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ギシギシ荘

 三月に関東にある大学に通うために上京した俺は、一人暮らしを始めた。初めての一人暮らしというものは不安である一方、ワクワクするし、なにより自分の城が手に入ったような気分になった。

 学校からも駅からも徒歩10分という好条件であり、一人の大学生が胸躍らせるのには充分であった。


 引越しの荷物を運び終え、ダンボールだらけの部屋を眺めながら、「ふぅ」と一息ついてから、さもやりきったかのような表情をしながらその場に座り込んだ俺は、口元が緩んでいくのを感じる。


「ウッヒョォオオオオオ!!ついに・・・!ついに念願の一人暮らしだ!!!俺の城だぁぁああ!!」


「誰もいない」というのをいいことに高らかに独り言を呟き、ゴロゴロと左右に寝転がってみる。


 ——そう、そんな変なことをしても誰も何も言わないし、知らないのだ。


『・・・うるさい』


「?!」


 ドンという壁蹴る音とともに聞こえてきた透き通るような女性の声に俺ははしゃぐのもぴたりと止め、驚きのあまりいつに間にか正座をしていた。


「あ、すみません。煩かったですよね・・・。気をつけます」


 初めて体験する隣からの壁ドンというものに、戸惑いながらも、これもまた一人暮らしの一興かとそれはそれで少し楽しくもあった。


「明日あたりにでも周辺に挨拶に行くか」


 ——俺はこの日ほど自分が後悔した日はない。「一人暮らし」というワードに完全に冷静さを失っていた。この時すこしでも俺に冷静さがあればこれから起こる出来事をすこしは防げたのかもしれなかった・・・。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 次の日、ダンボールの中身も7割がた片付けた俺は夕方くらいに隣人へとあいさつに行った。俺の部屋は202号室で201と203号室に挟まれている。


「201から行くか・・・」


 部屋の前に立ち、呼び鈴を押してから5秒程待っていると、「はい」という男性の声とともにドアノブが回る音がして扉が開いた。


 ——この部屋ではなかったか


 中から出てきた男は自分と同じくらいの体格で、髪は耳が隠れる程長く、メガネをかけたその顔は割と美形だが、そのせいで少し神経質にも見えた。


「あ、昨日ここに引っ越してきた楠田と言います・・・」


「ああ、君か。僕は沼田という。よろしくな」


 ——あれ、意外といい人だ。


 そんなことを考えながら、俺は手に持っていた粗品タオルを差し出す。


「これ、よかったら使ってください」


「ご丁寧にありがとう。困ったことがあればなんでも相談するといい」


「はい!ありがとうございます」


 そう言って深々とお辞儀をすると、沼田は「がんばれよ」という言葉を残し、扉を閉めた。


「引越しの挨拶って凄い緊張するなぁ〜。・・・でも沼田さんいい人そうでよかった」


「さて、次は203号室か・・・」


 そう考えて、昨日壁ドンされて怒られたことを思い出して少しだけ気分が重くなる。


「ふぅ」と大きくため息にも似た深呼吸をしてから、意を決して203号室の呼び鈴を押す。

 アパートの廊下に差し込む夕焼けがやけに眩しく感じる。


 住人が出てくるのを待つ間、どうやって謝ろうかとかどうやって挨拶しようかとか考えていたと思う。


 ——しかし待つこと5分、一向に住人が出てくる気配はない。


「・・・留守かな?」


 もう一度呼び鈴を押して、出てこなければまた明日にしよう。そう考えてもう一度呼び鈴を押すが案の定出てこない。

 諦めて帰ろうとしたその時だった。不意に203号室の扉がガチャリと開き、中から沼田が顔を出した。


「あー、やっぱりか。そこ、誰も住んでないから挨拶しなくても大丈夫だよ」


「え・・・?」


 この時の俺の顔のアホヅラと言ったらなかったと思う。


「で、でも、昨日部屋で少し騒いでたら壁ドンされて怒られましたよ?」


「なんだと?・・・しかし、その部屋に誰も住んでいないのは事実だ。きっと環境が急に変わったから少しばかり気持ちがハイになっているのだろう。部屋でゆっくり休むといい」


 そう言って沼田は再び扉を閉めた。


 一人取り残された俺はしばらくの間ボーッと突っ立っていることしかできなかった。

 あんなに眩しかった夕日は、もう沈み始めていた。

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