闇
十一番目の新月である今宵。
今年もまた得体の知れない闇がラムール村の空を覆い尽くしそうとしていた。
厚く真っ黒な雨雲にも似たそれは、ゆっくりと風に押されるように空を移動し、夜が明ける頃にはいずこかへ消え去るのだ。
去年までは、確かにそうだった。
ところが、今宵は毎年のそれとは明らかに様子が違った。
ラムール村の頭上で、徐々に闇が滞留し始めたのだ。
それどころか、遠い空まで広がっていた真っ黒い物があちこちから集まってきて、まるでとぐろを巻いた大蛇が天から逆さにぶら下がっているような姿になった。
森に身を隠した矮小な魔物たちはその光景に怯え、あまりの恐怖に意識を失ってしまうものまでいた。
厩舎の隅で微睡んでいたオルヴァも異変に気づいて立ち上がり、訝しげに空を見上げた。
化け物屋の前の池に引きこもったアグネも何か感じることがあるのか、その動揺を現すように水面には泡がぷくぷくといくつも浮かび上がってきた。
そして、シドの部屋にこもったイヴが心配で心配で、リビングをずっとうろうろ歩き回っていたフェンリルも、辺りを覆い尽くす異様さを感じ取っていた。
「どうかしたのか、銀狼」
部屋に張ったロープに洗濯バサミで耳を挟まれてぶら下がったウォルスには、外の光景は分からない。
しかも、彼は元々は新月に影響を受けない人間であるし、このラムール村で新月の闇に遭遇するのは今日が初めてだった。
だからウォルスには、フェンリルが身を低くして唸り声を上げ、天井を睨んでいるのが何故なのか分からなかった。
しかし――
――ガタガタガタガタッ……
「――わっ!? な、何だっ?」
ただならぬ揺れが家を襲い、ロープにぶら下がっていたウォルスも大きく揺れた。
あまりの衝撃に、彼の両耳を挟んでいた洗濯バサミがパチンと弾け、ウォルスはあえなく床に落下してしまった。
しかしそれにかまうことなく、フェンリルはリビングから飛び出し、一目散にシドの部屋に向かって走り叫んだ。
「――イヴッ……!!」
「はっ……」
舌を絡めると喉の奥に甘美な味わいが流れ込み、シドはとたんにくらりと酔いそうになった。
イヴのワイン摂取で変化したのは味だけで、魔物を恍惚とさせる効能自体はなんら変わっていない。
元よりその効能というのが、アルコール度数の半端ないワインを煽っているようなものなので、やはり飲み過ぎに注意が必要だ。
シドはかすかな酔いを頭の隅に感じながら、イヴの口内を貪った。
さらに、彼女の身体の線を確かめるように、寝間着の上から掌を這わせる。
とたんに、イヴは身を捩って焦った声を上げた。
「わっ、ちょっ……」
「うん?」
「どこ、触って……」
「どこもかしこも触る。今宵はお前の隅から隅まで触れる」
性の知識に乏しいイヴでも、異性に肌を晒すことと触れさせることには恥じらいがあるらしい。
彼女の寝間着は、踝までの長さのストンとしたロングワンピース。
シドの大きな手が寝間着の上から乳房を包み込めば、ぎょっとして両手でそれを抑え、彼の反対の手が裾を割って素足を撫でようものならあわあわと慌てた。
そんなまっさらな少女に、実地で全てを教え込もうというのは無謀であろうか。
あるいは、役得と喜ぶべきなのか。
どちらにせよ、イヴはこれから自分の身に起こることについて納得しているわけではない。
さきほどの互いが好きがどうかというやりとりだけでは、とてもじゃないが彼女がシドとの同衾に同意したとは言い難い。
そもそも、男女の性愛について正しく理解しているのかどうかさえ疑わしい。
赤子はどうやって授かるのか知っているかと問えば、コウノトリが運んでくるとでものたまいそうな予感。
もしかしたら、シドはまずおしべとめしべの話から始めねばならず、今宵このままイヴを抱いてしまえば結局は彼の主義に反することになるのかもしれない。
しかし、もうそんなことにかまっている余裕がシドにはなかった。
新月の闇がどうの、というのではない。
ただただ単純に、シドの理性の限界であった。
「あのさ……は、恥ずかしいんだけど……」
「そうか、分かった」
キスに濡れたピンク色の唇が、やっと年頃の乙女らしい言葉を放つ。
シドはそれに頷いて応えながらも、イヴの訴えなど意に介さず彼女の襟元を寛げようとする。
「はっ、恥ずかしいって言ってるじゃないかっ!」
「分かったと言っているだろう」
とたんに顔を真っ赤にして喚くイヴと、さらりと流してとにかく事を進めようとするシド。
力比べになると、言うまでもなく断然後者が有利である。
「こら、シドっ! ちょっと……!」
「分かった分かった」
「だから、何が“分かった”なのよ! ――ぎゃっ……!?」
部屋の灯りも落とさないまま、ついにイヴの寝間着の前が大きくはだけ、中に着込んだ下着さえも捲れ上がった。
そこからこぼれたミルク色の膨らみに目を細め、シドは吸い寄せられるように淡く色付く先端に口付ける。
ひゃっ……と叫んでイヴが息を呑み、白い肌がみるみるうちに赤味を増した。
その反応に満足げに口端を引き上げたシドは、さらにそれを口に含もうとした。
だが、その時――
――ガタッ! ガタガタガタガタッ……!
「な、何……?」
ベッドのすぐ脇の窓が、突如大きな音を立てて揺れ始めた。
――オオン……
空に渦巻いていた闇は、ついに狙いを定めたようだ。
一点に集まった黒い塊は、重々しい雄叫びを上げながら一気に地上に向かって突撃した。
それは、魔女が遺した家の窓の一つを押し開け、我先にと身をねじ込むようにして中へと侵入した。
「――きゃっ!?」
窓が開き、闇が冷たい空気とともに部屋の中へと一気に押し寄せてきた。
シドは咄嗟にイヴを突き飛ばし、突進してくる真っ黒い激流から逃す。
しかし運の悪いことに、イヴの身体はうねった闇の風圧にあおられて大きく吹き飛び、壁に強く叩き付けられて意識を失った。
「イヴっ……!」
シドが彼女の名を叫んだ直後。
闇は唸りを上げて渦巻き、彼を飲み込んだ。
(……?)
闇に飲み込まれたシドの目の前は、当然真っ暗闇でしかなかった。
夜中の闇がぎゅっと凝縮されたような、かすかな濃淡さえもない黒だけの世界。
ところがそんな世界に、突如ぽっとたった一つ小さな赤い点が現れた。
それに気づいたとたん、ズキンと強い痛みがこめかみに走り、シドは眉を顰めた。
さらには、彼の目玉を無くした左の眼窩がジンジンと疼き出す。
眠っていた細胞が一気に稼働を再開したかのように熱を帯び、それはたちまちグツグツと煮えたぎるような熱さになった。
(これは、何だ……?)
シド自身にも何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのかは分からなかった。
ただ彼の左の眼窩はどんどんと熱を増していき、ついにはそこを覆っていた眼帯を燃え上がらせた。
(――っ!)
はっと気づくと、赤い点は彼のすぐ目の前にいた。
そしてそれは、シドの遺された右目を覗き込むように、ぐっと至近距離まで迫った。
赤い点の正体は、ルビーのように赤い虹彩を持つ目玉だった。
やがて、ラムール村の空一面を覆っていた真っ黒い雲が消え失せた。
相変わらず月はない。
そのかわり、天空に散りばめられた星々が、この夜の出来事をつぶさに見届けようとするように瞬いていた。
新月の闇をやり過ごすために森の陰で息をひそめていた魔物たちは、不思議そうに顔を見合わせる。
この夜。
十八年間魔物達を怯えさせていた闇は、最後の時を迎えた。