生と死を転がして
――彼はあの鉛筆を転がしただろうか。
私の朝は、いつもこの部屋で始まる。
白い壁、白い天井、白い床、白いカーテン、白いベッド。それからお気に入りのピンクのスリッパ。
この病室が、今の私の全て。
「きっと大丈夫だからね」
お母さんが泣きそうな顔で言った。実際泣いていたのだろう、目が赤い。私はそれに気づかないふりをして、顔に笑顔を貼り付けた。
お母さんの言葉はなんの慰めにもならないと、私は知っているけれど、私の笑顔がお母さんにとって慰めになればいいと想う。
「じゃあ、お着替え取りに行ってくるね」
お母さんは遠慮がちに言った。
もう家に帰ることもできない私に気を使っている。本当は気を使わなくてもいいのに、いつも気を使っている。これが私たちの通常運転だ。数年前からずっと変わらない日々の繰り返し。
これからは変わるかもしれない。なんて期待はしない。たとえ、明日が手術の日で、成功したらまた立って歩けるようになると言われていても。
――だって、知ってる。成功の確率はとても低いって。
だから、期待はしていない。
後ろ髪を引かれるように病室をあとにしたお母さんと入れ替わるように、拓也が入ってきた。その姿を見て、私は目を細める。
「なんだ、きたんだ」
思わず、そっけないセリフが出てしまった。拓也は苦笑いをして「そりゃ、くるだろう、明日手術なんだし」と言った。ベッド横の丸椅子にいつものように腰掛ける。
拓也は私の彼氏だった。だった、だ。彼との関係は、私が病気になった時に終わっている。私から終わらせた。終わらせたはずなのに、足繁く病院に通ってくる。
それがすこしだけうれしいから、私は彼を突き離せないでいる。彼には内緒だけど。でもそれも今日で終わらせてあげないと。
ずっと想ってるなんて、不憫だ。
――さて、どうしたら彼を突き放せるだろう。
そんなことを私が考えているとは思いもしないだろう彼は、ふと、私が持っている鉛筆に視線を向けた。
「それ、なに?」
――ああ。
「これか。これはね、魔法のペンだよ」
赤い鉛筆を彼の目の前で振った。
「ここにね、書いてあるの、見える?」
細い人差し指で鉛筆の柄の部分を指差す。拓也はそれをじっとみつめて、顔を盛大に顰めた。
何匹苦虫を噛み潰したのか、ゴーヤでも食べたのか、ひどい顔だ。
「何よ、その顔は」
笑って私が言うと、彼はさらに顔を顰めた。
「悪趣味だ」
一言、そう言った。
「そう?」
「そうだよ。生と死、なんて……」
ペンには"生"と"死"の二文字が黒字で書かれていた。
「なんで、それ、だって、子供がよくやるやつだろう。カンニングのさ、転がして答えを教えてもらうやつ」
「うん。面白いでしょう」
「面白くない」
拓也は首を左右に振る。
「なんでそんなことするんだよ」
「神様に決めてもらおうと思ってさ」
「…………」
無言で、拓也は私を責めるような目で見ていた。
「おばさんには、見せてないだろうな」
「お母さんに? 見せてないよ」
「なんで俺には見せるんだよ」
「拓也は、まあ、いいかなって」
ため息が返ってきた。
「俺だってよくない」
ぼそりと、そんな答えが返ってくる。
私は拓也を見つめる。
拓也が、静かに怒っているのがわかった。
――ああ、そうだ、怒らせればいいんだ。
「でもこれ、昔よく当たったんだよ」
笑って見せて、それからベッドにつけられたテーブルに鉛筆を転がした。
それはコロコロと音をたてて、ぴたりと止まる前に拓也の手で回収される。予想通りの行動に内心ほくそ笑む。
「ちょっと」
「やめろよ。悪趣味だって、言っただろ」
「そんなことないって、言ったじゃん」
「そんなことある。倫理的に」
「倫理的に? 道徳的にって意味?」
「そう」
「ふーん」
なんだか腑に落ちない
だって、何事も神様に祈るじゃん。受験とか、それは悪趣味じゃないのに、これはダメなの? まぁ、それで拓也が怒るならいいか。
「”死”がでたら、どうする?」
「聞くなよ。本当に……でたら、どうするんだよ」
「その時はその時だよ」
じっと睨まれて、私は目を逸らした。
窓の外を自然と見る形になった。
風が入ってきて、私の伸びっぱなしの髪が揺れる。
――怒らせるのって、難しいな。
「私が死んだらさ」
「やめろって」
――もっと怒って。
「死んだらさ、新しい彼女見つけなよ」
「そんなこと言うなって」
――怒ってよ。怒って、出ていってさ、顔も見たくないって、言って良いよ。
「こんなさ、無愛想な女じゃなくてさ、かわいい子が似合うって。拓也、口うるさいけど、イケメンだしさ。気がきくし」
「カナ」
「私より、良い子がいるよ」
「カナ」
「そしたら、私のことなんてさ、忘れるよ」
――忘れなよ。
そこまでいって、彼は私の肩を掴んだ。
振り返ると、泣きそうな拓也がいた。
「それ以上言ったら、怒る」
――怒ってよ。
「怒って、いいよ」
「なんでだよ」
「怒って、私のこと放っておいていいよ」
――ああ、ちょっと、泣きそう。
拓也が私を抱きしめる。
「怒ってたんじゃないの」
「怒ってる」
「じゃあ、出ていって良いよ」
「出ていかない。――カナ。成功するよ」
――うそつき。
私は拓也の背中に手を回した。
――やっぱり、忘れてほしくないな。
視界の端に、いつのまにか彼が放り投げた赤い鉛筆が見えた。床に転がっている。
覚えていてほしい。そんな想いが急に襲ってきた。さっきまでは、怒らせて出ていってもらおうと思っていた。忘れてもらいたかった、のに。今は、忘れてほしくない。
私は彼の抱きしめる手をやんわり解くと、その鉛筆を指さす。
「それ、拾って」
「…………」
しぶしぶといった様子で、彼はそれを持ち上げた。一瞬眉をひそめる。けどすぐに瞬き一つしてもとの表情にもどると、鉛筆を私に渡そうとした。
「それ、拓也が持ってて」
「……なんで」
「なんとなく」
拓也は一瞬鉛筆を見つめて「わかった」と小さな声で言った。
私は笑った。
拓也は唇を引き結んで、笑ってくれない。
――笑って、なんて、言えない。
だから私だけは笑うんだ。
拓也の記憶に、笑顔の私が残りますように。
手術室へ入るのは、初めてだ。
――どきどきする。
不安そうに私を見るお母さんとお父さんがいた。
「行ってきます」
言ってから後悔した。
帰えれるか、わからないのに、馬鹿なことを言ったな。
拓也はお母さんの横に立っていた。こっちも不安そうな顔をしている。
――馬鹿だなぁ。
――昨日が、最後のチャンスだったのに。
――忘れる最後のチャンスをあげたのになぁ。
お母さんたちが見えなくなった。
手術室で静かに息を吸う。麻酔がかけられて、強制的に瞼が落ち始めた。
「大丈夫ですよ」
お医者さんが言った。
なんの根拠もない。でもきっと、安心させるための先生の優しさだ。
私は頷いて、そして眠りの中に落ちていく。
嗚呼、彼は転がしただろうか。
あの鉛筆を転がしただろうか。
私は声をあげて笑いたくなった。笑えないけど、薄れる意識の中で、笑いたくなった。
きっと、転がさずにはいられない。私ならすごくドキドキする。
この鉛筆を転がした結果が、もし、万が一影響が出たらって思うに違いない。
生と死が自分の手にかかってる。そんな錯覚に陥って、きっといてもたってもいられないでいるに違いない。
転がしたら、どっちが出ただろうか。
"生"か"死"か。どっちが出ただろうか。
どっちでもいい。
私が無事にこの小さな部屋から生還したら、きっと彼は笑うだろう。
もしできなかったら、きっと、きっと心の奥にしこりのように残るに違いない。
ああ、できれば、そうなってほしい。
そう、なったら、きっと、君は、私を――。
きっと、忘れないから。
だからどうか、"生"と"死"を転がして。