働く魔物
カリカリに焼かれたベーコンに、ふわっふわのオムレツ。
野菜がたっぷり入ったスープは、ミルクベース。
パンは昨日ご近所でもらったものだが、オーブンで焼き直されて、ふわふわのほかほか。
温められたポットからは、紅茶の芳しい香りが立ち上る。
小さな木の食卓の上には、温かくて素朴な朝食が用意されていた。
「……ごはん」
「ああ、やっと出てきたか。冷めないうちに、食えよ」
濡れたイチゴ髪をふきふきしながらやってきたイヴは、絵に描いたような食卓を前に、呆然と立ち尽くしていた。
扉に背を向けて立っていたシドは、イヴに気づくと振り返り、つかつかと彼女の元まで歩いてきた。
そして、大きな手でタオルを掴んでわしゃわしゃと乱暴に髪を拭うと、ひょいと猫の子のように摘まみ上げて、彼女を食卓の椅子に座らせた。
とたん、ふわんと料理のいいにおいが鼻腔を満たし、思わずイヴは頬を緩めた。
自然と口の中に溢れた唾液に、彼女がごくりと喉を鳴らすと、魔物二名も秘かにごくりと喉を鳴らした。
目の前の食卓に視線が釘付けのイヴと、イヴからもれる甘美な香りに唾をのむシドとフェンリル。
食欲に支配されているそんな彼らをよそに、一人わなわなと身体を震わせるのは幽体ウォルスだ。
彼は透けた身体を踊らせて、食卓とイヴの間に割り込むと、彼女を抱きすくめて叫んだ。
「こらあ、イチゴちゃん! そんな格好で男の前に出て来ちゃ駄目でしょ!」
「……うるさいなぁ。ちゃんと服着てるじゃないか」
イヴの現在の格好はというと、脹脛までの丈のすとんとしたワンピース。
その下はショーツとキャミソールタイプの肌着だけだが、部屋着としては充分だろう。
けれどウォルスは、自分はイヴに対してスキンシップ過多なくせに、他の場面では貞操だの何だのと意外にお堅い。
魔物達のご褒美にとキスで唾液を分け与える時も、彼が見ていない所でしないとうるさくてならない。
ちなみに、ウォルス自身は元々人間であるので、イヴの体液自体に過剰反応することはない。
「薄着過ぎだよ!」
「そんなことないよ」
「ああもう、いいかい? たとえ一見羊のように穏やかに見える男でも、皮の下には狼を隠しているんだよ!」
「ふうん……フェンー? かわいいねえ、かわいいねえ」
「こらーあっ! 真面目に聞きなさいっ!」
狼と聞いて、イヴがこれ見よがしにフェンリルを撫で回すと、ウォルスはさらに目尻をつり上げた。
「ええいっ! 言うこと聞かない子はお仕置きだよ――お尻をぺろんと出しなさい! 今すぐにっ!」
そうして、強引に彼女のワンピースの裾を掴んだところで、イヴは眉間に深い皺を刻んでため息を吐いた。
「はい、うるさい。ちょっと消えてな」
そう言って、彼女はさっと側にあった紙を引っ掴むと、そこにさらさらと何かを書いて、ウォルスの額にペタッと貼付けた。
顔の前に引っ付いたそれを、目を真ん中に寄せて凝視したウォルスは、次の瞬間――
「――っ、いやあっ! ひどいっ……広告の裏だなんてっ! 月一大特価のお知らせのチラシだなんてっ……!」
そう叫んで泣き崩れたかと思うと、突然どろんとその場から姿を消してしまった。
「――何をした?」
側で一部始終を眺めていたシドは、ウォルスが消え失せた場所にひらひらと舞い落ちた紙と、その上に書かれた文字がじゅわわ……と蒸発するように消えたのを見て、不思議そうに尋ねた。
それに対し、もうウォルスのことなどすっかり忘れたように、食卓へと視線を戻して頬を緩めた少女は、シドを一瞥もしないまま答えた。
「護符だよ、即席のね。教えてもらった呪文を真似っこして書いただけだから、効き目は一時間も保たないけど、少しは静かになるでしょ」
呪文といっても、法力も魔力も皆無なイヴの文字では、効能が極端に限られてしまう。
それでも、この目の前の美味しそうな食事をいただく間くらいは、ウォルスに邪魔されずにすむだろう。
ちなみに、護符の文句は『家内安全』である。
イヴは改めて食卓の上を眺めて、感嘆のため息を吐いた。
そうして、向いの席にどかりと座り込んだ魔物に、いささか興奮気味に尋ねた。
「シド。これ、あんたが?」
「他に誰がいる。……しかし、お前は料理をしないのか? 調味料が塩と砂糖だけしか見つからなかったが」
「しないよ。料理はどこからか降って湧いてくるものだから」
「そんなわけあるか」
イヴは、薬草を調合するのは得意だが、スープを調合するのは苦手だった。つまり、料理がヘタクソなのだ。
育ての親のカポロ婆さんが人外との対話の魔法同様、イヴにどうやっても伝授することができなかったのが料理の腕だった。カポロ自身は、村の奥様方相手に料理教室を開くほどの達人だったというのに。
彼女が亡くなった今、イヴは腹が空けば自分で何とかしなければならない。
大きな街ならばバザールも盛んで、大衆食堂で三食済ますという手もあるが、ラムールのようなこんな田舎の村では、商店は小さいのが一個あるだけで、小料理屋さえも存在しない。
けれどイヴはこの一年、飢えることも、自分の作ったまずい飯を食べることもなかった。
なぜなら、彼女の料理下手をよく知っている村人達が、食事においでと呼んでくれたり、総菜を分けてくれたりするからだ。
そうして、この一年間村人総出でイヴを甘やかしてきた結果、彼女の料理の腕はまったく上達していないのだった。
だというのに、料理上手のカポロ婆さんに育てられ、村中のお袋の味を食べてきたイヴは、無駄に舌が肥えている。そんな彼女を、今朝土の中から掘り起こされたばかりの魔物が作った料理が唸らせた。
「うんまい――!」
「当然だな」
カリカリベーコンの美味さは、肉を燻して分けてくれた近所のおじさんの腕が大きいが、ふわふわオムレツを作るのは至難の業だ。
卵の熱の入り具合を見極める目が必要だし、フライパンのへりを利用してひっくり返し、空気を含ませつつふわっふわに焼き上げるのは容易ではない。
しかも、絶妙な塩加減で卵元来の甘さが引き立ち、口の中には旨味が瞬時に広がった。
スープには、細かく刻んだ野菜が煮込まれていて、ミルクのまろやかさと相俟って、実に優しい口当たり。
イヴの記憶が確かならば、ろくに使わぬキッチンにはくず野菜が少し残っていただけのはず。
それからこんな美味しいスープが出来上がるとは、彼女にとっては何よりも驚きの魔法であった。
「よし、決めた。シドを我が家の料理係に任命する――いいよね、フェンリル」
「わふっ」
イヴは、まだ毛が半乾きのフェンリルを側に呼び寄せ、一口大に切ったオムレツを彼の口に放り込みながら、そう相談した。
もちろん、よっぽどのことでもない限りは常に彼女に従順な銀狼が、頷かないはずがない。
そうして、新入りの魔物の役割があっさり決まったわけだが、直接の打診も何もないままのシドは「ん?」と首を傾げた。
「おい、まて。なぜ俺にではなく、その銀狼に確認する」
「君は、フェンリルの手下だからね」
「いつの間に、そうなった」
「風呂の中で、そうなった」
「……」
答えるイヴは料理に夢中。
シドに訝しげな視線を向けられたフェンリルも、ツンとすました顔で彼を無視した。
「……まあ、料理は嫌いではないから、構わないが」
「調味料とかいるものがあるなら、君の独断で揃えたらいいよ」
役割が決まったシドは、家長イヴの中で“あんた”から“君”に昇格した。
「そうだな。さすがに砂糖と塩だけでは心許ない」
ラムール村にはたった一軒だけ商店がある。
イヴとシドは、朝食が済んで一服したら一緒に買い物に行こうという話で落ち着いた。
居候させると決まった以上、いずれ知れることだから、村人達にもさっさとシドの存在をカミングアウトした方がいい。
イヴは彼を引き連れて、顔見せ行脚も兼ねることにしたのだ。
「エプロン買ってあげるよ、シド。ふりふりの、新妻がするみたいな可愛いやつ」
「そんなものはいらないが……違う褒美なら、欲しい」
シドはそう言うと、ご機嫌でオムレツを頬張っていたイヴの顎を、指先でちょんと摘んだ。
それだけで彼の意図を察したイヴは、口の中のものをもぐもぐ咀嚼して処理すると、冷たい水を一口飲んでため息を吐いた。
「はいはい、どうぞ。でも……」
「分かっている。ほどほどに、だろう?」
「……そう、ほどほどに、だよ」
そうして、シドはイヴの頬に掌を添えて、緩く解けた唇を柔らかく啄み、彼女の舌に自分のそれを擦り付ける。
しかし、シドの方が随分背が高いので、そのままでは唾液が流れるのは彼からイヴへとなる。
それを逆転させるために、シドは椅子に座らせたイヴの前に跪き、椅子ごと彼女を抱きしめるようにして、下からその唇を吸った。
とたんに口内に広がる甘美な味わいに、彼の頭の奥がとろりと蕩けて思考が甘い色に染まる。
そんな主人と新入りの魔物の姿を、傍らの銀狼はベーコンの塊を牙で噛みちぎりながら、じっと見つめていた。