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化け物屋開店  作者: くる ひなた
第一章 化け物屋
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寂しがり屋



 イヴ達がようやく風呂から上がってくると、シドはまだキッチンに座っていた。

 だが、ワイングラスの代わりにその手に収まっていたのは針と糸だ。

 加えて、Eカップブラジャー。

 人魚アグネのためにイヴが贈り、領主の放蕩息子ハグバルドに引きちぎられたものだ。


「シド、直る?」

「直る。たいしたことはないと言っただろう」


 イヴは洗い髪を拭いつつ、シドの隣の椅子に座って彼の手元を覗き込んだ。

 彼の大きく男らしい手が、繊細なブラジャーの細い紐を正確に縫い合わせていく。

 魔物の見事な家事スキルに、化け物屋の主人は改めて脱帽した。

 幽体ウォルスは、結局イヴと一緒に入浴していろんな意味で幸せいっぱいだ。

 湯から上がった直後は、また身体をぞうきんのように絞られ散々悲鳴を上げていたが、お風呂でたっぷり温もったことと、まだ憑依しなれない身体で動き回って疲れが出たのか、既にうとうととし始めている。

 イヴに丹念に洗われて毛がふわっふわになったフェンリルは、並んで座ったシドとイヴを一瞬複雑そうな目で眺めたが、迷いを振り払うように一度頭を振ると、ウォルスをくわえて先にイヴのベッドに向かった。


「――よし、できた。何か飲むか、イヴ」

「うん」


 千切られたブラジャーのリボンは、まったくつなぎ目が分からないほど見事に修復された。

 それに嬉しそうな顔をしたイヴに、口元を柔らかく緩めたシドは、手早く裁縫道具を片付けると湯を沸かして紅茶を入れた。

 自分はもう一杯ワインをグラスに注ぎつつ、「そういえば……」と、ふと思ったことを口にした。


「この家は酒が充実しているな。遠慮なくいただいているが、イヴは飲まないのか?」

「お酒は婆ちゃんのコレクションだけど、シドが飲んじゃっていいよ。私は飲まないし、飲んじゃいけないんだ」

「なんだ、酒に弱い体質か?」

「弱くないけど、まずくなるの」

「うん?」

「お酒飲むと、アルコールが抜けるまで、私の体液まずくなるの」


 ラムール村の属するユングリング王国の成人年齢は、満十六歳である。

 飲酒については厳密に定められているわけではないが、ほとんどの家庭では十六歳までの子供に酒を飲ませることはなく、成人の祝いに初めて振る舞われるのが一般的だ。

 イヴの十六歳の誕生日には、保護者であるカポロ婆さんと村長が、それはそれは盛大な祝いの席を用意してくれた。

 そうして、その時初めてイヴも酒を口にしたわけだが、ほのかな酔いに気持ちよくなった彼女をよそに、どさくさにまぐれてその唾液をつまみ食いしたカポロの使い魔が、顔を顰めてこう喚いた。


 ――信じられないほどまずい! これなら、神の血を飲む方がいくらかましだ!


 神の血がどんな味かは知らないが、魔物の対極ともいえる相手の血を越えるくらいだから、相当まずかったのだろう。

 その使い魔とイヴは随分気の置けない仲であったが、その出来事をきっかけにお互い急によそよそしくなった。

 そして、カポロ婆さんが亡くなって契約が切れたとたん、使い魔はイヴにさよならも言わず、さっさとどこかに去ってしまった。

 そのせいもあって、イヴは酒を口にすることがない。


「まずくなったら、嫌われちゃう……シドだって、嫌でしょ?」

「……」


 成人の日の出来事は、イヴの中で大きなトラウマとなっていた。

 仲が良かったと思っていた魔物にとって、イヴの価値とは体液だけだったのだと、その時思い知らされたのだ。

 だから、イヴはまた自分のそれに価値がなくなれば、側にいる魔物達が皆去ってしまうのではないかと恐れている。

 そんな少女の臆病な想いを知って、しかしシドは「はたしてそうだろうか」とかぶりを振った。


「森に溢れている矮小な魔物どもはともかくとして……まだ付き合いの浅い俺の目から見ても、この家に住まう連中とお前の間には家族のような絆を感じる」

「家族……?」

「連中は、ただお前の体液が欲しくて居着いているわけではないと思うぞ」

「……そうかな」

「お前の体液は確かに魔物にとっては魅力的だが、それは出会いのきっかけに過ぎないのではないか?」

「だったら、いいな」

「ふむ……化け物屋のご主人様は疑り深いな。そして、意外に寂しがり屋だ」


 シドはそう言うと、手に持っていたグラスをテーブルに置き、自由になった手で傍らの赤味の混じったブロンドを撫でた。

 ストロベリーブロンドと称される甘そうな髪はまだ少し湿っていて、小さな頭は彼の掌にすっぽりと収まりそうだ。

 シドが触れたとたん一瞬びくりとしたものの、おずおずと見上げてきた茶色の瞳は、寄る辺のない幼子のように不安げに揺れていた。

 初対面のシドをスコップでどつき、土を被せて生き埋めにしようとした勇ましい少女と同一人物だと思えぬほどに、その時のイヴはひどく儚気で、今にも泣き出しそうな寂しげな目をしていた。

 おそらく、化け物屋に居着いた人外達も、彼女のこんな瞳を知っているのだろうとシドは思う。

 それはひどく相手の庇護欲をかき立て、この危なっかしい人間の娘は自分が側に居て守ってやらねばと、強く思わせる何かがあった。

 

「シド、ありがと……いろいろと」

「ああ……」


 シドが優しく頭を撫でてやると、イヴは「えへへっ」と子供のようにはにかんだ。

 それはたぶん、たった一人の家族だったカポロ婆さんとシドの行為を重ねているのだと、彼にも分かった。

 料理も裁縫も、上手く家事をこなす度に飛び出すイヴの賞賛には、決まって「ばあちゃんみたい」がくっ付いていたのだから。

 イヴの心はまだ、カポロの突然の死を受け入れられていないのだろう。

 シドにはそれが哀れでもあり、また腹立たしくもあった。

 ウォルスのように未練を残して漂うでもない、さっさと成仏して天に昇ってしまった死者が、いまだイヴの心を掴んでいるのが許せなく感じた。

 しかし、それよりも何よりも。

 寄り添うシドの温もりに安心したように微笑む少女が、その時彼はとてつもなく愛おしかった。


「ああ、くそっ……イヴ、お前可愛いな」

「ん?」


 シドはたまらずそう告げると、イヴの頭を撫でていた掌で後頭部を包み、彼女の顔をぐっと上向かせた。

 そして、もう片方の腕をその背中に回し、自分の胸元へと強く引き寄せる。

 とたんに、昼間に受けた不可解なキスを思い出し、焦りを覚えたイヴは「待って」と口にしかけたが、そこに上から性急に唇が押し付けられた。

 もちろん、イヴがロキとしたような「おやすみのキス」ではない。

 無防備だった隙間に、シドの舌が忍び込んできた。

 それは、魔物相手でもう随分と慣れた感触であるはずなのに、イヴの頬には朱が差した。

 

 ――何だか、おかしい


 イヴはそう思った。

 いつもは魔物達に唾液を吸われても、ロキと挨拶代わりのキスをしても、こんなに顔が熱くなったりしない。

 なのにどうして、シドのそれは違うのだろう。

 どうして、胸がドキドキし始めるのだろう。

 そんな戸惑いの表情さえ愛おしく、イヴの魅惑の力にも抗い切れない魔物の片手が、さりげなく彼女の寝間着の裾から忍び込む。

 踝までを覆う丈の長い寝間着の下は、素足だった。

 ただただキスに翻弄されて、撫で上げる手にも抵抗できない娘の柔らかな太ももを、シドは性急に弄ろうとした。


 ところが


 ――ガブリッ


「――っ……銀狼」

「フェン?」


 いつの間にか戻ってきていたフェンリルが、主人を不埒な魔物の毒牙から助け出した。

 彼はそのまま、放心していたイヴを寝室に連れていってしまった。


「……だから、そう遠慮なく噛むなと言うに」


 イヴの腿の柔らかさを知った男の掌には、またも犬歯四本分の穴が開き、さすがのシドも眉を顰めた。

 しかし、傷から滲んだ赤い血を彼がべろりと舐めとれば、すでに穴さえ塞がり始めていた。

 驚異的な快復力である。


「邪魔は……しない約束じゃなかったか?」


 シドは、イヴとフェンリルが消えたドアを眺めて大きくため息をついた。

 そして、テーブルの上のグラスに再びワインを注ぎ、己の中の燻りを誤魔化すようにそれを煽った。



 


 その翌日。

 ハグバルドの扱いについて相談するために、ロキは領主シュザック候の元を訪ねていた。

 ところが、前日騒ぎを起こしてラムール村を出て行ったハグバルドは、屋敷には戻っていなかった。

 父親であるシュザック候は、ロキから息子のラムール村での乱暴を聞いて頭を抱え、今後は厳しく対処すると約束し、村への立ち入り禁止にも合意した。

 なんでもここ最近、ハグバルドが怪しい連中と親密になったと報告を受けていたらしく、候もさすがに末息子相手に腹をくくらねばならないと思ったようだ。


 姿を消したハグバルドと、不穏な交友関係。


 それを聞いたロキは、ひどく胸騒ぎを覚えた。




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