度はご依頼ありがとうございます」
殺人、という常軌を逸した依頼がさも普通のお願いであるかのように、男は僅かに笑みらしき表情を浮かべて礼を言った。一人の人生を途中で断ち切ることに何の躊躇もないかのようである。
「依頼の人物は、東京都新宿区█████████在住の、大宏池廉路ですね?」と彼は念押しする。
「ええ、そうです──あいつです」
彼女が顔を怒りに歪ませて返答する間に、男は少しの音も立てず茶を飲む。男と廉路は全く面識がなく、廉路は男の存在すら知らないが、しかし男は廉路の全てを「見透かし」て、知り得ていた。
本来、彼女はその事実に驚愕すべきだろうが、あまりに憤激が大きいためかそうはせず、怒りの表情のままソファに座り直した。
「殺害方法はどういたしましょう。我々は依頼されればさまざまな手段で目的の人間を『消す』ことができますが。刺殺、毒殺、絞殺、殴殺、銃殺などですね、しかしそういった方法では確実性に劣りますし、何よりあなたに莫大な追加料金を支払わせることになります。我々が所持する人工衛星からの爆発式荷電粒子砲――すなわち、着弾時に爆発する性質を持つビーム砲――による狙撃であれば、非常に確実ですし、料金も高くなりませんから、おすすめですがいかがでしょう」
男は眉も上げずに殺害方法について流暢に話した。時々、手振りが加わった。
「では、それでお願いします。確実なんですよね?」
「問題ありません。コンマ秒を超えた精密角度での狙撃ですから、爆発と高熱によって確実に標的を破壊できます。では荷電粒子砲でよろしいですね?」
「はい。ただ、ヤツには消えて欲しいだけなので……」
彼女に沸き立つ憤怒の表情の中に、微かな諦念と悲哀が混ざる。
「了解いたしました。次は殺害の時刻について伺います。──失礼」
男は一旦腰を上げ、ソファと躯体に挟まれていたズボンの生地を引っ張り出した。
「通勤時でお願いします。いつも8時22分発の列車に乗っています」
「通勤時でよろしいですね?」
二度目の念押し。
「はい。通勤時に死ねるなら、あいつも悪い気はしないでしょうから」
彼女は怒りを緩め、呟くように言った。
「了解いたしました。最後に、理由について伺います。我々は、特に理由のない快楽殺人の代理は、いたしておりませんので」
男の問いを聞き、彼女の表情は一転した。
単なる怒りを超越した憎悪、怨嗟、怨憤、悲哀、諦念……、あらゆる負の感情を混ぜこぜにして一気に出力したかのような、とにかく形容することすらし難いほどのどす黒い感情に顔を歪めた。
彼女がダン、とテーブルを叩く。振動によって茶が揺れる。
男は何も反応しなかった。
「……あのクソ地蔵、いや、ゴミの置物めがッ……!」
彼女は口を開く。女性とは考えられないほど、低く、喉を掠らせるような声を以って。
「とにかく酷いんだよ‼︎ ろくに家事もせず、鷹夫の世話もせず、ふんぞり返って『俺の役目は仕事』だァ⁉︎ なにほざいとるんじゃボゲナスめがァッ‼︎!」
こうなるともう止まらない。決潰したダムが、水の流れ切るまで滝が如く水を吐き続けるのと同じく、彼女の怒りが吐き切られるまで、この独言が止まることはないのである。
「紙一枚書くまではあんなに良い人だと思ってたのに、ドレス着た後はこうや!」
彼女は拳を振り上げ、テーブルに叩きつける寸前でなんとか静止した。
「家事もする、子供が生まれたら一緒に育てよう、そんなことを言ってたのに……。できたころから変わった、変わってもうた。悪阻やのに『辛そうなふりすんな』? 『俺のメシは?』? 何言うとるねん私の気持ちも考えんでさぁ!」
彼女の喋りが関西弁に変わっていく。口の端に泡立った唾が立つ。
「産む時もなんじゃお前は、なあ⁉︎ 次の日には仕事に行きやがって。顔見てすぐ帰ったんや。鷹夫が39℃出したときも、心配するふりだけして寝て何しとんねんっちゅう話や! 死んだらどないするつもりやったんじゃ‼︎ 」
ここにいない夫への罵詈雑言を散らす彼女を前にして、男は表情ひとつ変えず、ずっと前方に顔を向け続けている。
「ああ、私に対してだけモラハラするんやったらまだええねん。でも、でも、鷹夫にまで手ェ出しやがったんや‼︎‼︎ あいつは! 鷹夫が寝込んでるのに看病もせんかったし、心配もせんかった。しまいにはハエ叩きや! あんなん人間に使うもんちゃうやろがァわかっとんのかボゲナスが!!! もう言いきれんくらいクズ、ゴミ、カス……どんな言葉使うても足りん。許せん、許せん、許せん、許さん」
ここまで言うと、彼女は風船が萎んでいくかのように怒気を弱らせ、ぐったりと俯いてしまった。ようやく自分の話す番が回ってきた男が口を開く。
「なるほど。理由は『モラル・ハラスメント及び虐待』のようですね。我々が行動するに充分な理由です」
あれほど感情を露わにした彼女とは極めて対照的に、彼は非常に事務的な口調で話す。
「いいでしょう。代理殺人を引き受けます」
俯いていた女性が、顔を上げた。
「本当ですか⁉︎」
「当然。では再確認──」
「本当なんですね? 本当なんですね?」
話を遮り、彼女は立ち上がって男に迫る。
「……落ち着いて。お座りください」
微笑をたたえ、彼女は座り直す。
「では、再確認を行います。これから言う内容に間違いがなければ、『はい』と、間違いがあれば『いいえ』など言ってください」
男は感情のない声で告げた。「はい」と、彼女は返す。
「対象、大宏池廉路、東京都新宿区█████████在住」
「はい」
「殺害方法、爆発式荷電粒子砲による狙撃」
「はい」
「殺害日時、20██年9月22日午前8時から8時35分の間」
「はい」
「殺害の動機、モラルハラスメント及び子息への虐待」
「……はい」
一通り確認が終わった後、男はしばらく虚空で手を動かしていた。入力作業である。彼は数秒ののち、女性に向き直る。
「手続きはこれで終わりとなります。この度のご依頼、ありがとうございます。料金の振込先は、後でお伝えします」
「わかりました」
「殺害が遂行できた際の報告は何でいたしましょうか?」
「電話で」
「了解いたしました」
男が再び虚空に手を出す。そして彼女に向き直って口を開く。
「それでは、打ち合わせが終了しましたのでご退室ください。料金のお振込みだけは確実になさいますよう」
ここに至ってなお、男の口調は社交辞令的であること極まりなかった。女性はカバンを持ち、ソファから立ち上がった。
「本当に、ありがとうございました!」
女性が今までに見せなかった満面の笑みで男に感謝する。そしてくるりと向きを変えると、そのまま出口の方へ歩いていく。
「よい人生をお送りくださいませ」
彼女がドアノブに手をかけたその時、男が声を掛けた。彼の顔には、事務的ではない微笑みが浮かんでいるらしかった。
彼女は会釈だけして、重厚で冷たい鋼鉄製の扉を開け、部屋を出て行った。
午後5時13分。
東京の街は、不気味に赤く光る斜陽に照らされている。耳を澄ませば太陽の沈む重低音まで聞こえてきそうなくらいである。
女性の帰り道は、快くしかし憂鬱であった。明日あいつは死ぬ。でも今日は生きている。人の生き死にを自分が決定する重みは、いまのところ麻痺していていまいち実感できない。
近所のスーパーマーケットで夕食の材料を買い、彼女は玄関の扉を開けた。
「遅かったな、玲那。どこ行ってた?」
両肩を揺らしながら、夫、廉路が歩いてくる。彼の眉間には、V字谷のごとく深く険しい皺が三本刻まれている。唇は前へ突っ張っており、怒りと脅しで人生を進めてきた彼の生き様を感じさせる。
「友達とカフェ。晩御飯作るからね」
「おう。早くしてくれよ」
明日を楽しみにするばかり少し声が上ずる。しかし廉路は気づかない。彼は肩を揺さぶりながら歩き、廊下の向こうへと消えた。
廉路はテーブル前に座ると、息子の宿題を手伝い始めた。彼が言うには「リッパな家事」である。
「分数の割り算分かるか?」
「まだ……」
「逆にして割るだけやろが。なんでできないんや? やってみんか」
威圧的な彼の態度に、息子の鷹夫は怯えているように見える。
それをカウンター越しに見つつ、女性──大宏池玲那は心中嘆息しながら夕食の準備に取り掛かる。夕食作りはいつも彼女の仕事だ。結婚してから夫が料理したのは両手で数え切れるほどしかない。
今日の夕食は唐揚げと餃子、チャーハンである。彼女は買ってきた鶏肉をまな板の上で切り始めた。雑菌を嫌う彼女は、肉を切る時にはいつも使い捨て手袋を付けることにしている。
一時間以上が経過した。
「はい晩ご飯できたわよ〜」
玲那は声を上げながら両手で皿を持ち、夕食の合図を告げる。それにもかかわらず廉路は、ソファーにしだらなく寝転がり、スマートフォンで低俗なグラビアを見たりゲームをしたりしている。彼女の声が聞こえても、その態度は相変わらずであった。
「お父さん、ごはんできてるよ」と鷹夫が彼の体を揺さぶり、ようやく廉路は立ち上がった。「あーわかったよ、ッたく」という悪態つきで、だが。
彼は皿を運ぶことも、箸を持っていくこともせず、背もたれに姿勢悪く首の近傍をもたれかけさせながら座ってスマートフォンをいじっている。
その両脚は激しく上下に振動している。貧乏揺すりである。テーブル上のティッシュ箱が、小刻みに震動する。
玲那は数分かけて一人で皿とコップと箸を食卓まで持って行かざるを得なかった。これが恐らく異常なのだろうということは彼女にも分かっていたが、だからといって廉路に手伝ってもらうわけにはいかない。
1年半前に「晩ご飯ができた時に皿を運んで」と頼んだところ、廉路が「ふざけるな」「家事はお前の仕事だ」「そんな生意気なことは俺より稼いでから言えや」などと激昂し、散々暴言を吐かれ、しまいには皿をはたき落とされた苦い経験があるためである(その皿は彼女が10年以上使っていたお気に入りの品だったのだが)。
あれ以来、家事を手伝うように頼んだことはない。
コップに麦茶をなみなみと注ぎ、玲那はようやく椅子に座ることができた。ふうと息をつく。
「いただきます!」
「いただきます」
「ぃただきまー」
バラバラながら皆が「いただきます」を言い、夕食が始まった。
「餃子うまい!」
「お前は料理はいいよな~」
子と夫に料理を褒められる。悪い気はしない。彼と関係を断とうとする決心は、いつも我が子の存在と料理への称賛で壊されてきたのだ。そしていつも後悔してきたのである。
大宏池家の食事は速い。30分弱もあれば全員食べ終わってしまう。食べ終わってからの後処理は、玲那の仕事である。皿運び、テーブル拭き、食器洗い。
これらをすべて一人でこなしつつ、しかも風呂を沸かし少々の洗濯までこなさなければならぬ。相当な負担である。食器洗いを終えた彼女の手には、痛々しい皹が刻まれていることがしばしばである。水絆創膏は、彼女にとって必要不可欠の品であった。
「なんで外すんだよバカかよ竹座!」
「なんでお前が打ってんだよボケ!!」
こうして彼女があくせく働いている間にも、康路はしだらなくソファーにぐたりかかってテレビを見ている。野球の観戦であろう。相手チームがヒットを打つたびに眉間の峡谷がさらに深くなり、怒号が家に響く。
この日の夜はあっさりと過ぎた。明日死人になる人間が数メートル以内にいるのにもかかわらず、彼女の同情心は湧かない。当たり前である。
寝る前にシーツを整えねばならない。彼女のストレスの一因だが、しなければ夫が憤激するので、仕方なくやる。
「おやすみなさい」
「やすみー」
いつもどおりの挨拶を交わし、ふたりは眠りに入る。
20██年9月22日、午前3時。
新宿区某所。
男は雑居ビルの一室で、十数のパネルを前に確認作業を行っていた。
「午前8時から8時35分ならば、衛星"丁"が適当だろう」
そう考えながら、彼はアフガニスタンの首都、カブール付近の上空にある静止衛星を指定した。
鋼鉄製の衛星は丸い。狙撃砲のための発電装置のためである。わずか直径12mほどの装置が数千万キロワットもの電力を発生させられる仕組みは、未だ現代科学の埒外にあるが、とにかく衛星が上空3万6千キロメートルの高空から地上まで威力ある荷電粒子の塊を放つことができることは事実である。
男がプラスチック製のカバーの下にあるボタンを押す。ビル上のアンテナから直線状に飛ぶ強力な電波が放出され、衛星"丁"がこれを受信した。光の速度で飛ぶ電波は、迅速に情報を伝えた。
衛星から長さ30cmほどの突起が生じ、充電が開始される。5時間もあれば、充分に殺害できるほどの光線を放つことができるだろう。
最後に男は威力調節を行った。衛星に備え付けられた、120cm収束荷電粒子狙撃砲の威力は、1.から10.まで調整できる仕様である。1.であればせいぜい肌が火傷する程度であるが、10.であれば光の強熱で半径500m以内の全建築物を破壊できるほどになる。
しかし、男は威力調節にあまり気を払わなかった。とりあえず狙いが外れたときのため、臨時に7.を入力し、休息することにした。
同日、午前7時10分。
黎明の陽は揚々と初秋の青空に登り、その光は東亜の地に朝の訪れを告げていた。低めの位置から射す陽光は、地面の凹凸をより強調させている。
空には多少の雲があるが、太陽を邪魔するほどではなく、うまく空のアクセントとして機能しているようだ。
東京都の気温は20.7℃。外出には快適な気温であろう。
「うぉおお~~ぁ」と情けない大あくびを上げながら、康路が起床する。玲那はその30分以上前にはすでに起きているのだが、彼はそれを当然のことと考えており、早起きに労いの言葉をかけたりはしない。
顔を軽く洗い、パジャマ姿のまま彼はリビングまで下りた。ソファーまで歩くと、姿勢悪く座ってすぐにテレビのスイッチを切り替えた。彼の数メートル左には朝食をせっせと作る妻がいるのにもかかわらず、一瞥もしない。
このふてぶてしい態度は、普段の玲那ならば不快に思うところだろうが、今日は違う。
今日は夫の命日になる。悪の死をどうして喜ばないであろうか。今日こそ報いの時なのだ。
彼女はそんな気分で卵をフライパンに落とす。しかし鈍感な康路は気づかない。言うまでもなく、精神の昂ぶりで彼女が3時間しか寝られなかったがゆえ、彼女が今猛烈な眠気を感じていることも。
朝食を作り終わるくらいに、ちょうど鷹夫もやってきた。
皿運びは、いつもどおり玲那の役目である。皿は普段より軽く感じられた。
卵焼き、味噌汁、サラダ、焼き鮭、白飯。
「いただきます」
夫にとっては、最後の晩餐……ならぬ朝餐である。それが二十年近く寄り添ってきた妻の手料理であるというのだから、奴は感謝せねばならないだろう。
目の前の人間が、お前の命日を作ったんだ。そんな心持ちで彼女は夫を凝視する。もちろん、彼はわかる由もない。ただ単に首を傾げて訝しむのみ。
結局、康路が殺害計画に勘づくことはなかった。当然ではあるが。
午前7時55分。
康路は出勤の準備を整えた。整えられた髪の下に、すっかり三角となった両目と、その間に刻まれた皺が影を映す。
カバンは所々に傷や凹みが見られ、粗暴な彼の性格を象徴しているようだ。革靴も、かかとの部分に履き潰した跡がある。
何が気に食わないのか、足音を立てながら彼は玄関に向かって歩く。その後を、玲那は少し早足に追う。
あくまでも、平静は保たなければならない。
革靴を履き終え、腰を上げようとしている康路に、彼女はいつもどおり声をかける。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
不安と期待の入り交じるあまり、少し声が上ずってしまった。
「あぁ」
低い声で一言だけ返し、それからドアを蹴り飛ばしながら開け、彼は家を出ていった。
もう、二度と、康路が家に戻ってくることはないだろう。
安堵と悲しみが交雑し、彼女はその場に座り込んでしまった。間接的にであれ、人を殺めることへの恐怖。夫の独裁的支配から逃れられる安寧。先程までの陽気さ(異常な精神的高揚とでも呼ぶべきか)は、どこかへ失せてしまったようだ。
ひどくアンビバレントである。
後ろから息子の鷹夫がやってきて、「ママどうしたの?」と心配げに声をかけてくる。
彼女は「大丈夫」と答えるのが精一杯であった。
午前8時。
新宿区某所では、男が発射の最終確認を行っていた。
120cm収束光線狙撃砲の充電は既に完了し、いつでも発射できる状態になっている。
日本の上空を周回する衛星"丁"が、太陽光を受けて銀白色に光り輝く。"丁"から見える地球は、大気により縁がぼやけ、青みがかかっている。美しい光景である。
「対象、東京都新宿区█████████、大宏池廉路」
念のため、男は声を上げて確認作業を進める。彼は康路のことを「見透かし」てある程度の位置は把握していたが、一メートル単位での特定はできない。
今でも、廉路が横断歩道の前で止まっているのがわかる。おそらく、信号待ちか。
彼は女性の意志により命を奪われる男性のことを矮小だと思った。
「あのー……」
「実行時刻は……」
「あのー、すみません!」
扉の向こうから声が聞こえる。新たな依頼人らしい。
こんな時に依頼など面倒であるが、対応しなければ仕事がなくなって自分が困る。経済的理由により、彼は応対することにした。
即席で服と髪を整え、微笑を顔に貼り付け、男は客人の前に出た。
「いらっしゃいませ。本日は何のご用でしょうか」
午前8時21分。
高円寺駅、プラットフォーム。
通勤ラッシュの真っただ中ということもあり、駅は人で埋め尽くされている。
その一人が、大宏池廉路である。
もともと混雑が嫌いな彼の表情は、恐ろしく不機嫌そうな顔をして、列車の到着を待つ。
まもなく、接近放送とともに列車がホームに滑り込んできた。車輌の中には、既に多くの人々が奴隷船に詰められた奴隷の如く押し込められている。
扉が開くと同時に、十数人が扉から出てきた。そのうちの一人が康路の腕にぶつかった。
彼はすかさず眉間の谷を深め、舌打ちの音を鳴らす。その音は、確実にぶつかった人に聞こえているだろう。
列車の中に入ると、彼は安定した奥のほうへ行ける空間を探る。「邪魔なんだよ」という心の声は、いつの間にか物理的な音波となって舌打ちとともに放出されていた。
周囲の人々は面倒な人がいると感じるだけで、何もしない。
一方、大宏池玲那は全く落ち着かないでいた。
連絡はいつ来るのか? 夫は本当に死ぬのか? 死んでしまうのか? 私は殺人者になるのか?
心拍は速く、スマートフォンを握りしめる手には汗が浮かぶ。動いていなければ気がどうにかなりそうである。
せめて賑わいがあれば、という思いでつけたテレビは、ただニュースを流すだけで、その音は彼女の耳には入らない。
鷹夫が学校に行った今、家にいるのは彼女一人であった。
錯乱した心情の大海に、多少の憐憫の情が浮かんできた。その直後、爽快感が浮上し、憐憫の情を押しのける。かと思えば今度は不安、憂慮。
脈打つ心臓を抑えるかのように、彼女は胸に手を当てた。
「よい人生をお送りくださいませ」
男が代理殺人の打ち合わせを終えた頃には、時計の針は8時28分を指していた。もう必要ではなくなった「事務的ではない微笑み」を顔から取り外し、男は少し急いで操作室へ戻る。
「実行時刻……8時30分」
8時30分といえば、列車が新宿駅に到着するころである。そんな場所に荷電粒子砲――それも爆発式の――を放てば、どうなるかは火を見るより明らかであろう。
しかし、男は8時30分を実行時刻に設定した。
男には、殺人に無辜の人間が巻き込まれることを、哀れとか人倫に反するとかと感じる心がまるで欠落していた。
ゆえに、男は康路を、人の密集した地で殺すことに何の躊躇も持たなかった。
「威力……7.」
電車が動いているかもしれない、という理由で、彼は7.というかなりの高威力を設定した。
「……よし」
独り頷き、男はとうとう殺害を行うことにした。
「荷電粒子砲、発射準備」
声を出し、指差しで確認しながら、彼は足元のレバーを踏んで下ろした。まもなくして赤く丸いボタンが、操作盤の丸穴を埋めるかのように浮上してくる。
安全装置であろうか、ボタンはプラスチック製の蓋で覆われている。男はそれを手で丁寧に取り除くと、ためらうことなくボタンを深く押し込んだ。
ビー、ビーとブザー音が鳴り響く。
関東上空に浮かぶ衛星"丁"の先端部分が開き、そこから円柱状の砲身が姿を表した。もし衛星の周りに空気があったなら、間違いなく金属が打ち鳴らす重低音が響いていたであろう。
砲身は自動で微調整を繰り返し、ちょうど新宿駅に粒子が直撃するように向きを調整する。
超大容量蓄電機から光線収束装置へと電力が送られ、電気が砲用エネルギーへと転換されていく。
装置内で、電気の柱が無数に立ち昇る。
9100万キロワットの大電力は、果たして収束した光線へと変換された。
砲口が真紅の輝きを増していく。
そして、8時30分53秒、コンマ27。
「発射」
男が声を上げ、同時に砲身から日本の半日分の電力を込められた光束が射出される。
燦爛たる、赫然たる、眩いばかりの光。
強烈という言葉では言い表せないほどの超高エネルギーの塊は、新宿駅中央線のホームに止まろうとする列車を、亜光速で確実に貫徹した。
瞬間、列車の周囲33mにある全てが融解し、蒸発し、気体となった。1〜3番車にいた乗客と運転手の全ては、知覚する暇も与えられないままに蛋白質と炭水化物と脂肪、そして水分を蒸発せしめられた。康路も、気化した物体の一つであった。
大宏池康路、死亡。享年41。
しかし、荷電粒子砲は康路を殺すのみでは終わらなかった。
むしろ、それは始まりに過ぎなかった。
続いて電車を貫いた粒子が強烈な勢いで拡散することにより、周囲の空気が押しのけられ爆風へと転じた。
その圧力、1.85kgf/cm²。木造家屋を倒壊させるには充分な風圧である。
そして不幸にも、新宿駅の周りには商業建築物が多かった。
高層建築物の壁面に張り巡らされた窓ガラスが粉砕され、一部は室内へ、大部分は豪雨のごとく地表へ降り注ぐ。地表の人々は反応する暇もなく爆風とガラスに襲われ、全身を火傷しながら体中をガラス片でズタズタにされる憂き目に遭った。
爆風の衝撃で、数千人の人々が鼓膜を破られ、眼底の毛細血管をちぎられた。内臓も傷つくか、あるいは破裂している。
壁や床、天井にまで血飛沫が舞う。高熱で料理店のガスが引火し、バスタ新宿の内部で次々とガス爆発が起こる。
新宿駅に集まる十数本の線路が玩具のごとくひしゃげ、数万のバラストが吹き飛んでいく。音を抑えるための石の数々は、この場ではかえってガラスを破ったり、車にぶつかったりして轟音を立てることとなった。
混雑しきった新宿駅のホームやコンコースは、突如として尋常でない熱気に包まれ、熱傷を負うか即死するかした人々で埋め尽くされた。車輛に閉じ込められている人々は、脱出することすらできずに爆風の発する熱に体中を焼かれることとなった。
人々は、何が起きているのかもわからず、戸惑い、声にならない悲鳴を上げながら負傷するか死亡していった。
遺体の一部は、あまりの熱によって木々や衣服もろとも自然発火し、黒炭へと変貌していく。
大気中の空気分子によって散乱させられた――それでいて未だ極めて強力な粒子砲の光が、空を見上げていた数千人の網膜を焼き払った。
そして、さらなる不幸が東京の人々を襲う。
衛星の砲身が、ほんの僅かに動いた。些細な誤作動である。
しかしながら、3万6千キロという長距離を通じて、その動きは大きな動きへと変わる。
緩慢に動き出した紅い光が、バスタ新宿を切断した後、新宿ミライナタワーをも真っ二つに切り裂いたのである。それはまるで、ケーキに包丁を入れたかのようであった。
荷電粒子砲の威力が少し弱まっていたこともあり、ビルは瞬時に蒸発しはしなかった。
自重に耐えきれなくなったビルの一部分は、鉄筋コンクリートの悲鳴を上げながら、ゆっくり、ゆっくりと滑り落ちていき、やがて新宿高島屋のビルディングに降り注いだ。
高島屋の屋上は鉄とコンクリートの塊が落ちてきた衝撃に耐えきれずに潰れた。屋上に乗っかりきらなかった一部が地上へと落下し、数十人を死へ至らしめながら朦々たる土煙を上げた。
ここにきてようやく周囲の人々も状況を把握し始めた。といっても、「何かとんでもないことが起きている、どうしよう」といった程度の、非常に粗雑で曖昧なものである。
まさか、天空から粒子の奔流が降ってきたなど、想像もできない。
真紅の光が、新宿繁華街の建築物を人ごと融かして切っていく。時を同じくして爆風と高熱が発生し、光束の直撃を免れた物体や人間を破壊し、吹き飛ばしていく。
プラスチックが液体と化し、衣服やカーテンが炎を上げ、鉄筋が融解して歪む。
光が穿った穴から都市ガスが猛烈な勢いで噴出し、まもなく周囲の熱に煽られて誘爆。爆炎が地に敷き詰められた煉瓦を焦がしながら、かろうじて生きていた人々を焼殺する。
光は靖国通りを超え、とうとう歌舞伎町にまで達した。深々と穿たれた地面の穴の周りにあった車輛や生物は為すすべもなく融けるか飛ばされるかし、コンビニの中にある品物が地面へと落下する。
ユニカビジョンの液晶が、風圧で粉砕される。わずかに残った液晶には、もう何も映らない。
それでも飽き足らなかったのか、天誅の光芒はまだ止まらなかった。
大ガードを熔鉄の塊へと変貌させ、光は西新宿の超高層ビル群を次々と切り裂いた。
新宿エルタワー、新宿野村ビルディング、新宿センタービル、新宿住友ビル……。
切られた部分は重みに耐えきれず、切断面を滅茶苦茶に破壊しながらずり落ちる。
数千億円の資産が瓦礫と化し、人命がどしどしと失われていく様は、もはや爽快ですらあった。
いよいよ都庁ビルに光線が達しようとした、そのすんでのところで、ようやく衛星の電力が無くなり、光は止まった。
しかし、それはあまりにも遅すぎた。
融けた後に再び固まったコンクリートとアスファルト。右半身を瓦礫に叩き潰されたヒトの遺体。砕けたレンガの一片。消えた電燈、歪んだ支柱、朦々と黒煙を吐く商業施設。燃え盛る植え込みとビル。
サイレンを鳴らして駆けつける救急車と消防車。ベビーカーの中にいる子を庇うようにして斃れている、黒炭と化した女性。
後に残ったのは、中心部を熱に蹂躙されて、電気を失った副都心。
結果、8時34分までに6万人以上の死傷者が出た。経済的被害については、算出不能であった。
遠望カメラが映す惨たらしい現状を見ても、男は何ら後悔も自責の念も持たなかった。職務に忠実に行動し、目的の人間を殺すことができたのだから、何も反省する点はない。
殺害は終わったのだ。
一種すがすがしい気分をもって、彼は通話履歴から大宏池の名を見つけ出した。この殺人者は受話器のマークをタップし、そして機械的な調子で発声するのであった。
「こんにちは。お客様、報告がございます」
お読みいただきありがとうございました。
妻が激昂するシーンは自分でも読むのがつらいです。この部分を読んだ皆様に心の傷が残らないことを祈念いたします。