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君が忘れたもの

作者: 近藤京

■第一章 ─ 再会

■第二章 ─ 思い出

■第三章 ─ 事件

■最終章 ─ 君が忘れたもの


●第一章 ─ 再会


 緑が茂る真夏の神社。酷暑が引いていく夕暮れ時に降り注ぐ蝉の鳴き声は未だ止まない。

 近くを流れる川のせせらぎも、幸せを呼び込む小鳥の囀りも、神社の階段に腰を掛ける遊助の元には届かなかった。

 今日を生きるために、毎日の仕事に精神をすり減らす。あまりの忙しさに、磨耗した精神を回復させる時間もとれず、カレンダーの日付を見るたびに自分の命が刻一刻と削られていく気がする。

 遊助は額の汗を拭った。

 ここの神社は夏になると毎年お祭りで露店が立ち並ぶ。幼い頃は友達とよく来たものだ。綿菓子の甘い香りに、焼きとうもろこしの香ばしい匂い。和太鼓や篠笛の音。ネオンカラーに光るヨーヨーをぶら下げて親と歩く幼女。石段に腰をかけている浴衣の女子をまじまじと見ながら、どきりと胸が波を打つ。

 飛んで日にいる夏の虫ではないが、真夏の夜に煌々と輝く妖艶な光に連れられ、遊助は夏祭りを全身に享受するのであった。

 遊助の手の甲にポツリと汗が一粒滴る。

 かつての思い出は今や朧げながらにしか思い出すことができない。何か大切なことを忘れている気がして、しかし、それが何なのか思い出すことができず判然としない。

 暑さにやられ頭をもたげる。

「遊助!」

 ふと名前を呼ばれた遊助は、鉛のように重くなった頭を持ち上げると、目の前に一人の女性が立ってるのに気がついた。

 それは、遊助の初恋相手、みきだった。

「久しぶり!」

 溌剌としたみきの声を聞くと、真夏特有の粘性のある空気が浄化されていくようだ。

「よく俺だってわかったね」

「そりゃあ私の初恋相手だし」

 そう言ってみきは遊助の隣に座った。

 遊助は多少赤面したが、少しも恥ずかしそうにしない彼女の横顔を見ると、もっと耳が暑くなった。

「暑いね」

「暑いな」

 じじじと鳴くアブラゼミの声が二人をにわかに包み込む。

「いつ戻ってきたの?」

束の間の沈黙を切り裂いてみきが問うた。

「一週間くらい前」

「お仕事のおやすみ?」

 遊助は一瞬躊躇ったが、そう、と淡白に答えた。

「連絡してよー」

「連絡先知らないし」

「あはは、そっかあ。それもそうだね」

 他愛もないやりとりがなんだか懐かしい。こんな、何の生産性ももたらすことのない会話を最後にしたのはいつだろうか。

 空虚な会話が遊助の心を満たした。

「ちょっと、神社の境内を探索しようよ」

 みきが前のめりになり遊助の顔を覗き込んだ。

「え?まあいいけど。そんな見るようなところ無くない?」

「いいや。いっぱいあるよ!」

 みきは楽しそうにいった。

 その笑顔を見て、遊助は、あみだくじの線を辿るように、かつての記憶を、微量にではあるものの、ゆっくりとなぞり始めたのだった。


● 第二章 ─ 思い出


「ここの軒下に猫が捨てられてたよねー」

 みきが指さす軒下には地元の不良が溜まり場にしていたのであろうペットボトル、酒缶、タバコの吸い殻などの廃棄物が散乱していた。

「そんなこともあったな」

 遊助はしゃがんで中をのぞいた。奥に続く暗闇から冷風がびゅうと吹き荒み、遊助は身震いした。

「あの猫、どうなったかなあ」

「結局引き取り手が見つからなくて自治体に任せたんだよね」

「やっぱり保健所で殺されちゃうのかな」

 もの悲しそうに言うみきに遊助は何て声を掛ければいいのかわからなかった。

 その後もみきと遊助は境内の至るところをまわり、思い出を共有しあった。

 親には内緒で神社本殿の裏で花火をしたこと。そのときに健介ことケンちゃんが火遊びをして危うく神社一帯を燃やしそうになった。たまたま巡回していたPTAの人がそれを見つけ事なきを得たが、周囲の大人からはこっぴどく叱られた。

 夏休みの自由研究の一環で生き物採集もした。木を蹴飛ばせば、その衝撃でカブトムシがびっくりして落ちてくるときいていたから、実際にやってみると、落ちてきたのは毛虫だった。それも運悪くちょうどみきの肩に乗ってしまったから、彼女は泣くわ喚くわで自由研究どころではなくなってしまった。

 神社でもあり遊び場でもあったこの場所は遊助らを見守り続けた一つの聖域なのだ。何も無いなんてことはない。子どもは何も無くても何かを見出す不思議な力がある。

 「あー。昔に戻った気分」

 みきが伸びをする。

 二人を覗き込むようにして屹立するくぬぎの木が上の方で騒がしく葉擦れの音を立てる。緑が揺れるその様を見て遊助は自然の雄大さに畏怖感を覚える。

 遊助はみきから視線を逸らし、横を流れる川にその目を移した。緑を反射させる水面に線を引く流れを眺めると、内に溜め込んだどす黒い粘性の物質が洗い流される感じがする。体の熱を逃がしたい欲求もあり、その清冽な清流に身を投じたい衝動に駆られる。

「昔、小学六年生の女の子が流されたんだよね」

 みきがふいに呟いた。その横顔は雪女みたいに白かった。

「遊助がこの街を引っ越した後の出来事だったよ」

「そうだったんだ」

 その子か助かったかどうか聞こうとしたのだが、なぜだか聞く勇気が出ない。もしかしたら聞きたいくないのかもしれない。

「死んじゃったんだって」

 みきの答えは、遊助の望んだものであり同時に望んだものでもなかった。

 遊助の頬を一縷の汗が伝う。その感覚はひどく鋭敏かつ不快で一匹の羽虫が這いずり回っているようだった。

「何かを取ろうとしたみたいで。でも足を滑らせて落ちちゃったみたい」

 蝉時雨がノイズのように耳を劈き頭を揺さぶる。

「その前の晩は雨が降っててさ、地面がぬかるんでいたんだよ」

 蝉時雨と川のせせらぎが混じり合う。どっちがどっちの音だかわからない。

「夏の雨って嫌だよね。ほとんどがゲリラ豪雨じゃん」

 きっと川の流れも速くなっていたに違いない。

「そういえばさ、遊助と約束したよね。ホタルの観察を自由研究にしようって。ホタルは綺麗な場所にしか住めない。ホタルが見れるこの神社についてもまとめて発表しようって」

 そうだ、と遊助は思い出した。


■第三章 ─ 事件


 夏の昼下がり、初めてホタルをテレビで見た時あまりの美しさに感動した。どうしても生で見たくて親に聞くと「あそこの神社でも見れるよ」と教えてくれた。

 一緒に見ようとみきを誘うと、彼女は「じゃあ自由研究で発表しようよ!」と提案した。二人は共同で自由研究に乗り出した。

 ホタルの生態を調べるためにほとんど毎日図書館へ通った。じりじりと照りつける太陽などものともせずに、自転車で隣町の図書館へも行った。神社の川がどれくらい綺麗なのか、別の川の水を汲んで来て濁り具合を比べた。

 そうして作った自由研究の成果物。初めての共同作業だった。

 あとはホタルの生の写真が欲しい。二人はそう思ったのだが、ホタルの光の写真を撮るには夜でなければ難しい。みきは以前の花火事件で夜の外出を殊に禁止されていたため遊助が撮りに行くしかなかった。

「一緒に行けなくてごめんね」

 そう謝るみきに、

「任せておいて」

 と遊助は意気揚々に答えたのだった。

 ホタルが光っているところを写真に収めるのはなかなかに難しく、結局撮れた写真は、中央より少し右にズレたところに黄色い点がポツンと写っているだけのものだった。絵の具でつけたと指摘されても反論のしようがないほどホタルの光には到底見えなかった。

 だが二人はそれで満足だった。

 そんな中、遊助の父親が急遽転勤になるという辞令が会社より出される。会社は家の事情もあるだろうから引っ越しの時期を多少ずらす計らいはしてくれたが、当の父が、夏休みの間に越したほうが遊助にとってもいいだろうとの考えで、八月の終わりに引っ越すことになってしまった。

 遊助は現像した写真を持ってみきの家に行った。

「あとはこれを貼るだけなんだ」

「本当に引っ越しちゃうの」

 二人を沈黙が包む。アブラゼミがうるさいほどに静寂を告げる。

「ごめん」

 遊助はそれ以外に言葉を知らなかった。

「ううん。わかった。この写真は大切に預かった!画竜点睛、だね!」

 みきがにかっと笑うのを見て遊助は胸を締め付けられた。猛禽類の鋭く尖った四本の爪が心を抉るように痛かった。

「これから引越しの準備があってもう帰らないといけないんだ」

 みきの笑顔は遊助の感情の堰を切ってしまう。遊助は俯きながら爆発しそうになる感情を押し殺し、言った。たぶん声は震えていたと思う。

「わかった。また…ね」

「うん。また」

 二人ともまるでまた明日会うかのように別れを告げた。さようならと言ってしまえばもう二度と会えなくなる予感がした。

 彼らはあまりにも未熟すぎた。

 みきは遊助からもらった写真をレポート用紙に貼り付けることができないでいた。黒い背景にポツンと灯る黄色の点を見つめていると、急に虚無に襲われ、胸が切り裂かれ、身体を流れる鮮血が噴水のように部屋を真っ赤に染め上げる感覚に陥る。胸が熱く熱く、夏の暑さなど寒く感じられるほどに、みきの内には名状し難い特殊な感情が渦巻いているのだった。

 みきはある日写真を持って神社に行った。みきにとって憩いの場所であり、今では唯一となった遊助との繋がりを感じられる場所。今にでも破裂しそうなこの感情を遊助との思い出が詰まったこの神社で宥めようとしたのだ。

 川辺の岸に腰を下ろした。昨晩の雨で地面は濡れていた。

 みきは気にしなかった。

 みきは写真をひらひらさせながら、流れの早くなった川をぼんやり眺めていた。轟々と音を立てて流れる濁流がみきに覆い被さっていた。いつも綺麗な世界を映している水面はそこには無く、みきはそのことがたまらなく悔しかった。

 ふいに突風が吹き、みきの手元から写真が離れた。

「あっ」

 写真は緑光を全面に受けながらひらひら舞い、流れが滞留している川面に落ちた。水面でクルクル回転する写真を見て、みきは早く取らないと、と、焦った。

 手を伸ばせば届く距離。これを無くして仕舞えば、遊助との自由研究は二度と完成できない。完成させたくないと思った自分が情けない。自分勝手な都合で遊助の頑張りを無駄にしてはだめなんだ。

 心の葛藤と写真との葛藤を続けるみき。

 次の瞬間にはそこに写真もみきの姿もなかった。


■最終章 ─ 君が忘れたもの


 枝から離れた新緑の葉っぱがひらひらと舞いおちる。落ちた葉は川の流れに抱かれてくるくると回っている。

「亡くなった女の子っていうのは…」

 遊助は驚愕の眼差しでみきを見る。

「なんか疲れたね」

 ふうとみきは息をはく。

「楽しかった思い出まで忘れないでよ」

 みきは少し怒っていった。「大人になるとさ、ついつい自分が子どもだったことを忘れちゃうよね。子どもの頃の思い出とかさ。大人のプライドってやつなのかな。大人だろうが子どもだろうが、あなたはあなたでしょ?思い出の中でしか生きられない人にとって、その思い出さえも消されてしまったら私はどうすればいいの?」

 みきは泣いていた。

「思い出だけは忘れないでよ…」

 遊助はずっとこの街に何かを忘れた気持ちでいた。

 それはみきとの思い出だったのだ。

 みきが川に溺れたと親から聞いたとき、あまりの衝撃で記憶を封じ込んでしまったそうだ。それと同時にみきに関わるほとんどの記憶もしまい込んだ。だが、遊助の心に刻み込まれた彼女との思い出は完全には閉じ込めることができなかった。ホタルの光はわずかだが暗闇の中では太陽と同じように輝いて見えるのだ。何人もその輝きを抑え込むことなど出来はしない。

「やっと思い出してくれたんだね」

 みきは涙でぐしゃぐしゃになった顔に満面の笑みを乗せていた。幼き頃のあのみきの笑顔は朽ち果てることなく輝きをうしなうことなくここに在るのだ。

「忘れ物をとりに来たよ」

 蝉時雨はまだそこに降り注いでいた。

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