ありがとう
武蔵国府孔雀街に夜の帳が落ち始めた頃、菅原由美はネオン輝く繁華街を歩いていた。お供は大量の紙袋。紙袋にデザインされた有名ブランドのロゴが、歩く度に意気揚々と揺れる。
今の自分には少し派手かと思ったが、かつて旦那にプロポーズされたときに着ていたオーソドックスな柔らかいローズのワンピースに高めのヒール。由美はまるで独身時代に戻った錯覚を起こす。が、それもつかの間。美しく磨かれたショウウインドウにフと目をやると、年齢を重ね日々の生活に疲れきった自分が映っていた。
「最悪…どれもこれもアイツらが悪いのよ!」
年を重ねたから何だ! アンチエイジングは大切かもしれない。だが、老いない人はいない。由美はそんな開き直りをすると、鼻息荒くズンズンと繁華街を突き進んでいった。
「もう今日は帰らないって決めたんだから」
帰宅に急ぐ人々を横目に小さく呟く。だが、行く場所は無い。他県から嫁いで来た由美は実家に帰るにはちょっと遠すぎる。それに下の息子の康平はまだ一人では寝られないし、長男の雄大は夜中に一人でトイレに行けない。自分がいなくなったらあの子達は生きられないのだ。
「…ハッ! やだ…つい子供の事考えてる。もう! 今日は考えないし帰らないって決めたのに!」
そう言いながら、携帯の待ち受けに設定された我が子達の写真を見つめる。そこには二人の子供がこちらを向いて無邪気に笑っていた。いつだってこの笑顔に癒されて来たのに。今みたいにフとした瞬間に存在を思い出すというのに。それでも、今日は帰ったら自分の負けだと思ってしまうのだ。
そんなことを思いながら、さっきの勢いとは裏腹に力をなくしてトボトボと歩いていると、辺りが急に暗くなったのに気がついた。携帯をしまい、顔を上げると自分の前も後ろも真っ暗で、何だか気味が悪い。夜を感じさせない明るい表通りからいつ離れてしまったのか検討がつかない程の暗闇だった。
進むよりは戻った方が懸命だと、振り返ろうとすると、10メートルほど手前にパッと一筋の光が明るく灯った。どうやら扉が開いたようだ。扉が開くにつれオレンジ色の光は広く闇の中に広がっていく。由美はその光に安堵感を覚え走り出してしまった。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
誰か人がいるだろうとは思っていたけど、まるで光の中から浮き出るように人が現れたので由美は驚いて息を呑んだ。
「…何か?」
「あ、あの…いえ」
更に由美を驚かせたのはその見た目。女性の柔らかさとも違う、だが男性のようなガッチリとした体格でもない。そして年齢もそれなりの年齢に行っているのかはたまた若いのか、それもハッキリしないのだ。自分が過去に出会った人物ではついぞ見かけないタイプだった。
「何だか私、この辺りに来るのが久し振りで迷ってしまったみたいで」
「そうですか。まぁ、昔はこの辺りが熊野区の飛び地だったという話ですからね。私が生まれるずっとずっと前のことですが」
「え?」
「いや、失敬。独り言が多いタイプなもので」
「はぁ…」
見た目も少し怪しいが、それは言動にも言えるようで由美は軽く後ずさりをした。
「多分、ここを真っ直ぐ行けば帰れるでしょう」
男性は髪にかかる少し長めの前髪を指でかきあげながら由美から見て左手の方角を指差した。少し離れた所に灯りがポツポツと見えるが、少し怖くなり無言で首を横に振った。
「?」
「いえ、そのこの辺りにはコチラしかお店は無いんですか?」
「そんな事ありませんよ。何せ孔雀区の中でも一番の繁華街ですから」
「でも周りは真っ暗じゃないですか」
「そういえばそうですねぇ…まだ時間が早いから」
さっき見た携帯の画面に表示されていたのは午後八時。繁華街の店が開くには充分すぎる時間のはずだ。
「もし行く当てが無いのならお入りなさいな。もうすぐ雨が来る匂いがしますよ。せっかくのワンピースが台無しになってしまいます」
「雨がわかるんですか? でも…こんなワンピースなんて……」
「雨や風は私達に語りかけてくれるものですよ。さて、あなた余程、ご家族に不満があるようで。よければここで吐き出していって下さいな」
そう言って男性は光に溶けるように店内へ入っていく。
由美もそれに惹かれるようにして店内へ足を踏み入れた。
白を基調とした店内は綺麗に掃除と整頓がなされ、棚に片づけられているグラスは光の反射でキラキラと輝き、まるでシャンデリアと見まごうばかりだ。店内を見回していると、先ほどの男性がフと現れたので、由美は驚いて声をあげてしまった。
「これは失礼…お荷物をよければそこのBOX席へどうぞ」
「あ、はい。ありがとう……ありがとう」
「ふふ、こちらこそご来店頂き誠にありがとうございます。今おしぼりをお出ししますからお好きな席へおかけ下さい」
何も男性と密会するわけではない。ほんの一夜の遊びぐらい許されるはずだと思い、由美はカウンター席へと腰かけた。
+
「何かご希望のお酒があればお作り致しますよ。無ければこちらでお勧めのお酒を提供させて頂きますが」
「では、お勧めで…」
「彩夢<いろどりのゆめ>と言うお酒です」
そう言えば、店内に入る時にこの漢字を見たと思い由美は「あっ」と声に出した。
「お察しの通りです。ここは妹の店でしてね。私は兄で店番なんですよ」
「そうなんですか…」
「ええ、それで二人の名前“音”と“彩”から取って彩音と言います。ちなみに私の名前は“音”です。どうぞお見知りおきを」
「いい名前ですね。それに兄妹って素敵」
「由美さんにもいらっしゃるでしょう?」
「ええ、妹が。だけどお互い結婚してからはあまり連絡を取り合っていないですね」
「いえいえ、もっと身近な所にですよ。兄弟が」
「あ…息子!? やだ、どうしてわかったの?」
「なんとなくですよ。なんとなく」
とそこで店内へ入る前に自分が家族へ不満を持っていると言っていた事を思い出し、その理由を聞こうと顔をあげると、そこに音の姿は無かった。
きっかけを失った所でカウンターの端から音が顔を出して目深にかぶっていた帽子の水滴を払う。
そこには、男性とも女性ともつかない整った顔立ちの人がいて、その姿に見惚れてしまい由美は質問する事をすっかり忘れてしまった。
「いや~外はすごい雨ですよ」
「え!? すごい! 本当にわかるんですね」
「あはは、そうですねぇ」
美しい店の名前と百合の花がエッチングされたグラスへ輝く琥珀色の液体を注ぐ。ゆらりとその水面が動く度に由美は「何かを忘れている、何か聞かなくちゃ」と心を急いた。
「そんなに急がずとも、まだ時間はありますよ。まずは一口飲んで頂いてから色々とお話しを伺いましょうか」
「はい、いただきます」
芳醇な香りと味覚が由美の五感を驚かせる。自宅でたまに飲む安売りの酒なんかとは格段に違う美味しさだ。そして、それが喉を通り過ぎると由美の中に忘れていた事が思い返された。
自分が小さな事で家族に腹を立てて、まるで子供のように家出してきてしまった事。
それなのに、家族からは何の連絡も無い事。
パートの仕事で不条理な事で上司に怒鳴られた事。
不思議なお店で何故か自分の悩みを言い当てられた事。
ハッと気が付いた時には、由美は事が起きる前の自宅の中で、家族の支度をする場面に立っていた。
+
「雄大! 康平! ほら、みんな起きて。あなたも遅れるわよ」
「う~ん、ママうるさーい」
「うるさいじゃないでしょ!」
「あーなーたもっ!」
「もう少し寝かせてくれよ~。いいよなーお前は遅い出勤で」
心無い言葉─。
これから全員のお弁当を詰めて保育園に送り、掃除洗濯をしてから仕事へ出かけなければいけないと言うのに。
旦那に腹立ち紛れに、着替えのシャツを顔にぶつけてやると、旦那は仕方なしにゴソゴソと起きだしてきた。
ため息をつきながらリビングへ行くと息子二人がおかずのソーセージの取り合いで喧嘩をしていた。
「雄大! 康平! またやってるの!?」
「だって、兄ちゃんが~」
「違うよー。いつも康平が残すから大きいのと取り換えてやったんだもん」
「わああああん」
「もう、いい加減にしなさい! ママの分をあげるから喧嘩しないの」
「やったー!」
「ママほんと?」
おかずを二人のお皿に取り分けると雄大がお礼の言葉を述べた。
「すんませーん」
「わーい! しゅんませーん」
「二人とも、そういう時は“ありがとう”って言うのよ」
と話した所で旦那がリビングへとやってきた。
「別に“すみません”でもいいだろ~。お前はそういう細かい教育が多いよなぁ」
「そうでもないわよ。子供たちには正しく日本語を使ってほしいだけ」
「はいはい、時間無いから夜にでも聞くよ」
そう言って旦那は新聞を取ると、食事に手をつけないで玄関へ向かう。由美は慌ててそれを追いかけると「朝から会議だから」とだけ言われ突っぱねられてしまった。
「疲れた…」
そう一言つぶやくと、背後に人の気配を感じる。驚いて振り返ると、そこにいたのは音の姿だった。
「よくある家族の風景と言えばそれまでですけどね…。毎日こうでは疲れるでしょう」
「音さん……私、間違えてるんでしょうか? 何だか家族の中でもパート先でも自分の存在がイレギュラーな気がしてしまって…」
「間違えてもいて、間違えてもいない。それが人間の姿の答えなのだと思いますよ」
「間違えてもいて、間違えてもいない? 難しいわ…」
「これは持論ですがね、うやむやでいいんですよ。こんな話があります。少し長くなりますが…。」
「聞かせて下さい」
「ある人がコンビニエンスストアで働いていました。そこへ外国人のお客様が来店したそうです。コピー機の使い方がわからずにいたので、全て代わりにやってあげたそうです。するとその外国人が言ったのは“ありがとう”だったそうです。何気ない言葉だったのですが、その外国の方は「日本の人ミナ不思議ネ。ありがとう言う時、スミマセン謝るよ。私、ありがとうが好きね」と。その店員さんはハッとしたそうです。だけど日本の言葉の不思議として、「すみません」も 「心が済みません」という気持ちや、 「気持ちが納まらない」 から成り立っているそうなんです。そう聞くと「すみません」も「ありがとう」も間違えていないのではないでしょうか?」
「その通りだと思います。私、自分の中の正義感だけで片づけてしまいがちで、会社で怒られた事もよく考えてみれば、ゆくゆくは自分の為になるのかなって気が付きました」
「それはよかった。由美さん、貴女は何も怖がらず貴女の道を進めばいいんです。もし間違えていると感じたら、またここの店の扉を叩いて下さい」
「はい。音さん、ありがとうございました」
由美がお礼を述べた時には、そこに音の姿は無かった。代わりに光る道が出来ていて、自然とそこが帰り道なのだとわかる。由美は怖がる事も無く、そこが自分の進むべき道なのだ信じて、その道へと入っていった。
「お客さん…大丈夫ですか?」
「あれ…音さん?」
眠ってしまい、醜態を晒していないかと由美は慌てて辺りを見回す。
「やっぱりお兄ちゃんが来てたのね。初めまして。私、音の妹で彩と申します」
状況が理解出来ずにいると、店のベルがチリリンと鳴り、一人の客が入ってきた。
「あら、佐々河さん!」
「ども、はいコレ」
「わぁ、いつもありがとう。素敵」
「音君好きだもんなぁ、百合の花」
その会話を聞いて由美はグラスへ視線を落とす。百合の花のエッチングが水滴と照明によって浮かび上がらせていた。
「月命日だろ? 今日は。命日に来られなかったからな」
「ありがとう。覚えててくれてるのね」
「覚えてるさ。惜しい子を亡くしたもんだよ。音くんとはもう一度飲みたいもんさね」
「えっ!?」
佐々河の言葉を聞いて由美は大きな声を出して立ち上がった。
「おや、もしかして音君にあったのかい?」
「そうなの、また現れたみたいで」
「なんだよ、もうちょい早く来てれば俺にも顔を見せてくれたかなぁ?」
「脅かしちゃってごめんなさいね。兄の音はね、数年前にこの世を去っているんです」
彩は話しながら由美のグラスの水滴を拭い、佐々河に酒を用意した。
「じゃあ、会った人って…」
「私達は“幻”って呼んでます。時々現れては、人助けをしていくのが好きでね。どうでした? 兄の話は何か為になりました?」
「ええ…とても……」
そこまで話を聞くと、由美は涙が止まらなくなり、感情を吐き出した。
暫くして落ち着くと、由美の携帯の着信が鳴る。バッグの中から取り出すと、相手は旦那だった。着信画面に三人の笑顔が並ぶ。
「もしもし?」
「俺だ……その、ごめん…」
「ううん、私も」
「すぐに迎えに行くよ。康平も泣きっぱなしだし、お前がいないとどうにもならないんだ」
「うん…うん」
「由美…あの、ありがとう」
+
「万事解決って所かねぇ」
「どうでしょう? お兄ちゃんの事だからそうかもしれないですね」
「しかし、彩ちゃんにも俺にも顔を出さないなんて、たまにはおせっかいしてくれてもいいのになぁ。なぁ、音くんよ」
「本当に。佐々河さん、お兄ちゃんの事を思ってこんな立派な百合だって持ってきてくれてるのに」
「ハハハ、そうだそうだ」
二人がそう話していると、百合のつぼみがパツンと音を立てて開いた。開花の際、稀に音がするというその瞬間だ。
「おや、いらしたかね?」
「ほんと。姿は見えないけどね」
そう、姿は見えないけど、そこにはまるで音がいるようだった。
そして二人に向かって「ありがとう」と伝えたのかもしれない。