プロローグ1
雨足はさらに強くなる。
館の征門の屋根を叩く音は会話を掻き消す程に増した。
すでに陽は落ちていた。黒塗りの空を仰げば、金の月が輝いている。そのはるか眼下。征門の下を忙しなく走る人間の足音。同時に聞こえてくるのは怒声。それもひとりではない。松明の光を銀色に反射する鋼剣を持ちあわせ、武装した兵がごまんといた。
だが兵は、まるで物珍しいものを眺めるかのように、呆然と、屋根の上を見ている。鮮やかな朱で塗られた館の屋根を軽々と跳ぶ、“それ”を目で追っていた。
それはまるで、狼。夜空の深い漆黒に溶け込み、月を背にして舞う。すばやい動きで屋根から屋根へ跳び回る。狼は、二本の足と二本の腕を振って走っていた。それは人間か。はたまた本当に、獣か。
“弱きを助け、強きを挫く”。そんな民の味方。狼は王宮に忍び込んでは、悪事を働く。だが、ただの悪事ではなかった。金に困っている者には宝物庫から溢れた宝を。薬に困っている者には診薬庁から薬を。
彼はその素顔を見られたことがない。漆黒の古覆を身にまとい、やや短めと感じるいかにも扱いやすそうな鉄剣を腰に差し……狼の如く美しい蒼の目を輝かせ、綺麗な長髪をなびかせ、夜の空に舞う。
人々はこの狼を、敬意と、そして皮肉を込めてこう呼んでいた。――義賊、"銀狼"と。
――宜尉六二三年、哉国吏州、首都渓庁。ぽつりと染みのように現れた一匹の狼が歴史を変えた。
"狼子時代"、その始まりの物語である……。