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ちょっと短めです
風の強い夜だった。
こういう夜を、私の地元では「サムトの婆が帰ってきそうな夜」と言う。
神隠しに遭った女性が自分の命日に帰ってきたという昔話に由来しているらしい。
「サムト」とはお婆さんが住んでいた地名だという話だが、そんな地名は今どこにもない。恐らくなくなってしまった家の屋号か、違う地名(父が言うには登戸が有力らしい)というのが地元民に一致した見解だった。
父はまだ帰らない。
びゅうびゅうと窓に打ち付ける風は、時折小石を打ち付けているのか、かつ、かつ、と音を立てる。人が爪で軽く硝子を引っ掻いているようにも聞こえ、私は身震いした。
窓の外にサムトの婆か変質者が立っているような気がしたから。
私は珍しくスマホを手放し、外の様子を確認しに行った。
「最悪逃げろ、ねえ」
鰐淵先輩の珍しい言葉を何度も思い出す。
先輩はもしかして、この家の怪異について心当たりがあるのだろうか。
近所で相当噂の幽霊屋敷とか。
でも先輩の家は違う市にあるしなあ。第一、中古とはいえ、この家は真新しさの残る現代的な住宅だ。「幽霊屋敷」って、もっとおどろおどろしいものじゃないだろうか。
私は首をひねるばかりだった。
それまで岩手に住んでいた私達家族は、父の転勤により東京に引っ越してきた。
山と川と田んぼがデフォルトで、隣家との距離が百メートルは離れていた環境から一転。大声で騒げばお隣さんから苦情が来るような、ペンシルハウスひしめくニュータウンに住むようになった。
この家で変なものを見るのは、環境がガラッと変わったストレスもあるのではないか。
私はそう思ってため息をついた。
ああ、お婆ちゃんに会いたい⋯⋯
寒い夜に掘り炬燵で様々な昔話を披露し、私と弟を面白がらせてくれた優しい祖母の面影を思い出し、私は郷愁に駆られた。
まあ、お婆ちゃん存命だけど。
この間も漬物をどっさり送ってきてくれたけど。
あの人多分百歳過ぎても畑耕してるよ。
窓の外に誰もいない事を確認した私はカーテンを閉めた。
ソファの上に無造作に置かれたスマホに手を伸ばす。
「あーあー来い来いUSSR⋯⋯!」
回しっぱなしのガチャ画面をタップすると、突然家中の電気が消えた。
「何事⁉」
光源がスマホの画面だけとなり、目が唐突な闇に対応出来なくなった。
私の視覚は瞬間的にほぼ遮断され、代わりに他の感覚が鋭敏になった。
例えば音。
先程までは気にならなかったが、ざりざりと砂を擦るような音が廊下から聞こえた。
または臭い。
腐った生ごみと金物臭さが混じった臭気に私は口を押さえた。
少し離れた場所から、かた、と音がした。
恐らくあれは、リビングのドアがゆっくりと開いた音だ。
音と同時に臭気は一気に強くなる。
私はむせかえりそうになるのを抑えて生唾を飲んだ。自分の唾液が妙に苦かった。
ざり、ざり、という音はゆっくりと、そして確実に私のいる所に近付いてくる。
気温が急に下がり、寒気が肌をぴりぴりと突き刺す感覚がした。
今は九月後半。残暑の抜けきらないこの時期、岩手育ちの私には半袖Tシャツで十分な筈だったのに。
悪寒が走り鳥肌が立った私は自分の身体を抱きしめる。摩擦の熱で身体を暖めようとした時、生臭くぬるい風が一定のリズムで右頬に当たりはじめた。
それが誰かの呼気だと気付くのに、時間はかからなかった。
「────‼」
唐突で場違いに陽気なメロディ。
私は驚いて手元を見た。
カラフルな色彩でチカチカ光るスマートフォンの画面。
これは⋯⋯‼
「嘘ぉぉぉぉ!龍人くん衣装⁉ しかも⋯⋯っSSR衣装のゴシック執事っ‼」
嘘でしょ、このタイミングで?
速攻着替えさせるしかない。肩の近くにいる誰かはこの際もう何でもいい。邪魔しないでくれたらどうでもいい。
私は慌ててスマホをタップし、ゴシックテイストの執事服を龍人くんに着せる。
「うわっ、待ってヤバい、むり、こういう時って何するんだっけ⋯⋯そう、スクショ!スクショ撮らなきゃ‼」
照れ笑い龍人くんという激レアをスクショしようと電源ボタンと音量ボタンに手をかけた時だった。
ブツン、と音がして辺りが一気に明るくなった。
「あれ、停電直ったー⋯⋯」
さっきの現象は何だったのだろう。深く考えても仕方ないかもしれない。
そんな事より龍人くんだ、と思い再びスマホの画面を見た私は、目の前が真っ暗になった。
「⋯⋯うそでしょ」
画面が暗い。
近くで見ても、遠くで見ても暗い。
電源がつかない。
え?
じゃあSSRゴシック執事服龍人くんは?
待って、冗談が過ぎるんじゃ。
動かなくなったスマートフォンを前に、私は近所迷惑という事も忘れて絶叫した。