■1~10(二度夢の午後)
<font size="4">1.二度夢の午後
</font>
ぱち、そんな音がするほど、目覚めだけは鮮やかだった。
意識が少しずつでも戻ってくると、体はまだ動いてないっていうのに、もう既に完全に起動したところなんだー、と思い込んでしまったらしい。起きて歩こうとして、うまくいかず、寝ていたソファーから盛大に転げ落ちた。ついでに、かけてあった布団も落ちてきた。
うげっ。腹を打ちながら倒れて、布団からなんとか這い出て、ため息をつく。……最近、疲れているんだろうか。例えようの無い不安が襲ってきて、静寂が、気味悪く感じて、なんでもいいから喋ってみることにした。
「頭が、いたい。起きてすぐに、二度寝というか、居眠りは、あまりよろしくないよなあ……」
まったく、おかげで今朝は嫌な夢を見てしまった。きっとよく眠れていなかったのだ。起きてみると、内容もあまり思い出せないけれど。
「ん? ソファーから落ちた?」
辺りを見ると、フローリング。淡いオレンジの壁。そしてオレンジのソファー。壁には謎の小さな絵画。
##IMGR7##
──一瞬、ここはどこなんだ? と焦りかけてから、ここが、ぼくの自宅の、しかもリビングだった、と思い出した。引っ越して何日も経ったのに、どうも慣れない。
そういえば、昨日は夜更かしして、寝室に戻らなかったのだ。せめてこれからは夜更かしに気を付けようと自分に誓っておく。
手に違和感があると思ったら、クラッカーの袋が握られたままだった。食べていて寝たのかな。頭がぼーっとしている。
なんてやってたら、そこへ、何かに気付いたのか、気まぐれなのか、同居人の、佳ノ宮まつりがやってきて、ぼくを、不思議そうにちらっと見ると、手に持っていた袋を奪うように雑に持っていった。
そして自分の髪どめ、にしてはちょっと幼い子向けという感じの(めったに髪なんか結んでないが)、うさぎさんのゴムを無言でくくりつけると、袋を渡して、それでまた、奥へと消えていくので、あいつどうかしたのかなー、と、頭がぼーっとしていたぼくは、しばらく、ぼんやりと目線のみで見送っていた。
しばらくぼんやりしてから、慌てて、もう一度消えかけた意識を、保つ。礼さえ言えなかったと気付いたのは、周りに誰もいなくなってからだ。
寝起きに、輪ゴムなどを使うのには、どうも抵抗があり、結構感謝したいところだったのだが。
──というのも、ぼくは、フック状のもの、それから、輪ゴムや球体なんかは、今になっても、どうも苦手なのだ。
昔よりはマシだが、弾力があったり柔らかいものは好きじゃない。ぱっと見、凶器になりにくそうな、優しい肌触りのものだって、だからこそ、ちょっと恐ろしいと思う。
力一杯、誰かに向けても、平気な気がしてしまうのかもしれないから。これなら死にはしないだろうと、警戒を緩めてしまうこともあるから。
ぼくが単に困ったひねくれものってだけでなく、それは、身をもって知っているのだ。
昔、ぼくは、兄の遊び道具や実験台にされたことがたびたびあって、それのトラウマみたいなものである。『年下だろ』の言葉の下に、ぼくはただ支配されていた。
そのときいつも、母は仕事だった。どきどきは、電話をかけた。決まって、喧嘩するほど仲が良いのねぇ、と切られていた。あまり、関わりたくなかったのだろうか。
父はよくわからない。
当時の家族にほぼ共通して言えるのは、誰も、ぼくを望んでいなかったような、そんな目をしていたこと。
しかし結局ぼくも、喚くだけで、どこかに突き出したり、最終手段のような、抵抗はしていなかった。
まあ、そのときの気持ちは、そのときにしかわからない。
今日は暇だったので、さっき会ったばかりのその人物を探す。布団をかけてくれたのもあいつだろうか? ちょっとした幼なじみだ。詳しい年齢はよくわからないが、同年代くらいだと聞いている。
それからここは借家で、家賃は半々きっちり分けている。
なんで一緒にいるかだが、ぼくが、そいつのツテで、転がり込んだような……そいつが、そもそもぼくを監視下に置いているような、ぼくがそいつを監視下に置いているような、そんな感じである。
部屋にいるかと思ったが見つからないので、どうしたのかと思っていると、まつりは、一階の窓際で、自分の洗濯物を取り込んでいた。洗濯は別々だ。
「おーい」
部屋の中から声をかける。開いた窓からの光で、フローリングはぽかぽかだった。
うん、今日もいい天気。電気は付いてないのに、一階は結構明るい。室内をぼんやり見ていると、少しして、やっとまつりが振り向いた。
物干し竿から衣類を外し終えて、かごにいれながらこちらをうかがう。
少し伸びてきた髪を鬱陶しそうに耳にかけていた。
そろそろ切るのだろうか?
「何?」
「あ、うん」
その手に持たれたハンガーの針金の先がこちらを向いて、少しだけ怯んだ。いまだに、過去、それで付いた傷が、背中にうっすら残っている。
まつりは、要件は何、と、じっと見つめてきた。
そんなにシリアスな話じゃないよ、と伝えるべく、トーンをあげて誘う。
「あのー、暇かなってさ」
「んー、どうしたの」
「外に、食べに行かない? たまにはさ」
「うぅううぅううーん」
すごく悩まれる。
出掛けたくないのかもしれない。
もし嫌なのだったら、と言おうとしていると、行くよ、と返ってきた。
「迷ってたんじゃ」
「いやー。この前あの店でチャーハン頼んだら、油ギトってたし……あそこの店のオムライスなら……」
まつりは目を輝かせて、既に頭の中の、地図だかガイドブックだかを広げているようだった。早い。
「なんだ。もう既に何食べるかに迷ってたのかよ。で、決まった?」
「……靴も、買いに行きたいし、駅のところの百貨店のフードコートで! ハンバーガーと、おにぎりと、ラーメンと……」
「了解。内容はあとで」
たぶん、勢いが良すぎただけなんだろうが、飛び付かれた。なんだか知らないが満面の笑みだ。びっくりする。
よけたら転びそうだったので、なんとか腕を掴んで支えつつ、ハンガーを持つ右手を、さりげなく視界から遠ざける。
まつりはほとんど一人で外出はしない。一人で行動するにはするが、近所に限られる。あまり一人で遠くまでは行きたくないらしい。
だから、久しぶりの外出ということになる。
なにかいいことがあったのか、るんるん、といった感じにまつりは、ちょっと重たそうなかごを持って、二階に上がっていった。
2
ぼくらの関係というのは、つまり――どういったことになるのだろうか。
実際、ぼくもよくわからない。なんでもいいや、とも、思う。
友達、と心から呼ぶ気は無いし、恋人なんてものには程遠いどころか、嫌悪が生まれかねないし、知り合いといえばどこまでも知り合いだった。
同居人ではあるけれど、話したくないことは話さないし、長年一緒だが、相手の行動から読める心理も、ほとんど無い。
たぶん、似て非なる。そんな感じ。
「ナナトはどの服がいいと思うんだ?」
クラッカーを台所の戸棚に戻しつつ、隣にある干し椎茸の袋を落としてしまったぼくに、戻ってきたまつりが駆け寄ってくる。
赤いワンピースと、黄色いワンピースと、青いブラウスと、くまさんのキャラクターがついたパーカーを両腕で持っていた。
一応言っておくと、まつりはまつりであって、男性でも女性でもないらしい。ただ、あまりその話はしない。難しいことはわからない。別にどっちでもいいかなあ、などと、ぼく自身は思う。
いろんな人によれば、中性的な魅力があり、声もそんな感じらしいが、よくわからない。本人はとりあえず、なめられるのが嫌だと、睨むように努めている(つもりのようだ)。
目元も、無意識にぼやっとしているときはキラキラの光彩が潤んでいて、一見すれば癒し系。
……一見すればの話だが。
……さて。どの服がいいのか。――ここで、どれでもいい、と言うと機嫌を損ねるだろう、とぼくは判断して、目についた順で答えた。
「……くまさんのやつ」
「わかった、これで三択になった」
くまさんは投げられた。
「じゃあ、青……」
同じく、ブラウスも放られた。
「よし、二択」
「……どっちも」
「わかった。今着てるシャツに上着を羽織る」
「そう」
《ぼくの選ぶ物は、その日一日縁起が悪く、選んではいけない!》ということのようだった。別に構わないが、ちょっとだけ切ない。
「じゃあ、着替えの時間がなくなったから、行こ」
まつりは笑っていた。ただそれだけだった。なのに、何かが違う気がしてしばし見つめてしまう。
「……何? まつりの顔が、二つに増えてる?」
「増えてない」
佳ノ宮まつりは、ぼくの返事に、興味も無さそうに、台所を通りすぎて玄関まで進み、ぼろけた緑のスニーカーを出す。悪気があるのではなく、もともとそういうやつだ。
上着を忘れているぞ、と思っていたら、よく見ると腕に薄手のカーディガンを持っていた。
「行くか……」
一階にある部屋から財布と手袋とマフラーを持って来て、ぼくも玄関に向かう。冷たい空気がドアの隙間から入ってきて、春はまだかなあ、と思ってしまった。
##IMGU6##
□
「――で。なにが楽しくて、お前と映画……しかもよくわかんない趣向のやつを」
つまらないこだわりを披露すれば、ぼくは、普段、映画は一人で観るタイプだ。
「しー、ナナトはちょっと、うるさいんだ。店にどーんと映画の割り引きフェアの垂れ幕があるのを見たら、行かないわけにはいかんのだよー」
「はあ。いいけどさ……」
割り勘でいくらか食べ歩き、ある程度腹がふくれたと思ったら、唐突にまつりにポップコーンが食べたいよ、なんて、言われて、いつの間にかシアターコーナーまで来てしまった。
しかも、ポップコーンは買わず、マニア向けっぽい映画のチケットを買うことに。あ、これ見たかったんだよ今日は運がいい、とか誇らしげに言っているまつりに押された形だ。
わかることはほとんどないとはいえ、それでも長年、腐れ縁で近くに居て、感想として思ったことだが、こいつは、食欲やらいろんな欲求を「興味」や「好奇心」が置き去りにしてしまうみたいなのだ。きっともうポップコーンの存在はすっかり消え失せているだろう。
個人的には隣にポスターが貼られた、ハードボイルドなガンアクション映画が気になったが、もう上映中みたいで、あと何時間か待たないといけない。
結局、まつりの気まぐれに付き合うことで納得した。気まぐれというのは、自分では止められないというか、気まぐれ衝動に逆らうのはなかなか難しいというか、そんな気持ちはよくわかる。
ぼくもわりとそうなので、仕方がないとは思うが、あいつはとくに気分屋なのだ。
「――しかし、なんだろうこの……食後で良かった感は」
踊り出すローストチキンとか、男の身体中に貼り付けられたハムとか、ううん……? 宇宙人が……フォークとナイフに乗りうつって?
歌いながら激しく飛び散るチョコレートケーキに、パーティー会場がパニックに……
ああ、食べ物が……食べ物が粗末に……
――――会場には、人が、ぽつぽつとまばらにしかいなかった。
おじさん率と、眼鏡率が高いのは、単なる偶然だろうけど。
右隣で、まつりはきらきらとした目で、スクリーンに見入っていた。たまに、ぼそっと呟いた独り言(「あ……」とか、「おお?」程度だ)に、隣からうるさい、と注意されたりもして。
しかし数分で画面の光景にも慣れて、ぼくも気が付けばすっかり見入っていた。ここが映画館ということも忘れるくらいに。
ちなみにセリフはほとんどない。
画面はセピア色だったり、どきどきカラーになったりする。
ほとんど持ち合わせない想像力を必死に使うので、少し頭がくらくらしてきた。
――――そのまま、話も、だいぶん中盤くらいになった頃だった。
「ねぇ、ナナト……」
珍しく、まつりから声をかけてきた。
ぼくはびっくりして、3秒ほど固まった後、まつりの方を見る。
「なんだよ、手洗いか」
「違う」
まつりは真顔だった。
ただまっすぐにこちらを見ていた。考えが読めないのはいつものことだけど、今は、更に増して、わからない。
「何かあったのか」
「いや」
「じゃ、なんだ」
「いる」
いる。
それだけを、言われたので、どうしろというのかわからない。なんだ、お化けか? 宇宙人や侵略者か。存在の有無だけを告げられても、困ってしまうが。まさか、ティッシュかハンカチが必要かどうかなんて場面には思えないし。
小声でひそひそと話し合う。結構これはこれで、息が辛い。苦しくなってきた。
まつりはもともとの、気まぐれを言うときのぽつりとした口調でごく自然に声量を落としていて、あまり苦しくなさそうに見える。
「何が?」
ぼくはなるべく一言のセリフを少なく努める。
「……ん。最前列、右隅の……」
まつりの声は少しだけ震えているようだった。
言われた方を見る。
(ちなみに、ぼくらは出口に近い方に居たくて、後ろから三列目にいる)
前の方の席はがらあきなので、人影の判別はそれなりにしやすく、すぐに、見つけることができた。
「……女の子?」
小さな女の子が、その辺りの位置に座っているのを見つけ、聞いてみる。7~10歳くらいだろうか。小学校に入りたて、みたいな感じだった。肩まで伸ばした髪の後ろをちょっとだけ結んでいる。
「なんで、ここに」
まつりの言う意味が、やっぱりわからなかったので、聞いてみる。もちろん小声。
「あの子が、なんだよ。あっ、もしかしてこれ、R指定だったか?」
「いや、そうじゃない。ただ、知り合いに似てたから。しばらく会ってないけど、つい二年前に、いなくなったんだ」
「行方不明ってことか? 誘拐とか?」
「脱走した」
「脱走って……」
「まつりは、あの場所から連れ出してもらったけど……」
連れ出したのはぼくだった。過去に、ある惨劇の現場になったまつりの家から、ぼくが、まつりを連れ出して逃げてきたことが、かつてあった。
決して、ヒーローになりたかったわけじゃないし、まつりを助けるつもりなんてなかったのに、なぜか、見過ごせなかったのだ。ただの、自己満足の自己犠牲だ。感謝なんてされてしまったら、罪悪感で消えたくなるだろう。
あの家は、いつまでも犯人がわからず、存在さえ朧気になっている、ある一家惨殺事件の現場だ。
計画したのは、うちの父と、まつりのところの誰かだというのを、実は、当時のぼくは、勘づいていた。
もしかしたらまつりも。
しかし、ぼくが何か言ったって、ガキの証言はあてにされなかった。もともと、挙動がおかしいと両親にも言われていたし、またこの子は、と誤魔化されるだけだった。
狙われたのが、なぜ、まつりの家だったのかは、よくわからない。そのときの、ぼくの家の向かいの、大きな屋敷に住んでいて、家の裏、小さな子どもにしか潜れないような細道から、ぼろぼろで逃げる途中だったまつりに、その日、庭にいたぼくは、手を貸したのだ。
しかし、あくまで、外にいただけで、中で何人の誰が、どうしていたのかは、詳しく知らない。複数人が、酷く暴れていたということしか。
逃げるとき、腕を引かれながら、壊れたオルゴール人形みたいに、まつりはカタカタ笑っていた。無表情で、何を見ているのかわからない目で、ぼくを見て、言った。
ほんとうは、わかってるんでしょ、と。
いや、何もわからないよ、とぼくは言った。まつりは赤く染まった白いワンピースで、腕と首には赤が滲む包帯を巻いて、傷だらけで、ふうん、と言った。
「あの、やってきたグループの中に、あんな子が、いたんだよ」
人払いされているみたいに、なぜか、そのとき、嫌なほどに辺りに目撃者は居なかったから、それは、当事者しか、知らない情報だ。
「……グループに。でも、どうして脱走したなんて、知って」
「ちょっとね」
「……えっと、それと、どうして今、ここに、その――」
反応が無いと思って、隣を見たら、まつりは既に映画を観る方に徹していた。さすが、集中するのが早いというか、切り替えが突然というか。ナイフとフォークが、ワルツを躍りながら七面鳥を切り分けている。
しばらく映像を見ていなかったせいで、特に前知識もないぼくは、何がどうなっているのか、もう付いていけない。結局、しばらくして上映が終わったが、ぼくはほとんど内容が、頭に入っていない。
エンドロールでタイトルを見てから「あれ? これ知ってる気がする」と漠然と思ったけれど。
3.貴様を待っていた
「貴様を待っていたっ」
びし、と指を指されたのは、ぼくの隣で、いかにも眠そうなまつりだった。
一方で、指を向けて得意げなのは、小学生くらいの背丈の、可愛らしい女の子だった。
なんだこの子。とは思ったが、変なことにはそれなりに慣れていたので、びっくりしない。
エンドロールの途中で眠ってしまったまつりを起こしていると、ずかずかと、女の子はこちらに向かってきた。さっきまで、前の方に大人しく座っていた、まさにさっき注目した子である。
まつりは、よく知らないがいろんな知り合いがいたので、またその類いかと考えながらも。
「お嬢ちゃんは、迷っちゃったのか?」
一応ボケをかましてみる。はい? みたいな目をされた後、ツンと無視されてしまった。ちょっと切ない。すみませんでした。
「待っていたんだっ! おーきーろ! 貴様の分際でっ!」
とても元気が良い少女のようだった。しかし、そのセリフは、こう、いろいろと……どうなのだろうか?
##IMGR21##
狭い席の、真ん前を塞がれてしまうと、足元に鞄があるし、隣はまつりが寝ているしで、とても動けないので、戸惑う。
「んんー……まだまだ食べたーい……んあ」
食い意地の張った寝言とともに、まつりが目を覚ました。しかし良かった、と思ったのもつかの間で、すぐに瞳が雲ってゆく。
これは相当眠いらしい。
昨日、夜中遅くまでゲームなんかしてるからだ。
夜中眠るまでぼーっとソファーで起きていたぼくが人のことは言えないけれど。
「……誰だ? ナナトの、かのじょ……ワカイネ……」
うっすらある意識の中、寝ぼけたまつりが、こちらに、聞いてくる。
「目を覚ませ」
いないわ、なんて自分で叫ぶのは、それはそれで切ないのでやめておいた。
その間にまつりは再び目を閉ざす。
「おきろ! おい、そこのナナトとかいうのも、起こせよこいつをっ!」
ばたばたと忙しい少女は、まつりを起こそうと懸命である。
お上品な見た目とのギャップに、なぜだか脳内で、副音声でお楽しみいただけます、のテロップが浮かぶ。
「起こせと言われましても、ひとまずあなたは、どちら様? まつりとどういう知り合い?」
「こ、こいつのことは、よう知らん。だが、おねーちゃんが、知り合いだっ! 聞きたいことがある!」
意外にも、あっさり答えてもらえた。語尾に勢いを付けるのは、何かの流行りなのだろうか。まさか『元気よく挨拶しよう』が、小学校の今月の目標なのか? いや、よく考えたらとくに挨拶はしなかったぞ。
寝ぼけているまつりを、体に触れる方法で起こすのは非常に(こちらが生命的に)危険だというのは、もう身に染みている事実のため、ぼくは、退室していく人達を横目に、数秒間悩んだ。
安全そうな方法は3つ。
まずは気軽なやつから。
「アイスクリーム買ってやるぞー。チーズケーキのやつ、食いたいって言ってたじゃん」
――まつりの反応は速かった。
勢いよく起きてくれたはいいが、寝癖がすごい。
「おはよー!」
「おはよう、そして、さっさと出ようぜ」
「アイスクリームは? アイスクリーム」
アイスクリームにやけに食い付いてきた。
「貴様ら、無視すんなっ!」
女の子が怒っているが、まつりの視界には入っていない様子。
身長差があって、というのもあるが、何よりも、今のまつりには、アイスクリームしか頭に無いのだろうか。
聞いてみる。
「なあ、この子、お前を訪ねてきたらしいぞ」
ああ、とそっけない返事が返ってきた。反応するのが面倒なだけなのかな。
「知ってる……そんなの、ここにいる時点で」
ぼーっと呟いたかと思えば、ふい、と顔を背けて、トッピングは何がいいかな、などと考えそのまま歩き始めてしまった。後を追う。
植物、小動物に至るまで、愛想が良いまつりにしては、なんだか嫌そうな対応だ。
「おねーちゃんは、どこにいるっ」
懸命にまつりにしがみつく少女。未だ詳細不明。
一方でぼやっとしているまつりは、ドアに衝突しかねないので、出るときに、代わりにドアを支えた。
「チョコチップ」
まつりはぼんやり呟いた。
「なんだそれは!」
少女が噛みつくように反応する。
「……ろっきー……」
「どこかの名前か!」
とても和むやりとりではあったが、こいつはアイスクリームについて考えてるだけではないのだろうか……
「とりあえずなんか奢るから、話くらいは聞いてみたらどうだ?」
後ろから肩を掴むのは(こちらが)危険なので、視界に嫌でも入る位置に立って聞いてみる。
何しに来ていたんだかよくわからなくなってきた。
それはそれで、ある意味正解かもしれない。
まつりは答えなかった。
薄暗い部屋を、あわてて出ると、ちょっとした階段になっている部分を降り、二階のアイスクリーム店に一直線。
(2と壁にあるのを見て、ようやくあそこは三階だったんだ、なんて思った)
風船を配るどこかの保険会社のキャラクターにも、割引券だか福引券だかを張り付けた笑顔で配る男の人にも目もくれず、走らない程度に急いでいく。
置いていかれたぼくと少女は、あわてて追いかける。
店の前には、おやつを食べたくなる時間なので、それなりにだが、列が出来ていた。最後尾にたどり着くと、まつりの足が止まった。なんとか追い付いた腕を、掴まれた。嬉しそうだ。
「コーン! 一番大きいやつ」
「はーい……」
本日二度目、近くにいた女子高生も、思わずみとれるくらいの、満面の笑みだった。
――そういえば、こいつがよく、こんな目をするようになったのは、いつからだっけ。
いや、いつも、笑ってはいた。だけど、ただ、笑っているだけだった。
泣くわけにはいかないから、代わりに笑っている、そんな感じ。
接触が悪くなった、しゃべる人形みたいに、ときどき。
だから、笑顔を見るたびにぼくが願うのはいつも、ひとつだけなのだ。
「……どうしたの、まつりの顔が、赤い方と青い方のふたつになってる?」
並んでいる最中だというのに、ついぼんやりしていたら、心配されていた。
……というかそんなんになっていたら、女子高生の反応も違ったものだっただろう。
「いや」
うまい返しが浮かばなくて、とりあえず誤魔化した。列は、だんだんとカウンターが見えてきたくらいになっていた。もうすぐだ。
少女は、列に並ぶのが苦手なのか、大きい大人に紛れるのが不安なのか、ぼくの後ろに、いつの間にかくっついていた。
「第二形態で、赤と青が、分裂……あ、この、赤いのと青いのも美味しそうかもしれない」
「腹を壊さない程度にしろよ。あ、きみは、何か」
出来る限りの優しい声で少女に話しかけてみると、完全に不機嫌そうだった。そりゃあ、そうか。
こういう状況にはなれていないので、どうしようかな、と思っていたら、まつりが、ちらりと少女を見た。そして、意外にも、少女に優しい声で言った。
「……おまえも、一応、まつりのお客さんではあるから、まつりが聞こうかな。食べたいのある?」
それより質問に答えろよ!
と言いたそうな目をした少女だったが、数秒で、誘惑に負けたのか、素直にうなずいた。
4
近くの休憩用のベンチに座って、並んで食べていると、休日の家族か何かみたいだった。
……いや、経験したことはないんだけど。
事情を知らない他の方々には、仲の良いきょうだいに見えたり……しないか。
悪くは見えないのだろう。
自分用にはバニラアイスを買った。みんな食べ終えるのは意外と早かった。
――まつりが、靴を見に行くのは今度にするよ、と言ったので、いよいよ帰るしかなくなって、そして今。
外は雨が降っている。
近くにある駅は、会社や学校帰りの影響で、人が増えてきて、ちょっと進みにくい。
傘を忘れたので、とりあえず、濡れて帰る。少女が、頬を膨らませて、まつりをひたすら怒り続けていた。
「なんなんだ、貴様はっ! こっちがわざわざ誘ったというのに! 違うやつとのんきにデート、しかも、指定場所に、二人で来るとは、本当に、貴様は私を侮辱して!」
「悪かった。さぼろうか、さりげなく帰ろうかの、二択で迷ってたんだけどね、せっかくナナトが連れ出してくれるっていうから」
まつりは、悪かったと言うわりに、歌うような言い方だった。
「なんだと! 正面から連絡して断る選択肢がなんでないんだよっ!」
それは確かに。
だけどあと、もうひとつかふたつ、気になるポイントがあるようなないような。
「なーんだ、最初から、約束あったのかよ。それなら言ってくれればさ」
「──えー、だって、そうまでしたくはなかったし、でも、せっかく、ナナトが外に出るっていうから……」
ちょっと拗ねた言い方だった。
まつりが、一人で遠くに行くのが嫌だというのは、決して、寂しいからではない。
最も恐れる事態があって、その身だけではどうしようもなく危険なのだ。
「貴様、そんなにも、そいつといちゃつきたいか?」
少女の目付きが怖くなる。口を挟む気になれないので、おろおろしていると、まつりが、信じられない! みたいな顔をした。
「それ、人生で56番目くらいに侮辱の言葉だよ! って、いうか、正直、食べ歩くうちに忘れてたんだ……約束をじゃなくて、誰と、かを」
(56番目は、この際スルー)
ふざけているわけではなく、まつりはよく、そうなるみたいだった。
約束や、予定は覚えていても、人物情報が簡単にごちゃごちゃになることがある。
ぼくとしか話さない日が続く間は、覚えてくれていても、その間に違う人の情報が入ると、どちらを優先するかで、混ざってしまう。
その記憶には、時系列等は特に関係ないらしく、覚えている記憶と覚えてない記憶が、一人一人に対し、ごちゃごちゃしているらしい。だから、いつか、もう一度、ぼくらは途切れるのだと思う。繰り返してきた昔みたいに。
「そのうちナナトと約束してたんだっけ、って思ってきちゃって……」
面倒そうな言い方だった。
「私を見たら、思い出すだろ!?」
「いや……なんで、あいつがここにいるんだろ、と素直に思ってた。なーんだ。そういや、姉じゃなくて妹のほうだったな。最近、脱走したって聞いてたからてっきり──いや、あれは……あれ? 誰だっけ」
「脱走?」
おや、という反応だった。少女は、訝しげな顔をしている。なんだか、様子が変だ。
まつりは、どうしてそんな顔をするんだ、と言わんばかりに話し続ける。
「──あ、でも、そうだ、そもそも、あの姿しか知らないんだった。おんなじ体型でいるわけがないな……」
「おい、それより、脱走って、何だ」
「えっ、おまえのねーさんだろ? コウカが」
「だがっ、お姉ちゃんは、戻って来ていない! だから、貴様の手にっ」
雨が止んだ。
予測して、すでに傘を閉じた人、周りを見て傘をしまう人、気付かずに傘をさし続ける人、気付いたが、傘をさし続ける人。いろいろだった。
雨上がりは、そんな、いろんな人の反応を見られるので好きだな、なんて、ちょっと生乾きのぼくは思った。
駅から2つ隣のコンビニのあたりで、まつりは首を傾げた。
「だからきさまのてに? 嫌だなあ。そんな、情けないこと、もうやめてるよ」
後悔が染み付いている、そんな言い方だった。
冷たくて、寂しい声だ。
「じゃあ、どこに? てっきり、貴様のことだから、もし、そっちにいるのなら……を……に、……とか……って、いたぶってるんだろうと。だから早く、迎えにって」
一部が小声で、よくわからない。しかし、当事者には理解出来るようだ。
「あー、やだな、誰に聞いたか知らないけど、昔のやからの類いは、そんな話ばっかして! おまえは、見たわけじゃないと思うんだけど。人をイメージばっかで語るからぺっらぺらと言えるんだ」
喧嘩が始まりそうだった。少女は更に怒っているし、まつりは、かろうじて冷静だが、それなりに気分を害したようで、あえて挑発するような態度だ。
ぼくはまつりの過去なんて知らない。少女の過去も、知らない。
知ろうともしないし、大した説教なんて出来る立場でもないけれど、とりあえず、食後なので横腹が痛い。まつりに呼びかけてみる。
「お前は、腹とか痛くないか?」
「ああ? なに、いきなり!」
不機嫌だった。
「腹痛くならない?」
「ナナトじゃないんだから、そんな柔じゃないよ。なんなら腹筋だっ……て」
少女が吹き出した。
まつりもつられて笑った。ぼくは、だんだんこみあげる何かに、喉がひりひりした。
「悪かった」
少女が呟いた。まつりは何も言わなかった。それを見て、消え入りそうな声で言い直す。
「すみませんでした」
まつりが少女の方を向く。今度は、ちゃんと焦点を合わせている気がした。
「ふふ、そういう顔が見られたから、満足だよ。おまえの姉の居場所は、よくわからないけれど、おまえが、思い込みとはいえ、せっかく、まつりを頼ったのだから。まあ、なんとか、するだろう」
予言みたいな応えだった。嫌がって、避けていた依頼を、受け入れることを選んだらしい。
「ケイガだよ」
少女が名乗り、微笑んだ。
5.鍵のあるはなし
……その、コウカさん?
というのは、まつりの家に来た人たちの中には居たけれど、何か手を出したのかと言えば、そうでもないらしい。
『敵の中にだって、それなりに友好的な人は、たまに、いるもんなんだよ』とまつりは言った。相手側に属してはいたけれど、仲が良かったようだ。あれ。まつりは、震えていなかったか?
「――どうして」
家に帰って来ると、すぐにリビングのソファーに《猫を愛でるセレブの図》みたいに少女を抱えるまつりが座りながら言った。
(ちなみにぼくはテーブルでお茶を入れている)
##IMGR22##
ケイガちゃんは、目をそらしていた。まつりは暇をもて余しているのか、彼女の頬をふにふにしはじめる。ケイガちゃんは、口をぱくぱくさせて困惑した。呆れているのかもしれない。
「薄々感じていたけどさ……お前、いたいけな少女の反応で遊んでいるだろ」
こういう、堂々としててプライドが高そうな子をからかうの、好きなんだよなあ。
「まつりのことを、貴様とか言ってくれる
んだよ。こんなに敵対心むき出しの子、久しぶり!」
随分と気に入っていたらしい。頭を撫でて叩かれている。ペットと間抜けな主人みたいだ……
「ほどほどにしろよ……」
「あー、寂しいんでしょ?」
こっちに絡んでこられそうになったのであわてて、落ち着いてきたケイガちゃんに、説明を求めた。
(ぼくはごめんだ)
ケイガちゃんは、助かったとばかりに、緩んだまつりの腕から抜け出して、テーブルからひとつ、入れたてのお茶を取ると、ソファーから離れた椅子に座る。
それから彼女は、腰に付けていた可愛らしいポシェットから、封筒を取り出した。
「家の、部屋の窓に、これを投げられて」
ケイガちゃんが開けたその中には、何か綴られた、一枚の紙があった。封筒の中は見えないので、もしかしたらもう一枚くらい入ってるのではとよくわからない期待を抱きかけたが──今は関係がないか。
「姉を見つけ、来賓館に連れて来い」
淡々と、その一行を読み上げ、それから、追伸を続ける。命令されているようだ。
「──期限は明日の正午まで。逃げ場はない。破れば裁く」
「それは誰から?」
まつりが無表情で聞いた。返答はなかった。どうやら、わからないようだ。
「明日って、もう時間がないんじゃ?」
裁くって、何をされるんだろう。どうやって、そんなことを。よくわからないことだらけだが、ぼくが騒いでもどうにもならない。
あれ。そもそも、なんでそんな言葉を使うかが重要なのではないだろうか?
まつりは少しだるそうに、残ったカップをひとつ取り、少し冷めた中身を飲み干して、嫌な顔をした。渋くなってたんだろう。
「そうだねー。でも、時間がまだあるじゃない」
「い……居場所なんてっ、わからないのに」
「にしても手紙を投げたお方は、なかなか視力がいいんだね」
「視力の問題なのか?」
「あー、だめ、ぬるい。もう一杯」
「もう一回沸かす?」
「き……貴様たちは冷静なのだなっ」
奇妙な空気になってしまった。ぼくはどうも《焦る》というのがうまく出来ないらしい。まつりも、のんびりとお茶のおかわりを入れている。
緊張感が無い、は、昔から言われ続けて、通信簿に書かれ続けたことだ。
焦っても、しょうがないと思うことが多かったし、焦りながらでも、手を震わせながらでも、とりあえず、何かしていた方がましなんじゃないか、という気持ちなのだが、冷めてるよな、と言われてしまうことも多々だ。
──まつりはどうなのか知らないが。犯人に見当がついたのだろうか? ケイガちゃんは、やはり可愛らしく、どうしようと慌てているものの、二人があまりにぼやっとしているので、どうしたらいいか困惑気味だ。
「んー、ざっと5つ、だったかな」
まつりはぼんやり呟いて、壁のフックにかけていた自分の鞄から、携帯電話を取り出す。
ボタンがないと不安だよね、とのことだが、通常のものよりボタンがついている気もしなくはない、薄型の黒いやつだ。
「ぴぴぴぴーっ、と」
まつりは、ぴぴぴぴ、では収まらない回数、ボタンを何回か押してから、少しして、あった、と言った。
「何してんだ?」
「情報通の奥さまにお電話ー。いやあ、さっき、自分の暗証番号忘れちゃって、びびったよ」
そう言うと、静かにして、と目で合図し、耳に受話器を当てた。