秘密
「貴様はもっと理性的だと思っていたが、私の的外れだったか」
化け物屋一番の早起きは、新入りの料理番シドだった。
彼は朝早くからキッチンに立って、のんびりとパンをこしらえていた。
小麦粉の代わりに、村特産の穀物ムールを粉にひいたものを使う。小麦粉よりも米粉に近く、もっちりとしてほんのり甘いパンになる。
生地を発酵させている待ち時間、ワインをちびりちびりとやっていたシドの背中に、突如冷たい声が降り掛かった。
ただし、尖った言葉には似合わぬ、幼子のように澄んだ高い声だ。
それが誰のものか知っているシドは、ふうとため息をつきつつ振り返った。
「お前こそ、約束が違うではないか。期日まで邪魔せず見守るのではなかったか?」
「私は、食卓で痴漢行為をせよと命じた覚えはない」
シドの背後に佇み、その赤い目で貫くように彼を睨み付けていたのは、銀狼フェンリルだった。
ようやく朝日が辺りを明るく照らし始め、彼らがいるダイニングキッチンにも窓辺から日が差し込んでくる。
その光に白銀の毛並みをきらきらさせながら、フェンリルはぎりりと歯を噛み締めて低く唸った。
キッチンにもたれたシドはワイングラスを流し台の縁に置き、両腕を組んで彼に向かい合った。
「理性的に口説き落としたいのは山々なのだがな、イヴは銀狼様の言う通りなかなか手強い。色気は皆無のくせに、やたらとこちらの胸を騒がす」
「それは、お前がイヴの体液にやられている証拠だ。あれに冷静さを失うようなら、やはり私はお前を過大評価しすぎていたことになる」
「いや、俺が惑わされているのは、あの娘の体液にではないぞ」
フェンリルはひょいとダイニングの椅子の飛び乗って、シドと目線を近くした。
「長年イヴの側にいながら、あれの間違ったキスの解釈を正さなかったのはお前の怠慢だぞ。魔物相手はともかくとして、あの人間の保安官相手にはやめさせるべきではなかったか?」
「ロキは、よい男だ。彼ならばイヴを嫁にやってもいいと思っていた。だから、あえてとめなかった」
「……正気か?」
「人間のイヴには人間の男がふさわしい。新月の闇の存在がなければ、イヴはロキにくれてやるつもりだった」
フェンリルの言葉に、シドの視線も鋭くなった。
シドも、ロキに対して真面目で誠実という印象を抱き、人間的には好感が持てると思っているが、イヴが絡むとなると話は別である。
幼馴染みの二人が並ぶと、似合いのカップルにも見えた。
彼らが幼い口付けを交わした昨夜の光景を思い出すと、シドの心は激しくざわついた。
それを知ってか知らずか、フェンリルは彼から視線を逸らして続ける。
「だが、ロキではイヴを守れない。イヴを守れない男に、彼女をやるわけにはいかない」
「ならば、何度も言うが邪魔をするな。のんびり攻めるのは性に合わんし、そもそも時間的には余裕もないだろう。イヴが戸惑おうがお前が嫉妬に狂おうが、遠慮なく行動させてもらうぞ」
そう、のんびりとしている余裕はない。
十一番目の新月は、もう六日後に迫っている。
どれだけシドのやり方が気に入らなくても、フェンリルには彼にイヴを委ねるしか方法はないのだ。
闇を迎える夜、フェンリルはイヴに一服盛ってことに及ばせるつもりでいた。
いわゆる媚薬と呼ばれるの類いの薬をこっそり彼女に含ませ、何もわからない内に全てを終わらせる。
相手の魔物にとってはイヴの体液こそが媚薬となり、闇が空を去るまで勝手に盛り上がってくれるだろう。
媚薬は、魔女カポロが調合して薬棚に陳列してあったものだが、フェンリルはそれにこっそり一角獣オルヴァの角の粉末を加えていた。
イヴとの出会いにより生きる意欲が湧いたフェンリルは、それまでの無気力だった日々を一転させ、知識と力を求めるようになった。
カポロの書斎に山と積まれた薬学書を読みあさり、魔女の薬草作りを傍らで学んだ彼は、実はイヴと同じほど薬作りに精通している。
オルヴァの角入り媚薬の効能と安全性は、既に人魚アグネに一服盛って生体実験済み。その満月の夜は、足を生やした人魚は隣町の酒場で行きずりの相手と楽しみ、翌朝肌をツヤツヤにして戻ってきた。
魔物と人間の違いで効能に多少の差はあったとしても、元々毒を清める力のあるオルヴァの角を混ぜたことで、薬がイヴに悪影響を及ぼすことはまずないだろうと、フェンリルは考えていた。
だが、シドはイヴを騙すように媚薬に頼って抱くのではなく、彼女の同意を得た上で関係を持ちたいと言った。
それは、フェンリルが考えているものよりも、ずっと正しく彼女を守る方法であると、彼にも分かっている。
しかし、だからといって、そう簡単にイヴをシドにくれてやるのは惜しかった。
「貴様にイヴを任せるのは、あくまで新月の闇をかわすため。それ以外で彼女に触れさせるつもりは毛頭ない。それは肝に命じておけ」
「ふん。保護者の銀狼様は、何か勘違いをなさっているようだ。俺は言ったはずだ、あいつを気に入っていると」
「……貴様」
「口説き落として、抱く。それはつまり、イヴを俺のものにするということだ。そうなった時に、俺たちの間にお前が口を挟む余地は、もうない」
「――っ……シド……!」
二対の赤い瞳が、火花を散らす。
キッチンに凭れて両腕を組み、不敵な笑みを浮かべるシドと、歯を剥き出して唸り声を上げ、鼻面に皺を寄せて彼を睨みつけるフェンリル。
敵意を剥き出しに対峙する二匹の高位の魔物により、化け物屋のキッチンはいまだかつてない不穏な空気に包まれていた。
しかしその時、入り口の扉がカタリと音を立てた。
魔物達ははっと我に返り、弾かれたようにそちらを見た。
「……フェン?」
扉に手をかけて立ち尽くしていたのは、寝間着姿のこの家の主人、イヴだった。
イヴは茶色い瞳を驚愕に見開き、それはまっすぐにフェンリルに注がれている。
「フェン……、今、シドの名前を呼んだ?」
「……」
「……君……しゃべれるの?」
フェンリルは「しまった」と、狼の顔を強張らせた。
人型に変身できることはもちろんのこと、人語を話せることも周囲に隠していた彼は、最も愛するイヴにもそれを明かしてはいなかった。
会話が下手で気の利いた言葉もかけられない自分は、いっそ言葉を介さぬ方が彼女と上手く寄り添っていけると思ったからだ。
しかし、シドとの会話に冷静さを失って、イヴの近づく気配に気づけなかった。
一方、喉の渇きを覚えて目覚めたイヴは水でも飲もうとキッチンにやってきて、開きっぱなしの扉の向こうから漏れ聞こえたシドと、もう一つの聞き慣れない声を不審に思って覗き込み、人語を発するフェンリルを目撃したようだ。
フェンリルは口を噤み、そのまま無言を貫いて誤魔化そうとした。
しかし、それを見たシドは大きくため息をつくと、「しゃべれるよな、銀狼様」と、さらりと明かしてしまった。
途端に、フェンリルは「黙れ」と言うようにシドを強く睨み付けたが、もちろん彼がそれに怯むはずもない。
「隠しておく意味のない秘密は、持たぬ方が生きやすいに決まっているだろう。イヴのためにも、お前は己をさらけ出すべきだと思うぞ」
シドの言葉に、フェンリルは気まずげに俯いた。
そんな彼の元に、イヴはおそるおそるといった様子で近づいてきて、そっと声を震わせて問うた。
「フェン、本当に話せるの?」
「……」
「フェン、ねえ」
縋るようなイヴの声に観念して、フェンリルはついに「ああ」と人の声で返事をした。
「どうして? どうして、今まで私と話してくれなかったの?」
「……そ、それは……」
とたんに、イヴは椅子の上にお座りをしていたフェンリルにぎゅっと抱き着いた。
その首筋に両腕を回し、ふかふかの毛皮に頬を擦り寄せて、それから目を潤ませて彼の赤い瞳をじっと見つめた。
「私、フェンとずっとしゃべりたかった! ずっと、君の声が聞きたかった!」
「イヴ……」
「嬉しい。嬉しいよ、フェンリル。これから私達、たくさんたくさん話そう!」
「イヴ……っ!」
もともと子供っぽい印象の強いイヴだが、それにも増してこの時の彼女の喜びようといったら、大きなプレゼントを貰って感激する幼子のようだった。
「フェン! 嬉しい! 大好き、大好き! フェン、大好きっ!!」
飾らない言葉と態度で、フェンリルへの親愛を一心に伝える。
もちろん、それを贈られた銀狼の感激も一入で、彼も一心不乱にイヴの瞳から零れる嬉し涙を舐めた。
ところが
「——おい」
そんな一人と一匹の感動的な抱擁に、完全に置いてけぼりをくらった男が、実に不機嫌そうな声を上げた。
それだけではなく、イヴの首根っこを摘んでひょいと持ち上げ、白銀の毛皮の中から奪い取ってしまう。
「シド、何?」
当然、フェンリルから引き剥がされたイヴは訝しい顔でシド見上げる。
彼はその視線を受け止めつつ、眉間に皺を寄せていかにも不服そうに答えた。
「妬けた」
それを聞いたフェンリルはふんと鼻で笑い、「勝手に妬いていろ」と、幼子の声に似合わぬ台詞を吐き捨てた。