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~ 谷津崎 ココ ~


「谷津崎さん」

 優しい声が耳を打った。じんわりと、温かく心にしみるようなその声は、二度と聞けないはずだった。ノロノロと顔を上げる。なんだか、すごく体が重い。

 顔を上げると、中田さんが微笑んでいた。夢を見ているのかな。なんだか、モヤがかかっているみたいに、視界もよくないし。

 ぼんやりと黙って眺めるだけの私に、微笑みに少しの困った感を混ぜつつ、中田さんが小首をかしげた。その仕草と表情に、急激に懐かしさと悲しさがこみ上げてきた。

「中田さん……!!」

 漂っているみたいなモヤのせいばかりじゃなく、今度はハッキリと、涙で視界が歪んだ。うわあああ、と子どもみたいな泣き声が口からこぼれ出た。手を伸ばす。……つかめた。夢でもいい。しっかりとつかむ。

 力任せにつかんだけれど、中田さんはしっかりと両腕で受け止めてくれた。そのまま、腕の中で泣き続けた。中田さんは、優しくずっと、背中をなでてくれていた。

「最期に、会いに、来てくれましたよね、私に」

「うん」

「あ、ありがとうございます」

「うん。俺が、そうしたかっただけなんだ」

「私、霊感があって」

「うん」

「初めて、よかったって思いました」

「うん」

 止まらない涙の合間に、切れ切れの息とにじんだ声でうったえる。優しく響く声は、耳に心地よくすべりこんでくる。そして、直接、体にも響いてきて。あまりにもそれがハッキリしていて、ほんとうに夢なんだろうかと疑うが、夢に決まっている。だって、中田さんは、目の前で消えていったんだから。

 それでもいい、夢でも。と、ぎゅううう、と腕に力をこめる。

「……逝かないで……」

 囁いた懇願は、受け入れられないことは分かっていた。中田さんは逝ってしまったんだから。でも、夢の中で言うくらいは、許されるんじゃないかって思った。それくらいなら、いいんじゃないかって。

「ごめんね」

 困った声の謝罪の言葉は、確かな質感をともなっていて、今そこに、実在しているみたいだ。ポンポン、となだめるように背中を撫でるその手も。

 涙が落ち着いてきていたのもあった。あれ?と頭のどこかが冷静になった。夢のはずなのに、涙が妙に生々しい。中田さんの声も。あ……体温が、ある……?

 中田さんの腕の中で顔を上げる。困った笑顔を、こんなに至近距離で見たことはなかった、んだけ、ど。

「ほ、ほんもの、ですか?」

「うん」

「え、ど」

 どうして、という言葉は最後まで口にできなかった。中田さんが、そろそろ時間なんだ、とさえぎったからだ。

「君の友だちが、会わせてくれたんだ」

「友だち……?」

「そう。お礼を言っておいてね」

「わ、わかりました」

「そろそろ逝かないと」

 そんなの嫌だ、と手に腕に、力を入れるけれども、そんなことは意味がなさそうだった。困った微笑みから、晴れ晴れとした笑顔になって、中田さんは言った。

「谷津崎さん。俺も、君のことを想っていたよ。ありがとう」

 その笑顔に言葉に、もう一度、射抜かれた。本当だと感じた。視えるわけがないと思っていても、人生の最期に会いに来てくれた中田さん。これが、私の都合のいい夢だとしても、彼は、こんな嘘は吐かない。絶対に。

「わ、私こそ」

 動転している心が言葉を紡がせてくれない。中田さんの姿が、体温が、少しずつ消えていく。

「いつか!いつか、あの世で会えたら。一緒に、スルメを食べて、お酒飲んでください!」

「約束ね」

 笑った中田さんと指切りをした。そうして、中田さんは消えていった。

 

 視界を覆っていたモヤは、中田さんが消えてしまうと、少しずつ晴れていった。モヤがなくなったときには、私は自分の部屋にいた。不思議な香りが、微かに漂っている。

 この匂い……お香?でも、こんな匂いのお香は持っていない。それに、お香なんて、つけた記憶もない。どういうことだろう。

「ココ!」

「シヅカ」

 心配そうに顔を歪ませたシヅカが、私の両肩を掴んでゆさぶった。返事をすると、シヅカの顔が、更に盛大に歪んだ。

「私の事、分かる!?」

「うん。シヅカだよね?」

「よかった……」

 そう言うと、シヅカは私の両肩をつかんだまま、静かに音もなく泣き始めた。どうしたの、と聞こうとしたけれど、聞けなかった。おぼろげな記憶が、蘇ってきたからだった。


 寝ても覚めても、悪夢を見ているみたいだった。恐怖だけが頭と心を支配していて、昼だろうと夜だろうと、怖くて仕方なかった。暗がりは怖い。昼はカーテンを開けっ放しにして、夜は電気を点けたまま、アパートの部屋に閉じこもった。少しの物音も、気になって仕方なかった。シヅカが、たまに来てくれていた。その時だけ、安心することができた。シヅカが持って来てくれた食事をかろうじて食べて、彼女がいるときだけ、シャワーを浴びた。目を閉じるのが、怖くて怖くて仕方なかった。

 なにが、とか、どうして、とか、そんなことすらも考えられなかった。そんな私に、時間感覚は全くなかった。今がいつで、何時で、なんてことは意識していない。ちょっとでも暗くなれば電気をつけた。昼間でも。

 あの日、急に、私は、どこかの暗闇に突き落とされてしまったんだ。だけど、戻ってきた。恐怖は記憶にはあるけれど、生々しくはなく、過ぎ去った嵐のように、遠く、遠くに行ってしまっていた。

 思えば、あの状態は、霊をハッキリ視たときの、ひどく重たい症状だったような気はする。

 だけど、今やっと、意識がハッキリとしたからといって、すぐに全てが元通りというわけにはいかなかった。思考は上手くまとまらないし、まだ、体は思うように動かせなかった。自分の体なのに、なんだかぎこちなくしか動かせない。それは、思い切り泣き叫んだせいかもしれないし、記憶があやふやな期間が長くて、体がさび付いているせいなのかもしれなかった。

 やっと泣き止んだシヅカが、ココアを入れて持って来てくれた。部屋が片付いているのは、シヅカが定期的に来ては、私と部屋の面倒を見てくれていたからだ。

「ありがとう、シヅカ」

「ううん。勝手に合鍵使っちゃったけど。ごめん」

「全然。そんな。迷惑かけて、ごめん」

「違う。ココが謝らなくていい。だって、そもそも、私のせいじゃん。ココがこんなことになったの」

「え。なんで」

 思い詰めたように、マグカップを握りしめたままのシヅカが、視線を合わせずに早口で話しだした。

「だって、あの日、ココが具合いが悪くなった時点で帰っていれば、動けなくなるくらい悪化しなかったかもしれないじゃん。引き返さなかったの、私のせいじゃん」

「でも、あの日はそもそも、約束してたんだし。急に具合いが悪くなったのは私で」

「そんなこと、誰だってあるよ。また次にしようって、帰ってもよかったんだよ。なのに、私、気軽に考えて、案内してもらって……それで、ココ、動けなくなっちゃったんじゃん」

「別にシヅカのせいってわけじゃ」

「どう考えたって、私のせいじゃん!ごめん!!こんな目に合わせて。しかも、私、ココが霊感あるって、しゃべっちゃったの!オールドで」

「え?」

「オールドに近づくたびに、具合いが悪くなっていったし。入ってはないけど、オールドが原因なんだって、思いこんじゃって。それで、どうにかしてください、っお願いしに行ったんだ。そこで、話しちゃって。ごめん。こんな目に合わせた挙句に、秘密にしてたこと、勝手にしゃべっちゃって」

「あ、えっと」

 うーんと。シヅカは、私を助けようと思って、オールドに話をしに行った、ってことだよね。

「ほんとにごめん!」

 マグカップをテーブルに置いたシヅカが、土下座みたいにうずくまった。なんでそんなに思い詰めて。

 そっと手を伸ばして背中に置くと、シヅカは飛び上がりそうなくらいビクリとした。霊感の事を、幼馴染のさっちゃんに話した時とは、年齢も環境も違う。怒る気なんて、ない。

「シヅカ。霊感があるなんて言ったところで、信じなかったりするよ。平気だよ」

「そういう問題じゃないよ。ずっと秘密にしてきたことだったんでしょ?」

「だけど。いいよ、気にしなくて。私を助けようとしてくれたんだし」

「……だって、私のせいだし!」

 シヅカが、どうしてそんなに自分のせいだと思い込んでるのか、私には分からなかった。あの日は確かに、オールドに近づくたびに具合いが悪くはなっていった。けど、オールドには入っていないし、結局、見知らぬ親切な人に助けてもらったんだったよね。私、ろくにお礼も言えなかった気がする。すごく、お世話になったのに。オールドのお客さんみたいだし、また行って会えたら、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。

「私が!あの日!具合いが悪いって、ココが言った時に、引き返していれば!ココは、こんなに追い詰められずに済んだし、会社も休職しなくてすんだんだよ。こんなことにならなかった!!ごめん」

 目に涙をいっぱい溜めたシヅカは、絶対にそこは譲らなさそうだった。今は、これ以上、何を言っても無駄そうだった。

「ココア、飲もう」

 マグカップを手にして、ちょっと冷めかけたココアを飲む。こってりと甘くて柔らかな液体が、喉を通っていく。あの日、具合いが悪かったのに、今日は帰ろうと言わなかったのは、私だ。シヅカを責める気はなかった。そもそも、オールドには、シヅカがいなくたって、コーヒーを飲みに行っていたんだから。たまたまあの日、具合いが悪くなっただけだ。

 涙を浮かべたままのシヅカも、マグカップを手に取った。二人で、黙ってココアを飲む。何気なくスマホの画面を確認すると、あの日からずいぶん経っていた。

 そうか。そんなに長く、私は夢うつつをさまよっていたのか。だからこんなに、シヅカは思い詰めたのかもしれない。

「シヅカ。私、さっき、中田さんに会ったんだよ」

「うん」

 ずび、と鼻水を啜りながらシヅカが頷く。訝し気な様子も見せない。夢うつつの状態が続いた私が、亡くなった人に会った、なんて言ったら、更に心配しそうなものなのに。まるで、最初から知っていたような相槌だった。中田さんと私のことを知っているのはシヅカだけだし、会わせてくれた友人というのは、彼女で間違いない。

「中田さんが、シヅカにお礼を言ってって」

「うん。いや、私こそお礼を言わないと。ココを連れて帰って来てくれて」

「もう、逝っちゃったから、無理だよ」

「だよねえ」

 ちょっとだけ笑ったシヅカにホッとしつつも、一気に膨れ上がった不安が疑問になって口から出る。

「シヅカ。どうやって中田さんに会わせてくれたの?そんな方法、あるわけないよね?」

「…………ある」

 ある?あるわけがない。亡くなってしまったら、二度と会えない。霊感があったって、逝ってしまった中田さんにはもう、会えない。再び会えるなんて、そんなことは、あり得ない。

 そのとき、ふと思い当たった。そうだ。

「前に、居酒屋で飲んだ帰り、亡くなった人に会える方法があったらどうするって、聞いてきたことあったね?」

「うん」

「その方法、使ったの?」

「うん」

 なんてことを!!

 マグカップを放り出して、膝立ちでシヅカに詰め寄る。両肩を掴む。

「教えて!!代償はなんだったの?!」

 この世ならざることを成すならば、その代償は、とんでもないことになるだろう。そんなことは、簡単に想像できる。地獄の沙汰も金次第、なんて言葉があるけれども、その逆パターンであれば、一体、どんな代償が待ち受けているのか。

 霊感がある、っていうことで、普通の人とは違う、なんて思いあがったことは考えていない。けれども、視えないモノが視える、ということで、いらないことを見聞きしてしまったことはある。だからこそ、私は、亡くなった人に会える方法なんて使わない、と言ったんだ。

「シヅカ!!」

 シヅカは、なかなか答えなかった。

「シヅカ!!」

 幾度目かの大声で、シヅカはやっと口を開いた。

「私の、残りの寿命の、半分」

 ピーンポーン、とそこでチャイムが鳴った。夜中だったから、大声をだして、うるさかったのかもしれない。けれども、私にはそのピンポンの音が、人ならざる者がシヅカを迎えにきたように思えた。息が詰まった。

 インターホンを、恐る恐る振り返る。シヅカがサッと立ち上がって、出た。「すみません、気を付けます」、と謝っているのが聞こえる。苦情だったことに、少なからずホッとする。

 インターホンの対応を終えたシヅカが、私の正面に座った。今度は、彼女が、ガッシリと私の両肩を掴んだ。

「大丈夫!!私、メッチャ長生きするから!!」

 満開の花ような笑顔で言って、そのまま私を抱きしめた。

「帰って来てくれて、ありがと、ココ」

 ダバダバと堰を切ったようにあふれ出る涙をそのままにして、私はただ、頷いた。


~ イト(井頭イツキ) ~


「いらっしゃい」

「ブルマン」

「はい」

 短いやり取りだけをして、彼女はカウンターの真ん中辺りの席に座った。名前を知らない、ワカナの同僚の女性だ。

 コーヒーを淹れて運ぶ。お待たせしました、とカウンターへ置くと、伏し目がちに頷いた。今日は店内は静かだ。この辺りにしては珍しく、雪がチラつき始めているからだった。まだ午後の早い時間だというのに、曇天が支配している空は暗くて、チラチラしている雪が、なんだかやたら明るく見える。

「この店でトラブル、あったって聞いたけど」

 半分くらいコーヒーを飲んだ後に、彼女は静かに問いかけてきた。里中のことだろうか。アレ以外のトラブルは、今のところ、この店では、ない。

「ちょっと前ですね」

 ああそう、と呟き、またカップを手にする。彼女の会話のテンポは独特だ。終わったのかと思えば、思い出したようにポツリと言葉を口にしたりする。お客さんに無意味に話しかける必要はない。黙ってカップを磨いていると、コーヒーを飲み終わった彼女が、また独り言のように話し始めた。

「ねえ」

「はい」

「ワカナたちに手を貸す気はある?」

 手を貸す気。どういう意味だ?俺はワカナの番人だ。ワカナの手伝いをするのは当然だ。それに、「たち」?

「俺はワカナの番人です」

「知ってるわ」

「たち、っていうのは」

「サングラスの男、来たでしょ、トラブルが起きたときに」

 ズラリと並んだフラスコを数えているようだった視線が、そこで真っ直ぐに、俺の顔に向かってきた。

「どう?」

「ワカナの為になるのなら」

「番人としての域を超えることになるかもしれなくても?」

「ああ」

「そう。じゃあ、よろしく」

 そう言うと、彼女は立ち上がった。会計をして、す、と店の扉へと向かう。

「私はスミ。また来るわ」

「ありがとうございました」

 名前はワカナたち“お迎えさん”にとっては、重要だ。自ら名を伝えるということが、彼女の本気の度合いを示しているように思えた。相応の覚悟の上で、彼女もそう言ったのだ。

 扉が開く。チラついていたはずの雪は、いつの間にかびっしりと空間を埋めるように降りしきっていた。その白い空間に、スミと名乗った彼女が足を踏み出す。

 黒髪の背中が雪にのまれていく。扉が閉まった。

「積もるなあ、こりゃ」

 今日はもう、店仕舞いしよう。こんな日は、お客はのぞめない。


 二階の住居部分へと上がり、わざと照明はつけないまま、カーテンを全開にする。手前にある小さなテーブルに、ミドリさんの写真と熱燗、鰻の串焼きと白菜の漬物、大根の煮物に春巻きを並べる。当然、二人分だ。メニューがちぐはぐなのは、残り物も混ざっているからだ。家の食卓なんて、概ね、こんなもんだろう。

 軽くお猪口を掲げて、熱い酒を飲む。喉の奥を熱い液体が通り過ぎ、それとともにぬくもりが広がる。

「ミドリさん、雪だよ」

 寒いけどキレイね、と静かな声と微笑みを感じる気がする。

 建物の反対側にある照明が、雪ににじみながら光をぼんやりと放つ。その明かりを頼りに、薄暗い中で雪見酒をきめこむ。

 時は刻まれていくし、人は年老いていく。時間は有限だ。それは誰しもが平等なはずなのに、俺はその流れにのらず、留まって、今だにこの世でこうしている。時々、自分がどうしたいのかが、分からなくなるときがある。このままでいいのか、俺はいつまでこの世に留まるつもりなんだ、愛しい人も逝ったのに、と。

 その感情はいつも、急激に、静かに、俺を襲う。そのたびに、俺はミドリさんとこうして酒を飲む。そうすると、思い出す。自分で選んだんだ。ミドリさんとの時間を抱えて、こうしてこの世を漂うという事を。例え、自分の意志であの世に逝けなくなろうとも。

 彼女との思い出が、俺を満たす。飲み終わる頃には、まるで彼女が側でほほ笑んでいるような、満ち足りた気分になれる。

 その気分のまま、いつもなら寝てしまうところだ。けれども今日は、まだもう少し、飲んでいたい気分だった。

 焼酎のお湯割りを持って来る。ぬるめに作ったその酒が、喉をすべり落ちていく。

 ワカナたちに手を貸す、か。サングラスの男。人を寄せ付けない、鋼鉄のような印象を持つ男だった。……あの二人、なんかありそうだったよな。

「ミドリさん、俺、いらないことしようとしてんのかな」

 写真に問いかける。でももう、返事はしてしまった。お人好しっぽいワカナの為になるなら、やれることはやろう、と思う。こうして俺がオールドを続けられるのも、ヤツのおかげだし。それに、基本的にはお互いに干渉しないような“お迎えさん”同士なのに、スミさんがお節介をしようとしてるからには、それなりの関係性もあるんだろうし。

 写真に微笑みかける。やると言ったんだ。やろう。まずは、おやっさんに、ワカナのことを聞きに行ってみよう。おやっさんは、話せることは話してくれるだろう。ままずは行動してからだ。やれることしか、やれねえけど。

 後片付けをして、寝る直前にカーテンを閉める。降りしきる雪は、まだまだやみそうになかった。


~ 居酒屋店主 トキ ~


 その日、妻のツナとオールドへ行ったのは、たまたまだった。昨日の雪の関係で客足が今日もなかろうと、店を臨時休業にして向かったのだ。食べてしまった方がいい食材は調理して、差し入れとして持ってきた。

 溶けかけの雪が邪魔にならないように片付けられている店の扉を開ける。いらっしゃいませ、と振り向いた顔が、やたら驚いていて、こちらも驚いた。

「なにか、あったのかい」

「いえ、実は、おやっさんのところへ行こうと思ってたんっすよ。あ、あざっす」

 ツナが差し出した、エコバッグに入れたタッパーの中身を確認し、こんなにいいんすか、と聞かれるが、どうせダメになってしまうのであれば、誰かに食べてもらった方が食材も嬉しかろう。俺とツナでは食べきれない。

 どうぞ、と少しだけ口元に笑みを浮かべたツナと一緒に、ガラガラの店内でカウンターに座る。二人で来た時はテーブルに座ることが多いが、今日は話しがあるようだから。ついでだが、ツナの微笑みは、彼女にとっては満面の笑みだ。表情が乏しいとよく言われるが、そんなことはない。ツナにだって、ハッキリと喜怒哀楽はある。表情の大きさというのは、ただの個人差だと俺は思う。

 今も、どことなく心配そうにイトを窺うツナに、先に注文をしようと促す。結局、モカとブレンド、ツナはプリンアラモード、俺はパウンドケーキにした。技巧に凝ったケーキも好きだが、シンプルなケーキもしみじみと美味い。

 昨日とは打って変わっての晴天で、雪は今日のうちに溶けてしまうだろう。明日は店も混むかもしれないな、と考えつつ、コーヒーを飲む。ソワソワしているツナの視線を受けて、これまたカウンターの中で落ち着かな気にしているイトに話しかける。

「何かあったのかい」

「いやあの。ええと」

 頭をかいているところをみると、質問がまとまる前だったんだな。じっくり考えてから俺を訪ねようとしていたんだろう。

 ううむ、としばらく腕組みをした後に、考え考えつつ、イトは口を開いた。

「ワカナって、なんで”お迎えさん“になったか、おやっさんは知ってます?」

 意外な質問だったので、返事に詰まった。ワカナさんが“お迎えさん”になった理由。それは知らない。そもそも、そういった生前のことをお互い話すような関係性ではない。それは、イトも承知のはずだった。それなのに、イトがわざわざ聞くってことは、なにかがあったことは間違いない。

 そうは思ったが、イトが直接的に言わないのなら、話すのを待った方がいい。だから、敢えて聞かれたことに答えるだけにした。

「いいや。俺は知らない」

「そうっすか。っすよね」

「ただ、彼は俺たちよりも若いよ」

「えっ?!番人よりも“お迎えさん”が若いなんて、あるんっすか?」

「あるよ」

 隣でプリンアラモードを食べつつ、ツナも頷く。ツナはミドリさんが大好きだった。なんのお礼だったかは忘れたが、彼女がサービスとして出してくれたプリンアラモードを食べて以来、ツナは大体いつも、ここではそれを食べる。

「俺たちが番人になったのは、別の“お迎えさん”のときだ。その人があの世へ逝くことになって、ワカナさんに引き継いだんだ」

「そうっすか」

 フラスコに視線を合わせ、イトは考え込み始めた。雪のせいで休校になったのか、外では子どもたちがはしゃいだ声を上げて走り去っていった。

 ゆっくりとパウンドケーキとコーヒーを味わう。プリンアラモードを食べ終わったツナも、目を細めてコーヒーを飲んでいる。

「あの、どの“お迎えさん”にも、番人っているんですか」

「大体は、いるはずだね。持たされる役割は、”お迎えさん“によって違うみたいだけど」

「“お迎えさん”同士って、交流とかはあるっすか」

「交流。は、あるかは知らないけど、お互いのことくらいは知ってるだろうね」

「そう、っすか」

 いくつかの質問の後、静かな時間が流れた。

「ありがとうございますっす。いきなり、変なこと聞いて、すんません」

「いや。また何かあったら、声かけてよ」

「はい」

「遠慮しなくていいから」

「ありがとうございます」

 差し入れももらったから、お代はいらない、と言うイトに、ツナが無理やり会計を握らせる。

「うちにも、また来て」

「はい」

 微笑んだツナが、大きく頷いた。

 帰り道に、並んで歩きながら聞いてみた。

「なあ。イトが手を貸してくれって言ってきたら、貸すか?」

 もちろん、とほんの少しの躊躇も見せずに、ツナは頷いた。


~ 左田 ユカリ ~


 一日だけ頼まれた着ぐるみのバイトは、思いの外、キツかった。なめてた、俺。着ぐるみってさ、動きどころか視界も限られているし、その狭い視界の外から子どもが体当たりしてきたりしてさ。いつもと動きや視界が制限されてるのもキツイけど、ふいに来る体当たりが、消耗に拍車をかける。くれぐれも声は出さないでくれと念押しされていて、人間はビックリすると反射的に声が出るもんじゃないのか、と心の中だけで思った。口に出すほどのことでもない。ってわけで、声も出せない。

 挙句に、ちょっとしたモノに好かれてしまって、くっつかれてしまった。あああ。腹が減った。チラリ、と斜め後ろを見る。うん。いるわ。コイツ、いつまでいるかなあ。

 子どもの頃から、腹が減って腹が減ってどうしようもないことがあった。食べても食べても腹が減る。その原因は、ある程度、大きくなってから分かった。

 腹が減るときは、決まって、いわゆる霊と呼ばれるモノに好かれて、くっついてこられているときだった。ソイツらは、気が付くと斜め後ろくらいにいた。別に悪さをしてくるわけじゃない。ただ、くっついてくるだけ。いつの間にかいなくなるけど、いる間は腹が減って仕方がない。悪さをするわけじゃなくて、ただ腹が減るだけだから、俺は特に意識もせず、ソレを受け入れていた。

 俺がどうかしてるのか、ヤツらは実在してるのか。その判定はできない。俺にしか視えないから。ただまあ、ヤツらの存在を感じてる間は、腹は減る。それは事実。

 着ぐるみのバイトに体力をガッツリ奪われ、たまに好かれる霊にくっついてこられたせいで腹がメチャクチャに減り。今日はもう家に帰ろう、とヨタヨタ歩いていたら、姉ちゃんに会った。俺にとっては姪っ子になる、カナを連れている。カナは二歳だ。義兄さんに似たのか、おっとりしているところは、シャキシャキしてる姉ちゃんと全く似ていない。

「ユカリ、どこいくの」

「バイトの帰り。姉ちゃんは?」

「ムッちゃんのお迎え」

「あれ。今日早いの?」

「うん。お迎え行って、そのまま外食しようってなったんだ」

「いいじゃん」

「あんたも行く?」

「俺、今日、そんな体力ない」

「そっか。じゃあ」

 バイバイ、と小さくカナが手を振るので、手を振り返す。

 大学生の俺と姉ちゃんは、ちょっと年が離れている。姉ちゃん一家は、実家の近くに、一昨年、家を建てた。義兄さんの通勤に便利な場所だし、ちょうどいいって。だから、俺に好きなことしていいんだよって。跡継ぎがどうの、なんて考えてもなかったけど、いざとなったら姉ちゃんがどうにかするつもりで、そうしてくれたんだ、って、言われて気付いた。

 それで、そんなこと言われるなんて思ってなかったから、驚いた。そろそろ就活を視野に入れて動かないといけないのは分かっていたけど、なりたいもの、とか、やりたいこと、は、全然まだ、俺の中になかった。だから、突然、現実を突きつけられたようなプレッシャーも感じた。それと同時に、姉ちゃんと義兄さんの、大人の優しさを。

 何を選んでもいい。どこに行ってもいい。でもそれは、今の俺にはまだ、重荷だった。


 おお。メッチャいい。この露天風呂。明日も、来ようっと。

 透明なお湯の中で、ぐぐっと手足を伸ばす。温度もちょうどよくて、ゆるゆると俺そのものが、お湯に溶けていきそうだ。

 春の気配がほんの少し漂ってきた時期。俺は一人、原チャリに乗って二泊三日の旅にでた。行き先を決めずに、なんとなくその時の気分で走る。道を走っていて、気になる看板があったら、そっちへ行ってみる。こんな地名があるんだな、って、そこへ向かう。気まま勝手な旅が、結構、好きだった。

 宿も、最初からは決めてない。有名な観光地は、フラフラする一人旅の行き先になることは、あまりなかった。だから、それでなんとかなったりした。最悪、ネカフェあるし。

 大体は、向かった先で、スマホで検索したり。民宿をみかけたら、飛び込んだり。あったりすんだ。素泊まり一泊五千円、とかって、ネットに出てない、古い看板でてるような民宿が。まだ。

 宿はなるべく安いところを選んでるけど、近くに温泉があって、日帰り入浴ができるときは行くことにしてる。温泉って、造りは同じようなんだけど、なんだかんだ、違う。泉質だったり、心地よさだったり。それがおもしろい。それにしても、温泉地にプリンがありがちなのは、なんでなんだろうな?美味いけど、プリン。

 湯上りにまんまとプリンを食いつつ、窓の外の空を見上げる。冬の終わりかけの、まだ梅も咲かないような時期。ちょっと寂しいんだけど、陽射しに明るさが増してる感じが、いいんだ。寒いけどな。原チャリだと。

 食べ終わって、そのまま空を見上げて、大きく伸びをした。そろそろ日帰り入浴の時間は終わりだ。のんびりさせてもらったし、宿に向かうかあ。

 プリンを片付けて荷物を持ち、宿の玄関へと向かう。入れ替わりで入ってきた女の人に、記憶のどこかが引っかかった。

 あれ。あの人。

 そのまま、視線で追う。カウンタ―で受付をしているその横顔を見ていて、思い出した。あの人、コーヒーの人だ!俺がぶつかって、服を汚しちゃった人。んで、それを笑い飛ばしてくれた人。うわうわうわ。どうしよ。今、話しかけたらヤバいかな。いやでも、あの白いカーディガンの袖、ちゃんと落ちたかな、コーヒーのシミ。いいって言ってくれたけど、気になってたんだよな。だから、お姉さんの顔もどっか、記憶に残ってたんだ、きっと。

 声をかけようかどうしようか迷っているうちに、受付は終わったらしい。館内へと向かう背中に、ええい、と思い切って話しかける。

「あの、すみません」

「はい」

 不思議そうにしつつも、お姉さんは振り向いてくれた。結構、身長が高い。あの時は座っていたから気付かなかったけど。俺と目線がほとんど変わらない。

「あ、俺、コーヒーこぼしたヤツです。あのときは、ほんとにすみませんでした」

「?コーヒー?ちょっと待ってね」

 片手を上げて手の平を見せ、ちょっとだけ眉間に皺を寄せる。コーヒー、コーヒーね、と呟いている。

 声をかけておきながら、恥ずかしくなってきた。そうだ。笑い飛ばしてくれた人なんだから、お姉さんにとっては、小さな出来事だったんだろう。そんなこと、覚えてなくて当然だし。それに、あの時、謝ったし、俺。なーんで声なんてかけたんだあ!失敗した。

 あの、もういいです、と言って逃げ出そうとしたら、お姉さんがいい笑顔で、思い出した、と俺を見た。ベリーショートで小顔のお姉さんのその笑顔は、思わずドキリとするくらい、魅力的だ。

「あの時謝ってくれたし、コーヒーももらったし。こっちこそ、ありがとうね」

「いえ、あの。カーディガンのシミ、落ちましたか?」

「バッチリバッチリ!新品かなって思うくらいだよ。ずっと気にしてくれてたの?ごめんね」

「いえっ。俺がぶつかったのが悪かったんで。ほんと、すんませんでした」

「いいよ、いいよ。もう十分、謝ってもらったよ。それに、あのとき、私、実はちょっと悩んでたんだけど。君たちのおかげで、気分が晴れたんだよ。だから、こっちこそ、ありがとう」

「え」

「うん。だから、気にしないで」

「あ、はい」

 じゃあね、と明るく手を振り、お姉さんが背を向けた。いや待って、って反射的に思った。なんかちょっと、もう少し、話したかった。

「あ、あの。俺、こっからちょっと行った、街道入ったところの民宿に泊まるんですけど。夕飯、一緒にどうですか?」

 お姉さんがポカンとした表情で止まった。俺も、ポカンとしてしまった。え。俺、なに言ってんだよ。ヤバい奴じゃん、どう考えても!

 ヤバいヤバいヤバいヤバい。

「いやあの、違くて」

 動転して上手く言葉がでない。片手を一生懸命振る。その行動が不審だと気付き、更に焦る。

「いやその、……すみません、変なこと言って。忘れてください!」

 頭を下げて、一目散に逃げようとした俺を、明るい声が引き留めた。

「晩ご飯は宿で出るから無理だけど、一緒に星空でも見に行かない?」

 黙ったまま、俺は何度も頷いた。


 は、恥ずかしかった……。原チャリ運転してなかったら、顔、上げてらんないくらいだよ……。ちょっと風が冷たいけど、頭冷えてちょうどいいや。

 民宿へ向かって原チャリを走らせつつ、温泉のせいだけではない顔のほてりに、ほとほと情けなくなる。

 俺、あわてると、自分で予想もつかないことする事あって、ヤバいよなあ。暴言吐いたりとかはしないけど、思いもよらぬ行動にでるって、ちょっとどうなんだよ。学生とはいえ、成人してんのにさ。

 赤信号で停まると、車が俺の前に出てきた。原チャリ、あんまスピード出ないからな。追い越したかったのかもな。

 気持ちを落ち着けようとして深呼吸をしたら、冷たい風と一緒に排気ガスまで吸いこんで、更に情けなくなる。

 でもさ、もっと話してみたかったんだ。カラッと笑う、背の高い、ベリーショートの似合うお姉さん。その伸びやかな印象に、なんだか惹き付けられてしまったんだ。

 それに、悩んでたのに、俺たちのおかげで気分が晴れたって、どういういことなんだろう?ぶつかって、コーヒーこぼして、迷惑かけただけじゃんな。なのにさ。っていう、それも気になって。

 うわあ。でもこれって、ナンパだよな。よく考えてみるとさ。ナンパとかって、したことなかったんだけど。ナンパのつもりもないんだけど。どっちかっつうと、そういうのは苦手だし。でもなんか、ビックリした。俺。ああいうこと、できんだ。いや、必死だったのかも。

 ファストフードで会って、またここで会うなんて、なんかもう、メッチャすごくね。だって、旅先だよ。旅館に泊まるってことは、お姉さんだって旅先だし。そんなこと、ある?ってくらいの出来事じゃん。偶然はあくまで偶然なんだけどさ。なんか、せっかくの偶然が重なった縁が、もったいないじゃんって思って。いや、だから、いいんだ。俺の行動は。イヤだったら、断るだろうし。向こうだって。ナンパじゃない。断じて俺は、ナンパ目的なんじゃない。

 赤信号の間中、自分の恥ずかしい行動に言い訳をし続ける。信号が変わる。

「あーもう!」

 グダグダと言い訳し続けたわりには、気持ちは晴れなかった。それはそうだよ!だって、恥ずかしすぎる。

 お姉さん……シヅカさんとは、夜、旅館の前で待ち合わせることになった。星空、見たくてきたんだって。この辺、星空で有名なんだっけ?なんて思いつつ、また後で、と手を振った。

 お互い、名前だけ聞いて、連絡先は交換しなかった。だって、そうだろ?!怖すぎるだろ?!これ以上、聞いたらさ!

 あ。ここだ。

 原チャリを玄関先に置いて、格子戸の扉を開ける。ガラガラと音がした。

「ちはーす」

「はいはい。いらっしゃい」

「原チャリ、どこ停めたらいっすか」

「あ、建物の奥に駐車場あるから。そこにお願い」

「うす」

 晩飯は、角にあった干物屋で食おう。看板にデカデカと書いてあった干物定食が気になる。なにはともあれ、腹が減っては、だよな。


~ 丸野 ショウタ ~


 困ったなあ。ここでもダメかあ。

 オールドでコーヒーを飲む。週末の楽しみであるその習慣は、ささやかだれけれども、特別なひと時だった。ジャズかクラシックがほどよい音量で流れる店内。そこはいつも、コーヒーの香りに満ちていて、僕の喫茶店への強い憧れを受け止めてくれる場所だった。ここでゆっくりと過ごす時間は、僕にとってなくてはならない、豊かな時間なのだ。

 けど、今日は沈んだ気持ちを膨らませてくれることは、オールドでもできそうもなかった。

 あと一口だけ、コーヒーが残っているカップに視線を落とす。これを飲み干すまでに、決断しよう。

「丸くん、体調どう?」

 考え事をしている自覚はあったけど、自覚以上に心ここにあらず、だったらしい。何気ない口調でイツキさんが話しかけてきた。

「すこぶる元気です」

「モモカさんは?」

「彼女も、すごく元気ですよ。マラソンの遠征してるし、ここ数年、風邪ひいてるのもみないです」

「そりゃすごい」

「ですよね」

 はは、と、愛想笑いをしたつもりだったのに、ずいぶん乾いた笑いが口から漏れた。そしたら、イツキさんが、珍しく聞いてきた。

「なんかあったの?」

「あったというか、元々というか」

 先代の店主であるミドリさんもそうだったけど、この店は、よく来る客だからといって、プライベートに踏み込むようなことはしない。なのに、こういう質問をしてきたってことは、僕、目に見えて弱ってるんだなあ。

 まあ、それも、致し方なし、かな。

 静かに笑みを浮かべているイツキさんに、聞いてくれますか、とポツリと言うと、うん、と頷いてくれた。ただ話を聞いてもらうのは申し訳ないから、コーヒーを追加で注文する。モモカさんが好きな、トラジャを。

 コポコポ、とフラスコがたてる静かな音を耳にしながら、今から自分が話すことは、独り言みたいなもんだな、と思う。自分の気持ちの整理をする為に、聞いて欲しいだけなんだ。

 友人がいないわけじゃない。けれども、決め切れない決断や後悔しそうな決断は、一人ですることにしていた。もし、自分が後悔したときに、相談した相手を、少しでも恨みたくないから。そういう気持ちを持つのが、僕が嫌だから。

 けど、どうしても、気持ちに折り合いをつけることができないときはある。そういうときは、「誰か」に話を聞いてもらうか、時間があるときは、僕のことを誰も知らない場所へ行って、ただぼんやりと時間を過ごすことによって、気持ちの整理をつけてきた。

 今日はでも、時間はあまりなかった。「誰か」になってくれるイツキさんの好意に甘えるしかなかった。

 白い、上品なカップに、青い花の絵付けがされたコーヒーカップが目の前に置かれ、僕はそのコーヒーを見ながら話し始めた。

「母が、困った人なんです」

「うん」

「それでも母だしと、関係を保って来ていたんですが、ちょっともう、関係を保てないくらいのことをしでかしまして」

「うん」

「連絡を、絶とうと、思っているんです」

「そっか」

 母さんは明るく無邪気な口調で、容赦なく人を傷つける。見知らぬ他人のことも。自分の価値観が絶対で、正しいのは自分だ、と主張して疑わない。それが原因で、いろんな人と揉めてきたし、父さんも、僕の独立を待って離婚した。離婚した後も、母さんは旧姓に戻さなかった。どうしてか聞いたら、体裁が悪いから、だそうだ。見栄っ張りで、そういうところはものすごく気にする。そんな人だ。

 それでも、僕にとっては、母さんは母さんだ。そう思って、関係を保ってきた。けれども、とうとう、一線を越えたのだ。

 僕は、片思いをしていた年上のモモカさんと結婚した。それはもう、何年も前のことだった。僕たちは年齢的に子どもを持つのは難しかった。それは承知の上で、結婚した。それでいい、と思っていた。僕は一人っ子だから、母さんは孫の顔が見たい、と最後まで反対したけど、最終的には僕の意志に根負けした、と思っていた。のだが。

 母さんに呼ばれて、家へと行った。リビングの扉をあけると、母さんと三十過ぎくらいの女性がお茶を飲んでいた。

「ああ、ショウタ」

「こんにちは。お客さん?」

「うん。そう」

「じゃあ僕、出直すよ」

「いいの、いいの。さ、こっち来て座って」

 前髪ごとボブに切りそろえた女性が、前多です、と元気な声で挨拶してくれた。ここで固辞するのも変だし、と結局、三人でお茶を飲むことになったのだ。

「なに、これ。もっと気の利いたの無かったの?ごめんね、こんなお菓子で」

「いえ。いただきます」

 手土産として持ってきた、箱詰めのクッキーがテーブルに並べられた。最近話題のクッキー缶だったけど、母さんはいつも、いらない一言をつける。母さんの貶し言葉と一緒に、目の前にだされたクッキーに、前多さんが微笑んだ。そして、意味もわけも分からない、お茶の時間が始まった。

 前多さんは、母が以前勤めていた職場で一緒に働いていた女性なのだそうだ。元気で、物怖じしない強い目と口調が、印象的な人だった。親子以上に年の離れた母とは仲がいいらしく、気の置けない口調で話していた。

 小一時間ほど話した後だろうか。前多さんが立ち上がった。

「私、そろそろ帰るわ。またね」

「うん。また来てね~」

 親し気に手を振り合う二人の間で、曖昧に頭を下げた。こういうとき、如才なく場を盛り上げられる人がうらやましい。リビングをでる直前、彼女は振り向いて、俺にニコリ、と微笑んだ。なんだか含みのある笑顔だった。

 ん?なんだ?今の笑み。

「はーやれやれ。騒がしい子でしょ~」

「母さんも十分騒がしいから、いいんじゃない」

「そう?母さんの方がおしとやかでしょ」

 いや、全然、負けてない。むしろ勝ってる。

「母さん、それよりも、来客なら時間ずらしたんだから、連絡くれればよかったのに」

「ああ、いいの、いいの。彼女は身内みたいなもんだから!」

 そんなに仲がいいのか。それはいいことだけども、僕は初対面だから、その感覚には当てはまらない。

「それで、用っていうのは?」

「なに、せっかちな子ねえ!まあちょっと、ゆっくりしなさいよ。コーヒー飲む?」

「僕、この後予定あるんだよ。そろそろ出ないと」

 ご機嫌で、昔のアイドルの曲を鼻歌で歌っていた母が、コーヒーを淹れる手を止めた。

「なに、嫁ちゃんと?」

「そうだけど」

 ほんとうは、今日は一日、モモカさんと出かける予定だったんだ。だけど、大事な用があるから、どうしても一人で来いって譲らないから、予定変更したんだ。モモカさんも、行ってあげてって言うし。

 ふうん、と鼻を鳴らして眉間に皺を寄せた後、母さんはコーヒー入りのマグカップを二つ、持ってきた。インスタントコーヒーの香り。

「ま、そう慌てなくっても、今日はまだ時間あるし、いんじゃん!」

「だから、母さんは時間があっても、僕がないんだよ」

「あ、そう。ふうん」

 ソファに足を組んで座って、コーヒーを飲みだす。座りなさいよ、とジェスチャーされて、渋々座る。ここで座らないと、ややこしいことになるからだ。

 ああ。モモカさんとの約束の時間まで、もう三十分。遅刻したって、怒る人ではないんだけれど、既に今日、約束を反故にしているし、なにより、僕が!待たせたくない。

「母さん。悪いけど、僕、これ飲んだら行くよ」

「悪いと思ってるんなら、母さんに付き合いなさいよ!たまにしか来ないくせに!!」

 ああ。こうだ。あっという間に不機嫌になった母さんに、ため息が出た。自分の思い通りにならないと、いつもこうだ。すぐに、ヒステリーを起こして叫び始める。

「どうせ、めんどくさいとか思ってんでしょ!」

「そんなことは」

「いいわよ!もう!!」

 ガシャン、と大きな音を立ててマグカップをテーブルにたたきつける。ビシャ、とコーヒーがこぼれた。

「母さん、落ち着いて」

「落ち着いてるわよ!アンタが言う事聞かないからでしょ!」

「……分かった。分かったよ。連絡入れるから」

「最初っから、そうすればいいの!」

 母さんのヒステリックな声が、今度はあっという間にご機嫌になる。ああ。モモカさん、ごめんなさい。

 スマホを取り出して、メッセージを素早く打つ。「遅れます、ごめんなさい」、「いいよ!大丈夫!」という返事がすぐに来て、ああ、待っていてくれたのに、と苦しくなる。

「晩ご飯、食べていく?」

「それは遠慮する。母さんの用って、晩ご飯を一緒に食べようってこと?なら、今からモモカさんと合流して、三人で食べに行こうか?」

「はあ?なら、行かなくていいですー」

 もう。なんなんだよ。この前だって、カフェに行きたいって言うから連れて行こうとしたのに、なにがカンに障ったのか、急に、行かなくていいって言いだすし。

 砂糖を溶かしていたスプーンでマグカップの縁を叩いてリズムをとりつつ、また鼻歌を歌いだす。この気分の上下は、彼女にしか分からない法則がある。息子といえど、僕には分からない。

 しばらく、母さんの一人演奏会を聞いていたら、急にピタリと動きを止めて、俺を覗き込んできた。にんまりとした笑みを浮かべていて、どういう顔をしていいのか分からなくて、固まる。

「ねえ?さっきの子、どうだった?」

「どうって。元気な人だよね」

 どうもこうも。年の離れた母さんの友だち、ってしか思わない。

「そう!元気なの!ちょっと口は悪いけど、いい子なんだよ~」

「あ、そう」

「どう?」

「なにが?」

「鈍いねえ!次のお嫁さんに!」

 は。え。

「母さん、やっぱり孫が欲しいの!だから、離婚して、彼女と再婚してよ!彼女も、オッケーしてくれてんの!」

 お願いお願い、とにこやかに両手をすり合わせる。

「若いお嫁さん!自慢できるっしょ!孫も、産んでくれるって!母さんの、孫!女の子がいいなあ!」

 一人上機嫌で盛り上がる母さんを前に、気持ちが氷点下くらいまで冷える。今までいろんなことがあったけど、こんなに冷たい気持ちになったことは、なかった。

「断る」

「え。なんでよ。母さんの言ってること聞いておけば、間違いないのに」

「いい加減にして。僕の人生なんだから、母さんの言う事ばかり聞いてられないよ。そんなことしてたら、僕の人生じゃなくて、母さんの人生じゃないか」

「それの何が悪いの?母さんがアンタを生んだんだから、それでいいじゃん。とにかく、決まり!ねっ。はい、これ」

 目の前につきつけられた緑の紙に、心のどこかが崩れた。

「……母さん。母さんは自分の人生を好きに生きてるよね?どうして僕は母さんの言いなりにならないといけないの?」

「わけわかんないこと言ってないで、これ、記入して持って来てよ!今回は、結婚式もするからね。母さんがお金出してあげるから、費用は心配しないで」

 僕とモモカさんは結婚式はしなかった。僕の両親は離婚しているし、モモカさんも、しなくていいって言って。ただ、僕はモモカさんの晴れ姿が見たくて、フォトウェディング、って形にした。洋装と、和装と。二パターンで。

 モモカさん、キレイだったな。照れながら、幸せそうに笑ってくれた。

 目の前にヒラヒラされている緑の紙を手に取り、ぐしゃぐしゃと丸めてゴミ箱に捨てた。言っても無駄だ。母さんとは、話し合いになったことがない。これ以上は、僕が無理だ。限界だった。

「帰る」

「えっ。ちょっと、待ってよ!」

 機嫌がどうなろうと、もう、かまう気はなかった。引き留めようとする母さんの手を振り払って、僕は家をでた。


「と、いうわけで、今、僕はここにいます」

「うん」

「モモカさんには、申し訳ないけど、先に帰ってもらいました」

「うん」

「それで、僕、母とはもう、連絡とるのやめようと思ってるんです」

「うん」

「ちょっと……、今回の件、僕、許容できなくて」

「うん」

 父さんと離婚したときに、財産はほとんど母さんの手に渡った。そうじゃないと離婚しないと母さんが言ったからだ。だから、母さんは生活の心配はない。僕は一人息子だけど、あくまでも僕を所有物としか見ていない母さんとは、もう、付き合っていけない。

 こんな情けない話、「誰か」といえども、したくはなかった。だけど、やっぱり、人っていうのは、……いや、僕は、吐き出す相手が必要だった。それは、壁でも、ノートでもなく、ネット上の見知らぬ相手でも、独り言でもなく。アドバイスが欲しくなくても、「誰か」という、人であって欲しいのだ。生身の、体温を持った「誰か」に聞いてもらって、どうしようもない気持ちは、片付けられるキッカケを持つ。形になって、自分でも扱いやすくなる。

「情けないですよね」

 我ながら、力の入っていない声が、聞き慣れてきたクラシックの曲に紛れた。

「情けなか、ないさ」

 哀愁漂うイツキさんの笑顔が、暗く深い場所に沈み込んだ僕の気持ちを、ほんの少しだけ、慰めてくれるようだった。


~ 南良 モモカ ~


 ああ、なにかあったんだろうな、って思った。

 今日は博物館に行こうか、と話していた日曜日。彼は一人で義母の住む家へと向かった。晩ご飯はお好み焼きでも食べに行こう、なんて言っていた彼から、遅れます、っていう連絡が入り、その後、家に帰ってもらっていてもいい?とメッセージが入った。

 オッケー、と返事をして、駅前のカフェを出た。ここで合流して、お好み焼き屋へと向かう予定だったからだ。

 んー。どうしようかな。一人でご飯食べてくる、ってことはないだろうしなあ。

 家にある食材を思い浮かべつつ、スーパーへ寄る。足りないのは、焼きそばと山芋と、粉かな。

 買い足した食材を手に、マンションへ向かっているとスマホが鳴った。

「もしもし。モモカです」

「あ~!久しぶり。元気だった?」

「はい。おかげさまで。お義母さんは」

「元気、元気!」

 あははは!と明るい笑い声が続く。

「ショウタ、一緒にいる?」

「いえ。まだ」

「そう」

「なにか、あったんですか?」

「ああ。ちょーっと、喧嘩しちゃってさ!また近々、家に来てよって言っておいてくれる?」

「あ、はい。分かりました」

「よろしくね」

 返事をする前に、ガチャ、と電話は切れた。喧嘩、しちゃったかあ。ショウタ君、大丈夫かな。

「母さんはちょっと独特な人で。嫌な思いさせるかもしれないけど。ごめんなさい」、と困り顔で、ショウタ君は言った。結婚の挨拶に伺うときだった。緊張した面持ちの彼が、お義母さんの家で寛いだ表情を見せることはなくって、でも、お義母さんはそのことに全く気付いてなかった。それが二人の関係を物語っている気がしていた。

 そんなに頻繁に会うこともないし、私はあまり気にしていないけれど、お義母さんのことになると過敏になるショウタ君が、ちょっと心配ではあった。

 彼はケロリとした性格ではあるんだけれども、悩みがないわけでもなく、心の痛みが分からない人でもない。ただそれを、表には出さないだけだ。気持ちの整理をつけたり、思いを消化する為に、心の中で戦っている人だ。

 芯が強く、しっかりと自分を持っている反面、他人に合わせることもできる。そんな彼が、唯一、苦手としているのがお義母さんで。その人と喧嘩したとなると。

 落ち込んでるなあ、きっと。

 帰り道にある酒屋で、白ワインと赤ワインを一本ずつ買う。お手頃価格の、飲みやすい商品だ。

「ただいま」

 誰もいない部屋に声だけかける。防犯の為に、なるべくそうしてねってショウタ君に言われてからは、そうしてる。

 手洗いうがい、着替え。冷蔵庫の中身を確認して、まずは、前菜の準備。

 キムチと刻み葱と海苔とゴマ油を和える。これは冷ややっこに乗せる。もう一品、チーズ。薄切り。ドライフルーツも。後でオリーブオイルと和える。キャベツを刻んで、山芋をすりおろす。青のりの在庫を確認して、豚バラ肉を切る。クラッカーはどこだっけ。あ。あった。ナッツ、ナッツ……。湿気てるかな、大丈夫かな。おー、生ハムあった。忘れてた。ミニトマト、切っておくとつまむのにいいかも。

 とりとめもなく晩ご飯の下ごしらえをしていると、玄関の鍵の音に続いて、ただいま、と聞こえてきた。

 作業を中断して、廊下に顔をだす。

「おかえり」

「モモカさん、今日はごめんね」

「ううん。いいよー。ホットプレート、出してくれる?お腹、空いてるでしょ?」

「ん?うん」

 手を洗って着替えたショウタ君が、ホットプレートを持ってリビングダイニングに入ってきた。

「わあ。モモカさん、お好み焼きの準備してくれたの?」

「そう!焼きそばもあるよ~」

「お米!お米炊かないと」

「あ。忘れてた」

「うん。そうかなって思ってた」

「じゃあ、炊きながらお好み焼き焼いて、更に、その待ち時間で、一杯どうでしょう?」

 準備しておいた冷菜を並べ、ワイングラスを出す。いいね、だけどその前に、いい?とショウタ君が私の目の前に立った。

 悲しみと怒りが混ざった表情の彼は、ふるえる声で、絞り出すように、宣言した。

「僕、母さんと連絡を絶つよ。ごめん。モモカさんも、母さんからの連絡は、出なくていいから」

 いつもは穏やかな眼差しが曇っていて、痛々しい。だけど、逸らさずに、私を正面から見つめる。常にはないその弱々しい声から、彼の決断の大きさを感じた。長年、お義母さんとのことで苦しんできたことは知っている。けど、苦しみながらも、なんとか関係を保ってきた彼が、連絡を絶つということは、相当のことがあったんだろう。

「そう」

「うん」

 なにがあったの、と聞いた方がいいだろうか。お義母さんからの伝言は、どうしよう。ショウタ君が決めたことなら、私が口を挟むことじゃない。でも。

「喧嘩、したんだって?」

 なるべく優しく聞いてみたけれど、彼はとても敏感に反応した。悲しみが薄れて、怒りの感情が、強く滲む。

「連絡あったの?」

「うん。電話があったの」

「それで」

 焦りと怒りで、どう聞いていいか分からないみたいだ。早口で伝言を伝える。

「近々、また来てって伝えてって」

「それだけ?」

「うん」

 怒りはそれでも薄まらない。手を伸ばして、彼の両手を握る。ヒヤリとした冷たい手。いつもは温かいのに。思い切って、聞いてみる。

「なにがあったの?」

 ぎゅっと握り返してくれた手が、かすかにふるえてる。

「モモカさんと離婚して、母さんが紹介した人と再婚して、孫をみせろって、言う、から」

 手の震えは、怒りだ。そんなことをしておきながら、私に伝言を頼んだお義母さんに対しての。

 震える手が、私の頬に触れた。

「僕は、モモカさんと人生を歩いていきたいんだ。もうこれ以上、母さんを、許せない」

 何か言おうと思ったけど、言葉は何も出てこなかった。ごめんね、と謝るのは違う気がした。謝ってしまったら、彼の思いを否定することになる。

「分かった」

「ごめんね、モモカさん」

 ぎゅう、と強く眉間に寄ったシワを、笑いながら伸ばす。上手く笑えてるかな。

「お腹空いたでしょ。ご飯、食べよう。一緒に」

「うん」

 今、彼にとって、一番身近な家族は私だ。毎日、一緒に生活して、日常を送る。それは当たり前のようでいて、その実、人生を一緒に過ごす、という大切な営みでもある。

 日常を当たり前のように過ごせる相手がいる。それはとても幸福なことなのだと、その日、私は改めて実感した。

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