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化け物屋開店  作者: くる ひなた
第一章 化け物屋
25/31

異性



 シドは発酵が済んだパン生地を成形して、鉄板に載せて窯の中で焼き始めた。

 そんな姿もかつてのカポロに重なり、イヴはその隣でパンの焼けるいい匂いを嗅ぎながら、懐かしい思いで見物する。

 しばらくしてパンが焼き上がり、窯から出したそれを両手で受け取ったイヴは、掌に伝わる柔らかさと温かさにほっと息をついた。

 熱々のそれをちぎりふうふうと息を吹きかけて冷まし、ぴたりと傍らに寄り添っているフェンリルの口に放り込む。

 それをもぐもぐする銀狼を眺めながら、イヴは首を傾げて口を開いた。


「実を言うと……私、フェンリルってもっとおじさんの狼だと思ってた」 

「……」

「こんな可愛い声だなんて、びっくりだね」


 イヴの無邪気な言葉に、フェンリルは複雑そうな顔をし、火にかけたスープ鍋をかき回していたシドはぶっと吹き出して口を挟んだ。


「中身は立派なおっさんだぞ。しかも相当の頑固オヤジだ」

「黙れ、シド」


 フェンリルは憎々しげに料理番の背中を睨み付け、一方イヴは顎に手を当ててなにやら考え込んでいた。

 かと思ったら、彼女はすぐに“化け物屋”の主人の顔になって言った。


「隣町の町長さんから依頼受けた、来月の孤児院の慰問……メインはフェンが務めてよね」

「え……」

「その可愛い声でしゃべれば、子供達も馴染みやすいだろうし。君、きっと人気者だよ」

「……私は、子供は苦手だ。やつら、耳や尾をやたらと引っ張る」

「“私”じゃなくて、一人称は“僕”にして。プロのエンターテイナーが毛をむしられるくらいで弱音を吐いてちゃダメでしょ」

「……イヴ……」


 途方に暮れたような顔をしながらも、結局はイヴには逆らえないフェンリル。

 さもおかしそうにそれを眺めたシドがスープを器によそうと、待ち兼ねたイヴがパンを片手に側にやってきた。


「おい、イヴ。ちゃんと座って食え。行儀が悪い」

「んー」


 シドの説教を聞き流しながら、イヴはまだ彼の手にある器からスープをスプーンで掬って、ふうふうしてから口に入れた。

 とたんにほわんと彼女の顔が綻ぶ。

 次いで、ふわふわの焼きたてパンを口に含めば、それはさらに幸せそうに蕩けた。

 そんな動物的にも見える素直な反応に、シドはますますイヴを餌付けしている錯覚に陥り苦笑を浮かべた。

 と、同時に、昨夜のキスのことなどすっかり忘れてしまったような彼女の様子に、やれやれとため息をつきたい気分にもなった。

 シドの方はイヴに対する己の執着を自覚して以来、その甘い色合いの髪も、愛嬌のある茶色い瞳も、生意気な台詞ばかり吐く唇も、可愛くて可愛くて仕方がないというのに――

 それを何とも不公平に感じながらも、柔らかそうな頬に添って流れる彼女の髪を、もうほとんど無意識に撫でようとシドが手を伸ばした。

 ところがそのとたん——


「……っ!」


 ほっぺに食べ物を詰め込んでほくほくしていたイヴが、びくりと身を竦ませた。 

 それに気付いたシドがまじまじと視線を向けると、少女の頬はみるみる赤く染まり始めた。


「イヴ」

「……」


 それは年頃の乙女らしい反応――明らかに、シドの存在を意識し始めている証拠だった。

 シドの口角が自然と持ち上がる。

 彼はそろりと距離をとろうとしたイヴの二の腕を掴むと、強い力でぐいっと自分の方へと引き寄せた。


「……っ、シド……」

「早起きしてパンを焼く健気な料理番に、ご褒美をくれないのか?」


 低い声をわずかに掠れさせて、甘く耳元に囁いたシドの声に、ストリベリーブロンドから垣間見えたイヴの耳は赤味を強くした。

 昨日までは、少しの躊躇もなく押し付けられてきた唇が、今は困ったように喘いでいる。

 

「どうした、イヴ。今日は、キスをくれないのか?」


 すっかり彼女の身体を腕の中に抱き込んで、たまらなく愉快な気分になったシドは、少し意地悪な顔をしてそう続けた。

 困った顔をするイヴがまた、どうにも可愛くて仕方ないのだ。

 ところが、そうそう一筋縄ではいかないのがイヴである。

 しばらくはシドの思惑取り、褒美を差し出したいが彼にキスをするのは何だか恥ずかしいと、眉を八の字にして困っていたイヴだったが、その瞳がふと傍らの流し台の上を見た。

 そこにはカポロが揃え、一昨日からはシドの仕事道具となった調理器具が、いろいろと揃っている。

 突然、イヴはそちらに向かって右手を伸ばしたかと思うと、あるものを鷲掴みにして引き寄せた。

 それに気付いたシドと、背後で苦虫を噛み潰したような顔をして密着する二人を見守っていたフェンリルが、揃ってぎょっと目を見開いた。


「――イヴっ!?」

「お前っ、何を……」


 彼らが驚くのも無理はない。

 イヴの手に握られていたのは、よく磨かれた果物ナイフだったのだ。

 彼女は何の躊躇もなく、その切っ先を己の左手の指先に突き立てた。


「イヴ、よせっ!」

「馬鹿っ……何する気だ!」


 慌てたフェンリルが駆け寄り、シドがすぐさまそのナイフを取り上げたが、既にイヴの指先にはぷっくりと血が盛り上がっていた。

 彼女はそれを確認して「うん」と一つ満足げ頷くと、赤い玉の載った指先をずいっとシドの前に突き付けた。


「はい、シド」

「……何のつもりだ?」

「欲しいんでしょ? ご褒美」

「……」


 一瞬無言になってイヴの血を凝視したシドだったが、すぐにそれをぱくりと口に含んだ。

 熱い舌が指先に絡み付くようにして血を舐める。

 針の先一突きほどの小さな傷から滲んだ血は、ほんのわずかであった。

 しかし、その魅惑の味わいたるや凄まじく、たった一滴で魔物の脳髄を蕩けさせてしまうような、甘美で怪しい蜜である。

 心無しか、唾液よりもそれが顕著だ。

 二日酔いのアグネがむしゃぶりついた気持ちが、その時のシドにはよく分かった。

 だが、彼はイヴの血にただ酔いしれるだけではなかった。

 シドは出血が止むとイヴの指を解放し、その代わりに今度は彼女の背中に両腕を回して口を開いた。


「俺への褒美は、キス以外には認めん」

「……いやだ。シドにはもう、キスはしない。その代わりに血をあげるからいいでしょ?」

「それとこれとは、話が別だ」


 シドはそう告げると、有無を言わさずイヴの唇にかぶりついた。


「うぶっ!」

「――シド、貴様っ……」


 色気のない声を上げてイヴがもがくと、フェンリルは思わずシドに向かって鋭く吠えた。

 しかし、ちろりと視線を寄越した彼に、邪魔をするなと目で訴えられて、ぐっと踏みとどまる。

 その間にも、押し入ったシドの舌に我が物顔で口内を蹂躙され、イヴは彼の腕の中で必死にもがいた。

 そして、それがわずかに緩んだ隙に、彼女は声を振り絞って叫んだ。


「――どっ、どうしてっ、シドはおかしなキスばかりするんだっ!」

「馬鹿言うな。こっちがまともなキスだ」

「だからっ、どうして普通のキスなの? ロキにしたら、怒ったじゃないか!」

「恋人でも夫婦でもないロキとはする必要はない。だが、俺には必要だ」

「必要って……シドは唾液が欲しいんでしょ?」

「それは、少しでいい。むしろ、キスするだけでいい」


 そう言って、再び唇を押しつけようとしてきたシドに、イヴは両手で彼の顔を突っぱねて抵抗した。


「いっ、いやだっ」

「嫌なら、拒めばいい」

「拒んでるじゃないか! なのに、シドが無理矢理っ……」

「拒まれると、余計燃えるのだ。獲物が逃げると追いたくなる。捕食者の本能だな」


 牙を剥き出しに獰猛な笑みを浮かべたシドに、ついにイヴは悲鳴を上げた。


「――フェン! フェン、助けてっ……!」

「イヴ!」



 ――ガブリ!




「……何度も言うがな。穴が開くから、気安く噛むな」


 結局はいつもの通り、フェンリルの一噛みで騒ぎは治まった。



 長閑なラムール村の隅っこで、化け物屋はこの日は仕事のないまま一日を終えた。

 さらには、そんな平和な日がこの後いく日か続いた。


 そして、ついに新月を翌日に控えたつごもりの夜。


 深まった暗闇に紛れ、今は亡き魔女カポロの残した屋敷に近づく人影があった。

 そんな不穏な存在に、化け物屋の住人はまだ誰も気づいてはいなかった。





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