イヴの価値
「――シドっ!」
「おう、おかえり」
シドが血塗れのシャツを脱いでいると、寝ぼけ眼の医者を引っ張ってイヴが戻ってきた。
ラムール村でたった一人の医者は、老齢だが腕は確かだ。
医者はシドの胸に穴が三つも空いているのを目の当たりにすると、こりゃあ一大事とばかりに彼をベッドに追い立てた。
いつも脅威の回復力を見せるシドの弾痕は、一つはすでに出血をやめていた。
しかし、弾が貫通しなかった傷はまだじくじくと血を滲ませており、当然体内に異物を残しておくわけにはいかないと判断した医者は、傷口を切開して弾を取り除くことにした。
もちろん、この医者も小銃など見たことも扱ったこともなかったが、鉄の弾で相手を打ち抜く武器だと聞くと「そんな物騒なもん、誰が作ったんじゃ!」と憤慨した。
イヴは、カポロ婆さんが残してくれた薬草の保管部屋から、麻酔薬やら消毒薬やら化膿止めの薬やら、とにかく要りそうなものをどっさりと持ってきた。
そして、医者が処置を施している間、真っ青な顔をしてシドの手を握り締めていた。
「イヴ、大丈夫だ」
そのあまりに痛ましい表情を見かね、シドは彼女に握られたままの手を動かして、色を失っている少女の頬を指の背で撫でてやる。
すると、今度は茶色い瞳がみるみる潤んで涙が瞼を越えて溢れ出した。
「死なないで……お願いだから、もう誰も私を置いていかないで……」
イヴは、一度懐に招き入れて仲間と認めた者の喪失を極度に恐れる。
突然育ての親であるカポロを亡くしたことを、彼女はまだずっと引き摺っているのだ。
ぽろぽろと零れるイヴの涙を、シドは頬を撫でていた掌で受け止めた。
そして、ふと指先に玉になって乗ったそれを口に含んでみる。
イヴの体液は、魔物にとっては魅惑の液体。
もちろん、涙だって例外ではない。
とたんに舌の奥に蕩けるような甘さが広がったと思ったら、喉へと流れてたちまち身体の奥へと染込んでいった。
それはまるで甘美な毒のように、一瞬シドの思考を支配する。
しかし、もっと欲しいと訴える身体を彼は理性で押さえ付けた。
「涙もうまいが……好かんな」
シドはそう言って、寄る辺の無い幼子のようなイヴの涙をひたすら手で拭い、傷を縫合している医者に「じっとせい」と叱られた。
その後、処置を終えた医者を見送ったイヴは、シドのベッドの横に椅子を引いてきて居座った。
シドがワインを所望すると怒ったが、代わりに冷たい水を汲んできたり、時々熱がないかと彼の額に触れたりと、実に甲斐甲斐しい。
シドとしては傷によって別段不自由することはないのだが、それでイヴの気が済むのならと、彼女の好きにさせることにした。
そうして、一通り世話を焼いて満足した頃、シドの傷が致命傷ではないとようやく実感できたのか、緊張が解けたらしいイヴがうとうととし始めた。
それでも、片手はシドの脈を確かめるように彼の手首を握ったまま。
そんなイヴの無防備なほどの依存が愛おしく、シドはあやすように彼女のストロベリーブロンドを撫でてやった。
「……イヴは眠ったか」
ベッドに突っ伏して眠ってしまったイヴを、このまま自分のベッドに寝かせるべきか、彼女の部屋に運んでやるべきかとシドが考え始めた頃、フェンリルがそっと部屋に入ってきた。
彼は、イヴに頼まれて医者を家まで送って行っていたのだ。
フェンリルはベッドに近づき、頬を濡らしたイヴの寝顔に気づくと、鼻面に皺を寄せてシドを睨み付けた。
「貴様……あのくらいの弾、避けられただろう。わざと食らったな?」
「まあな。おかげで、アレを食らうと人間なら命に関わるということがよく分かった。イヴに当らなくてよかったな」
フェンリルの言うとおり、おそらくシドは銃弾を避けることができただろう。
だがハグバルドが自信満々に掲げた未知の武器の威力に興味があったし、それを受けても死にはしない妙な自信があった。
それに、あの時シドが立っていた場所の背後には、イヴの家があった。
育ての親であるカポロが彼女に残した、思い出が詰まった大切な家。
そのドアを先日ハグバルドに土足で汚された時のような悲しそうな顔を、シドはイヴに再びさせたくはなかった。
だが……
「こんなに……イヴを泣かせるつもりはなかった。少々、反省しているところだ」
シドはそう呟くと、イヴの頬にかかった髪をそっとよけてやり、泣き腫らして赤くなった瞼を見下ろして小さく息をついた。
フェンリルはそれに「ふん……」と鼻を鳴らすと、イヴの目尻に残っていた涙をペロリと舐め取った。
翌日は、朝からあまり天気がよくなかった。
昨夜ハグバルドによって早々に池に蹴り落とされたウォルスは、イヴが医者を呼びに行っている間に血塗れのシドによって拾い上げられぞうきんのように搾られていた。
おかげで随分水は抜けたものの、全身渇ききるまで両耳を洗濯バサミでロープに吊るされて、一日部屋干しされることに決定した。
一方、昨夜シドを診た医者がハグバルドの暴挙を村長に訴えてくれたらしく、朝早く村長とその孫の保安官ロキが化け物屋へと飛んで来た。
彼らは胸に包帯を巻いたシドからハグバルドが使った小銃を受け取り、彼を貫通した弾一つと医者が取り出した弾二つを確認し、それが非常に危険なものであると理解した。
その後、村長とロキはハグバルドが落ちた池の周辺やそれに通じている泉の沿岸を捜索したが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
イヴが呼んでも、やはりアグネも姿を見せない。
協議の結果、村長とロキはハグバルドの父親であるシュザック候にありのままを伝えることに決め、小銃と弾丸という証拠品を持ってその足で隣町の領主館へ向かった。
この日、シドは家政夫の仕事を何一つさせてもらえなかった。
とにかくシドをベッドに押し込めていないと気が済まないらしいイヴは、彼が台所に立とうとするとひどく怒るのだ。
シドの傷口は医者の縫合のおかげで一応はくっ付き、痛みもほとんどない。
しかし、迂闊に動いて血が滲むようなことがあれば、せっかく止まったイヴの涙をまた流させることになるかもしれない。
それは本意ではないシドは大人しく彼女に世話を焼かれることにした。
幸い、昨夜化け物屋で騒ぎがあって怪我人が出たと聞きつけ、村のご婦人達が差し入れ片手にこぞってイヴの様子を見に来てくれたおかげで食事にはまったく困らなかった。
やがて日が落ち始めて早々に、シドは一番風呂に浸けられた。
彼は浴室の窓の向こうが夕日で赤く染まるのを眺めながら、いよいよ押し迫った新月の闇について考えていた。
「……さて、どうしたものか」
フェンリルに渡された媚薬は、昨夜こっそり池に捨てたのだから使えない。
そもそも、薬を使ってイヴをどうこうするなどという選択肢は、シドの中でははじめから存在しないのだ。
薬を捨てたことをフェンリルが知れば、自らイヴとシドに媚薬を含ませるという強硬手段に出かねないので、彼の前ではまだ薬を持っているように装わねばならない。
しかしながら、得体の知れない“新月の闇”とやらからイヴを守るとの約束を違えるつもりもない。
シドは今宵闇が世界を包んでいる間、イヴを抱かねばならないのだ。
ではどうやって、彼女を納得させた上で身体を重ねるか。
昨夜染み付いた自分の血の臭いを湯で洗い流しながら、シドはその難問に頭を捻らねばならなかった。
湯から上がって部屋に戻ったシドに、イヴは冷たい水を持ってきてくれた。
まったくもって、昨夜までとは別人のように甲斐甲斐しい彼女の様子に苦笑しつつ、シドは後で一緒に部屋でお茶でも飲もうと誘った上でイヴを浴室に向かわせた。
彼女がシドの側を離れたとたん、朝からずっと落ち着かない様子だったフェンリルが彼のベッドへと駆け寄ってきた。
「――おい! 貴様は今宵、本当に役に立つのかっ!?」
イヴに聞こえないように声量を抑えつつも、銀狼の声は焦りに満ちていた。
なにしろ、イヴが昨夜からずっとシドに引っ付いていたので、フェンリルは彼に今宵の首尾について確認することもできなかったのだ。
その上、日が落ちるとともにフェンリルの魔力もぐんと押さえつけられ、ただの狼ほどにしか鼻も利かなくなってきている。
それが、余計に彼の不安を煽った。
一角獣オルヴァは、闇の到来に備えてさっさと馬房で眠りに就いた。
人魚アグネは、やはり池から顔を出す気配はない。
森に住まう矮小な魔物達も、一年に一度の脅威に怯えてそれぞれ身を隠して息を潜めている。
魔物が多く住むラムール村では、彼らが引きこもるこの夜ほど静かな時はない。
静寂の中に異様に張り詰める緊張。
ただしシドには、特別な違和感も焦燥も感じられなかった。
「案じずとも、約束は守る」
シドは尻尾の先の毛まで逆立てているフェンリルを眺めながら、イヴに手渡された冷たい水を飲んでそう言った。
確かに彼も他の魔物同様若干の魔力の低下は自覚しているが、それによって余裕を失うことはなかった。
イヴの涙がなかなか止まらなかった昨夜の方が、よっぽど慌てたものだ。
一方、そんな彼の態度がのん気に見えたのか、フェンリルはひどく苛立った声を上げた。
「時間がないんだ。貴様の主義だの主張だの、もはや聞いている余裕はないんだぞ」
「分かっている」
「後で一緒に茶を飲むといったな。イヴに薬を飲ませる最後のチャンスだ。私がイヴの気を引くから、その隙に瓶の中身を全部入れろ」
シドはここで少し参ったなと思った。
フェンリルは、イヴに媚薬を盛るまで居座るつもりなのだ。
それでは困るシドは、彼を部屋から追い出すことにした。
「銀狼様はよほど俺を信用できないと見える。――そんなに心配なら、朝まで立ち合うか?」
「……っ!」
ニヤリと笑って告げたシドの言葉に、フェンリルはとたんに全身を引きつらせた。
背に腹は代えられずイヴの身体をシドに預けると決意したものの、フェンリルはそんな自分の決断を引っくり返したくなる衝動をずっと必死に耐えているのだ。
イヴが幼い頃から側に寄り添っている彼は、気持ちとしては父親のようなつもりでいる。
可愛い娘が男にベッドで好き勝手される姿など、到底冷静に見ていられるはずがない。
それが分かっているシドは、邪魔な舅をなおも挑発した。
「せっかくだ。暴れぬようにあいつの手足を抑えておいてくれるか?」
「――クソっ……」
案の定、フェンリルは牙を剥き出しにして唸り声を上げ、憎々しげにそう吐き捨てた。
さらに射殺しそうな目でシドを睨んだが、結局くるりと身体を反転して、逃げるように部屋を飛び出して行った。
と、その直後。
浴室の方からイヴののん気な声が聞こえてきた。
「フェン、どこ行くの? 今夜は魔力が弱まってるんでしょ? 外に出ちゃ駄目だよ」
シドも、この時ばかりはフェンリルを気の毒に思った。
まさに、“親の心子知らず”である。
「シド、傷見せて」
「もう血は止まったぞ。傷ももう塞がって……」
「いいから、見せて」
湯から上がり、紅茶のポットを持ってシドの部屋に戻ってきたイヴの手には、新しい包帯もあった。
イヴは茶葉の蒸らし具合を確かめてから、シドが腰を下ろしているベッドによじ登り、彼が着込んだばかりのシャツをひん剥いた。
部屋の中にはイヴとシド、二人きり。
上半身裸の男と同じベッドに乗るという行為について、もちろんイヴには恥じらいも色っぽい思惑も皆無である。
それにやれやれとため息をつきつつ、シドは大人しく彼女に従った。
「……痛い?」
「痛くない」
弾痕は、胸に二発と脇腹を掠めたのが一発。
胸に当った弾がうまく骨で止まったおかげで大事に至らずに済んだが、内臓――特に心臓を打ち抜かれでもしていれば、いくら回復能力の高い魔物でも危ういところだったかもしれない。
イヴは、シドの縫合された傷をじっと見つめて安堵のため息をつきながらも、昨夜血塗れの彼を見た時の恐怖を思い出し、その身をぶるりと震わせた。
しかも、新月で魔力が抑えられているせいか、あるいは弾痕という特殊な傷のせいか、フェンリルが噛んだ時の傷に比べて治りが遅いように思えてならない。
それにまた不安をかき立てられたイヴは、包帯を切るのに使ったハサミを衝動的に自分の手に突き立てようとした。
「こら、やめろ。そんなことをすると痛いぞ」
「私は痛くてもいいから、シドは血飲んで早く治してよ。お願いだから……怖いから……」
慌ててハサミを取り上げたシドに、イヴは震える声でそう訴えた。
涙でも唾液でも、シドの傷が消えてなくなるのならば、いくらでも食らってほしいと彼女は言う。
血が一番効果があるというならば、いくらでも差し出すと。
けれど、イヴから取り上げたハサミを遠ざけたシドは、小さくため息をついて彼女に向き直った。
「いいか、イヴ。この際だからはっきりと言っておく」
茶色い瞳が不安げに揺れ、縋るように見上げてくる。
そんなイヴの頬を撫でながら、シドは穏やかに諭すように告げた。
「お前の体液は確かに魔物にとっては魅力的だ。だが、糧にはならんし、到底薬にもならない」
「え……」
「現に、俺は昨夜お前の涙を何度も口に運び、確かにとてつもなく美味かったが……それだけだ」
「……」
「一時感覚が麻痺して傷の痛みを忘れるが、実際に傷に作用することはなく、治りが早くなるわけでもなかった。分かるか、イヴ。お前の体液はいわばワインや紅茶のような嗜好品に過ぎない。日常を彩り潤すことはできるが、それ以上の特別な価値はない」
むしろ、麻薬――あるいは毒に近いと続けようとしたシドだったが、イヴの蒼白な顔を見て言葉を飲み込んだ。
「そんなこと……」
イヴはまるでカポロの使い魔に見限られた時のように、足元の地面がガラガラと崩れていくような恐怖に包まれた。
しかし、彼女の脆い心が奈落に落ちてしまう前に、シドは力強い腕を伸ばして彼女を明るい地上へと引っ張り上げた。
「勘違いするな、イヴ。それはただ体液の価値の話であって、お前自身の価値とはまた別の話だ」
化け物屋の主人の体液は蜜のよう。
魔物達を夢中にし、虜にする。
けれど、彼らにとってイヴの魅力は、決して体液の美味だけではないとシドは思っている。
「前にも言ったな。この化け物屋に集う面々は、お前を家族のように大切に思っていると。美味い体液は互いの距離を縮めるきっかけであったかもしれないが、連中が今もまだお前の側にいるのは見返りを期待しているからではないだろう」
「シド……」
不安定な眼差しで見上げてくるイヴを、包帯が巻かれた胸へと抱き寄せた。
ビクリと震えて逃げようとする身体を、シドは力で押さえ付ける。
「魔物の仕事の対価として、望まれれば唾液でも涙でもくれてやるのはお前の勝手だ。だが体液でしか連中の心を繋ぎ止めらないと思っているのなら、それはお前が自分で自分を貶めているのだと知れ」
シドはそう言うと、ベッドの脇に手を伸ばして、ワインボトルを一本取り出した。
イヴが、「いつのまに」と目を丸くしている前で、彼は続いてグラスを手に取る。
その手に掴まれたグラスが二つあったことに、イヴはギクリとした。
「イヴ、ばあさんの残した酒は美味いな」
シドが今宵選んだのは、年代ものの赤ワイン。
確か、魔女カポロの薬のおかげで病を克服したどこぞの貴族が、謝礼とともに寄越した逸品だ。
シドはコルクの栓を牙を引っ掛けて器用に抜くと、二つのグラスにそれを注いだ。
「美味いが……一人で飲むのはつまらん。付き合え、イヴ」
「わ、私は……」
「それでお前の体液がまずくなろうが、かまいやしない」
そうして片方をイヴの手に持たせ、半ば強引にチンとグラスを合わせた。
「飲め、イヴ」
「……」
赤い赤い水面は、少女の揺れる心を映すように、ゆらゆらと不安定に波打っていた。