時計の音
ぐるぐる、ぐるぐる、目が回る。
眠たくて眠たくて船をこいで、挙げ句に頭をぶつけてしまう寸前のようなまどろみの中、ただ耳に時計の音だけが響いていた。なんだかやけに音が近い、眠たい体を無理に起こして、いっそ時計を止めてしまおうかと思ったそのとき、私はようやく自宅に時計がないことを思い出した。
体を起こしたおかげで脳が少し覚醒し、目を開けてみると、そこは自室ではなかった。ああこれは夢だなと再度目を閉じた。そしてもう一度目を開けたが、やはり自室ではなかった。
掃除嫌いのため異臭を放っていた畳は色鮮やかなフローリングに変わり、先日遊びにきた姪っ子が全て落書きを残してくれていたはずの壁は真っ白い何もない壁になっていた。広さも住んでいたはずの部屋の三倍はあり、妙に縦長く、数ヶ月前にしか磨いてないはずの窓も光沢を放ち、そしてなけなしの家具は一つ残らず消えていた。
ようやく脳が完全に覚醒した。最初に出て来た言葉は自分の言葉とは思いたくないほど間抜けな声で、次にとった行動は、胸ポケットの煙草を探すことだった。愛煙家には厳しい時代、禁煙しろと怒鳴り続ける妹にさえ諦められるほどの煙草依存症。乾くように一本吸うと、ようやく少し落ち着いた。
ふと今何時か気になり、別ポケットから携帯を取り出した。電池残量三分の二、13時19分、平日だ。
私は一体平日の昼間に何をしているのか、とりあえず上司に電話してみようとしたところ、電源が入っていないか電波が届かないためおつなぎできません、と無機質な声が聞こえた。信じられない、彼は何があっても携帯を常に持ち歩いているし、絶対に充電を切らすことも電源を切ることもない。私が出勤していないのに、彼どころか誰からも電話一本かかってきていない。
夢にしては全てがクリアすぎる、今噛みしめた煙草のフィルターの苦さが夢だとはとても思えない。ならこの状況は一体何なんだろう。もう一度携帯を見ると、落としてしまうところだった。年号が18年前だった。
間もなくして、母が笑顔で入ってきた。そして私の手のものを見るなり悲鳴をあげて、げんこつをもらった。お父さんの真似はやめなさいと、煙草を取り上げられた。めざとく見つけられた携帯まで持っていかれてしまった。今更気づいた。携帯は普段使っている機種とは異なり、煙草も普段愛煙しているメーカーでないことを。
まだ怒っている母の後ろから、若いというよりは幼い妹が、私に向かって突進してきた。おかしいくらいに姪に似ていた。ああこのときはこんなに可愛かったのだと思わず目を細めると、妹は不思議そうに笑い、私の腹に頭をこすりつけてきた。
妹を軽く抱きしめながら、天井を見上げた。そうか私は、『私』のまま過去にきたのだ、と考えついた。非現実にも程がある話だが、他に説明がつかないのだから、そう思うしかない。
あの時計の音が私を連れてきたのだろうか。何のために。
ふと外から大きなクラクションが鳴った。早くおいで、と急かす母の声が聞こえた。太陽の日差しに目を細め、ひっこちひっこち、とまだ言葉が片言な妹に手を引かれ、私は今日が何の日か思い出した。
父の転勤が決まり、母と妹と私だけで、とりあえずトラックに乗ったあの日だ。父は仕事がたてこんでいて、一緒に行けなかった。そしてこの日は。
ママ、ママ、と不安そうに母を捜す妹の声で、大変なことを思い出した。住み慣れた我が家と一緒に失った、愛しい人。
私は知っていた。トラックを誘導する母が、あの角を曲がれば、いきなり突っ込んできた別のトラックの下敷きになってしまうこと。
今、母を引き留めれば、母は、18年後も生きているのではないだろうか。私はそのために過去に来たのではないだろうか。お母さん、と叫びかけたそのときだった。
責めるように、妹が私の手を強く握った。
あの日、母は即死し、妹は狂ったように毎晩泣き続けた。母の死後必死に私たちを支えていた父にも限界が見え、妹は病院も併設している施設に預けられた。そこで妹は、現在の夫となる彼と出会い、傷を癒していった。
もし。
もし今ここで母を助けたら、あんなに幸せそうな妹は、あんなに可愛い姪はどうなるのだろう。別は男は彼だけではない。他にもっといい出会いがあったかもしれない。違う男とだって、きっと可愛い子供が産まれてくる。
分かるはずなのに。そうであるはずなのに。口が全然いうことを聞かない。
瞬間、聞きたくない音が響き渡り、近所中から悲鳴が上がり、妹が発狂したように泣き始めた。私は二度母を殺してしまったのだ。
引き裂かれるような胸の痛みの中、耳の奥から時計の音が聞こえてきた。戻るのか、また別の時代に行くのか分からない。だが今、今連れていかなくてもいいだろう。妹がこんなに泣いているのに。
繋ぎ止めるように抱きしめかけた妹には、もう触れることも出来なかった。
まばたきすると、慣れた異臭が鼻をついた。頬には乾いた涙が一筋、私はゆっくりと起き上がった。戻ってきたのだ。母を救えずに。
なんともいえない気持ちの中、じっと外を眺めていると、ふと、足元の見たことない時計が、やり直すか、と呟いてきた。それはどこかで聞いたような、始めて聞いたような、不思議な声だった。
私が答えられずにいると、玄関をけたたましく叩く音がした。おじちゃんおじちゃん、と大騒ぎしている。私が慌てて扉を開くと、やはり姪だった。今日のお土産は泥団子だと、はしゃぐ彼女の後ろから、妹が顔を出した。急にごめんね、と全く悪びれない様子で。
夢で久しぶりに母の顔を見て、今の妹と酷似していることに気づいた。妹の顔が、いつか大きくなる姪の顔が、常にあの日を後悔させるのだろう。
「お前、今、幸せか」
いきなりそんなことを聞かれて面を食らった妹だったが、すぐに笑顔で、うんと頷いた。
「そうか」
私もだ。
あの日をやり直せば、もっと幸せな今があるかもしれない。だがそれでも私には、今ここにある妹の笑顔と、姪の存在を消せることはできないだろう。
私が姪に、おばあちゃんの墓参りに行こうかと提案すると、彼女は私の胸元で花のように笑った。




