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化け物屋開店  作者: くる ひなた
第一章 化け物屋
28/31

ワインの味




 刻一刻と、タイムリミットは迫っていた。

 夜の気配はどんどん濃くなって、耳が痛くなるほどの静寂は家の中にまで侵食し始めた。


 イヴはシドに持たされたワインのグラスをじっと見下ろしていた。

 成人を迎え、カポロや村の人々に祝福されて初めてそれを口にした時、自分が一人前になったような気がして誇らしかった。

 仲良しだったあの使い魔だって、最初は一緒に食卓を囲んでおめでとうおめでとうと祝ってくれていたのだ。

 その笑顔が一変した時の衝撃は、鋭い棘となって今もイヴの心に突き刺さっている。

 使い魔が向けた嫌悪と失望の眼差しに、求められていたのはイヴ自身ではなく、特異な体液だけなのだと知った。

 仲良くしてくれていたのは、それが欲しかっただけなのだと気づいた。

 悲しいし悔しかったけれど、何より恐ろしかった。

 

 口煩く説教臭いが、博識で頼りになる一角獣オルヴァ。

 面倒くさがりやで気まぐれだが、時々母や姉のような愛情でイヴを包んでくれる人魚アグネ。

 そして、育ての親であるカポロを亡くしたイヴを、ずっと寄り添って支えてくれた銀狼フェンリル。


 三匹とも人間の小娘では契約することなど叶わない高位の魔物であり、彼らが化け物屋を出て行くと決めればイヴにそれを引き止める術はない。

 ワインを口にしたとたん、彼らにもあの使い魔のような目で見られるのではないかと思うと、イヴは恐ろしくてならなかった。

 かたかたと、グラスを持つ手が震え出した。

 その手を、男の大きな掌が包み込んだ。

 イヴが顔を上げれば、シドの赤い隻眼が穏やかにこちらを見つめていた。

 けれど、その瞳さえもいつ失望と嫌悪に染まるか分からない。

 そう思うと、グラスを満たす赤い液体はイヴに恐怖しか与えなかった。


「やっぱり、だめ……飲めない……」


 イヴは泣き出しそうな声でそう言うと、自分の手を包むシドの手にグラスを押し付けた。

 彼は小さくため息をついたが、黙ってそれを受け取ってくれたので、イヴはほっと胸を撫で下ろした。

 ところが、彼女の安堵も束の間のことだった。

 シドは受け取ったグラスの中身を一気に呷ると、ワインを口に含んだままイヴの顎を掴んだのだ。


「なっ……!?」


 そのまま無理矢理唇を合わせ、油断して緩んでいたイヴの唇を舌で抉じ開ける。

 そして、シドは含んでいたワインを全て彼女の口へと移した。


「ん、んんーっ! んっ……!!」


 突然口内を満たした慣れない味に、イヴは両手をばたつかせて暴れたが、シドが唇を解放する気配なはい。

 どうにもたまらず、ついにイヴは口移しされたワインを飲み込んでしまった。

 

「うっ……げほっ! けほっ……」

「どうだ、美味いか?」


 喉を通るアルコールにイヴがむせると一度唇が離されたが、シドはのん気に問いながら再び顔を近づけてきた。

 さあっとイヴの顔から血の気が引く。

 アルコールを飲み込んでしまった今のイヴは、二年前のあの時――件の使い魔に失望された時と同じ状態にあるのだ。


(またキスして、まずくなった唾液を口にしたら……)


 シドの美しい顔が歪むのを想像し、イヴの心は悲鳴を上げた。


「だ、だめっ! いやだ、いやっ……!」


 キスをしようと迫るシドに、イヴは先ほどにも増して激しく抵抗した。

 しかし、力で彼に敵うはずがない。

 シドは暴れるイヴを自分のベッドに転がし、その両手をシーツに押し付ける。

 すると今度は華奢な足が持ち上がり、寝間着の裾が乱れるのもかまわずシドの腹を蹴り付けようとした。

 だがしかし、それはのしかかった彼の胸の包帯を見たとたん勢いを失った。

 

「う、んうっ……」

「イヴ」


 ベッドにはりつけたイヴの唇に、シドは再びかぶりついた。

 せめて唾液をさらわれまいと、イヴは必死に歯を噛み締めて口を閉ざす。

 けれどそちらにばかり意識を集中させすぎて、自分の瞼から溢れた涙への対処が遅れた。


「うっ、あっ? ――やっ!」


 気づいた時には、既に遅かった。

 頑な唇をぱっと解放したシドが、ほろりと零れ落ちたイヴの涙を舌で受け止めていた。

 とたんにイヴの身体は硬直した。

 ついに、シドに変化した体液を含まれてしまったのだ。


「う……」


 そう小さく呻いたイヴの全身を激しい虚脱感が襲い、抵抗する気力をなくした。

 止めようにも涙は留まることを知らず、それをまた丹念に拭うシドの舌が一層彼女の絶望を深めた。


「……泣くな、イヴ。大丈夫だ」


 声もなく涙を流すイヴを宥めつつ、涙を味わい尽くしたシドは再び彼女の唇を啄んだ。

 すっかり無抵抗になったそれを抉じ開け、舌を奥へと忍び込ませる。

 とたんに、涙よりも濃厚でダイレクトな味わいがシドの舌を刺激した。

 と同時に、彼はイヴと唇を触れ合わせたまま、くくくと笑った。


「なるほど、イヴ。どういう理屈か分かったような気がする」

「……?」


 シドの言葉に、イヴは呆然と彼を見上げた。


「件の使い魔は相当お子様だったようだな。お前と同じレベルで」

「……」

「今のお前の唾液は、ワインそのものだ。つまり、大人の味ってことだ」


 ワインは神の血の代行品とされ、聖廟でも神事の際に奉納される。

 清めの効果もあるアルコールは、矮小な魔物なら口にすれば消滅するほどで、ある意味劇薬にも等しい。

 高位の魔物であるフェンリルやオルヴァでも酒を好んで口にすることはなく、足が生えれば隣町の酒場で男を漁るアグネも、実際に口にする酒は嗜み程度でしかない。

 水のようにワインを飲み干すシドが、魔物としては特異なのである。

 そんなシドには、イヴの体液の性質について分かったことがあった。

 普段は魔物を魅了するイヴの体液は、魔物のそれと混ざれば中和されるようにして一時気配を潜める。

 その性質を踏まえて、フェンリルはシドと身体を交えることによってイヴ自身の気配を隠せると仮定したのだ。

 対して、魔物の体液とは対極にあるともいえる神の血――ワインを飲めば、彼女の体液はワインの味に近くなった。

 つまり、イヴの体液は“ひどく感化されやすい”ということだ。

 そんな自分の特異体質のことなど知らないイヴは、唾液を味わったシドが眉を顰めないかとビクビクしている。

 だが、彼の機嫌が降下する気配がないどころか、もっとと唇を求めてくるものだから、イヴは呆然としながら問うた。


「……私、まずくないの?」

「まずくない。むしろ、俺にとっては奥深い美味さだ」

「シドは……私を嫌いにならない?」

「ならない。何度も言わせるな、イヴ」


 シドはやれやれとため息をつきつつ、力なく横たわっていたイヴの身体を起こしてやり、ベッドの上に座らせた。

 そして、大きなブラウンの瞳を揺らして見つめてくる彼女と、しっかりと視線を合わせて告げた。


「俺を信じろ――なんていうのは陳腐な言葉だろうか。まだ出会って間もない俺のことなど、信用できないか?」

「シド……」


 イヴには、いまだにシドが何者かは分からない。

 だが、出会って以来ずっと自分を気づかってくれている彼に、もう随分と心を開いてしまっていた。

 彼がずっとこの家にいてくれたらいいと思うし、彼の作ったご飯をもっと食べたいと思う。

 誰よりも穏やかなのは、強大な魔力を保有しているから生まれる余裕なのか。

 そんなシドの隣は心地よく、安心感があった。 


「……」


 イヴはベッドサイドに置かれていたグラスを手に取ると、無言のままそれにワインを少しだけ注いだ。

 そして、おそるおそる自ら一口含んでみた。

 二年前の祝いの夜。

 一度だけ口にしたのも、確かカポロが用意してくれた赤ワインだった。

 直後の使い魔との一件がショックすぎて、あの時どんな味がしたのかなどすっかり忘れてしまっていたが、独特の渋味と喉を通るアルコールの刺激に慣れず、その奥に控えた旨味に辿り着く前にイヴの方が眉を顰めた。


「……あんまり、美味しくない」

「イヴはお子様だからな。酒の飲み方は、俺がゆっくりと教えてやる」


 そう言って、くくと喉で笑いながら再び口を啄んでくるシドに、イヴは逃げたくなるのを必死に耐えて応えた。

 そんな彼女の覚悟を察し、シドも今度は強引には深めない。

 柔らかく合わせた唇の隙間から、そっと優しく舌でノックして砦を開くように促した。

 それにふるふると震えながら従順に応えるイヴが愛おしく、思わず両腕を回して彼女をかき抱く。

 僅かに開いた隙間から舌で攻め入れば、腕の中の身体が怯えたようにびくりと竦んだ。

 

「……ん……」


 酒に慣れたシドは、イヴが辿り着けなかった味わいの奥深さを知っていた。

 彼女の魅惑の体液は、じわじわとシドの舌の上で変化を続けている。

 それは数多の魔物達が夢中になるような直接的な魅了とは違い、選ばれたものにのみ味わえる逸品だ。

 それを今自分が独占しているのかと思うと、シドは膨れ上がる高揚感を抑えられそうになかった。


「イヴ、俺はそう簡単に死なない」

「……うん」

「体液がうまかろうがまずかろうが、お前を気に入っている」

「……ん」

「この先もお前の側にいたいと思うし、それをお前に信じてもらいたい」

「うん……」


 もう一度、ちゅっと唇を啄んだ。

 ほんのりと頬が色付いて、恥じらいに身を捩る様子がシドの目にはとにかく可愛い。


「俺は、お前に触れたい」

「触れる?」

「お前がほしい」

「私の、何が欲しいの?」

「すべて」

「すべて?」


 フェンリルの依頼も、新月の闇のことも、シドはこの時全てどうでもよくなっていた。

 イヴが愛おしく、本能のまま全身が彼女を求めていた。

 純粋に、ただただ彼女が欲しかった。



「――抱きたい」

「だく?」



 きょとんとして、次いで「はい。じゃあ、だっこ」と言わんばかりに、無邪気な様子で両手を差し出してくるイヴに、シドはこれは前途多難だと苦笑を浮かべた。

 と同時に、やはりフェンリルの言いなりになって媚薬など盛らずによかったと思った。

 無垢で無知な彼女に、いろんなことを教えていくのは自分であると、その時シドは確信した。

 それはひどく楽しみでもあり、光栄にも感じた。

 ただし、たっぷりと蜜を味わったシドの余裕はそろそろ底をつき、今宵だけは少し性急に進めることになりそうだ。


「すれていないのは結構なことだがな、お前はもう少し自分に向けられる周りの者の――特に男の感情に敏感になれ」

「……そんなの、分からないよ」

「なら、今はまだ分からなくていい。だが、ひとつだけ答えろ――俺が好きか?」

「……」

「俺は、お前が好きだ。お前が可愛い――欲しい」


 直接的な言葉は鈍い少女にもさすがに伝わったのか、イヴの頬が真っ赤になった。

 彼女は俯いて目を逸らし、手の中のグラスを弄びながらもごもごと小さな声で答えた。


「私だってシドのこと……けっこう、好き……だと、思うけど」

「上等だ、イヴ」


 その言葉にニヤリと不敵な笑みを浮かべたシドは、赤くなったイヴの耳に唇を押し当てるようにして囁いた。


「後は、俺は糧が欲しくてお前を抱くのではないと、それだけ理解しておけば何も問題はない」


 脳に直接響くようなとてつもなく艶やかな声が、その時イヴの身体の自由を奪った。

 力の抜けた彼女の手からグラスが滑り落ち、円を描くようにしてベッドの上を転がったかと思ったら、そのまま床に落ちてしまった。



 ――ガシャンッ……


 グラスの割れる音が、イヴの耳にも届いた。

 しかし、ベッドに押し倒された彼女は、それをどこかひどく他人事のように感じていた。

 



 その時。



 ついにラムールの空を闇が覆い始めた。




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