3.大聖女様の御心
私は頭を垂れ跪き、赦しを請うた。
聖女様はそれでも何も仰らない。サラサラと音が聞こえる。
目の前に紙が差し出された。
―もう良い。
確信が持てず話さなかったのは私だ―
私は震えながらその紙を握る。優美で流れるようなその文字は、それ自体が芸術のように美しかった。
私の手から抜き取られた紙は聖女様の聖火で燃やされた。まるで何もなかったように、跡形もなく。
思わず見上げた聖女様の表情は平坦で、その感情は何も感じ取る事が出来なかった。
大聖女様はあれからも淡々と過ごされている。まるで何も起きなかったみたいに、静かに聖典を読み過ごす。
聖女様方は神殿の内宮の内殿と居住区しか行く事が出来ない。外にはもちろん出られない。
その代わり、自室の外に温室がある。そこは天井と壁の一面だけガラスで覆われた温室で、薬草を育てている。
ガラスの一部は開放できるようになっていて、外気を感じられる。晴れていればお茶も出来る空間だ。
息苦しい神殿の生活でも、その温室は暖かく快適になっている。外に出る事が叶わない聖女様のお気持ちを癒すために作られているのだ。
その日、大聖女様は温室の椅子に座り、何かを読んでいた。聖典ではないみたいだ。
「何をお読みになっているのですか?」
つい話しかけると、その本を私に見せる。すらすらと読んでいたが、まさかの古語で書かれている。
聖典は神聖文字で書かれた書物だ。神聖文字は大きく分けて2種類ある。現代語と古語だ。
古語はその名の通り、すでに使われなくなった古い言葉で大変難解だ。
我々神官も聖女様も必ず習う。しかし、ごく一般的に使われる単語のみの習得なので、すらすらと文を読むのは無理だ。
その古語で書かれた本を簡単に読んでいる。
かつては全て古語で記載されていた書物。現代語が普及するにつれ、読める人が減った。
古い経典などは古語であるし、昔の聖女様や神官の書き付けも古語。
今では読める人も少なく、貴重な書物でありながらも解読されていないものも多い。
神殿には一般書物、神官なら誰もが読めるものと一部の神官や聖女様しか読めない限定書物が所蔵されている。
内殿にある書架にはこの限定書物が置かれていて、一般書物もある。
司書により持ち出しと返却の手続きが厳格に行われ、紛失しないよう管理されている。
大聖女様は本を読むのが御好きなのか、自由時間の殆どは読書に充てられている。それ以外は温室を散歩したり、薬草の世話をする。
ごくごく静かに過ごされている。まさに聖女の鑑のようなお方だ。
「古語、ですね。すらすら読んでおられるのでてっきり現代語かと」
返事を期待せずに呟いた言葉に返事が来て驚いた。
「古語で綴られた文章は貴重で面白い」
初めて聞いた大聖女様の声は、思いの外低くて、なのにその穏やかな話し方のせいか…とても心に残る声だった。
「何が書かれているのですか?」
ほんの少し眉を上げると
「元聖女様方のことだ」
少し意外だった。周りのことに興味持たないと思っていたから。見せないだけで、何かしら思うところがあるのだろうか?
私の微妙な表情を見たからか、会話はそこで終わった。
その日の夜、寝支度を整えた大聖女様がベッドに横たわる前に私は声を掛けた。
「あの、大聖女様。一つお願いがございます」
無表情のまま私を見つめる。
「私に古語を教えてくださりませんか?」
大聖女様は静かな瞳のままで、私を見て瞑目した。そして目を開けるとほんの少し頷いた。
たったそれだけのことで、私はとても嬉しかった。
*****
あの日、気絶した大聖女様を抱えて女神の間に入った私は絶句した。
部屋の中は異様な状態だったから。
創世の女神像の前で失神している第三聖女様、治癒の女神像の前で蹲る第二聖女様、そして壁際で座り込むルミナス。
部屋の中には重苦しい圧力のようなものを感じた。
アウレリア様の御御足に何か黒いもやのような物が見えた。私はするべきことを知り、すぐに女神像へ近寄る。
第三聖女様を避けて壇上に膝立ちで上がる。
拝礼したまま大聖女様を女神像の前に下ろし、その両手を重ねるとそっと女神像の御御足に載せた。そして膝立ちのままで後退り頭を垂れた。
バチッ
物凄い音がして、どこからか悲鳴が聞こえた。
部屋の中が一瞬暗くなり、それから焦げ臭い匂いを感じた。目の端で大聖女様の体が痙攣している。
…何が起きた?
不敬にならないよう頭を下げたままで大聖女様ににじりよる。そのお顔は真っ白で、真っ白なのに真っ赤だった。その手に触れるとビリビリとした痛みが襲った。
雷撃…?
私は痛みに耐えて大聖女様を腕に抱えるとそのまま後ずさった。その時に見えた女神像のつま先は黒くなっていた。
いつから?
他の女神像を見れば豊穣の女神像は足首まで、治癒の女神像は足の甲まで黒くなっていた。
「不浄だ…」
神官長の小さな声は静かな女神の間でとても大きく響いた。
昨日まで大丈夫だったのに。
そして気が付いてしまった。昨日と決定的に違う事があることに。
大聖女様はスープを飲まれなかったじゃないか
それが理由できっとそれが全てだ。
私はなんということを…
懺悔は後でも出来る。まずは大聖女様を癒さなければ。急いで女神の間を出ると部屋に入ってベッドに横たえる。
聖水で濡らした布を直接肌に充てる。お顔と手先と首と、靴を脱がせてその足にも聖水に浸した布を巻く。
そして体には聖水を服の上から満遍なく掛けた。聖水で満たされたのを確認するとゆっくりと治癒を施した。
今度は受け入れられた。いや、きっと神聖力を渡したから今は抵抗力も無いのだろう。
布を外すと赤みが消えて元の青白い肌に戻っていた。濡れた服を脱がしてベッドを魔法で乾かすと、清潔な服を着せ掛ける。本来はそのお体を見ることはよしとされないが、今は緊急事態なので許してほしい。
毛布を首元まで掛けて、ほっと息を吐いた。
昨日までと明確に違うこと、それはスープを食したこと。眠る大聖女様の口に運んだたった二口のスープ。無意識で飲み込んだそれが、女神様のお怒りをかったのだ。
何故?
それは分からない。分からないが想像は出来る。
不浄の元となる物が入っていたのだろう。
最初に食事を出した時、大聖女様はそれらを見て静かにスープと野菜の皿を押しやった。何故気が付かなかったんだ?
好き嫌いで食べないのだと勝手に決め付けて、食べろと催促までして。
何故食べないのかを考えもしなければ聞きもしなかった。
何故その御心を慮ることが出来なかったのか。
それは私が未熟だからだ。まだ心のどこかで男性の聖女に失望していたのだ。
勝手に期待して失望して。好きで選ばれたわけでは無いかも知れない。
当たり前だった生活を捨てて有無を言わさず聖女となったのに。家族からも離されて来たのに。
何故私は寄り添おうと思わなかったのか。聞いたことすら無かった。
自分のいたらなさに歯噛みする。でも私は悔やむ資格すら無い。
静かな大聖女様の様子を見て、その悪い噂は収まらないままだ。しかしせめて私だけは、この方の理解者でありたい。
自分のしたことを棚に上げて虫のいい話だが、この方の理解できるのは私だけだ。そう決心した。
それがいかに傲慢で、大聖女様のことを本当に何も知らなかったと悔やむのはまだ先の話だった。
あの時何故もっとこの声を聞こうとしなかったのか…
何故もっと…
一番近くに居たのに。
そのお姿を一番見ていたのに。
あの時に戻れるのなら、離れませんと、御そばにいますと心から伝えたい…




