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a toothbrush

作者: ぐでこ

「ごめんなさい」


 彼女はそれだけ言うと、一度も振り返らずに部屋を出て行った。

 テーブルの上に残されたのは、彼女に渡していた合鍵。

 一人になった部屋はやけに広く感じる。

 彼女は律儀にも俺のいない間に、自分の私物は全てまとめて自宅へ送っていたらしい。

 もう二度と、この部屋に戻ってくることはないのだろう。


 俺はベッドに倒れ込んだ。

 そこには彼女の香りがまだ残っていて。

 どうしようもない気持ちに押し潰されそうになる。

 失って初めてその大切さに気付く、なんてよく言うけれど、俺はそんなに馬鹿ではない。

 彼女のことはとても大切にしていた。


 裏切られたのは――俺の方だ。


 彼女は浮気をしていた。

 その現場を俺はたまたま見てしまった。

 しかし俺は見て見ぬふりをした。

 彼女を失いたくなかったから。

 彼女が俺の所に戻ってきてくれれば、それで良かった。

 だが彼女は罪悪感に押し潰され、結局俺との別れを選んだ。


 ――どうして。


 俺の頭はその言葉で埋め尽くされた。


「……顔でも洗うか」


 ベッドから起き上がり、洗面所へ向かう。

 そこでふと気が付いた。


 洗面所の鏡の前に並んだ、二本の歯ブラシ――彼女の、唯一の忘れ物。


 俺はその歯ブラシを見つめた。

 気付けば涙が頬を伝っていた。


 俺はその歯ブラシを手に取り、適当に袋に入れた。

 そしてそのまま部屋を出て、彼女の家へと向かった。





 俺は彼女の部屋の合鍵は持っていない。

 だからチャイムを鳴らした。

 すぐに彼女の声が聞こえてきて、俺は名前だけを告げた。

 ドアが開き、目の前にはつい先程別れたばかりの彼女の顔。

 その表情は戸惑いに満ちていた。


「これだけ残ってた」


 そう言って袋に入れた歯ブラシを差し出した。

 彼女の表情が曇る。


「何でわざわざ……」


 彼女は目を伏せた。


「普通は、捨てるよな」


 だけど俺には出来ないから。

 だからこうして未練がましく、彼女の家まで持ってきたのだ。


「……違う」


 彼女の声は、心なしか震えていた。


「……わざとなの」

「私、未練がましいよね」

「何かひとつ、残してれば」

「あなたとの繋がりが、持てるかもしれないなんて」

「そんなこと思って、残してきたの」

「捨てられてもおかしくないのに」

「でも、ずっとあなたの家にあるって思い込むことが出来るから――」

「だからまさか、家まで持って来るなんて思わなかった」


 彼女はまだ、俺のことを好いてくれているのだろうか?

 そう思った矢先――



「誰、お客さん?」



 彼女の部屋の奥から、男の声が聞こえた。

 彼女の顔色が、青ざめた。


 俺は馬鹿ではない。

 だからその声の主が彼女の浮気相手だってことくらい、察しがついた。


「……そう思ってくれてたなんて、嬉しいよ」


 そして俺は彼女に笑いかけ、背を向けた。

 待って、という声が聞こえたが、振り返るのはやめた。

 二人の男に板挟みになる彼女なんて見たくない。

 だって、彼女を困らせたくないから。





 自宅へ戻り、手を洗おうと洗面所へ向かった。

 鏡の前には、歯ブラシが一本だけ。

 俺はその歯ブラシを手に取り、ごみ箱へ捨てた。

 後で、新しい歯ブラシを買いに行こう。


 そしてその夜、歯ブラシを買いにコンビニに向かう途中で――俺は知らない男に刺された。



「彼女は、渡さない」

「お前――」



(……こいつがきっと彼女の、)



 薄れ行く意識の中で、俺は思った。



 あぁ――






 歯ブラシなんか、置かせるんじゃなかった。





―a toothbrush―


2010.10.06

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