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化け物屋開店  作者: くる ひなた
第一章 化け物屋
26/31

前夜




「明日、イヴの食事にこれを混ぜろ」


 新月を翌日に控えた日の夜。

 夕餉の片付けを終えてダイニングで独り酒を楽しんでいたシドに、フェンリルはそう言って小さなガラスの瓶を突き付けた。

 中にはピンク色をした液体が入っている。


「これは?」

「……媚薬だ」


 赤い隻眼を細めて問うシドに、中性的な少年の声が不釣り合いな言葉を紡いだ。


「時間切れだ、シド。お前にはやはりイヴは落とせなかった」

「おいおい、まだ後一日あるぞ」

「その一日で何が変わる。イヴはお前を化け物屋の一員としては受け入れているが、男として受け入れている訳ではない」


 フェンリルの言うとおり、シドはまだイヴを口説き落とせていなかった。

 ただし、脈がないわけではないと思っている。

 シドが料理をしている姿には、まだ育ての親であるカポロと重ねて幼子のような表情を向ける時もあるイヴだが、それでも過剰なスキンシップには恥じらう様子を見せ、彼を異性として意識し始めているのは確かだ。

 唇どころか口の中まで安易に許していた最初を思えば、恥じらいを憶えたのは随分な成長だろう。

 シドとウォルスにこっぴどく説教を食らってからは、幼馴染みのロキへの挨拶代わりのキスも控えている。

 そんなイヴに、一方でシドはことあるごとにご褒美のキスを要求する。

 ついさっきも、夕飯を食べ終えて幸せそうにご馳走様を言うイヴに迫ると、彼女は耳まで真っ赤になって後ずさり、フォークで自分指先を突き刺して代わりに血を差し出そうとした。

 それを押え付け、無理矢理奪ったイヴの唇の甘さを思い出すと、シドは口の端が持ち上がるのを止められなかった。

 それに目敏く気づいたフェンリルは、彼の長い足をしっぽでベシリと叩きつつ苛々した様子で続けた。


「イヴの合意を得るなどと、結局は最初から無理だったのだ。かくなる上は、当初の予定通り薬で前後不覚にして……」

「それは俺の主義に反すると言っただろうが」

「黙れ、この役立たず! 貴様の喉にも媚薬を突っ込んでやろうかっ!」

「おいおい、落ち着け」


 タイムリミットを目前にして、フェンリルの言動は随分と物騒になった。

 唯一無二の宝である少女を得体の知れない闇から隠さねばならないのに、その術がいまだ確立されてないのだ。

 実際、その時が訪れて何がイヴの身に起こるのかなど誰にも分からない。

 しかし、フェンリルの中では焦りだけがどんどん大きくなって、彼の胸をぎちぎちと苛んでいた。

 シドは手負いの獣のように牙を剥く銀狼に小さくため息をつくと、彼を宥めるためにも一応は媚薬の小瓶を受け取った。

 そして、グラスに注いでいたワインを飲み干しつつ、さてどうしたものかと考えながら宙を見上げた。



 一方その頃イヴはというと、風呂上がりの濡れた髪もそのままで、家の前にある池を覗き込んでいた。

 その肩には、不格好な黒猫のぬいぐるみとなったウォルスもくっ付いている。


「イチゴちゃん、そろそろ家に入ろうよ。月が無いから暗くてかなわない」

「まだあるよ、月」

「あんなか細いの……もう、あるうちにはいらないよ」

「まあ、確かに暗いねぇ……。アグ姐さん、水の底で何も見えないんじゃないかな」


 領主シュザック候のドラ息子ハグバルドが、人魚アグネを無理矢理連れ去ろうとしたのは数日前のこと。

 その事件以来、アグネはイヴとも化け物屋の魔物達とも顔を合わせていなかった。

 せっかくシドに綺麗に縫い直してもらった件のブラジャーも、イヴはまだ返せないままでいる。


「明日、潜ってみようかな……」

「イチゴちゃん泳げるの? この池も泉の方も、相当深そうだけど?」

「泳ぎは、あんまり自信ないけど……でも、アグ姐さんに会いたいし。怒ってるんなら謝らなきゃだし……」

「どうして、イチゴちゃんが謝るの? 人魚が怒っているとしたら、君にじゃなくて領主のバカ息子にでしょっ!?」


 かつて仲良しだと思っていたカポロの使い魔に去られた思い出が、イヴの心を苛む。

 イヴは、ハグバルドの暴挙に辟易したアグネが、自分を含めた人間全てに愛想を尽かしてしまったのではないかと不安でならなかった。

 それを隣で見ていたウォルスは、彼女に寂しそうな顔をさせるアグネが腹立たしく、苛立ち紛れに側にあった石を池に蹴り入れた。

 ドボンと大きな水音がして、水しぶきがイヴの足元まで飛んでくる。


「ちょっ……こら、ウォルス! 冷たいじゃない――」


 それに眉をしかめて文句を言い、ぬいぐるみの首根っこを掴もうとしたイヴだったが……


「えっ――うっ、わ……!?」


 逆に、何者かに後ろから首に腕を回され拘束されてしまったではないか。

 当然わけも分からず手足をばたつかせて暴れるイヴの耳元で、聞き覚えのある怒鳴り声が上がった。


「大人しくしろ!」

「――っ、あんた……!」

 

 イヴを捕まえていたのは、人魚アグネに無礼を働いたハグバルドであった。

 現在彼はラムール村への立ち入りを禁じられているはずだが、この夜闇に紛れてこっそり忍び込んだのだろう。

 別段鍛えているわけでもないハグバルドの腕でも、イヴのような小柄な少女一人抑え込むのは容易い。

 容赦なく喉を圧迫されたイヴが苦しげに喘ぐのを目の当たりにし、果敢にもウォルスはハグバルドに飛びかかった。


「この下郎! 気安くイヴに触れるなっ!」

「黙れ! 小物の分際で、俺を愚弄するな!」


 しかし、かよわい子猫のぬいぐるみの姿では手も足も出ない。

 それどころか、逆にハグバルド蹴り飛ばされて、先ほど自分が蹴った石のようにボチャンと池へと落ちてしまった。

 ウォルスはもともと幽体でありぬいぐるみは仮の器なので、今更溺れて死ぬことはない。

 しかし、中に詰まった綿がどんどん水を吸って、泳ごうにも沈む一方。

 バシャバシャと彼が激しく水面を掻く音が、新月を控えた暗い夜に響いた。


「――アグネ、出て来い! 来なければ、こいつを殺すぞ!」


 そう喚いたハグバルドに、ゴツッとこめかみに何か硬いものを突き付けてられて、イヴは眉を顰めた。


「――イヴ!」

「おい、何ごとだ」


 騒ぎを聞きつけて、ダイニングで話し込んでいたシドとフェンリルが駆け付けた。

 イヴの頭に突き付けられたのは、小銃だった。

 それは普通では手に入らない高度な武器であるが、残念ながら辺境の田舎中の田舎であるラムールの者は銃など見たことはない。

 イヴをはじめ、シドやフェンリルにとっても初めて目にする物体だった。


「なに、コレ。こんな変な形の筒で殴られたって、死にはしないわよ?」

「黙れ、田舎もの! これは殴るための武器ではないわっ!」


 ハグバルドは王都から流れてきた裏社会の者を通じ、金にものを言わせて小銃を手に入れたのだ。

 ただし、それが殺傷能力の高い武器などと知らない化け物屋の面々はどこかのん気。

 それに余計に苛立ったハグバルドは、血走った目で周囲を見回すと、一際背が高く美しい存在に視線をとめた。

 シドだ。

 魔物のくせに、人間の自分に哀れむような隻眼を向ける彼に、ハグバルドの劣等感は憎悪に成り代わって一気に膨れ上がった。

 彼はイヴのこめかみから小銃をはずすと、その銃口をシドへと向けた。

 その時、表の騒ぎに馬房を飛び出していたオルヴァも駆けつけ、暗闇に光る金属を見て「やばいっ!」と叫んだ。


 ――だが、遅かった。



「こうするんだ! よく見ていろっ!!」



 ――ドウッ!



「――え……?」


 暗闇の中、シドに向けられた筒の先端が火を噴いたのがイヴにも見えた。


 ――ドウッ!――ドウッ!


 続けて、さらに二発。

 何が起こったか分からないイヴの目の前で、シドの白いシャツの胸元がみるみるどす黒く染まり始める。

 闇の中で見れば、鮮血もただ黒に見えた。


「――シ、シドっ!?」

「分かったか、馬鹿共! これで頭を打ち抜けば、この女は即死だっ! 分かったら、さっさとアグネをここに……」


 シドの血に、その場の空気が一気に緊張を孕み、驚愕と困惑の視線がハグバルドに集まる。

 銃声と硝煙の臭いに、彼はひどく昂っていた。

 自分は誰よりも強い支配者であると錯覚し、かつてない高揚感に満たされていた。


 だから、気づけなかった。


 自分のすぐ背後で、巨大な怒りがふつふつと沸き上ってきているということに……





「――貴様、そのような危険な物を、わたくしのイヴに向けたのか」





 突然、地を這うような声がした。

 女の声だ。

 イヴにも聞き覚えのある声だったが、彼女がいつも馴染んでいるそれよりもずっと低く冷たかった。

 ゾクリと背筋が冷たくなったのはイヴだけではなかったようで、彼女を捕まえているハグバルドの腕にぶわっと鳥肌が立ったのが分かった。


「わたくしのイヴを、殺すと言ったか――?」


 また、同じ声がそう紡いだ。

 そのとたん、急に池の水面が盛り上がり、ザバリと水しぶきが上がった。

 次の瞬間――


「――!?」


 ハグバルドの目の前を長い白銀の髪が舞った。

 軒下に掲げたランタンの僅かな灯りの中、跳ね上がった水しぶきがキラキラとその髪の隙間に煌めく。

 しかし、ハグバルドがそれに見蕩れたのも一瞬のことだった。


「――ぎゃっ……!?」


 池から勢い良く飛び出したのは、人魚アグネだった。

 彼女は魚の形をした尾で水を叩いてハグバルドに飛びかかり、そののど笛に横から噛み付いた。

 鋭い人魚の歯が、ミチミチと骨を軋ませる音をさせながら彼の首筋へと食い込んでいく。

 長い爪を携えたアグネの手が、緩んだハグバルドの腕からイヴを引き剥がして、慌てて駆け寄ってきたフェンリルの方へと突き飛ばした。


「ねえさん! アグ姐さんっ!!」


 イヴはフェンリルの背に庇われ、今まで見たこともない恐ろしい形相のアグネに戸惑いつつも、必死に彼女の名を呼んだ。


 その時、ついにブチブチと牙が皮膚を突き破る音がした。


「――ぎゃああ!」


 ハグバルドの断末魔の叫びとともに、アグネの牙は肉を噛み切り引き剥がし、奥に隠された一番太い血管を食い破った。

 ブシュッと血飛沫が噴き上がる。

 ――ドウッ!

 小銃が一発あらぬ方向に向かって火を噴き、力を無くしたハグバルドの手から地面へと滑り落ちた。

 一目で致命傷と分かる傷を負った彼の身体が、ぐらりと後ろへ傾く。

 そして、バシャンと大きく水飛沫を上げて背後の池へと落ちたかと思うと、そのままアグネによって水の中へと引きずり込まれてしまった。

 水面には、じわりじわりと赤黒い波紋が広がっていく。

 しばらくは泡がぽこぽこと浮かんできたが、それもやがて消え失せた。



 夜の森に、静かな闇が戻ってきた。



 ホーホーと、どこか遠くの木でフクロウの鳴く声が聞こえる。

 フェンリルの背中にしがみついて呆然としていたイヴは、はっと我にかえると慌ててシドへと駆け寄った。


「――シドっ、血がっ……!!」


 彼は平気な顔で立っていたが、そのシャツの胸元は夥しい血で染まっていた。


「や、薬草をっ……血止めの! ああでもどうしよう、身体に穴が開いてるっ……!」

「落ち着け、イヴ」

「ああ、どうしよう。私、裁縫下手だ! 縫えないっ!」

「落ち着けって。まあ、痛いのは痛いが、このくらい平気だ。じきに塞がる」

「――あっ、そうか! お医者様っ……!」

「おい、話を聞け。――イヴ!?」


 ハグバルドがシドを狙って放った三発の銃弾は、最初の一つは貫通していたが、二つは途中の骨で止まっていた。

 シドの血と弾痕を見て真っ青になったイヴは、医者を呼びに行くと言って灯りも持たずに寝間着のまま走り出した。

 その後を、慌ててフェンリルが追い掛けて行く。


「……やれやれ。とんだ夜だな」


 そんなイヴとフェンリルの背中を見送ると、シドは自分の血塗れの胸元を眺めて大きくため息をついた。

 そして、重傷を負っているとは思えないよどみない足取りで池の側に寄り、すっかり凪いだ水面を見下ろした。

 そんな彼の隣に、黙ってオルヴァが並ぶ。

 オルヴァは池の淵にぽつんと残された小銃を睨み、口を開いた。


「……これは、ヴァンパイアを討つために聖廟が作らせた飛び道具だ」

「吸血鬼?」

「聖廟で聖女が姿を眩ませた時、ヴァンパイアが浚ったのだと騒いだ者がいた。銀の玉を込めて打ち込めば、不死身の奴らも消滅する。ただし、お前に打ち込まれたのは質の悪い鉄のようだがな」

「ほう」


 銀は特別高価なものであるので、銀弾を込めた小銃を持っているのは司祭長以下、聖廟の中で身分の高い者数名だけらしい。

 もちろん、それは人間に向けて引き金を引いていいものではない。

 しかし、そんな物騒な武器の技術が外に持ち出され、こんな田舎のならず者に粗悪な鉄の玉を込めて使われるようになるなんて、聖廟の内部は相当荒んでいるのではなかろうか。

 かつて聖廟で過ごしたことのあるオルヴァは、難しい顔をしてそう唸った。

 一方、シドは小銃を拾い上げてズボンの後ろポケットに差し込むと、反対のポケットから何やら取り出した。

 先ほど、フェンリルに渡された媚薬入りの小瓶である。

 夜目の利くシドは、しばらくの間ピンク色の液体を眺めていたが、やがてコルクの蓋を開けると中身を池へと捨ててしまった。


「なんだ、それは」

「愚かな男へのはなむけだ」


 興味がなさそうに問いかけるオルヴァと、赤い隻眼を細めるシドの前で、ピンク色の液体は真っ暗い池の水にたちまち溶け込んでしまった。





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