一葉の君
だからこれはどうということのない話だよ。
捨てられない写真が一枚あって、僕はそれを何かある度に見返してしまう。
そんなくだらない話だよ。
素敵な異性でも写っているのかって?
そうだね。僕には微笑んでいる先生が見えるけど、君たちにはどうだろう。何と言っても僕の持っているその写真は、真ん中で斜めに半分に切られているからね。
不機嫌な、写りたくって写っている訳じゃない。そんな顔をして写っている僕が、その斜めに半分になった写真には納まっている。
そこには辛うじてピースサインをした女の人の右手が写っているんだ。
これが先生の右手。
その右手が僕の顔の近くにあって、その隣に居る先生の体温と相まって、この時僕は無愛想な顔をしたのを覚えている。高校生の時の僕だ。
撮ったのはクラスの誰か。文化祭の後の何げない写真だ。
それでいて未だに捨てられないそれを、僕は何かある度に見返してしまう。
先生はこの写真を撮って数日後に死んだ。自殺だって言われてたけど、生徒は誰もはっきりとは聞いてない。
まだ高校生の生徒の動揺に配慮して、死因は誤魔化したまま校長が全校集会で黙祷を呼びかけただけだからだ。まったくもってありがたい配慮だ。
お陰で僕は未だにこの写真が捨てられない。
だってこの写真を撮った時の先生は、とても楽しそうに笑っていたんだ。
何でこの時に気づいてあげられなかったんだろ。何かある度にそう思ってしまう。
分かっている。そんな偽善的な気分に浸ることで、僕は自分を正当化しようとしているんだ。
いや、それも違うかな。たとえ右手一つでも、先生が写っている写真はこれ一枚だからだ。
今なら分かるよ。僕は先生が好きだった。大人の女性へのただの憧れだと、それも分かっている。だけどこの写真の中の不機嫌な僕を見れば一目瞭然だ。
先生と二人っきりで写っていたたった一枚の写真。不機嫌な顔で写った僕の横では、先生は確かにしっかりと笑っていた。僕はその笑顔の裏の苦悩になど何も気づかずに、ぶっきらぼうに半分に切って先生に残り半分を渡したのだ。
こっちはいらないし――
そんな軽口を叩いたのも覚えている。本当は手元に残したいのに強がったのだ。それでいて合わせれば一つになるものを、先生と持っているということにロマンチックなときめきを覚えて。
子供だったんだ。否定はしないよ。
そんなことを考えていると、玄関のドアが開けられた。
先生によく似た初老の女性が迎え入れてくれた。そう、僕は先生の実家を訪れたのだ。
この人は先生の母親だ。
母親は家にあげてくれて、そのまま先生が大学を卒業するまで使っていた部屋に案内してくれた。
あの子が出ていったままにしてあるんですよ。そう教えてくれた。
空気すらその当時のままだと言いたいのか、母親はドアを開けてしばらくその場から部屋を眺める。
教え子さんが訪ねてきてくれるなんて初めてと、母親はやっと部屋に入る。僕は静かに後に続いた。
いい先生でしたか? 慕われてましたか? その質問に僕は答えられず、代わりになるべく深く長く頷いた。
情けない。大学を卒業し、就職までした社会人がこの程度も答えられないのだ。
お墓もありますけど、この部屋の方がねえと母親は辺りを見回す。
何をしにきたんだっけ? 墓参りに何かきたんじゃない。それは確かだ。
一番知りたかったのは先生の死因だったと思う。だけど今更そんなこと訊いていいのだろうか。
僕は自分の心を決めかねて先生の部屋を見回した。
目にとまったのは、見覚えのある写真だ。
写真立てに一枚。ぶっきらぼうに斜めに切られた写真が飾られている。
見間違うはずがない。僕の写真の片割れだ。
僕はその写真をじっと眺めた。
それはあの子が最後に写っている写真でしてね。
母親は感慨深げに僕と一緒にしばし写真を眺めた。
そして、ああお茶持ってきますねと、母親はすっとドアから出ていった。
おかまいなくの一つも言えない情けない教え子は、先生の部屋に一人取り残される。
先生の写真と二人取り残される。
いや、取り残されたのは本当に僕なのだろうか?
写真の先生の左手薬指に写った指輪。それに僕はそのことを思い知らされる。
斜めに写真を切った時、僕は先生の指輪に気づいていただろうか?
思い出せない。
僕は自分の写真を取り出して、先生の写真の横に並べてみた。
元に戻るはずもないその切り口に、僕はやっとこの写真を捨てる覚悟ができた。
これはそんなどうということのない話。