世界探偵、青鬼八京
時刻は流れに流れて夜の八時、少し前になった。
結局尋問は丸一日を費やした。
あの後、遺体発見現場をもう一度検証する事になり、再び同じ状況説明をさせられた。
そしてまたあの尋問用の部屋に戻って刑事と対話。
やっと解放された頃には陽はとっぷりと暮れ、粉雪までちらついていた。
幸い今日一日で全ての検証と尋問は終わった。
隆文はコンビニで弁当と缶ビールを買うと、アパートまでの道を急いだ。
今夜は早く帰ってシャワーではなく、熱い湯船に浸かりたい。
職場からアパートまでの道は五分程だ。
元々職場に近い物件を探していたので、今の部屋は都合が良かったのだ。ただ湾に近い事もあって寒いのが難点なのだが……。
そんなアパートまでの短い道のりを小走りで進む隆文の前に一瞬何か黒っぽいものが過ぎる
「何だ……?あれは。犬?」
隆文は訝るようにしてその得体の知れないモノに近付いた。
最近は色々と物騒なので、なるべくならこういった怪しげなものには近寄らない方がいい。
ましてや今し方遺体の第一発見者となって、警察の調書を取られたばかりではないか。
だが、それでも何となく気になる。放っておけない何かを感じたのだ。
隆文はそっと回り込んでその過ぎった黒いモノを上から覗き込んでみた。
………何だ。爺さんじゃないか。それにしても小汚いなぁ。ホームレスか?
何か得体の知れない凶悪なモノを想像していたのだが、そこにいたのは黒い山高帽に黒いコートを着た中年の男だった。
何かを抱えるように屈んでいて、その手元は暗がりでよく分からない。
山高帽から覗く頭髪は脂っぽくて、細かいフケが浮いている。
隆文には定年前にリストラでもされて、そのままホームレスになってしまったダメオヤジにしか見えなかった。
だからつい油断して声を掛けてしまった。
「おい。オッサン。こんな道の端っこでゴソゴソしてっと、車に引っかけ……………」
言葉は最後まで言えなかった。
隆文は見てしまったのだ。
男の手元が真っ赤に染まっているのを。どこかで怪我でもして流血しているのだろうか。
だがそれは男が流しているものではなかった。
よく見ると男の手元には赤黒い肉の塊ががあり、それを黒い小犬…のような獣に与えているように見えた。黒い獣はそれ一心不乱に食んでいる。ピチャピチャと滴る赤い雫が冷たいアスファルトの上で微かな湯気を
上げているのを見た瞬間隆文は我に返った。
…………………ひっ…な…何だよこれ。やべぇヤツかも……。
そう思った隆文の心を読んだかのように、男がゆっくりと顔を上げた。
最悪の予感に隆文の顔から全ての表情が消えた。
顔を上げた事で、男の顔が露わになった。浅黒い肌に、右眉と頬を断裂するかのように大きな傷跡が走っていた。
その傷が男が笑うのと同時に収縮して歪み、より醜悪に見えた。
すると男は不思議そうな表情で口を開いた。
「おや貴方、私が「視」えますか?」
「はっ?見えるかって、何だよ……」
思わず隆文はコンビニの袋を落として後ずさる。
するとその袋に向かって黒い獣が飛びついた。
「おやおや。ソロモン。何て行儀の悪い……。済みませんねぇ。躾がなってなくて」
慇懃無礼に男は隆文に詫びをいれてきた。その一挙手一投足が隆文には恐怖だった。
男が先ほど、あの獣に与えていたのは何の肉だったのだろうか。あんなに血の滴る肉なんてどこで手に入れたのだろう。
足下を見ると弁当にがっついていた獣と目があった。明らかに犬ではない。だが犬ではないのは分かるが、それがどんな生物なのかとなると分からない。
犬のようでいてオオカミのような鋭さがある。その爛々と光る大きな瞳は血のように真っ赤で、パックリ開いた口からはノコギリのような歯が覗いていた。
そんな牙に噛みつかれでもしたら、腕なんて簡単に引きちぎられてしまうだろう。そう、ちょうどあの獣が一心不乱に食んでいた肉塊のように…。
そこで隆文は血の気が引いた。
………まさか、あの肉って人の腕だったんじゃ…………
「どうしました?お加減でも悪いのですか。いけませんね。どこかで休みますか?」
男はニヤリと黄ばんだ歯を見せて笑った。そしてゆっくりとした動作でこちらに手を伸ばしてきた。
「ひっ……い…」
何故かこの男に見つめられると身動きが出来ない。隆文の頬に汗とも涙ともつかない雫が滴り落ちた。
足下には低いうなり声をあげる獣。
隆文はこれでもうお終いだと、そう観念した。
…………
その時、何か長い杖のようなものが男の左肩に突き刺さった。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅっ!あああああああっ」
男が獣のような声をあげて隆文から離れた。そして強引に刺さった杖を投げ捨てる。
傷口からは噴水のような鮮血が吹き上がった。
「青年Aよ。ぼけっと見てないで早くこちらに来なさい」
それと同時に命令形で鋭い声が掛けられた。若い男性の声だ。
そして有無を言わせず強い力で腕を引っ張られる。
「うわわっ。何だ?」
「煩い。わめくな」
そしてポカリと硬い物で頭を叩かれる。すぐに痛みがやって来て、反射的に涙が滲んでくる。
少し頭に来た隆文は涙目で偉そうな救世主を睨んだ。
よく見ると自分を小脇に抱えているのは、隆文よりも小柄な若い男だった。
驚いた事に男の纏っているもの全てが青色で統一されていた。着ているものも青いスーツに青い靴。青いマント。タイも青い。そして頭には青いシルクハットが乗っている。髪は白髪のような銀色だが全てが青いせいで、髪すらも青みがかって見える。瞳の色も青かった。
救世主かと思ったが、また奇妙奇天烈な者が増えただけかもしれない。
「あんた誰だよっ」
思わず隆文はそう怒鳴っていた。すると男は煩そうに顔を顰めると意外にも即答した。
「僕は探偵だ」
「探偵?」
隆文はそれを繰り返した。意味が分からないとばかりに。だが探偵と名乗った男は詳しく説明するつもりはないらしく、隆文を抱えたまま黒い下で唸る獣を蹴り飛ばし、後ろに跳躍した。
一方、肩を貫かれた男はまだ傷口を押さえたまま呻いている。
「退くぞ」
「はっ?」
「あの男はいくら僕が世界探偵、青鬼八京でも単独で相手をするには厄介だ。引き際を見極めるのも勇気だ」
何だか正義のヒーローのような譫言……いや、虚言を吐く青鬼と名乗った探偵は、巫山戯た虚言吐きのくせに滅法強くて、追いかけてくる黒い獣を蹴散らしながら、どんどんその場を離れていった。