■10~20(来賓館)
それから、相手が電話に出たことを感じとると、スピーカー音量を、わざとらしく上げながら、こちらにも話が聞こえるようにした。
「……やあ、まざー、元気かい」
「あら、誰だっけ」
まざー、と平べったく呼ばれた(おそらく)婦人は、とぼけたように返す。歌を歌っているような、朗らか、という感じの声だ。ちょっと高め。
「ひどいなあ、まつりだよ。この前、かけたでしょう」
「あー、あー、あー、そういう詐欺も、あったわね!」
「本人だってばー、もう、お茶目なんだからっ」
あはは、とまつりは笑う。この笑いかたは、よく知っている。ぼくに全く関心がないときに向けられるのと、同じものだ。
「……あなたが、何の用かは知らないけど、あなたは、ちょっと……厄介を巻き込みすぎるのよね。だから、お断り」
まざー、と呼ばれた人も、急に声音を冷たくした。
先ほどまでの柔らかい声は、挨拶に過ぎなかったようだ。
いつぞやに、よほど、ひどい目に合ったのだろう。
受話器の向こうでは、いかに嫌かを語る婦人の声に混じって、配達ですがー、と声がしていた。
「んー、そっかー、じゃあーどうしよっかなーん」
まつりは笑顔を崩さずに、ソファーから少し右にある棚の上の筆立てからひとつ、ボールペンを抜くと、真ん中から折った。
ばき、と嫌な音がする。
何をしているのかと、コップを片付けながら見ると、もしかするとメモを取るつもりだったのか、電話を持つ右腕をあげたまま、左手に折れたボールペンを握って固まっていた。
目を見開いて、ショックを受けているように見える。
まつりに、腕にメモを取る癖があると知ったのは、つい最近だ。
その棚からメモ帳と、鉛筆を探して、渡してみると、首を横に振られた。
メモをもう一度取ること自体が、屈辱かなにかに思えてしまうようだ。
やっぱり覚えればいっか、と納得したまつりだったが、突然の叫び声を聞いて、びっくりしたように電話を耳から離した。しかし、口元は笑みを浮かべている。
突如、婦人の声が、荒いだものに変わったのだ。
高音で喚くため、耳に響く。
「……あ、あなた! 何、なんなの、これ!?」
「あ、届いたー?」
「届いたー? じゃ、ないわよ、こ、これ……」
「そ。今回のあらすじ、みたいな? あなたにも手伝って欲しいなあ」
「な、冗談じゃないわよ! あなたは、いつも、ふざけて……」
「焼き芋も入ってるでしょ? おやつにどうぞ」
「や、焼……だ、だから、どうして私を巻き込むの」
少し揺れている声だ。
まつりは反応を楽しんでにやにやしている。
いつからこんな風に、と思ったが、思えば最初からか。
ああ、それから、とまつりは思い出したように付け足した。
「ジェッキーだっけ? あなたのとこの、鷹だか鳶だか……お元気?」
「ええ。もちろん」
「そりゃあ、良かった。配達までこなせるなんて、賢い子だ」
「あなたより賢いかもね」
「あはは、そうかも!」
ケイガちゃんが、あっ、と小さく声をあげている。
まつりは、そっちをちらりと見ると、小さく微笑んだ。
「で、誰がそれを頼んだの?」
「――口が固いのが、私の取り柄なのに、面白いことを言うのね」
「はいはい、コウカなんだろ、どーせ」
「あら、どうしてそう思うの」
「カワイコちゃんに頼ませて、《こっちを》おびきだすつもりなんじゃないかなーと思います。まったく、ずるいよね」
「で、あなたは、素直に引っ掛かることにしたの?」
「ああ。引っ掛かったふりをしてちょっと嫌がらせして帰って来ようかなとね、で、場所は」
まつりはそう言って笑った。
ケイガちゃんの様子を見てみると、苦い顔だった。
話だけで考えれば、姉が自らを探させ、自ら妹を裁くということだ。
しかも、それさえ出汁であり、妹を利用して、まつりを、自分の前におびきだそうとしていることになる。
コウカさんは、何を思ってそんなことを考え付くのだろうか。
「場所はそりゃ――知っているけど。報酬が、《これ》だけだしねぇ」
「この前、お城の地下室で永久迷子になった、可愛いメイドさんでも紹介しましょうか?」
まつりが、含みのあるような言い方をすると、婦人の、はっとする声が聞こえた。
「わかった。お受けします」
「うん。それじゃ、あとで電話して」
6
二度目にかかってきた電話(今度は、まつりが別室に移動したので、内容は知らない)も終わり、家を出てきたぼくらの目の前に、一台の車が停まっていた。
そして、待ちわびた、と言わんばかりに、中にいたのが、彼だった――行七詠斗、つまり、ぼくの兄だ。悪っぽいのがいいのか、何か女の子にモテるらしいが、こいつは絶対に止めておけ、と全力で思う。後悔することは間違いない。
彼が乗っていたのは、四角い。黒くて大きな車。
「なぁちゃん、元気だったか?」
窓から顔を出した兄は、久しぶりにあったぼくの頭をわしゃわしゃと撫でた。学生時代は地味だったはずなのに、今では髪を染めはしないものの、身に纏う派手な装飾品が増えている。──目が痛い。
顔つきは母親似で、ぼくとも少し似ているみたいだが、性格は一致しないようだ。ぼくは思わず顔をしかめてしまった。
変わらない呼び方にも、変わらない笑顔にも、寒気がする。優しさは、邪険に扱いにくくて厄介だ。
「なぁちゃん元気だったか?」
彼は、反応がないぼくに、同じ質問をしてきた。
ぼくは、ああ、とだけ言った。うん、というのはちょっと違うような、そんな気がしたのだが。
「なんだよ、再会を喜べよう~」
──対応を間違ったか。 彼は不満な声をあげた。面倒だ。少し、楽しそうでもある。まつりと、ケイガちゃんは輪に入れられず、放置されている。彼にはぼくとの会話が大事なのだろう。ぼくは、なんだかいたたまれなくて、さっさとどうにかしたかった。
「なんで、居るんだよ」
精一杯、聞けたのはそれだけ。少し、声が震えてしまった。漠然とした、何かが怖かった。
「おい、そんな言い方無いだろ? 何かしたか?」
何かと言われれば、たくさん羅列出来るが、わざわざ頭を使っても悲しいだけなので、黙る。
彼の――そのときになって、ようやく服装を見たが――ジャケットの、固そうな金色のボタンが、彼の腕に擦れて、しゃらん、と鳴った。ボタンだけでなく、何かをボリボリ食べている音も合わさっていて、なにかの嫌がらせみたいに思えて、さらに顔をしかめた。
高音――例えば黒板を引っ掻くような音は、なぜか平気なのだが、何かが折れる音、鈍く擦れる音は、今もだめだ。バキ、とか、ガリ、とか、バン、と何かたたく音とか。耳に染み付いた音が、呪いみたいに、離れない。
──今も実は、みっともなく、手が、少し震えていた。頭に、痺れたときのような、変にひんやりした感覚が走ってもいる。
今のところは、なんとか、わけがわからなくなることだけはなかった。まつりはそのときになって、お兄さんは迎えに来てくださったのですか、と聞いた。
彼は、そのときになって、きょとんと二人を見る。
「……オトモダチか?」
ようやく、弟以外を認識することにしたようだ。聞かれたので、曖昧にうなずいた。どうやら、露骨な嫌悪感や、敵意を示したりはしていなかった。興味が無いのかもしれない。
――ケイガちゃんはともかく、まつりを知っているのかどうか、実はわからない。まさか、無いとは思うが、もし初対面を装った演技だとしたら、と考えると、不安になってしまう。
下手に話をしないべきだろうか。
学校帰りや、休日はいつも、外には出ず、部屋にこもってゲームをしていて、それ自体はいいのだが、それに飽きると、今度は、何か思い付いては、ぼくを実験台にしていたような人物だ。
ほとんど、まつりを家に呼んだことはない。(そもそも、めったに出られないが)来させたくなかった。単にプライバシーの話ではなく、あの部屋の中を見れば、怖がらせてしまうと思っていたからだ。
しかし、結構な近所だったし、二人が顔を合わせる可能性、交流があった可能性も、あり得るだろう。そこで、あれ、と思った。
――まつりと彼に、過去の交流があると、何が問題なのだろう?
ぼくは、自分自身の過去が暴かれる可能性を危惧しているのだろうか。それは、いつも、誰に対しても、不安になることではある。
忘れたいのに、たくさんの嫌な過去のことを、ぼくはビデオの録画みたいに、ひとつずつ覚えている。言われた言葉。場所。どんな状況だったか。意思と関係なく、忘れることができない。
――自分の嫌な癖というかまあ、そんな感じだ。
ほとんど誰にも話したことはないが、話したところで、ぼくには脳内の映像を言葉で的確に証明できないだろうから、あまり意味を成さない。
今も、自分の覚えているいくらかのことを、二人が思い出したらと思うと、不安だったりする。せめてもの抵抗で、逃げ回っていた際、作った通路のひとつを、まつりと使って逃げたことが、すでに兄に知れているのでは、とか、たくさんの被害的な妄想だけが膨らんでいきそうだ。
まつりを見ると、無表情だった。深い、闇みたいな瞳で、じっと兄を見ていた。
どうやら、まつりは再びぼんやりしてしまったらしい。まつりのいう《お兄さん》というのは、三人称みたいなもので、ぼくの兄だと理解しての発言とは思えなかったが……。
「質問、答えてもらってないけど」
ぼくはもう一度聞いた。
「あのおばさんが呼んだ、迎えだよ」
兄はそう言いながら、三人の間に視線をうろつかせた。しばらくキョロキョロしていた目は、やがて、弟に向けられる。初対面の人物がいるため、挙動不審、と取るべき反応なのだろうか。
「……乗って」
それぞれ、考えることがあるのか、三人とも黙ってしまうと、兄はそう声をかけ、後部座席の、ぼくの側のドアを開けた。
ぼんやりしていたまつりに声をかけ、肩をそっと叩いて押し、先に押し込む。それから、自分もぼんやりしていたと気がつく。後ろから声をかけるな、と何度も注意されたのに。
──一瞬、身構えたが、何も起こらなかった。まつりはぼくにさえ、気が付いていないのだろうか?
続いてケイガちゃんが乗った。いつの間にかまつりの手を握っていたらしい。
「……嘘つき」
表情は見えなかったが、彼女の口から、小さな呟きが聞こえた。誰に向けられたものなのかはわからないが、誰にしたって、もちろん、ぼくにだって、心当たりがある台詞だった。
「おい、ナナト、早く乗れよ!」
兄の声がかけられて、慌ててぼくも乗り込む。どこに行くのか、とか、いきなりこうなるのはなぜだ、とか、兄はいつ帰ってきた、だとか、考えることは、たくさんあったはずなのだ。
──なのに、なぜかぼくは、そのとき、どれも聞く気になれなかった。本当は、その意味に、理由に、気が付いている気さえした。
座席もふかふかで、高そうな車であることがうかがえる。みんな無言になったらどうしようと思ったが、あまり心配はいらなかったようだ。
兄は始終喋り続けていた。
「なぁちゃん、行きたいところある? あ、俺が免許取ったの、知ってた知ってた~? つーか、コンビニとか寄る?」
兄の質問に、ぼくを含め、誰も答えられずにいると、まつりが左隣のケイガちゃんを、一方的に質問攻めしはじめた。
目が虚ろだ。久しぶりの外出に疲れてきたのだろうか。
ケイガちゃんは、真面目な表情を崩さない。鍛えられているのかもしれない。
何を話しているのだろうと、最初は笑顔で喋っていたし、気にしていなかったが、だんだん、様子がおかしくなっているのが、嫌でもわかった。
「だから、違うって言ってんだろ!」
ケイガちゃんが声を荒げている。
「嘘をつくな。泥棒のはじまりって、言うだろ?」
まつりは冷静だった。
ただ淡々と彼女を責める。
「嘘などついていない!」
「おまえは、どうして、こんな手の込んだことをしているんだ?」
「――なんのこと?」
「誰かに指示された?」
「だ、だから、なんのことだよっ」
さすがに怖くなって、呼び掛けてみたが、二人とも、こちらに見向きもしなかった。
「誤魔化すなよ」
「――え」
何か言おうとして、ようやく、出てきた言葉はそれだけだった。耳を疑う言葉だ。まさか、彼女がそんなことをするわけがない、とぼくは言いそうになった。
しかし、声が出てこなかった。
「わかっていたなら言って欲しかったものを」
「騙されたふりをしてやるのも、優しさかなって思ったんだ」
まつりはそう言って、ゆっくり目を閉じて深呼吸した。少し疲労がにじむ仕草だ。
兄はいつの間にか何も言わずに、運転を続けていた。ぼくは、どうしたらいいかわからなかった。
7.そのずれに気付かない
「さーてさーて、どうするー?」
まつりが言った。
――話は全く、進んでいない。
何も、変わらない。
姉を探して欲しい、という手紙が、たとえ芝居だったとしても、まつりは、なぜかそれに乗る気のようだった。
それ自体に関しては、今になって、知ったところで、なぜかぼくもそんなに驚かなかった。
それに、ここまで来て、何か不都合があるわけでもない。
もしかすると、こんなに冷静なのは、それにしたって、わからない点が多々あるからかもしれない。
兄とケイガちゃんに、繋がりが無いのなら、なぜこんなことをしているのか、とか。
――このまま嫌な空気を引きずりたい者はおらず、ぼくは、そうだな、と言う。ケイガちゃんは、複雑な顔で、何か考えていた。
ぼくはふと、兄を見て思い出したことを聞く。
「……なあ、兄」
「なんだよ、弟」
「父さんは、元気?」
「ああ」
短い返事だったが、ぼくはいろいろと確信した。
その後、兄は最初の方より喋らなくなった。代わりに適当な曲をかけ出す。
どれもが、どこか、あたたかくて、どこか、からっぽな曲だった。
──10分、20分。
しばらくの無言が続く。
ぼくは車内の時計を見たり、窓の外を見ていた。
シーツも、小物も真っ黒な車内から、黒以外を探すような気持ちで。
まつりはただ、にこにこしながら、タンタタン、タタン、タンタタン、タタン、と指でリズムを取り続ける。
窓から見える、進行方向の道に、だんだん曲がり角が多くなってきた。
流れる歌詞が繰り返す。
『ぼくのことを考えているときのきみは、大嫌い』
――その辺りで、ふと、ケイガちゃんの方を見ると、ピンク色の携帯電話で、辞書で黙々と『脱走』の意味を調べていた。
(言い訳をすると、姿を確認したかっただけで、画面を覗くつもりではなかったのだが、画面が大きいので、はっきり見えてしまう。)
「脱走……」
ケイガちゃんは呟きながら、解せない、という顔をしていた。
『ぼくのことを考えてるきみだけは、決まって、ぼくのことを見もしないくせに』
乾いたような女性の声が、冷たく響く。なんだか、何かの拷問みたいだった。
永遠に許さないと、誰かに、暗に告げられているような。
「──お兄さん、こんにちは」
しばらく、リズムを取り続けていたまつりが、口を開く。いつもながらに唐突だったが、いつもよりも、今日の口調は平淡で《いつも》がそろそろまた、もう一度、終わるのかもしれないと思った。
「な~にかな」
兄が上機嫌に答える。
「ふふふ、ちょっと、車の中、飽きちゃったなって思いまして。まだですか」
「──きみは、俺がなんで《なぁちゃん》たち、を迎えに来たか、知ってる?」
「さぁ? 存じませんが、《おばさんから》の指示ではなく《あなた》の独断、なのは確かですよね」
「そうだよ。俺が今日、自分で連れに来ただけ。久しぶりに今日の日曜日は、暇だったしな」
「どうするつもりなんですか?」
「《実験》だよ。やっぱり、俺の実験には、なぁちゃんが必要なんだぁ~。あいつは、優秀な助手だ。ずっと、そうやって来たから俺――」
「やめろ!!」
自分でも、信じられないくらい咄嗟に、大声を出していた。
ぼくは、何を怒っている?どうして、ぼくは怒っている?
「助手だと? 何をふざけたことを言っている」
兄の上着のポケットの飾りボタンが、じゃらじゃら揺れる。目眩がしそうだった。
いい加減にしろ、まだ懲りないのか。そう言いたくて口を開いたが、息がうまく吐けなかった。行き場を無くした声に、激しくむせる。
「ナナト、大丈夫?」
「……なぁ――まつり、ぼくは、どうして」
久しぶりに兄の顔を見たとき、乗っても大丈夫だ、なんて、思ってしまったんだろう。
――いや、本当は、わかっている。
改心してるんじゃないか、なんて、どこかで期待していたのだ。
不安がありながらも、本当は少し嬉しかった。
しかし今思うと、情けないような、笑えるような、変な気分だ。
「――何か、あったの?」
いつもより平淡な声ながら、いつもよりも心配そうに、まつりが聞いてきた。
間に挟まれたケイガちゃんは、なにやら懸命にメールを打っている。
ぼくは、説明すべきかも、どう言うべきなのかも、判断がつかず、回りくどい言い方をした。
「――サイコロの、理由だ」
ちらっと前方を見やると、兄は上機嫌で、音楽を聴いていた。彼には、ぼくが怒っていようと、泣いていようと、関係のないことだ。
サイコロってなんだ~?
と聞こえたが、答えない。
正直、これだけの説明で、伝わるとは思っていなかったが、まつりは何か思うところがあるのか、ああ、と呟いた。
着いたよ、と聞こえたのはそれからすぐのこと。
8
「──あなたは、この人だけを愛せますか?」
自分自身を、そう指差して、その人は聞いてきた。
──ただの、例え話だ。
こういう状況があって、こうだとしたら、という遊び。
だから、ぼくは、答えた。答えにもならないことを。何の意味もないことを。
「できない。たった一人を愛するくらいなら、全部傷付けて、すべて嫌いになる方を選ぶよ」
誰も、選ばない。誰かを好き嫌いで決めるのは、嫌い。それに、意味を見いだせない。それだけを答えれば、ただ突き放してしまう気がした。だから、回りくどくなってしまう。
いや、それも違う。本当は、短くて、うまく伝わる表現を、知らないだけ。
しばらく反応がないので、どうだ、かっこいいだろ、なんてとぼけてみた。
そしたら、その人は、言ったんだった。
「そっか、うん。きみは、面白いね」
バカにされたんだと思った。ちょっと、ムッとした。
その言葉は、ぼく自身に、誉める意味として使われたことがない。
「好きな考えかただ」
言い返そうとして、その人が発したその言葉に、理解が追い付かなくて、ぼくは、ぽかんと口をあけた。
佳ノ宮まつり。その人は、ぼくにとってのなんなのだろう。
──することがないとき、現実逃避したいとき。疲れたとき。
ぼくはいつも思い返す。
楽しかったこと。
愉快なこと。皮肉なほど忘れられないすべてを。
場面の雰囲気、景色の細部まで。髪の長さ。瞳。貼られたポスター。そこに書かれた標語。咲いていた花。舞台として、台本として、頭に刻まれているひとつひとつを。かけがえのない、宝物で、戒めで、呪い。
誰にも伝わらない枷。
証明さえできない痛みを。
「おーい、着いたってば」
「ん? あ、おう、いい天気だな」
「なに言ってるの。もう夕暮れだよ。きれーなオレンジだ」
まつりは、あの頃から変わらない。変わろうとすると、自らリセットする。
「そうだ、ケイガちゃんは、どうして?」
ふいに、どうして、とまつりが彼女に聞いていたのを思い出す。
『――どうして』
リビングのソファーに《猫を愛でるセレブの図》みたいに少女を抱えたまつりは、そう言っていた。
――おそらく、その問いの意味は。
『わかっている。だけど……』
ケイガちゃんの反応の理由は────
もしかして、まつりは、最初からすべてを見抜いていたのか。
では、どうして、彼女は、まつりにバレバレな嘘を付き続けている?
いや、それ以前に、なぜまつりは、わかった後もなお、彼女に合わせようとする?
何か、目的があるのか。
目的。ぼくは記憶をたどる。聞いた言葉は、鮮明に、一文字の狂いもなく頭に流れ込んでいる。別段、聴力がいいわけではないので、あくまで、あの部屋に、ぼくがいたからだ。
ケイガちゃんはこの辺りで苦い顔をしていた。
……そういえば、おそらくだが、ケイガちゃんには、コウカさんの脱走の話が伝わっていないようだ。
それにもし、双子だとすると、あの事件の日からもう、少なくとも、確か5年……くらいは経つはずなので、えっと……計算は果てしなく苦手だが、とりあえず、なんだか、ケイガちゃんの見た目といろいろ合わない気がする。
果たして、それは、なぜか。
ひとつ、確定は出来ないが、実はある仮定が浮かんでいる。
……そして、もしもそうだとして。
まつりは、彼女の嘘を、さらに嘘でフォローしていることになる。
「だーかーら、降りるよ、ナナト」
車から腕を引っ張られて、はっとする。まつりは、もうとっくに降りていた。
兄もいない。ケイガちゃんは──少し視線を落としてみると、まつりの背後にいた。その更に後ろは、大きな屋敷が見えていた。
通称、来賓館と呼ばれ、ときどき使われるそこは、まつりの屋敷の人の建てたもので、うちの父もそれに少し投資していた。
あれ? にしても、ケイガちゃんの家とかじゃないのか。まあ、入ればわかるのかな。
──ここは、来たことがある。
だけど、あまり来たくはなかった。
あまり、来たことがないけど大きなところだよね、と関心しているまつりに、ぼくは、苦笑いした。情けなくも、少し泣きそうだった。
白い壁。品の良い装飾。太い石の柱。大きな窓。向かい入れてくれる扉。
この場所をよく使用するのは、まつりの身内か、それか、ぼくの身内。
わかりきったことだったったのに、どうしてか、今知ったような感覚だ。
「──なあ、お前。ぼくのこと、今、どれくらい覚えてる?」
車から降りながら、変なタイミングで、聞くつもりもなかったことを聞いてみた。
いや、本当は最初から、心のどこかで、気になっていたのかもしれない。
まつりは、ふっと冷たく笑う。
「らしくないな」
そして、続けて、ごまかすような言い方をした。
「たとえ記憶がなくても、記録は残ってるさ」
来賓館に足を進める。
ここに来たのは、約三年ぶりだろうか。数字や時間に関しては、覚えが悪いのでよくわからない。
建物の内装、構造、家具配置は覚えていたが、ここにくる道筋も、実はあまり覚えていなかった。だから、まさかここに来るとは思わなかった。
「兄が実験をするんじゃなかったのかな」
「さあ? っていうか、実験って?」
「それより、二人は、どこかな」
「どうして、話を反らす?」
ぼくは、黙って笑った。
その話は、一度、お前にしたことがあるんだ。
まだ、小さかったときだけど。
庭で、壁に当ててボール遊びをしていたまつりは、同じ庭で、その光景に怯え立ち立ち竦んでいたぼくに、手を止めて、近づいてきて、ポケットから出したサイコロを見せてくれた。
球体を綺麗に削って作ったような、ちょっと変なサイコロだった。少し、重みがあったと思う。
転がって、止まって、転がって、止まった。
『いきなり向かって来ないから、大丈夫。怖くないよ』
そう言われて、なんだか、安心出来て、ぼくは、それをそっと触った。
それで、初めて知り合った。
『どんなふうに怖い?』
どうして、と聞かなかった。それがまつりだった。
ぼくの好きなところだった。
それから、何日かかけて、ぼくは話した。いろんなことを。まつりからも、いろんなことを聞いた。
話をするだけでも、安心した。
楽しいとか、楽しくないとかは思わなかった。
ただ、不思議だった。
思い出すと、なんだか、笑えてくる。
「お前が何度忘れたって、ぼくはずっと覚えている。おんなじ話を、そっくりそのまま、いつのことでも、何度でも、どんなときだって、一文字も違わず伝え続けるよ」
気付いてしまった。
まつりが付いている嘘の、いくらかの理由、それは、おそらく、ぼくにあったのだ。
そして、本人は、咄嗟だった。まつりの中の、ぼくの情報は、次第に不確かになっている。誇り高かったまつりは、きっとそれを、悟られるのを怖れていた。
そう、思えば、最初から。ぼくの記憶がはっきりあるときのまつりは、ぼくの目の前では、気を使っていた。それも、さも自然に。当然のように。
輪ゴムを使うところを見せたりもしなかったし、ハンガーを持っていたところを見られて、ぼくがびっくりしていても、平然とすることがなかった。
人の記憶をおそれるまつりは、他人の感情の機微に、人一倍敏感だった。
映画を観ていたとき、珍しく、まつりから声をかけてきたのも思い出す。ぼくはびっくりして、3秒ほど固まった後、まつりの方を見た。
『なんだよ、手洗いか』
『違う』
そう答えたときのまつりは真顔だった。
ただまっすぐにこちらを見ていた。
『何かあったのか』
その問いに、気のせいかもしれないが、確かに、まつりは、わずかながら、答えるのを躊躇していた。
まつりの記憶の中で薄れていたのは、ぼくの方じゃないか。
そして咄嗟に、彼女を利用して、悟られまいとしていた。きっと、ずっと、演技を通していた。
だから、あの辺りは無関係な情報が、含まれている。
──しかし、そうだとしても、それだけでは、すべてに理由がつかないが。
それは、ここに入ってから、わかるのだろう。
「……中に入ろう」
ぼくは言った。
まつりは背を向けて、顔を見せようとしなかった。
だからぼくも、特には触れたりせず、黙って扉を開いた。
頭上に降ったら死にそうな、派手なシャンデリアが、ぼくらを出迎えた。
……それにしても、やはり、なにかいろんな違和感をスルーしたような。