ACT1 第一手
使用人の朝は早い。
夜明けと同時に目を覚まし、いつ主と顔を合わせても失礼の無いよう
まず顔を洗い身形を整える。衣服は晩に眠る前、皺にならぬよう伸ばしておき、皺が寄っていたなら水ノリを吹きかけた上でアイロンをかけて伸ばしておく。
特に執事ともなれば、品性も求められる。常に完璧な身だしなみと紳士的な振る舞い。
エミリオ=ロッターも、幼いながらに執事を務めていた。
油気のない亜麻色の髪は、相手が鬱陶しく思わないよう短く整えられ、前髪も短く、形のいい額が見えている。愛用の眼鏡はしっかりと磨かれており、涼やかな金の瞳も相成って体格こそ小柄だが、まさしく『優秀な執事』という印象の容姿である。
もちろん執事に老いも若いも例外なく、エミリオも夜明けと同時に目を覚まし、身形を整え、いつ如何なるときも主の要望に応えるため、万全の準備を行う。
顔を洗い、シャツにズボン、ネクタイに燕尾服。
それらに皺や汚れのないことを確認してから身に纏うと、厨房に足を向ける。
釜戸に火を起こし、湯を沸かす間に今日使う食器類を磨いてしまう。
「ふわぁ〜…おはよぉございま〜す…。」
そうこうしている間に他の使用人たちも起きてくる。
欠伸をかみ殺しながら厨房に入ってきたのは、エミリオと同じ位の背の、愛らしい人物。
絹糸のように艶やかな髪は亜麻色なのだが、惜しいことに肩にかからない長さで切り揃えられてしまっている。くるくると表情の変わる瞳を縁取る睫は長く、量が多い。
群青色のスカートと、白の前掛けを身につけ、右手に純白のヘッドドレスを持っている。
浮かべる表情や言動から受ける印象こそ正反対なものの、その顔立ちは鏡に映したようにエミリオとそっくりな、この屋敷の侍女。
侍女の名前はアルシオ=ロッター。
森羅万象、それこそ全世界の人間どころか動植物、微生物、細菌類、果ては未確認宇宙生物ににまで否定されようが、エミリオの双子の“弟”である。
「あぁ、おはようアルシオ。」
「ぶぅ〜。エミリオ毎朝毎朝早すぎだよぉ〜〜〜。」
「たまたまだよ。それよりほら、寝癖を直しておいで。」
膨れっ面をする侍女にエミリオが苦笑しながら促すと、アルシオは髪を撫でながら、ぶつぶつ呟きつつ洗面所に向かった。
「ぶぅ〜ぶぅ〜。毎晩ちゃんと梳かしているはずなのに、何でこんなになるかなぁ〜。」
洗面所からの不機嫌そうな声に重なって、湯が沸騰した音が厨房に響く。
エミリオたちが使えるのは王家の後ろ盾、名門ランスロット家。
7年前に終結した『賢武』戦争と呼ばれる大規模な戦乱の影響で、多くの貴族が没落していった中、栄華を極めた様は、まさに奇跡だった。
『賢武』戦争の『賢』とは、その強い魔の力から恐れられ、迫害を受けた『魔法使い』。
また、『賢武』の『武』は呼んで字の如く武力によって彼らを虐殺していった『王家』。
つまり、『魔力』対『武力』のぶつかり合いである。
ただ魔法が使えるだけで、虐げられてきた、『魔法使い』たちの怒りが百年以上も続く『賢武』の争いの引き金を引いたのだそうだ。
その争いに巻き込まれたのは王族だけではない。
王族の後ろ盾をする貴族たちもまた巻き込まれ、中には戦陣に送られるものもいた。
ランスロット家もまた例外ではなく、前当主、またさらに前の当主たちも剣を振るった。
多くのものを巻き込み、たくさんの命が散った『賢武』の戦を終わらせたのは、現当主。
現在ランスロット家当主で在らせられるシュドナイ=ランスロットは、歴代当主の中でも群を抜いて優秀、かつ残忍な男と言われている。
冷淡にして、冷酷。
しかし、そんな情のない男だからこそ、あの百年にも及ぶ『賢武』の争いを終わらせられたのだと、誰もが口を揃えて言った。
たかが一貴族に過ぎないランスロット家が、なぜ戦乱の世になって、力を得て行ったか。
それはランスロット家にとっての社交の場は戦陣だからである。
他の貴族が、絢爛豪華な室内で、煌びやかな衣装を身に纏い、オーケストラの演奏に乗ってウインナワルツを踊ることを社交と言うのなら。
ランスロット家にとっては、荒野流転の戦場で、血や泥で汚れた鎧を装備し、銃声と雄叫びを耳にしながら剣を振るうことが社交なのである。
圧倒的な武力と、魔法の才。
それがランスロット家が栄えた理由であり、かつ王族内での強い影響力を得た理由である。
一通り食器を磨き終えると朝の紅茶の支度を始める。
この屋敷の主は寛大で、使用人たちにも自由に紅茶を飲むことを許可している。
そろそろ起きてくるであろう主の分をはじめ、合計三人分の紅茶を注ぐと、やっと納得いくような髪形になったのだろう、どの角度から見ても完璧な美少女侍女になったアルシオが、洗面所からようやく戻ってきた。
「アルシオ、鬱金玉と砂糖、どっち?」
「ん〜と、アルちゃん今朝は鬱金玉よりレモンでストレートな気分。」
「はいはい」
レモンを流れるような仕草で一枚薄切りにすると、紅茶に添える。
自分の分のカップには薄く輪切りにした鬱金玉を浮かべて、紅茶に口付ける。
「相変わらず紅茶入れるの上手だよね〜。料理も上手だけどさ。」
「教えてくれた人が上手いからね。」
そう言って朝の紅茶を楽しんでいると、見計らったように小さな鈴の音。
―チリンチリン―
「あ、御主人様もう起きてたんだ。相変わらず早いね〜。」
「みたい。じゃ、行ってくるよ」
エミリオはティーセットをトレイに乗せ、厨房を後にした。
この屋敷に住んでいるのはランスロット家第11子息エルロットと、その妹君で第12子女フラウリッシュ。
執事であるエミリオはエルロットの身辺の世話を、侍女であるアルシオはフラウリッシュの身辺の世話を仰せつかっている。〔といってもアルシオは男だが〕
体の弱いフラウリッシュでは夜明けと同時に動き出す使用人たちとはどうしても体内時計が合わない。やっと日が昇ってきたような時間帯に使用人を呼び出すのはエルロットと相場決まっていた。
使用人の生活区域は地下である。
地下とは言っても地下室とは違い、半分地面に埋もれているだけで、窓もあり日の光も入る。喚起もしやすく湿気もたまりにくいので、かなり快適な環境だ。
その地下から石造りの階段を上ると、広い玄関ホールに出る。
こちらは二階まで吹き抜けになっており、豪奢な絨毯が敷かれている。
主の寝室は正面階段を上った先の二階にある。
にも関わらずエミリオは奥の階段に続く廊下を迷うことなく進んだ。その階段を上った先にあるのは執務室と物置部屋だけである。
本来なら、おやと首を傾げるところだが、何のことはない。
この屋敷の主が紅茶を所望するときは、相場決まって書斎か執務室にいるからだ。
そして書斎は一階にあるが、先ほどの鈴の音はもっと遠かった。
執務室の扉の前に立ってドアを軽くノックする。
「お呼びでしょうか」
ノックしてすぐに入るなどと言う無粋な真似はしない。主から許可があるまでは、扉の前に佇むのが執事というものである。
やがて静かに入室を許可する声が聞こえ、木の葉の装飾が彫られた真鍮製のドアノブを捻る。
「失礼します。」
室内に入って真っ先に目に入ってくる机。そこに座り羽ペンを動かす人物。
先ほど銀の鈴でエミリオを呼んだ張本人がそこにいた。
「…君か」
書類に目を通していた青年が顔を上げてエミリオに目を向ける。
ガラス細工のように端整な線の細い顔立ち、陶器のように滑らかな白い肌に、アッシュグレイの髪と小さめの縁なし眼鏡を通してエミリオを映す切れ長なアメジストの瞳。
漆黒のウェストコートに、深い鈍色のスーツ、胸元のクラヴァットに付いた小夜啼鳥のピンがやたらと似合ってる。
触れれば切れる、刃のように張り詰めた雰囲気の青年だった。
青年の名はエルロット。エミリオとアルシオの雇い主でありこの屋敷の主である。
「用意がいいな」
艶があるのに涼やかな良く通る声。だが、凛としたそれを嫌うかのように端的な言葉。
エミリオがサイドテーブルに紅茶を並べ始めると、エルロットはかけていたノンフレームの眼鏡を外すと、ペン置きの傍らに置いた。
紅茶を並べ終えたエミリオがなんと無しに机の上に目を向けると、火の消えたランタンが置いてあることに気が付いた。
椅子につき、紅茶の香りを楽しんでいた主人に微笑しながら尋ねる。
「ところで御主人様。」
「何かね。」
「昨晩はきちんとお休みになられましたか。」
「……………ちゃんと仮眠はとっている。」
目を逸らしながらエルロットは気まずそうに紅茶を口にするが、そういう問題ではない。
どうやら夜通し仕事をしていたらしい。アルシオが知ったらまた一頻り叱りつけるところだろう。流石に彼のように喚きこそしないものの、無論エミリオとて同じ心境である。
姿勢を正し、シャキーンと太字マジックでデカデカと『鉄面皮』と書かれた仮面を装着すると、眼鏡を押し上げてエミリオは口を開いた。
「確かに今は時間がないことは分かります。しかしそれで倒れてしまっては元も子もありません。睡眠はしっかりとってください。」
「む、しかし…」
「でもも糸瓜もございません。食事をちゃんと取ることと、夜はしっかり休養をとるとお約束いただけるまではここを離れるわけには参りません。」
「……ぅ、むむ…。」
尚も渋るエルロットにエミリオは目を細めた。
エミリオの甘い子供のような顔立ちから表情がなくなると、冷たい迫力があった。
あれやこれたと言えばエミリオは殊更丁寧な言葉遣いになる。それが逆に、怖い。
気圧されたような主人の様子も知ったことかとばかりに、エミリオはさらに言葉を繋げる。
「無礼は承知の上でございます。ですが主人の体調管理も執事の務めゆえ。どうか私めの言葉にも耳を貸してくださいませ。」
「……努力しよう。」
「ありがとうございます。」
眉間に皺を寄せながらもしぶしぶ頷いた主に、ふわりと微笑を浮かべる。
その眉間に刻まれたヒビのような皺が、不機嫌からくるものではないと分かっているからだ。
感情をうまく表現できず、眉間にしわを寄せるような険しい表情や困った表情を作ったりするのは、不器用なこの青年の癖だった。
「首尾はどうかね」
二杯目の紅茶を注ぐタイミングを見計らっていると、唐突にエルロットが呟いた。
何の…とは言わない。言葉が足りずとも、それを理解するのがエミリオである。
「どうやら来週『オークション』が開かれるようです。やはりパトロンとして御主人様が名乗りを上げられたのが大きかったかと。」
「そうか。あちらのほうは」
「アルシオが良い『市場』を見つけたようで。こちらも問題ありません。」
「うむ。」
眉を寄せたまま頷く主の、空になったカップに紅茶を注いだ。
抜群のタイミングで足されたそれに、むっつりと閉ざされた口元を微かに綻ばせる。珍しく柔らかい表情をしている主にエミリオは不覚にも思わず見蕩れていた。
「君たちには、これからもっと迷惑をかけることになるな。」
その『迷惑』というのがどういうものなのか、エミリオは理解している。
主の言葉の重さに気付きながらも、微笑を崩さず主の手をとり、傅いた。
「私たちは貴方の手足。貴方が望むのなら剣にも盾にもなりましょう。」
それが至高、それが美学。
それが、願い。
エルロットの手は白く、その指は男のものなのに、ひどく脆く見えた。
痛みを堪えるような瞳の、なんと美しいことか。
その瞳に魅入られながらも、微笑を浮かべ、立ち上がる。
重い空気を振り払うように、清清しいほどいつも通りのエミリオになる。
「今日は良い天気です。昼はテラスで取るのも悪くないかと。いかがしますか。」
突然立ち上がり、纏っていた空気を霧散させたエミリオを、ポカンと見上げていたエルロットだが、握られていた手を見つめ、窓の光を見、最後にエミリオに目を向けると
「…君に、任せよう」
陽の光に溶けそうなほど、淡く微笑んだ。
「御心のままに」
この優しい時間が来週には失われてしまうのだと分かっていながらも。
二人はそこから、目を逸らし、お互いに微笑んだ。
つかの間の、平穏が始まる。