a toothbrush
「ごめんなさい」
彼女はそれだけ言うと、一度も振り返らずに部屋を出て行った。
テーブルの上に残されたのは、彼女に渡していた合鍵。
一人になった部屋はやけに広く感じる。
彼女は律儀にも俺のいない間に、自分の私物は全てまとめて自宅へ送っていたらしい。
もう二度と、この部屋に戻ってくることはないのだろう。
俺はベッドに倒れ込んだ。
そこには彼女の香りがまだ残っていて。
どうしようもない気持ちに押し潰されそうになる。
失って初めてその大切さに気付く、なんてよく言うけれど、俺はそんなに馬鹿ではない。
彼女のことはとても大切にしていた。
裏切られたのは――俺の方だ。
彼女は浮気をしていた。
その現場を俺はたまたま見てしまった。
しかし俺は見て見ぬふりをした。
彼女を失いたくなかったから。
彼女が俺の所に戻ってきてくれれば、それで良かった。
だが彼女は罪悪感に押し潰され、結局俺との別れを選んだ。
――どうして。
俺の頭はその言葉で埋め尽くされた。
「……顔でも洗うか」
ベッドから起き上がり、洗面所へ向かう。
そこでふと気が付いた。
洗面所の鏡の前に並んだ、二本の歯ブラシ――彼女の、唯一の忘れ物。
俺はその歯ブラシを見つめた。
気付けば涙が頬を伝っていた。
俺はその歯ブラシを手に取り、適当に袋に入れた。
そしてそのまま部屋を出て、彼女の家へと向かった。
◆
俺は彼女の部屋の合鍵は持っていない。
だからチャイムを鳴らした。
すぐに彼女の声が聞こえてきて、俺は名前だけを告げた。
ドアが開き、目の前にはつい先程別れたばかりの彼女の顔。
その表情は戸惑いに満ちていた。
「これだけ残ってた」
そう言って袋に入れた歯ブラシを差し出した。
彼女の表情が曇る。
「何でわざわざ……」
彼女は目を伏せた。
「普通は、捨てるよな」
だけど俺には出来ないから。
だからこうして未練がましく、彼女の家まで持ってきたのだ。
「……違う」
彼女の声は、心なしか震えていた。
「……わざとなの」
「私、未練がましいよね」
「何かひとつ、残してれば」
「あなたとの繋がりが、持てるかもしれないなんて」
「そんなこと思って、残してきたの」
「捨てられてもおかしくないのに」
「でも、ずっとあなたの家にあるって思い込むことが出来るから――」
「だからまさか、家まで持って来るなんて思わなかった」
彼女はまだ、俺のことを好いてくれているのだろうか?
そう思った矢先――
「誰、お客さん?」
彼女の部屋の奥から、男の声が聞こえた。
彼女の顔色が、青ざめた。
俺は馬鹿ではない。
だからその声の主が彼女の浮気相手だってことくらい、察しがついた。
「……そう思ってくれてたなんて、嬉しいよ」
そして俺は彼女に笑いかけ、背を向けた。
待って、という声が聞こえたが、振り返るのはやめた。
二人の男に板挟みになる彼女なんて見たくない。
だって、彼女を困らせたくないから。
◆
自宅へ戻り、手を洗おうと洗面所へ向かった。
鏡の前には、歯ブラシが一本だけ。
俺はその歯ブラシを手に取り、ごみ箱へ捨てた。
後で、新しい歯ブラシを買いに行こう。
そしてその夜、歯ブラシを買いにコンビニに向かう途中で――俺は知らない男に刺された。
「彼女は、渡さない」
「お前――」
(……こいつがきっと彼女の、)
薄れ行く意識の中で、俺は思った。
あぁ――
歯ブラシなんか、置かせるんじゃなかった。
―a toothbrush―
2010.10.06




