傾倒
西の空がすっかり赤に染まった。
陽はもうまもなく山際にかかり、辺りには夜の気配が近づき始めていた。
ラムール村には外灯が少ない。家が建ち並ぶ通りはともかくとして、森の中など陽が落ちてしまえば真っ暗闇だ。
幸い、魔物と呼ばれるものはもれなく夜目が利くので、彼らをつれているイヴはそう困ることはないが、やはりそろそろ家に戻ろうかという話になった。
イヴはせっせと集めた薬草をまとめ、オルヴァがニンジンを食べ尽くしてスカスカになった袋に詰める。
シドは広げていた敷物のゴミを払って綺麗に折りたたみ、空になったポットと共に荷物の中にしまった。
イヴがそれらを背中に乗せても、今度はオルヴァは何も言わなかった。
フェンリルに放り投げられたウォルスは、運悪く川にぼちゃんと落ちてずぶ濡れになっていた。
その後拾い上げたイヴによって、ぞうきんのように身体をぎゅうぎゅう捻って水を絞られ、結局半日近く枝に天日干しにされていたので、すこぶる機嫌が悪い。イヴとシドのキスシーンを至近距離で目撃したので、なおさらだ。
ウォルスは、イヴの体液が魔物にとって得難いものだと知りつつも、やはり彼女が軽々しくキスを与えるのが許せないのだ。
ただし、先ほどのシドのキスに唾液の摂取以外の目的があったとは、彼も気付いてはいないようだった。
「いい加減、キス以外の方法考えなよ、イチゴちゃん」
「えー……でも一番手っ取り早いし、痛いの嫌だしー」
「そうだ、涙にしなよ! 僕と一緒に早泣きの練習しよう!」
「うん? ……まあ、考えとく」
切々と訴えるウォルスをのらりくらりとかわしつつ、彼の黒いビロードの器を腕に抱いて帰ってきたイヴだったが、森を抜けて街道を進みアグネの泉に差し掛かった時、その淵に佇む人物を見つけて足を止めた。
「――あれ、ロキ?」
「……やっと帰ってきたか」
それは、ラムール村唯一の保安官であり、イヴの一つ年上の幼馴染みであるロキだった。
薄暗闇の中、彼は何故かひどく疲れ切ったような顔をしている。
「どうしたの? もしかして、待ってた?」
「……まあな」
「――って、ロキ!? それって……」
ロキはイヴの背後に立ったシドに気づいて一瞬顔を強張らせたが、自分が片手に持っていたものを見てイヴが顔を引きつらせたので、そちらに気を取られた。
「それっ、アグ姐さんの……」
「ああ、これは……」
ロキの手にあったのは、昨日確かにイヴがアグネに渡したブラジャーだった。
Eカップサイズの大きく円やかな形のそれは、朝は家の前の池で会った彼女の胸を包んでいたはずだ。
それが何故、イヴの幼馴染みの手の中にあって、彼はこんなに疲れたような顔をしているのか。
しかもよくよく見ると、ブラジャーは二つのカップを繋ぐ真ん中のリボンが千切れ、使い物にならなくなっていた。
「うわあっ、ロキってば、なんてこと! 破廉恥保安官っ!!」
「――バっ、バカッ! 俺がやったんじゃないっ!」
イヴは慌ててロキから離れ、傍らにいたフェンリルのふさふさの首筋にしがみついて叫ぶ。
フェンリルも赤い目を細めて彼を睨み、慌てたロキは顔を真っ赤にして叫び返した。
「何かあったのか? ロキ」
ぎゃあぎゃあと少年少女が喚く中、カッポカッポと足音を立てて近づき間に入ったのは、オルヴァだ。
彼の冷静な声に我に返ったロキは、大きくため息をついてから事情を話し始めた。
「皆が留守にしている間に、ハグバルドが来てアグネと会ったんだ」
「え? アグ姐さん、今日は顔出さなくていいって、言っといたのに……」
ロキはこの日ももちろん保安官としての勤務があったが、昨日のハグバルドの様子にイヴを心配して、こっそり彼を見張っていたのだという。
対して、明日のハグバルドとの対面を約束したアグネだが、彼女も彼女なりにイヴに迷惑をかけていることを気にしていたのだろう。家に押し掛けてきて、留守と知って声を荒げるハグバルドを見兼ねて、池から顔を出したらしい。
そんな人魚に、領主の放蕩息子は、いい加減自分の屋敷に引っ越せと詰め寄った。
定職にも就かず親の金で遊び回っている男が、どの面下げて女を囲おうというのか……。
アグネも内心、そう吐き捨てたに違いない。
実際、隠れて様子を見ていたロキも、呆れ返ったほどだ。
「ハグバルドの要求を拒否するのは当然だろう。それでもアグネは、懇切丁寧な態度で接していたぞ」
そもそも、何故ハグバルドがこれほどアグネを連れ出したがっているのかというと、それは毎月半ばに行なわれる領主館のパーティに関係している。
満月の夜にはアグネが陸に上がれることを知っているハグバルドは、彼女を自分のパートナーとしてパーティに連れていきたいと以前から望んでいた。
兄や姉達のように秀でた取り柄のない彼は、自分の側に美しい女を侍らせて、周囲の注目を集めたいのだろう。
それには、生半可な美しさでは足りない。
アグネのように、人外の美しさをもってこそ、箔がつくのだ。
しかし、アグネ自身それをよしとしない。
彼女が時々満月に人型に変じるのは、タダ酒を飲んで酒場で陽気に過ごすための手段に過ぎない。
魔物は魔物の姿に誇りを持っている。人間に扮しろという時点で、化け物屋が請け負う仕事の範疇を越えるのだ。
さらに、化け物屋の主人を名乗っているとはいえ、イヴが彼らに仕事を強制することはない。
魔物たち自身が納得する仕事しか請けていないので、それを越える場合は依頼者自身で本人を説得してもらうことになる。
それについては、稼業を始める際に後見してくれた領主シュザック候も署名入りで認めてくれているので、そうそう無理を通そうとする客人は今まで現れなかった。
皮肉にも、イヴと彼女の魔物達を守ってくれている領主の息子が、一番厄介で迷惑な客と成り下がっているのだった。
「それで、このブラに何があったの?」
「……ハグバルドが、アグネを無理やり引っ張り上げようとしたんだ。まさか、いきなりあんな暴挙に出るとは」
「えっ……!?」
いつまでたっても首を縦に振らないアグネに、ハグバルドは焦れた。
来月のパーティには、どうしても彼女を横に立たせておきたかったのだ。何故なら、優秀な兄がまた一つ国王陛下に功績を認められ、それが次のパーティで祝われることになっていたからだ。そうなれば、ますます落ちこぼれの末っ子の肩身は狭くなり、一族から存在さえも忘れ去られるように思えた。
そうではない。お前のすべきことは、外面を飾って虚勢をはることではなく、己を振り返って内面を磨くことだ。
そう忠告する家族の声も、卑屈で固まったハグバルドの心にはもう届かない。
とにかく一刻も早くアグネを連れ帰り、一月後のパーティ用に今からドレスを作らせなければ。自分を華やかな場に押し上げるには、もう彼女の存在が不可欠だと、ハグバルドはある意味自己暗示にかかってしまっているのかもしれない。そう思うと、彼のことは少し哀れにも感じる。
力ずくで陸に引き上げようとしたハグバルドに、当然アグネは抵抗した。
暴れた拍子に、着けていたブラジャーにハグバルドの手が引っ掛かり、苛々としていた彼はそのまま引きちぎってしまったのだ。
それを目撃したロキは慌てて止めに入り、その隙にアグネはハグバルドの手から逃れ、深く泉の底に潜って行ってしまった。
「――どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがってっ……!」
顔を真っ赤にして逆上したハグバルドは、ロキを振り払ってそう叫んだ。
そして、滞在中の荷物も何もかもほったらかしたまま、村を出ていってしまったという。
「……まったく、困った男だ」
そう言って再び大きくため息をついたロキから、イヴはブラジャーの残骸を受け取った。
自分が贈ったそれを喜んで着けてくれたアグネを思うと、とても悲しくなる。
しょんぼりした彼女に気づいて、フェンリルが慰めるように身体を擦り寄せてきた。
「今回のことは、さすがにあいつもやり過ぎた。それでなくても、最近他の村でも問題を起したりして素行の悪さが目に余るらしい。シュザック候も、特別扱いせずに厳しく取り締まってくれとおっしゃっていたし、今後ハグバルドが村へ入ること自体を禁止すべきかと思う」
ロキは、厳しい顔をしてそう言った。
イヴとは一つしか年が違わない彼だが、三年通った隣町の士官学校を主席で卒業し、王宮勤務も夢ではないと言われたほど優秀だ。
それなのに、出世の話を全て蹴って、こんな小さな辺境の村で保安官をしている。それを勿体ないと言う者も多いが、本人は生まれ育ったラムールを愛しているし、いずれ彼が祖父の跡を継いで村長になるだろうと誰もが思っている。
領主もロキをとても頼りにしていて、年の近い末息子ハグバルドについてもいろいろと悩みを打ち明けていた。今まで甘やかし過ぎたことを恥じ、親として世間の厳しさを教えねばならないだろうと、シュザック候も思っているようだ。
「ロキ、いいの? あんなヤツでも、エヌーさんの店にとっては上客でしょ?」
「いいのは金払いだけで、店でも相変わらず行儀が悪くて迷惑することの方が多い。親父もだいぶと辟易しているし、今日アグネにしたことを聞いたら、爺さんも反対しないだろう」
ラムール村の村長であるロキの祖父は、先代領主とも旧知の仲であり、その息子である現シュザック候の良き相談相手でもある。
そんな縁もあって、ハグバルドが村に滞在する時は自宅を宿に提供していたが、今日彼がアグネにしたことを聞けば、さすがにもう黙ってはいないだろう。
化け物屋の魔物達は人間のように戸籍や住民登録があるわけではないが、村長は彼らを大切な村の一員として護ってくれるはずだ。
泉の淵からアグネに声をかけてみたが、さすがに彼女もショックだったのか、イヴの声にも応えなかった。
引きちぎられたブラジャーを持ったまま、イヴはしょんぼりと肩を落とす。
項垂れた小さな頭を見兼ねたように、後ろから手を伸ばしてそれを撫でたのはシドだった。
「イヴ」
甘い色合い髪の、ひやりとして繊細な手触りは意外なほど手に馴染む。
ランチのキス以来、イヴはいくらかシドに対する認識を改めたらしく、彼が触れるとぴくりと反応を返すようになっていた。
まだ彼を男と意識して恥じらいを見せるまでではないが、もう気軽に唇を押し当てては来ないだろう。
幾分消沈した茶色の瞳が、さらさらのストロベリーブロンドの隙間から、シドを見上げてきた。
それに苦笑するように綻んだシドの表情は柔らかく、くしくも正面でそれにまみえたロキは複雑そうな顔をした。
「家に帰ったら、縫って元通りにしてやる」
「……えっ?」
「何が、えっ、だ。大したことじゃないだろう。真ん中の紐が千切れただけではないか」
シドはそう言って、イヴの手から二つに分かれたカップを取り上げた。
「……シドは、裁縫までできるの?」
「何も服を一から作るわけでもない。こんな紐を縫うくらいたやすかろうが」
ところがそんな彼の言葉に、イヴは気まずげに視線を逸らし、むくれたように口を尖らせた。
その姿がどうにも可愛くてならず、シドは自分の頬が緩むのを止められない。
まるで、まじないにかかったかのように、心がどんどん彼女に傾倒していくのを自覚した。
「なんだ、イヴは縫い物も苦手か? 本当に不器用なのだな」
「……」
少女の頬の膨らみが、ぷくっと容積を増した。
思わず手を伸ばしてそれを突つくと、むっとまるで迫力のない瞳が睨みつけてきたが、それとてシドの眼差しを蕩けさせるばかり。
逆に、彼女以外の視線の方が、よほど鋭くシドに突き刺さる。
「料理もだめ、裁縫もだめ、家事全般がだめ。これはもう……いい婿を迎えるしかないのでは?」
シドは、この場で最も激しい目で自分を見据える相手――イヴの幼馴染みロキを見据え返して、そう挑発的に続けた。
ちなみに、ウォルスもシドを呪い殺しそうな瞳で睨んでいるのだが、いかんせん可愛い黒猫のぬいぐるみに憑依した彼の瞳は、今は赤いボタン。
残念ながら、眼力もなにもあったもんじゃなかった。