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化け物屋開店  作者: くる ひなた
第一章 化け物屋
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夜は明けた



 十一番目の新月の夜は明けた。


「フェンリル、何してるの?」

「イヴ……」


 シドの部屋の扉の前でまんじりともせずに朝を迎えた銀狼フェンリルは、欠伸をしながら出てきたイヴの姿を見たとたん、その場に崩れ落ちた。


「ちょ、ちょっと、フェン!? どうしたのっ?」

「……よかった……」


 彼の大切な少女は、闇夜を越してもどこも少しも損なわれてはいなかったのだ。

 イヴが無事と知って気が抜けると、一晩中気を張っていたことによる疲れが一気に押し寄せ、フェンリルは深々とため息をついた。

 その首筋に、彼の苦悩も安堵も何も知らないままのイヴが、笑顔を浮かべてぎゅっとしがみつく。

 

「おはよ、フェン。大丈夫?」

「……ああ、イヴ。――おはよう」


 当たり前のようにやってきた新しい朝。

 それをともに迎え、挨拶を交わせる喜びを噛み締め、フェンリルはイヴと話せるようになったことをこの時ひどく嬉しく思った。

 そして、自分に身を擦り寄せて甘える彼女の匂いを肺一杯に吸い込み、ほうともう一つ安堵のため息をついた。

 そこで、ふと気づく。


(……体臭に、変化がない)


 一晩中同じ部屋にいたのだから、イヴからはシドの匂いが濃く香った。

 しかし、それはあくまで移り香に過ぎず、身体を交えたことによる濃密に体臭の混ざり合う気配はない。

 ということは……

 フェンリルは顔を上げ、イヴに続いて部屋を出てきたシドを見上げた。

 そして、はっと目を見開いた。



「――貴様……左目をどこで調達した?」



 昨日の夜にはなかったはずのシドの左目。


 それが右目と同じように微笑ましげに、首筋にイヴをぶら下げたフェンリルを見下ろしていた。






 “闇の王”とも“黄泉の使い”とも呼ばれ、魔物達に恐れられていた新月の闇。


 その正体は――


「……貴様の目玉だった、だと?」

「まぁ、どうやらそのようだ」


 シドが一昨日の夜に受けた銃創は縫合の痕を含めてほぼ完治し、イヴも彼が家事をすることをようやく許した。

 何ごともなかったかのようにキッチンに立った魔物の背後で、フェンリルは低く唸る。

 そんな彼をちらりと振り返り、元通りにシンメトリーに収まった赤い瞳を細めたシドは、器用に片手で卵を割った。


 新月の闇の正体は、シドの左の目玉だった。

 イヴとフェンリルが森で掘り起こした時、彼の左目は空洞だった。

 シドは、あの棺桶に封印される直前、それを自ら抉り出して空へと放ったのだという。

 くしくもそれは十八年前、イヴが生まれた年の十一番目の新月の夜ことでもあった。

 放たれた左目は、一度は新月の闇に吸い上げられて地上を離れたが、熱りが冷めると本体を探し始めた。

 ところが、シドが埋められたラムール村にはすでに強い結界が張られてしまっていて、左目は本体を見失ってしまったのだ。

 ちなみに、その時村を結界で包んだのは、魔女カポロではない。

 引きちぎって放り出された細胞が自立していくには、糧が必要だった。

 シドの目玉は魔物達から自然と滲み出る魔力をエネルギーに変えて生きながらえていた。

 特に新月の時期は、生き物が内なるものを放出する作用が最も強いとされている。

 新月の夜に魔物の魔力が著しく現象するのは、彼らが月の影響を受けて強制的に魔力を放出させられているからだ。

 そして、シドの左目はそんな月の引力が吸い上げた魔力を食らい、その都度力を増大させて新月の夜空を渡ってきた。

 その巡回の周期がラムール村ではこの時期――十一番目の新月であったというわけだ。


「そして、昨夜その目玉はようやく貴様を見つけ、めでたく本体に戻れたと?」

「まあ、そういうことだな」

「我々は……十八年も貴様の目玉一個に、毎年あれほど脅かされていたというのか?」


 フェンリルはさも悔しげにぎりぎりと歯噛みした。

 この十八年間、地上の魔物達は闇を引き連れたシドの左目に脅威を感じていた。

 なにしろそれは、帰るべき場所を探しておろおろと空を彷徨う内に、魔力だけではなく様々な闇の眷属を吸い寄せ、どんどん大きな黒い塊へと成長していたのだ。

 本体を探して地上を睨みつける視線を魔物達は本能的に恐れ、毎年息を殺してそれが早く通り過ぎるよう願ってきた。


「結局、イヴには何の関係もなかったというのか……?」


 一方で、無事朝を迎えたイヴにまずは安堵したものの、では自分がずっと感じていた漠然とした不安や焦燥は一体なんだったのだろうかとフェンリルには疑問が残る。

 イヴがあの闇に見つかってはいけない、どんなことをしても隠さねばと思ったのは何故だ。

 何故、魔女カポロは村中に結界まで張ってイヴを隠してきたのだろう。

 フェンリルやカポロの思いはただの杞憂であったというのか。

 それとも、まだ知らぬ真実が隠されているのか。

 まだまだ腑に落ちないものを感じつつ、フェンリルは台所に立つ魔物の背中を見据えて言った。


「――シド、お前は何者なのだ?」


 その問いに、シドはオムレツにする卵液を掻き混ぜていた手を一瞬止めた。

 しかし、すぐに唇の端に小さな笑みを浮かべると、おどけた様子で告げた。


「お前と同じただの魔物さ。そして、今は化け物屋の料理番だ」


 

 昨日の雨模様とは打って変わって、今日は朝から快晴だった。

 まだ乾き切っていないウォルスを庭の木に渡したロープに吊るし、イヴはそのまま裏に回って一角獣オルヴァに朝の挨拶をしてるようだ。

 ダイニングの窓からかすかに聞こえる彼らの声に耳を傾けながら、フェンリルはフライパンを振るシドの背中に一番聞きたかった問いをぶつけた。


「……イヴを、抱かなかったのだな」


 処女を好むことで有名な一角獣の性質に漏れず、オルヴァもそういうことには敏感だ。

 もしも、昨夜イヴがシドに抱かれて生娘ではなくなっているならば、オルヴァがそれに気づかぬはずはない。

 フェンリルもイヴが放つ匂いで予想は付いていたが、一角獣の反応でそれを確信した。


「まあな」


 フェンリルの言うとおり、シドは結局イヴを抱かなかった。

 あの後、暗闇で自らの赤い左目と再会し、それを取り戻した彼が手を軽く振り払うと、身辺を覆っていた濃い闇はあっけなく飛散した。

 シドはすぐさま壁際に倒れていたイヴに駆け寄り、彼女が軽い脳震盪で気を失っているだけだと確認すると、ほっと安堵のため息をついた。

 続いて彼がしたことは、何も特別なことではない。

 まずは、キイキイ軋んだ音を立てる窓を閉じた。

 あれほど激しい勢いで闇が突っ込んできたというのに、ベッド脇の窓枠もガラスも少しも壊れてはいなかったのだ。

 あの真っ黒い闇の本体が、実はシドの目玉という意外に小さなものだったことを思えば、それほど不思議なことではない。

 続いてシドは、静かになった窓辺のベッドにイヴを寝かせ、自分は足元に散らかっていたワイングラスの破片を片付けた。

 彼がベッドに押し倒した時、イヴの手から落ちて割れたものだ。

 あの時は、闇だのなんだのの事情を差し置いて、シドはとにかくイヴを抱きたかった。

 しかし、一時膨れ上がった衝動は落ち着き、この時はひどく心が凪いでいた。

 脅威となる闇自体がこの世から消失してしまっていた時点で、すでに“得体の知れない闇から隠すためにイヴを抱く”というミッションは必要のないものとなっていた。

 性急にイヴの身体を開かねばならない理由がなくなってしまったのだ。

 それでなくても、意識のない女を抱くなどと、それこそシドの主義に反する。

 ゆえに、彼はイヴと同じベッドで朝を迎えることとなったが、それはただ添い寝をしただけだった。


「そもそも、たった数日であの鈍感娘に男女の性愛を理解させるなど、到底無理なことだったのだな」


 そう言うシドはおくびにも出さないが、昨夜散々イヴの体液を口にしたため、実は今現在少しばかり二日酔い気味だ。

 ただし、それも初めて彼女にキスをしまくった時ほどではない。

 どうやら、イヴの体液が自分の身体に馴染み始めている。

 そう気づいたシドは、まるで毎日毒を少しずつ口にして耐性を付けているようだと思った。

 そんな彼に対し、フェンリルはふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「負け惜しみとは見苦しい。素直にイヴを落とせなかったと認めろ」


 フェンリルは大事なイヴの貞操が無事で嬉しいのか、ふさふさのしっぽをパタパタ揺らしながら言った。

 おそらく、無意識だろう。

 シドはそれにこっそり苦笑すると、フライパンの取手をトントンと叩いて器用にオムレツを返しながら、愛らしく頬を染めた昨夜のイヴを思い出し、口の端を持ち上げた。


「いや、脈はある。気長にいくことに決めた」


 それに対し、フェンリルは唸り声を上げて対抗する。


「問題の闇が消えた今、お前にイヴを抱かせる理由はなくなった。いつかふさわしい男に託すまで、イヴの純潔は必ず守ってみせる!」

「ふん、邪魔があるほど、燃えるというものよ」


 鼻面に皺を寄せて威嚇するフェンリルと、不敵な笑みを浮かべてそれを冷たく見下ろすシド。

 彼らの睨み合いは、直後「お腹すいたー」と叫んでイヴが飛び込んできたことによって終了した。







「――申し訳なかった」


 その日の午後、化け物屋を訪ねてきたのは領主シュザック候だった。

 ラムール村の村長と保安官のロキの報告を受け、シュザック候は息子ハグバルドの行いに愕然とした。

 医者がシドの身体から取り出した弾丸と貫通した弾丸、それから弾の残った小銃が証拠として提出されていた。

 最近、ハグバルドが悪い仲間と付き合っていることを知り頭を悩ませていた候は、こんな最悪の事態が起きる前に手を打たなかった自分を責めた。

 現場となった池を覗き込み、ひどく苦しげなため息を一つ落としたシュザック候は、イヴとその隣に並んだシドに向かって頭を下げた。

 いつもはしゃんと背筋の伸びた威厳ある領主が、この時ばかりは悲しみと苦しみに押し潰されそうに見えて、イヴは思わずシュザック候に駆け寄り、その背にそっと手を添えた。

 彼は親代わりのカポロを亡くしたイヴを気にかけ、今までもとてもよくしてくれたのだ。


「すまない、イヴ……。ハグバルドは、君にも迷惑ばかり……」

「いいんです、領主様。もういいんです、済んだことです」

「いや、全ては私のせいだ……」


 イヴが労るように背中をさすってやると、祖父ほどの年齢のシュザック候は両手で顔を覆い、小さく嗚咽を上げた。

 遺体はまだ上がっていないが、彼ももうハグバルドの死を覚悟しているのだろう。

 ハグバルド自身は最後までいけ好かない人物であったが、この優しい領主の悲しみを思うとイヴも辛かった。

 ラムール村の代表としてこの場に立ち合っていた村長とロキも、沈んだ表情をして顔を伏せた。

 同行したハグバルドの年の離れた兄――次期領主となるシュザック候の長男も、父の丸まった背を辛そうに見つめていた。

 しかし、ふと何かの気配に気づき、彼は弟が沈んだと聞いた池の水面に視線をやった。

 すると突然、ザバリと水飛沫を上げて池から現れた者があった。



「――ごきげんよう、ご領主様」

「ア、アグネ……」


 真珠色の鱗をした魚の下半身を持つ、世にも美しい女の魔物。

 現れたのは、人魚アグネだった。

 アグネは驚くシュザック候の前でさらりと白銀の髪をかきあげると、魅惑的な赤い唇に笑みを浮かべて首を傾げた。


「ねえ、ご領主様?」

「アグネ……」

「わたくし、あなたのご子息の喉笛を食いちぎりましたけれど、何か処罰はございますの? まさか、イヴにとばっちりがいくようなことはありませんわよね?」


 それは柔らかな口調ながら、否とは言わせない威圧を含んでいた。

 シュザック候は顔を強張らせながらも、「ああ」と頷く。

 保安官のロキが二人の間に入ろうとしたが、候は片手を上げてそれを断ると、アグネに向かって言った。


「悪いのは、全てハグバルドと私だ。君やイヴには今まで迷惑ばかりかけて、申し訳なかった」


 それを聞いたアグネは威圧的な笑みを一変させ、とたんに上機嫌な声になって続けた。


「あら、それをお聞きして安心しましたわ。では、迷惑料としてご子息をわたくしにいただけます?」

「なんと……?」


 ハグバルドを水に引きずり込んだのは、アグネである。

 彼の生存が絶望的として、その所在を知っているのは彼女だけだろう。

 ハグバルドがどれだけ愚かな男でもシュザック候にとっては可愛い末息子なので、せめて遺体は手厚く葬ってやりたいと思っていた。

 しかし、アグネはそれを返さないと言いたいのだろうか。

 シュザック候は表情を強張らせた。


「ね、姐さん?」


 イヴもアグネの意図が分からず戸惑い、思わずシドやフェンリルと顔を見合わせる。

 村長とロキの二人は、なんとかアグネを説得してハグバルドの遺体を領主に返してやらなければと思った。

 ところがその時、こちらも顔を強張らせていたシュザック候の長男が、またいの一番に何かに気づいた。 


 コポ……コポコポ……


 アグネが半身を浸けている池の水面に、いつの間にか小さな泡が幾つも上がってきていたのだ。

 それがだんだんと数を増やし、ついにポコッ……と一際大きな泡が弾けたと思ったら、突然水面からにゅっと赤銅色の頭が現れたではないか。


「――ち、父上!? あれはっ……!」


 同じく赤銅色の髪をしたシュザック候の長男は、慌てて父の肩を叩いた。


 ……コポコポ……コポコポ……


 赤銅色の髪は、シュザック候のそれとも同じだった。

 しかし、濡れて貼り付いた前髪の隙間から地上の人々をうかがうのは、ぎょろりと大きくまん丸い魚のような目玉。

 それは、どう見ても人間の姿をしていなかった。

 しかし、シュザック候は震える声でそっと問うた。



「……ハグバルド、か?」






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