俺の終わりと私の始まり
とくに起伏もない、平坦で退屈な人生。
そんな人生でも、死を前にすると走馬灯というものを見るらしい。
『三隅草太』
それがこのつまらない人生に与えられた名前だった。
物心ついたときから『どうしたいか』ではなく『どう見られているか』に合わせて生きてきた。
「草太はこんな子だから」
「三隅くんってこうだよね」
「お前ってこういうところがあるよな」
そんな言葉に自分を合わせて、いつの間にか自分のしたいことというものがなくなっていた。
無難に生きて無難に死ぬ。
山もなければ谷もない、なんのドラマも生まれないそんな平坦な人生。
そうやって生きていこうと思ったのは確か中学生の時だ。
一般的には『大事なこと』とされている進路の決定において、自分は『当たり障りない進路』を選んだ。
そこそこいい中学に行って、そこそこいい高校を出て、そこそこいい大学からそこそこいい企業に就職して。
当たり障りのない態度と頼まれればとりあえずやるという仕事ぶりから上司には気に入られていたようだが、逆にそれがいけなかったらしい。
突き落とされた線路からホーム―――犯人を見上げる。
それはよく見知った顔だった。
高校の頃から仲の良かった友人、今では会社の同僚。
最近何かと思い詰めているようだったが、その結果がまさかこれとは。
しかし動揺しているのは自分よりも相手の方のように見えた。
事故ではないだろう、手を出したまま固まっている相手の表情には激しい後悔が見て取れる。
恨みを買っていたか、魔が差したか。どちらにせよもう電車は目の前、自分はもう助からない。
だから笑ってやることにした、犯人に向けて。
もとよりいつ終わってもいい人生だったんだ、自死は後の人間に面倒を押し付けるようで嫌だった。
だから感謝の笑顔だ。
『終わらせてくれてどうもありがとう』
その言葉が形になるよりも先に、全身の感覚が吹っ飛ぶ。
こうして、短い俺の人生は二十六年で終わりを告げた。
そうして自分は死んだはずだ。
なのになぜまだ思考ができるのか。
なぜ自分という意識が存在しているのか。
さっきまで何も感じなかった体に、少しずつ感覚が戻ってくる。
「ふーんふーん……」
何も聞こえなかった耳にだれかの鼻歌がくぐもって聞こえてくる。
そして真っ白だった視界が少しずつ暗くなり、瞼越しになにかが動いているのを感じたとき、ゆっくりと目を開けた。
歪んだ視界。まるで水の中にいるかのように不明瞭で―――
「ごぼが……ッ」
本当に自分は液体の中にいるようだった。
口からあふれた空気が自分の上でぶくぶくと弾ける。
ここから泳いで出ようとしても体は言うことを聞かず、ただ弱々しくもがくだけ。
「……!?……!!」
誰か、女の子の声が聞こえる。
しかし再び暗くなっていく視界では、声の主を探すことなどままならない。
まさかこのまま何回も死の瞬間を繰り返すのか。
薄れる意識のなか、ふと昔読んだ漫画の結末と自分を重ね絶望していると、ふっと呼吸が楽になった。
「げほ…ッ、ぅえ……」
水を吐き出し大きく息を吸う。
酸欠のせいかまだなにも見えないが、体に感じる冷たい感覚。どうやら自分は地面に横たわっているようだ。
「……!……?」
さっきの少女の声が何事か語りかけているようだが、何を言っているのかさっぱりわからない。
英語…ではないようだが、少なくとも自分の知らない言語をしゃべっているようだ。
なんとか応えようとするも、思うように力が入らず、腕を上げることもままならず、病魔に侵されているかの如く体が怠く呼吸が重い。
語りかけてくる少女の声に何も返せないでいると、ふっと体が軽くなった。
薄く目を開ける。
どうやら持ち上げられているようだ、霞む視界の中にぐったりと垂れさがる自分の腕。
そのままゆっくりと降ろされた先で感じる柔らかいものはベットだろう。すぐ後に毛布のようなものを掛けられた。
依然として呼吸は苦しいが、幾分かマシにはなった。
おかげで視界も落ち着いてきた。さっきよりもはっきりと物が見える。
黒ずんだ天井、薄暗い部屋。窓がないということは地下室だったりするんだろうか。
部屋の中には用途不明、大きさもバラバラな謎の器具達が散らばり、その中でも特に大きなガラス製と思しき水槽……のようなものは、真ん中あたりで砕かれたように割れ床に破片とその中身を吐き出している。
まさかさっき自分が入っていたのはあれの中なのだろうか。
奇跡的に命を繋いで特別な治療でも受けていた……と、考えもするが、電車に轢かれて助かるなんてことあり得るのだろうか。
それにこの部屋にあるものは何か妙だ。
何かが足りないというか、自分が知っている物と何かが決定的に違う。
しかしその違和感の正体に気付くよりも先に、視界に真っ白いものが映った。
小さな女の子だ。
長くふわふわの白髪は薄明りに照らされ僅かに輝き、心配そうにこちらを覗き込む瞳は吸い込まれそうなほどに深い蒼。
年齢は……十歳ほどに見える。幼い顔立ちと同じく体も小さく、グレーのローブを身に纏うその姿は、大人になりたくて背伸びをする子供のように見えた。
「……?」
少女が口を開いて何かしらを訊ねてくるが、やはりそれは自分の知らない言語である。
なんとかコミュニケーションをとらねばと必死に覚えている限りの言語を頭の中に思い浮かべるも、どれも一致せずただ困惑することしかできない。
と、ふと少女が何かに気付いたように手をこちらに伸ばしてくる。
何を…と思う間もなくいきなり視界が眩い光に塗りつぶされる。
「ぶぉぁっ」
唐突な目眩ましに情けない悲鳴が漏れる。
「これでわかりますか…?」
少女の声。
先ほどまでと違って今度は何を言っているか理解できる。
しかし耳に届く音はさっきと何も変わっていない。
何も変わっていないというのに何を言っているのか理解できるという不可解な現象に混乱はさらに深まる。
「あ、あれ…?わかりますか……?」
「あっ、い、いやわか……ん!?」
再度困ったように言葉を繰り返す少女にとりあえず何か返さないと、と口を開いたとき更なる困惑が襲ってきた。
自分の口から出た言葉が日本語じゃない、少女が話していた謎言語と同じもの。
しかしそれよりも、まったく聞きなれない自分の声に対する驚きの方が大きかった。
可愛らしい少女の声だ。
その昔、興味本位でボイスチェンジャーを使ってみたときのことを思い出すが、あんなわかりやすく加工された声とは違う、本物の女の子の声。
「ど、どうしました…?」
「え、あ、いや……」
やはり女の子の声、聞き間違いではない。
「か、鏡…なにか自分の姿を見れるものを……」
いつだったか目にした漫画、それまで読んだことのないジャンルだったから印象的だったのを覚えている。
まさか…
「鏡…ちょっとまってくださいねっ」
てってけと急ぎ気味に机の方へ向かう少女。
乱雑に積まれた本を退けながら鏡を探す少女の背中を見ながら重い体をゆっくり起こす。
毛布の上からでもわかる。
この体は自分の知っているものじゃない。
「お待たせしましたっ」
少女が持ってきてくれた手鏡を恐る恐る受け取るこの腕も自分の記憶にあるよりも白く細く、指も明らかに細く綺麗だ。
「見ないんですか…?」
「あ、いや……」
大きく深呼吸。背中に冷たい汗が流れる。
「うわ……」
そうして覗き込んだ鏡の中から覗き返してくる自分の顔は、やはり、とても可愛らしい女の子になっていた。
腰まで伸びた真っ白の髪は介抱してくれた少女と違いさらさらのストレート。瞳の色は深緑で、整った顔立ちにわずかに残る幼さは可愛らしい。
鏡の向こうから己を見返す少女を見つめながら、混乱する思考の中でも少しずつ整合性の取れた考えが組みあがっていく。
にわかには信じがたい。いや、そもそもそれがあり得るとも思えない。だが鏡に映る少女の顔は自分の思考を明確に反映し、混乱の表情を形作り。それがまた、そのあり得ない考えを裏付けてしまう。
自分の体へと視線を下す。
慎ましやかにも確かに主張する二つの膨らみ。
ここまでくれば、一旦は受け入れるしかない。
「………」
例の漫画のジャンル。
それは……
「TS…かぁ…」
天井を見上げながら力なく呟いた言葉には、この日一番の困惑が表れていた。
こうして、長い長い私の人生が始まったのです。
「二コラ」
「え…?」
「ニコラ・スティリア、あなたの名前ですっ、一生懸命考えたんですよ?」
「そ、そうですか……」
これがこの人生に付けられた名前だそうです。