雨上がりの朝の憂鬱
深夜まで降り続いていた雨は朝にはすっかり止んでいた。
屋敷の窓をパッと開き、夜泉は昨日までの憂鬱な気分を追い払おうとするように深呼吸した。
あの日、父の知り合いだと言って葬儀の最中に現れた柳川という男。
彼は一体何者だったのだろうか。
棺の中の父に何をしたのだろう。そして彼が口にした「遺産」の意味は……。
全てが謎に包まれていた。
あの夜、夜泉は柳川に襲われて寺を逃げ出した。
幸い柳川は追って来る事はなく、夜泉は何とか自宅の屋敷に辿り着いた。
母にはすぐに具合が悪くなったので先に帰ると電話しておいた。だが、柳川の事は迷ったが結局言わなかった。
心労の溜まった母にこれ以上心配をかけたくなかったのと、あの出来事をどう説明していいのか自分でも分からなかったからだ。
とにかく今でも頭は混乱していた。
あれから母はまだ喪主としてやらなければならない事があるというので、屋敷には戻って来ていない。
屋敷に勤めていたメイドたちの大半は葬儀の日以来、暇を言い渡している。だから今、屋敷の中は夜泉一人きりでガランとしている。
メイドたちをそのまま雇うにしても、もう夜泉たちには彼女たちに払う給金がないのだから仕方ない。
父が亡くなって分かった事だが、父の会社はかなり危機的状況だったようで、その負債で首が回らない状況だったようだ。
夜泉は何度かめのため息を吐いて、自分の部屋を出ようとドアに近寄った。
その時、不意に誰もいない屋敷だというのに部屋のドアにノックの音が響いた。
「つっ!」
一瞬夜泉の身体が強ばる。
今度は屋敷にまで柳川が訪れたのかと思った。
だがあの男が部屋を訪ねるのにわざわざノックなどするはずはないだろう。それに夜泉にはすぐに思い当たる人物がいたのですぐにドアへと駆け寄った。
「もしかしてリヒト?」
夜泉は自らドアを開けて、確認するより前にその人物に抱きつく。
ふわりと自分を抱き留めてくれる優しい腕の感触。やはり間違いない。
「夜泉さま?」
色素の薄い瞳が少し戸惑ったようにこちらを見ている。
そう。目の前の青年は王園寺理人。
夜泉付きの執事だ。
年齢は二十六歳。落ち着いた物腰の青年で、理知的な顔立ちに銀縁の眼鏡に細身の身体を包む真っ白なバトラースーツがよく似合っている。
理人は少し困ったような表情を浮かべたものの、夜泉の様子を推し量り、ゆっくりとその頭を撫でた。
「心細いのですか?夜泉さま」
「………ちょっとね。でも理人が来てくれたから平気よ。でもどうしてこの屋敷にいるの?忘れ物でもしたのかしら」
屋敷に勤めていた人間は全て解雇したはずで、当然理人もそのような通達を受けていた。だから今この場に理人がいるのは不思議だった。
だが彼は夜泉の問いかけに理人は柔らかく微笑んでそっと手を握った。
「私は夜泉お嬢様の執事ですから。ですから私はどこにも行きません。ずっとお嬢様のおそばに」
「理人………。嬉しいけど、もうお給金払えないんだよ」
「構いません。何なら私が夜泉さまを食べさせて差し上げますよ」
「もぅ。理人ったら……」
ようやく夜泉の顔に笑みが広がる。
二人は顔を見合わせて笑った。
随分久しぶりに笑ったような気がする。
「鳴王胤の後継者は決まりましたか?」
落ち着いた二人は下の広間に移動してお茶を飲んでいる。
「ううん。分からない。お母さんが今、親戚と会社の役員の人たちとで話し合っているんだけど、方々に借金があったみたいで揉めているの。会社自体も危ないみたい。もう財産を相続する以前の話で、誰がその多額の借金を背負わされるかで混乱しているようなの」
「………そうでしたか」
理人は悲しげに瞳を伏せた。
当主の死去で使用人全てが解雇されるくらいだ。会社はきっともうずっと以前から危機的状況だったに違いない。
よくこれまで明るみに出なかったものだ。
理人は目の前の心細げな少女を見て胸を痛めた。
「でも理人が来てくれて良かったわ。理人がいなかったら………私……本当に」
膝の上で握りしめた拳にポタポタと透明な雫が落ちる。
たまらず理人は夜泉を抱きしめた。
「夜泉さま………。本当にさぞ心細かったでしょう」
夜泉はしばらく声を出さずに涙を零した。
「これからどうされますか?」
「まだ分からないけど、とりあえず今はここでお母さんを待つ事にする」
「そうですか。ではキッチンで何か使える物をチェックしてきますね」
「理人、本当に有り難う」
恥ずかしそうに礼を言うと、理人は嬉しそうに微笑んだ。
「遅れましたが、お嬢様。十六歳のお誕生日。おめでとうございます」
その言葉に夜泉は今気付いたとばかりに瞳を大きくした。
「そうだったわ。私、十六歳になったのね。お父様の事でいっぱいになっていたから…」
理人は優しく夜泉の頭を自分の胸に引き寄せた。
「はぁ…………。でもいつまた柳川が現れるか分からないし、あまり長くここにはいられないよね」
まだまだ考える事は山積みなようだ。