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~ 潟岡リノ ~


 あのオバサン、またやってる。

 いつものスーパーでたまに見かけるそのオバサンさんは、よく非常識な行動をしている。例えば、アイスケースの中のアイスを次から次に手に取って、買わないと判断したものはケースの中に放り投げて戻す。故意なのかどうなのか、ケースの蓋は開けっ放しだったりする。うわー……と思っていても、見て見ぬフリをするしかできなかった。店員さん、いないかな、ってちょっと探すくらい。でもなんか今日は、イラっときたのをおさえられなかった。

「オバサン、非常識だよ。やめたら」

 桃を片っ端から押しているオバサンに声をかける。桃は押さないでくださいって、書いてあるじゃんか。

 気付かなかったのか聞こえないフリをしたのか。オバサンは一個手に取って、放り出すように戻し、歩いて行こうとした。

「ねえ!!散々その手で押した桃、一個も買わずに放り投げていくわけ?」

 回り込んで言うと、オバサンはビックリしたように立ち止まった。まさか、自分が注意されてるなんて思ってもいなかったらしい。

「は?」

「だから!非常識だって言ってるの!桃押すなって書いてあるじゃん!どんな神経してんの?」

 聞こえないフリはさせない。大声を出すと、周囲のお客さんがジロジロとこちらを見始めた。

「いいのがなかったんだよ!いいじゃないか、別に」

「いいわけあるか!!桃は押したら悪くなるんだよ!アンタが押したせいで、商品価値が下がってるんだよ!」

「なんだい、この子!!その口の利き方!!」

「論点すり替えないで!!アンタの非常識な行動が先でしょ!!」

 自分のしたことなど棚に上げて、まるで被害者みたいに叫び出したオバサンに対抗して大声を出すと、店員さんが、おずおずと声をかけてきた。

「お客様。他のお客様のご迷惑になりますので」

「このオバサンが」

「いきなり怒鳴りつけてきたんだよ、この子!!非常識じゃないか?!私は悪くないっ!!」

 ふざけんな!!非常識なのはお前だろうが!!怒鳴り返そうとして、店員さんの困った顔が視界に入った。……私の負けだ。

「謝りなさい!!」

 偉そうにふんぞり返るオバサンには絶対に謝らない。けど、騒いでお店に迷惑かけたのは事実だ。店員さんに向き直る。

「この人、桃を片っ端から押してたんです。だから、注意しました。騒ぎを起こして、すみません」

「なんなんだい、あんた!」

 顔を真っ赤にしているオバサンを無視して、空だったカゴを元の場所に戻してスーパーを出た。

 苛立ちは収まらなかった。非常識なのはあのオバサンなのに。なにが、謝りなさい、だよ、ちくしょう。

 苛立ちが過ぎて、涙が滲んできた頃にアパートに着いた。部屋に飛び込んで、クッションの上に頭を伏せる。

 最近、些細なことでイライラする。その苛立ちが、押さえられないことが増えてきた。楽しいとか、そういう感情がほとんどなくて、負の感情ばかりが頭と心を満たす。いや、体中を。

 どうしようもない負の感情を持て余してそのまま倒れていると、廊下で誰かが話している声がしてきた。なんとなく気になって、ドア付近へと行く。

 立ち話をしている。途切れ途切れに会話が聞こえてきた。どうやら、隣の隣の人が支払いを終えたらしかった。そうっとドアを開ける。ちょうど、挨拶をし終えたところだった。見送っていた、隣の人と目が合う。

「……あの人、逝くんだ」

「ああ」

 それだけの会話で、ドアを閉めた。部屋の床に転がる。いいな、あの人。逝けるんだ。私はまだまだ、逝けないのに。

 最近は残額を確認するのもイヤだった。享年が二十四の私は、そこまでしか年齢を選べない。短い期間を繰り返して……もう、何度目だっただろうか。実際に経た年数と外見年齢の差に、折り合いをつけるのが難しくなってきたのは、いつだったろう。思い出せない。

「もう嫌だ……」

 負の感情を抑えきれないのも、逝く人を羨ましいと思ってしまうような、薄汚い感情を持つのも。


「喫茶店、行ってみない?」

 “お迎えの人”がそう言って小首を傾げたのは、幾度目かのペナルティがかせられたときだった。

「行かない」

 のろのろと次の戸籍を受け取って、新しいプロフィールを頭に叩き込む。最近、たまに間違うようになってきた。何度も繰り返しているから、自分が何者かも分からなくなってきた。

 親しい人も作れない。未練も、この世にない。なのに、まだまだ支払いは残っていた。どうしてかっていうと、キャリアを詰めないから。享年が二十四歳。童顔の私は、三十手前で違和感が出てしまって、戸籍を変えないといけない。いつまで経っても、お給料もそこでストップ。キャリアは私の中に積み重なっていくのに、それは何の役にも立たない。物価は上がって給料は下がった。清算が済むのは、まだまだ先だ。そんな現実に、もう、うんざりしていた。

「そんなこと言わずにさー」

「……………」

 容赦なく毎月現れてはお金を持って行く“お迎えの人”を睨む。分かってる。自分の人生に責任を取っているだけだ。自分がやったことだ。でも、コイツが憎くて仕方ない。

 喫茶店、喫茶店、って、どいつもこいつも。隣の男も、何度も何度も誘ってくる。断っても断っても。もうなんにも興味が持てなかったから、フルシカトだった。

「ま、いっか。じゃ、来月ネッ」

 バイバイ、と手を振って去っていった“お迎えの人”は当たり前だけど、いつまで経っても外見が変わらない。いっつもヘラヘラして。年とらない自分に、なにか思ったりしないのかな。ムカつく。

「ちくしょうっ……」

 どうしようもなく凶暴な感情が、一気に膨れ上がってきた。クッションを二つ、両手でつかんで壁に向かってメチャクチャにぶち当てる。

「もう嫌だ、もう嫌だ、もうイヤダアアアアアアアアアッ!!」

 うおおおおお、と出したこともないような叫び声が、自分の喉から出始めた。抑えようとしても抑えきれなかった。頭に血が昇ってきたのが分かった。体中が沸騰してるみたいで、その衝動を抑えきれなくて、とにかく、ガムシャラにクッションを振り回した。全力で。

 ……ポーン、ピーンポーン……。

 いきなりドアホンの音が耳に飛び込んできた。いつから鳴っていたのか、連続で鳴っている。

 激情がふいに遠のく。眩暈を起こして、目の前が真っ暗になった。もしかしてもしかしなくても、私、今、ヤバかった。あのままだったらどうなっていたんだろう。この体は魂を実体化した物で。その体がこんな風になるなんて。

 恐ろしさと眩暈でガタガタ震えながら床を這っていって、壁にしがみつきながらドアホンに応える。

「……はい」

「よお。いいとこ知ってんだ。コーヒー飲みに行かねえか」

 隣のタバコ男だった。いや、違う。もう吸ってないっぽいから、タバコ男ではない。もしかしてもしかしなくても、音が響いていたんだろう。壁が薄いわけじゃないけど、あれだけ全力で叫びながら、暴れてたんだし。

 なんでアンタと、と言いかけて、騒音をだしてしまった申し訳なさが立った。“お迎えの人”の顔もよぎる。そういえば今日は、なにも食べていない。

「……そこ、軽食ある」

「あるよ。美味いんだ、これが」

「ちょっと待ってて」

「はいよ。準備できたら、呼んでくれ。部屋にいるわ」

「分かった」

 準備なんてものはなかったけれど、乱れ切った髪の毛を整えて、スマホと財布を取り出した。息が整うのを待っていたら、一時間近く経ってしまった。


 コーヒーが美味いけど、何でも美味いよ、と隣の男……井頭さんが連れて行ってくれた喫茶店は、静かな店だった。日曜日の夕方で、最初は何人かいたお客さんも、晩ご飯の時間近くになるといなくなった。

 二人でカウンターに座ってメニューを眺める。喫茶店。いつぶりだろう。支払いに必死で、いつの間にか、節約節約って、そればっかりだった。それに、親しい人もいないし。だって、仲良くなっても、私は一緒に年をとっていけない。同じ年頃の悩みを抱けない。喜びも、悲しみも。切なくて虚しくて、プライベートで誰かと付き合うことはなくなっていた。

「ホットケーキとクリームソーダ」

「俺はブレンドお願いします」

「はい」

 静かな佇まいなのは店だけではなく、店主もだった。なんていうんだろう。植物みたいな感じの人だな、って思った。

 沈黙が続いた。井頭さんも話さなかったし、私はまださっきの衝動の余波が残っていて、世間話ができる状態じゃなかった。

「悪かったな、付き合わせて」

「ううん」

「はい、お待たせしました」

 目の前にクリームソーダとホットケーキが運ばれてきた。わあ、としわがれた声が口から漏れた。

「いただきます」

「どうぞ~」

 自分が作ったわけでもないのに、隣で井頭さんが言った。ブレンドを手にして香りを嗅いでいる。

 シンプルな二段重ねのホットケーキ。アツアツのその上にバターがのっていて、トロリととろけ始めている。メープルシロップは小さな白い陶器に別添え。クリームソーダは細長いグラスに入れられている。足のとこが、キュッとなってるのがカワイイ。グリーンの炭酸の上にはバニラアイスがのっていて、真っ赤なさくらんぼが添えられている。

 アツアツのホットケーキも魅力的だけれど、クリームソーダが先だ。グラスを引き寄せて、ストローでジュースを一口飲む。甘くてシュワッとした炭酸が喉を通る。長い柄のスプーンを持って、氷とバニラアイスが接触して、ちょっとシャーベット状になっているところをすくって食べる。

「美味しい」

 口から自然と言葉がこぼれた。半分くらいクリームソーダを食べて、次はホットケーキだ。ナイフとフォークで、ほとんど溶けている中央のバターを中心に切り分ける。メープルシロップをかけて、たっぷりとバターとシロップをすった断面を眺めて頬張る。

 バターの油っけと塩っけ、シロップの甘みと、生地のフンワリした食感がたまらない。なんて美味しいんだろう。

 夢中になって食べていたら、クリームソーダの思い出が頭をよぎった。実はクリームソーダは、私にとって因縁の食べ物だった。まだ幼稚園くらいのときかなあ。母親に、なんだか薄暗い店に連れていかれたことがあった。昼間だった。今思えば、あそこは不倫相手がやっていたバーだったのだ。よく分かっていない私は、やたら足の長い丸い椅子に座らされて、ぼんやりしていた。不倫相手がクリームソーダを出してくれた。初めて見るクリームソーダは絵本の中で見たものとソックリで、嬉しくなって、スプーンを手に取った。アイスをすくおうと思ったら上手くすくえなくって、四苦八苦してたら、ソーダが溢れてきてしまった。

 泣きたい気分で、どうしよう、と思ったら、母親が厳しい顔で責めたててきた。

「なにしてるの!!恥ずかしい!!」

 その言葉があんまりにも厳しくて、下を向いてしまった。泣くと更に怒られるので、浮かんできた涙がこぼれないように必死になっていたら、不倫相手がまあまあと母親をなだめてくれて、テーブルの上を拭いてくれた。

 それ以来だ。私にとってクリームソーダは、甘くて美味しい食べ物じゃなくって、苦い食べ物だったのだ。ずっと。

「ごちそうさまでした」

 今回は、上手に食べられた。こんなに美味しいなら、もっと早く食べてみればよかった。意地を張っていないで。

 井頭さんはコーヒーが美味しいって言ってたな。食後にコーヒー頼もうかな。

 そう思ったとき、ちょうどお客さんが入ってきた。

「いらっしゃい」

「ミドリさん、とうとう連れてきたよ!」

「こんにちは」

 元気な声に連れられて、ちょっと恥ずかしそうな声が聞こえた。その声が、聞き覚えのある声で。

 え。

 声を発した相手を見とめた瞬間、私は立ち上がって、一目散に喫茶店を走り出た。

 モモカだった。


~ 南良モモカ ~


「丸野君、ごめん!!待ってて!」

 目の前を走り去った影を追いかけつつ、短く伝える。はあい、というのんびりした返事が薄っすら聞こえた。

 走り去った背中には、あっという間に追いついた。追い越してから、振り向く。私が正面に立ったので、彼女も足を止めた。息が切れすぎている。足を止めたんじゃなくて、もう走れなかったのかも。立ち止まった後も、彼女はフラフラと足取りがあやしい。なんて声をかけよう。反射的に追いかけてきちゃったけど。

 彼女がどうして、店を走り出て行ったのかは分からなかった。私が来る前に、なにかあったのかもしれない。ただ、いきなり走り去ったように見えたのだ。一緒にいた男性も、驚いた顔をしていたし。

 私が追いかける義理はない。関係も。でも、追わずにはいられなかった。その行動が、第三者から見て、いかに奇異であっても。だって

 似てる。リノに。

 故人である友人が、まるで当時の姿そのままで私の目の前に現れたようだった。そう。私が酷いことを言ってしまった、あの時の。もう、十数年以上経つというのに。

「初めまして」

 息を切らしたままフラフラしている彼女にかける言葉は、それしか見当たらなかった。名も知らぬ彼女は、私の声にビクリと大きく肩をふるわせた。

「ごめんね。ビックリさせちゃった?」

「あ、いえ」

「追いかけちゃって、ごめんね。友だちに似てたものだから」

 そう言うと、彼女はまた、ビクリとした。何かに怯えているような顔で私を見る。

「ね、まだ食事中だったんでしょう?一緒に戻らない?」

「あ、え、その……」

 私の言葉に、ものすごく動揺した感じで、キョロキョロと視線をさまよわせ、忙しなく両手をすり合わせる。矢継ぎ早に初対面の相手に変なことを言った自覚はある。うながすことはせずに、黙って彼女の選択を待った。

 見知らぬ他人が追いかけてきて、一緒に店に戻ろうなんて言うのは怖いかもしれないとも思ったけれど、彼女を放っておいたらきっと後悔する。ううん。違う。私が、彼女と話したかった。すごく。だから、恥ずかしいとか、変じゃないかっていう気持ちは無視した。そんなものは、後で感じればいいことだ。だって、今を逃したら、彼女には二度と会えないかもしれない。

「あ、はい」

 ようやく頷いた彼女と一緒に、「オールド」という名の喫茶店へと戻る。並んで歩きつつ、横目で彼女を見る。似てる。ソックリ、という言葉を超えて。本人なんじゃないかと思うくらい。

 でも、そんなわけない。だって、リノのお葬式に、私、出ているんだから。

 「オールド」へ戻ると、丸野君はハムチーズのホットサンドにかぶりつこうとしていた。コーヒーはブレンドだろう。それが定番だと言っていた。

 彼の、こういうところが好ましい。私が気にしないように、いつも通りの楽しみ方をしていたのだろう。

「ごめんなさい、丸野君」

「オッケーですよ!」

 満面の笑みで言う、その彼の言葉は嘘ではない。裏もなければ表もない。彼はそういう人なのだ。彼とお付き合いをすることになって、数年経つ。この喫茶店には何度も誘われたけど、彼が一人で楽しんでいる場所にお邪魔するのは、なんだか気が引けてしまって、断っていた。

 彼にとっては念願の、私にとっては初めての「オールド」だ。

「ごめん。丸野君。ちょっと、彼女と話したいんだけど、いいかな」

「いいですよ~。僕、本、読んでます」

「トリック、分かったの?」

「まだです!」

 彼が手元に置いているミステリー小説は、なんと、通い始めた当時から持って来ているのだそうだ。まだトリックの途中までしか読んでないんだって。

 笑顔で頷いてくれた彼に、後で食事でも、と心の中で詫びつつ、リノそっくりの彼女を見る。

「勝手に決めてしまって、ごめんなさい。少しだけ、お話してもいい?」

「…………」

 やっぱり怖いよね、いきなり知らない人に追いかけられて、そんなこと言われたら。

「知り合い?」

「いいえ。初対面です」

 リノそっくりの彼女と一緒にいた男性が、落ち着いた声色で話しかけてきた。ふうん、とカウンターに肘をついた彼は、「いいんじゃん、ちょっと話したら」、と気軽な口調で彼女に言った。

「……アンタに言われたくない」

「あっそ」

 ちょっとビックリした。彼女はやっぱり、リノではないのだ。リノだったらあり得ない口調とキツイ言葉だった。やっぱり、という気持ちが、心の中で複雑な模様を描く。本人であって欲しかったのだ。もしくは、以前、私を救ってくれた彼女であって欲しかったんだ、私。年齢的に、あり得ないって分かってても。

 エゴだな、と自分にガッカリする。私はやっぱり、エゴが強い人間なんだ。

 キツイ言葉を返された男性は、全然平気なようだった。どこ吹く風で追加のコーヒーを頼んでいる。

「テーブル席、どう?」

「はい……」

「すみません、いいですか?」

「はい、どうぞ」

 返事の後に何かを言おうとしたらしい彼女が言葉を飲み込んだ。テーブル席に座ると、店主がメニューを持って来てくれた。

「私はトラジャで。あなたは?」

「ブレンド」

「はい」

 カウンターの男性にチラリと視線をやってから、小さな声で注文する。ブレンド、人気あるんだな。

 コポコポというサイフォンの音が微かに聞こえる。

「私、南良モモカといいます。突然、ごめんなさい」

「あ、いえ。あ、私、…………岡田ノリといいます」

 名前も似ている。たまたまかもしれないのに、リノとの共通点を探してしまう自分を責めるのは、後回しにしようと思った。エゴなのは分かっている。けれども私、彼女を放っておけない。だって彼女、顔色も悪いし、なんだか調子もよくなさそうだ。表情も硬いし、言葉の歯切れもよくない。

 もし、彼女がなにか困っていたり、行き詰まっているのなら、力になりたい。気味悪いだろうし、迷惑かもしれないけど、断られたっていい。エゴでいい。いいんだ。

 私、リノに似ている彼女を、ほっておきたくない。

「お待たせ」

 そっと置かれた二客のコーヒーカップには、クッキーが添えてあった。手を伸ばしてカップを持ち、一口飲む。ぶわ、と香りが広がる。美味しい。クッキーも食べてみる。このクッキーは、たまにサービスで出てくるものなのだと丸野君に聞いていた。美味しいけど、メニューにはないから頼めないんですよって。

 サクリ、とクッキーが口の中でほどける。バターの香り。コーヒーと合う。

 気を落ち着かせるためにコーヒーとクッキーを口にしたけれど、想像以上に効果があった。強張っていた体から力が抜けたのが分かった。

 ああ。気付いてなかった。緊張してたんだ、私。だよねえ。

 よし。

 気合いを入れて、口元に力を入れて笑みを作る。岡田さんは下を向いたままだ。

「コーヒーもクッキーも美味しいよ」

 そっと声をかけると、コーヒーとクッキーに手を伸ばした。手が震えているのか、カップがカチャカチャと音を立てている。怖がらせてしまったんだろう。申し訳ないな。どうしようかな。話しをしたい、と言いつつ、何を話すかは決めてなかった。

「あ、美味しい……」

「ね。美味しいね。彼に連れてきてもらって、今日、初めてきたんだ、私。このクッキー、サービスで、メニューにはないんだって。ラッキーだったね」

「私も、初めてなんです」

「そうなの?奇遇だね」

「はい」

 会話の糸口を探そうとしたら、クッキーが糸口になってくれた。ホッとして、やっぱり、きちんと正直に話そう、と決める。わけも分からず、見知らぬ他人と向かい合ってコーヒーを飲むなんて、怖いに決まってるし。話しをしたいと言ったその理由を、きちんと伝えなくては。

「あのね。実はね。岡田さん、私の友だちにそっくりなの」

 ガチャ、とカップが音を立てて、少しだけコーヒーがこぼれた。真っ青になりつつ、ごめんなさい、とコーヒーを拭く彼女を手伝う。

「全然。私もよくやるよ。そそっかしいんだ。気にしないでね」

「は、は……い」

「どうぞ」

 店主が汚れたおしぼりを新しい物に交換してくれた。すぐに背中を向けて去っていく。絶妙の間合いだった。

「それで。私と友だちになって欲しいんだけど、どうかな?」

 目を見開いた彼女は、表現しがたい表情をしていた。驚愕と、恐怖と、ほんの少しの……歓喜?

 けれど、すぐに彼女は表情を改めた。口元をきつく引き結んで、左右に首を振る。その表情はすごく険しくて、苦しそうで、なにか力になれないのかなと思ってしまう。

「ごめんね、急に。怖いよね。じゃあ、次にこの喫茶店で会った時とか、また、お話してもいい?」

 俯いてしまった彼女は返事をしなかった。肩が震えているけれど、さっきまでの行動や表情からは、今、彼女がどう感じているのかは、推し量れなかった。

「いいんじゃねえの、友だちが難しいなら、知り合いくらいになったってよ」

 クラシックが流れていただけの店内は、会話が聞こえやすかったらしい。ちょうど、私たち以外のお客さんもいなかった。

 さっきの男の人が、カウンターからこちらをしっかり見ていた。

「人の話、きき耳立てないでくれる」

「聞こえたんですー」

「だからって、アンタが口挟むことじゃないんだけど」

「そうかあ?」

 ニヤリと笑ったその顔を、フン、と鼻息を鳴らして睨んだ岡田さんは、憎まれ口の割には、声に力が入っていた。怒りを滲ませてはいるけれども、安堵したようにも感じられた。

「いいから、黙っててよ」

「はいは~い。丸くん、どうよ、トリック」

「あ、クッキー美味しくて読んでなかったです」

「ははっ。丸くん、本気だからなあ」

「もっと食べたいなあ、って」

「ダメダメ。このクッキーはサービスだからいいんだよ」

「確かに、特別感ありますね。それがまた、より一層美味しく感じるんですよね!」

「だってさ、ミドリさん」

「ありがとう」

 カウンターはカウンターで話し始めた。岡田さんが強張っていた肩の力を抜いて、コーヒーカップを持ち上げた。すい、と上品に口に運んだ仕草が、さっきは気付かなかったけれども、やっぱりリノにそっくりで、胸が苦しくなった。

 岡田さんは敏感に私のその表情に反応した。訝し気に眉を顰める。

「どうしたんですか?」

「……友だちにそっくりで。ごめんね。大事な友だちなの」

「……………そうですか」

「うん。それに、私がツラかったときに声をかけてくれた人がいてね。名前は知らないんだけど。その彼女にもそっくりなの、岡田さん」

 複雑そうな表情でおしぼりで手を拭く岡田さんは、居心地が悪そうだった。

「こんなこと聞かせて申し訳ないんだけど……。友だちにはごめんねを、助けてくれた人にはありがとうを、私、言いそびれたの」

「そうですか………」

 手がおしぼりを握りしめる。ぎゅっと握られて苦しそうなおしぼりを見つめながら、続ける。

「だからね、岡田さんと友だちになりたいっていうのは、言いそびれたくないなって思って、言ったの。困らせて、ごめんなさい」

 頭を下げる。ほんとうに、自分のエゴで彼女の時間をつぶしてしまった。家に帰ったら、反省しなければ。見知らぬ年上の女の独り語りなんて、気味が悪いだろう。丸野君だって、せっかく一緒に来たのに、これでは台無しだ。

 けど、後悔はしない。彼女のことを気になりながら通り過ぎて、後悔を抱えて生きたくはなかった。

「あ、頭、上げてください。私、……友だち、いなくて。それで、戸惑っちゃって。迷惑かけるかもしれないですけど。それでも、いいですか?」

「いいの?友だちになってくれるの?」

「はい……。私でよければ」

 思い切ったような表情になった彼女は、なんだか憑き物が落ちたみたいな顔をしていた。連絡先を、と言いつつ、スマホ、スマホ、と探して、手ぶらなのに気付いてハッとしている。

「忘れてんだよ」

「あ」

「俺、帰るわ。じゃあな」

「……ありがとう」

 カウンターの男性が、岡田さんにスマホと財布を渡した。岡田さんが、ものすごく小さな声でお礼を言い、それにニヤリと笑って手を振って、出て行った。

「あの、私も帰ります」

「また今度、ゆっくりお茶しない?」

「はい」

 連絡先を交換し、お騒がせしました、と会計をして店を出て行った彼女を見送って、丸野君の隣に座る。

「お待たせしました。ごめん!」

「お待ちしてました!」

 両手を合わせると、彼はパッと明るい笑顔で許してくれた。


~ 井頭 イツキ ~


 細くたなびきつつ、空へと昇っていくその煙を見上げ続けた。秋晴れの空は、真っ白い雲が小さくあちこちに散らばっていて、高かった。

 瞬きすることさえも惜しくて、その煙が薄っすらと空ににじんで消えてしまっても、そこで空を見つめ続けた。

「早かったよね」

 “お迎えさん”が音もなく現れた。空を見上げたまま、黙って頷いた。そこにいんのか、とは聞かなかった。別れはもう、済んでいた。

「ありがとうよ。わざわざこうして、見送れる場所、手配してくれてよ」

「ま、サービスだよね。イツキは番人になるんだし、最期まで、彼女は報酬を受け取るどころか聞きもしなかったしね」

「……ミドリさんらしいよな」

「素敵な人だったね」

「おやっさん」

「お悔み申し上げます」

「いえ」

 ツルリとした頭と人の好さそうな柔和な顔がトレードマークのおやっさんは、あの吊り橋にいた親爺だ。顔を上に向けたままではさすがに失礼かと、おやっさんに顔を向ける。おやっさんの隣には、女将さんも静かに佇んでいた。目が合うと、す、と頭を下げた。

「来てくれて、ありがとうございます」

「うん」

 おやっさんの居酒屋にミドリさんと行ったこともあったし、おやっさんが女将さんと一緒にオールドへ来てくれたこともあった。疑似的なパートナー同士の交流とでもいったらいいのか、友人夫婦のような付き合い方をしてくれて、俺はなんだか、変な言い方だけど、生きててよかったと、そう思ったのだ。幸せとはこういうものか、と。

 だけど、噛み締めた幸せは意外にも短かった。ミドリさんは思ったよりも早く、その時を迎えたのだ。

 こうして最期まで一緒にいられた。後悔はしていない。未練もない。しっかりと、彼女がくれたものを抱えて、番人としてやっていく覚悟はもう、できていた。

 今日の喪主は俺だ。そして、ここにいる、“お迎えさん”とおやっさんと女将さんだけが、見送りだ。それでいいと、彼女が言ったのだ。

「で、どうすればいいんだ?」

「あれ。いいの。余韻とか」

「ああ」

 ふうん、とまた言う。コイツ、これは口癖なんだろうな。よく聞く気がする。

「希望、あったら聞くけど?一応ね」

「……できることなら、オールド、継ぎたいんだ、あの場所で。限界がくるまで。できるか」

「番人としてならね。じゃあ、手配してくる」

 まるで最初からそこにいなかったかのように消えた“お迎えさん”は、準備が整い次第、また現れるんだろう。いつ、とは約束しないのがお決まりのような気がした。清算のときは、容赦なく決まってたけどな。

「清算、終わってるのかい?」

「ちょうど、来月なんですよ。終わんの。すごくないっすか?」

 ほう、と感心したように頷きつつ、おやっさんは俺と肩を並べた。また、空を見上げた。高すぎて、俺には全然、手が届かねえな、って思った。


「お待たせ~」

「お前さ、せめて寝てるときは勘弁してくれよ」

「はあ?そんなこと言ってらんないんだけど、番人になったら」

「はいよ」

 番人をやると言ったのは俺だ。それ以上は四の五の言わず起き上がった。深夜二時。丑三つ時という言葉の方が似合うか、コイツの場合。

「まず一つめ。番人としての名前ね。“イト”だよ」

「番人の名前なんてあんだ?」

「そうだね。そして、俺の名前は“ワカナ”」

「いいのかよ、名前教えて」

「うん。だって、イトは俺の番人の一人だからね。必要な時は呼んでもらわないといけないし」

 へえ。ああ確かに、コイツは支払いのときは容赦なく現れるけど、それ以外は現れなかった。下手くそなギターの男を思い出す。そうか。それは、俺がコイツをほんとうに手こずらせることをしなかったからだ。

「二つ目。使い魔と一緒に過ごしてもらう。これは、監視の意味もある。イトがおかしなことをしたら、使い魔から俺に必ず伝わるからね」

「ああ」

「ウサギでいい?」

「いいけど」

「イツキの名前から連想しただけだけど」

「なんでもいい」

 名前から連想、か。コイツ意外にロマンチストなんかもしれんな。結構、長い付き合いのはずだけど、俺はそこで初めて、コイツに親近感を持った。煮ても焼いても食えなさそうで、つかみどころがなさそうな感じが薄れた。

「三つ目。お役目は色々あるけど、最初から全部ってことはない。まずは、死者に会えるお香を店に置いてもらう。必要な人がいたら、渡す。詳細はこれね」

 ぴらり、と紙を渡される。なんか色々書いてあんな。

「後で読むわ」

「そうして。時間かかるしね」

「四つ目。今までのように肉体は年を取らない。ただ、今までとは違って、対面した相手が生者か元生者か分かるようになる。俺たちみたな“お迎さん”も。それから、夜目も効くようになる」

「へえ」

「禁止事項は、まあ特にはないかな。イトは分かってるだろ?なんとなく」

「そうでもない。俺がおかしな行動したら、どうすんだよ」

「ま、鎌の出番かなあ」

 コイツ、結構、鎌のこと気軽な口調で言うけど、口調と違うんだよ、表情と声色が。恐ろしいっつーの。

「鎌で切られたらどうなるんだよ?」

「そのうち、イヤでも目にするよ。ま、いくつかパターン、あるけど」

 聞くな、ってことだと判断して引き下がる。パターンあんのか。斬る相手によっても、どうなるか変わるってことか?

「細かいことは、おやっさんに聞いてもいいかよ」

「あっ、いい案!!いい、いい!何でも聞いていいからっ!」

「めんどうくさがりやがって」

「うん。メッチャめんどい」

「……お前さ。番人って必要なんだろ?」

「必要なのと、めんどうくさいのって、別の話でしょっ」

「いいけどな。俺は鎌はもらえねえの?」

「これが欲しかったら、俺みたいにならないとねえ」

「番人とお前って、どう違うんだ?」

「番人は、人っていう文字が入ってるでしょ。人と俺みたいなのとの間……って感じかなあ。ま、どっちかっていうと、人寄り、かな。人じゃなくなるけどね!」

「お前は?」

「俺?俺は化け物ってヤツだよ」

 口元だけで笑ったその笑顔は、とんでもなく暗かった。目が、俺を見てない。遠く深く、そうして、ゾクリとするほど低い声だった。

 言葉が出ずにいると、パッと表情を変えた。

「ま、なんかあったら、使い魔通して声かけて!じゃあ、またねん」

「待て待て!!俺はオールド再開していいのか?!」

「あ、はいはい、この書類持って、この名刺のとこ行って」

 デカい封筒と名刺を渡される。コイツどうして、こういうとこアナログなんだよ。電子は使わねえのかよ。いや待て。スマホ持ってる“お迎えさん”。それはそれで、なんかイヤだな。アナログのよさってのも、あるっちゃあるな。

 名刺は二枚。弁護士事務所と税理士事務所、各担当の名前があった。

「誰だ、コイツら」

「見たら分かるでしょ。あの店の諸手続き、してくれるから」

「いや、なんでお前が持ってんだよ、こんなもん」

「ミドリさんが俺に託したんだよ。もし、イトが店を継ぎたいって言ったら渡してくれって」

 ぐ、となにかがこみ上げてきた。彼女が直接俺に言わなかった意味や、優しさが、心に体に、力を与えてくれるようだった。

「報酬、受け取ってくんなかったからね。サービス、サービス!じゃ、またねん」

 そう言って宙に消えたワカナがいた場所に、ウサギがちょこんと座っていた。真っ白な、ライオンラビット。

「……よろしくな」

 絞り出した声は、涙声だった。ひょこり、と耳を動かしたウサギが俺を真っ直ぐに見ていた。


~ 草岡 ユミ ~


 ヤバ。あの店、閉店しちゃったんだあ~。アレッて、いつだったっけえ?結構、前だったよね。ま、アタシに関係ないし、いっかあ。

「ねえ、ちょっと。もっと早くやってくんない?この後、予定あんだけど」

「す、すみません。でも、ちゃんと乾いてからじゃないと……」

「このグズ!アタシが早くしろって言ってんだから、早くしろよ。役に立たねえなあ!」

「すみません」

 大声で怒鳴りつけると、スタッフの若い女は縮こまった。店長が慌ててとんできた。

「いかがいたしました?」

「この愚図がモタモタしてんだよ。アンタ、ちゃんと指導してんの?こんな使えねえヤツ、アタシにつけんな!」

 店長がアタシの手元を見て、困った顔をする。

「お客様。半端に乾かしますと、あとあとが」

 バン!と机を叩く。そのまま、足で蹴飛ばす。

「帰る。二度とこないから!!」

「あ、あの」

「途中なんだから、料金なんて払わないから。トーゼンでしょ?」

 言い捨てて、店を出る。誰だっけ、あそこのネイルの店いいって言ってたヤツ。嘘ばっかじゃん。駅に向かって歩きながら、ネイルの店の口コミを書き込む。最悪、二度と行かない、気が利かないし、モタモタしてるし、ネイルも下手。一番低い評価を付ける。

 よし。ま、ネイルはほぼ完成してたし、タダになってラッキーだったけどお。

 駅に向かって走る。急がないと!今日はこれから、彼氏とお泊まりデートだから。旦那には泊まりの慰労会って言ってあるし、子どもたちは実家に預けたから、準備万端、って感じ。

 今日は、何買ってもらおっかなあ~。食事は何にしよう。

 旦那は大企業の営業で高収入だけど、それ以上に高収入の税理士事務所社長の彼氏できちゃうなんて、さっすがアタシ。ま、かわいくってスタイルもよくて、そんな受付嬢に誘われたら、断る男なんていないもんね~。三十過ぎたけど、アタシの美貌は全然、衰えないし。スタイルも、若い頃から変わんない。子ども産んでも、頑張って体型は戻した。特に、足がキレイねって言われるから、よくホットパンツ履いてる。ギリギリのヤツ。羨ましそうに見られて、さいっこうな気分。

 彼氏も家庭持ちだから、割り切ってるし。生活関係ないから、所帯臭くもなんないし。彼氏と恋愛して、旦那とは家庭をちゃんと築いて、なーんの問題もないし。お互いの実家が近いから、子どもたちも、すぐに預けられるし。孫の子守りは、両家とも、喜んでやってくれるし。親孝行もしちゃって、アタシ、偉すぎるわ。旦那が高給取りだから、お金にも困らない。ぜーんぜん。自分のお給料なんて、ぜーんぶおこづかいだし!

 あ~、人生楽勝、楽勝~。

 たまーに職場で嫌な奴いたら、辞めさせちゃえばいいから、仕事も快適!ほんと、簡単だわ。あの人、ちょっと怖くて、から、メンタルやられてきちゃって、って悩んでるフリして、上司に相談して。でも、私が悪いんです、きっと、って泣いちゃえばこっちのもん。バカだよねえ。コロッと騙されるんだから。めんどくさい仕事も、見て見ぬフリでパス!!ややこしいことになったら、ごめんなさい~って泣けば、いつもそれで済む。

 どいつもこいつもバカばっかりだよねえ。私、メンタル弱いんです、体も弱くて……でも、会社のために、あなたの為に、精一杯頑張ります、って涙を見せるだけで、言う事聞いてくれちゃうんだから。

 もちろん、そういう人を狙ってんの。引っかかんないヤツは、テキトーに放置。ソイツより上の人を丸め込んじゃえば、会社なんて特に、簡単だからね。雑魚にどう思われようが、関係ないし!羨ましいだけじゃん、アタシのことが。うらやめ、うらやめ、バカども。アタシの為に、地べた這って働け。

 マジで楽勝~。人生、楽しくって仕方ない。

「あっ!!センセっ!!待ったあ?」

「いや。今来たところだ。今日もかわいいな」

「やだあ。もう。嬉しいっ」

「行こうか」

「は~い」

「この前行った小料理屋が美味しくてさ。どう?」

「いいよお~。でも、バーにも行きたいなっ。あの、イケメンなバーテンダーがいるとこ」

「なんだ、ずいぶんと、お気に入りだな」

「わあ。ね、ヤキモチ?センセったら、かーわいい」

「かわいいのはユミだろう。心配だな」

「なにがあ?」

「心変わりされたらさ」

「しないしなーい!!センセが一番!」

 腕を組んで歩き出す。そ。今はセンセが一番。もっと若くてお金持ちでイケメンが現れたら、そっちにしちゃうけどねっ。

 途中で、高級ブランドの新作バッグとポーチを買ってもらう。店員がみんなかしずくように接してくれて、女王様になった気分。っていうか、どの店だって、店員はこうでなくっちゃ。こっちがお金使ってんだからさ。お礼も丁寧な言葉も必要なし!!このアタシが店に行ってあげてるんだから。

「ここだよ」

 センセが連れて行ってくれたのは、落ち着いた佇まいの、小料理屋のような居酒屋だった。センセ、日本酒好きだからなあ。アタシ?アタシは酒ならなんでも飲むよ。お酒、だーあいすき!!ちょっと飲み過ぎちゃうけど、そこがまたカワイイって言われちゃう。

「いらっしゃいませ」

「二人」

「カウンターでいいですか」

「いい?」

「いいよん」

 カウンターなら横並びで座れるし。しかも、他のお客さんもアタシのこと見られるじゃん?サービスサービス。

「とりあえず、ビール?」

「うん」

「はい」

 座りつつ注文すると、カウンターの中にいる、頭が眩しいオヤジが返事をした。……あれ?このオヤジ、見たことあるような?ま、気のせいかな~。だって、頭眩しいオヤジなんて、どこにだっているし。

「なににする?」

「なんでもいいよー。センセの好きな物で」

 そうかそうか、と頬を緩めるセンセ。センセに合わせてると思ってるとこが、カワイイ。ただ単に、食べないだけなんだけど。こういうとこの料理って、味気なくって美味しくないから、食べない。興味もない。そんなもん食べるくらいなら、お酒飲みたい。焼き肉とかカップラーメンとか、生クリームたっぷりのドリンクとかが好き。あっ、でも、高級フレンチとかは別。一口ずつ食べて残したっていいし、ああいう見た目がキレイなのって、アタシが食べてるとサマになるから、食べてやってる。和食って、なんかダサくてねえ。

「かんぱーい」

 肩を寄せ合って乾杯する。腕を組んだままなので、左手でグラスを持つ。センセは右手。オツマミがきたから、腕を解いて、よりかかりながら、「はい、あーん」ってしてあげる。デレデレしつつ食べるのが、またカワイイ~。アタシが食べてないのもバレないし。

 今日は他の客があんまりいなくって、周りに見せつけられないのが、ざんねーん。

 日本酒を二人で五合程度飲んだところで、センセが立ち上がった。

「そろそろ行こうか」

「はーい」

 一軒目だし、こんなもんだよねっ、と立ち上がって、先に店を出る。平日ど真ん中の水曜日だから、疲れた顔の会社員がそこら中を歩いてる。なーんであんな顔になるまで働くんだろ。バッカみたい。もっと手抜きしてやればいいのに。

 そんなこと思いつつスマホを手にして、思い出した。あ。この居酒屋のオヤジ、さっきネットで見た、閉店した蕎麦屋のオヤジに似てるんだ。

 何年も前、推しのライブの遠征で行った、ド田舎のコンサートホール。そのコンサートホールから電車でもっと山奥に行ったとこに、亡くなった人に会えるお香があるっていう噂がある蕎麦屋があったんだよね。暇つぶしにネット眺めてたら、そんな記事みつけちゃって。面白半分に動画回しながら突撃して、それをアップしたんだよね。そしたらそこの蕎麦屋に、検証系の動画関係の人が殺到しちゃって。オバサンも無愛想だし、そんな変なお香なんてなかったんだろうね。炎上しちゃってさあ。結局、潰れちゃったんだって!ウケる。

 そういえば、店にいたオバサンも似てるな。んー。でも年齢違うだろうし、そんなわけないっか。ま、アタシ若いから、オジサンもオバサンも、年齢分かんないけど。

「お待たせ。行こうか」

「ねえねえ、まだバーに行くには早いから、スペインバルいこっ。ワイン飲みたーい」

「おお、行くか!」

「やったあ!」

 いつものようにセンセに肩を抱かれて、二人ではしゃぎながら夜の町を騒ぎまくった。


「あれ。ここどこ」

 目が覚めたら、なんか知らない場所だった。しまった。寝過ごしたのかな。昨日の夜はセンセとデートだったけど、今日は仕事がある。まあ、遅刻したって平気だけど。体調悪くて起き上がれなくって、って言えばいいんだから。

 何時かな。スマホ、スマホ。ないな。また落としちゃったかなあ。探すのめんどくさいな。ん?……あれ。アタシ、なんか。

 ガバっと体を起こす。ここ、ベッドじゃないどころか、外じゃない?!

 一気にハッキリ目が覚めて、辺りを見回す。なんか……どっかの……公園?!

「あ、やっと気が付いたね。もー、迷惑だねえ、君」

「ああ?!アンタ誰だよ?誰に向かって口きいてんだよ?」

「君こそ、言葉遣いに気を付けた方がいいよ~」

「関係ねーだろ」

 ひょい、と正面に屈みこんできた、Tシャツジーンズの男は、軽薄な口調で気安く話しかけてきた。チッ、と舌打ちする。顔を逸らすと、遠目に人が歩いてくのが見えた。

「助けてくださあああい!人さらいなんですう~!!警察、呼んでくださああい」

 大声で叫んだけど、ぜんっぜん、こっち見ない。え。聞こえてないの?メッチャ大声出したのに。

 目の前の男は、おもしろそうに膝に肘をついて、頬杖をついてアタシを見物してる。

「見てんじゃねえよ。この、誘拐犯が」

「やれやれ。俺も関わりたくないんだけどねえ。仕事だから仕方ないよね」

「仕事お?」

「はいはい、草岡ユミ、三十二歳、間違いないね?」

「個人情報なんだけど」

 フン、とソッポを向いて言ったら、腕をぐっと掴まれて、無理やり立ち上がらされた。

「いたいいたい、いたーああい!!誰か助けてえええ!!」

「金切り声、やめてね。ええと。現状把握してないから、言うね。アナタ、亡くなりました」

「はあ?いきなり、何?アンタ、どうかしてんじゃないの?」

「残念ながら」

「病院行けば。アタシ、仕事行くから」

「はいはい。それで、ええと……。あー……アナタ、あれだね。結構、大変だね、清算するの」

「はあ?」

「アナタには、今から、人生の清算をしてもらいます。いろいろしてきちゃったから、相当な高額です。ギリギリだったねえ。これ以上だと、有無を言わせずだったからっ。ま、選択してくださいねっ」

 ぴらり、と紙を見せられる。紙に書かれていたのは、三択だった。一つの選択肢にだけ、高額な金額が提示されていて、他はなんかよく分かんない。

「バカバカし。アタシ、帰る」

「もう、お葬式も終わってるよ。君、ずいぶん寝てたからね」

「はあ?」

「仕方ない。連れていったげるね。あ、ちなみに、これも追加で加算されるから」

「はあああ?」

 パチン、とソイツが指を鳴らした。一瞬で景色が変わった。

「は」

 見慣れた自宅の一室。白い祭壇のようなものの上に、花とお供えと一緒に並んでいるその遺影は、私だった。

「四十九日はまだだけどね」

「……なんで」

「酒の飲み過ぎて、酔っぱらって転んだんだよ~。魂までなかなか目覚めないなんて、よっぽど変な飲み方、したね?」

 ギクリ、と冷たい汗が背中を流れた気がした。でも、いつも平気だったのに。なんで、今回だけ、こうなっちゃったわけ?

「あ、不倫のデート中だったから、旦那さん、全部知ってるよー」

「だから何?バレたところで、アタシ、こうなんでしょ」

「そうそう」

 遺影を指すと、アハハッ!とソイツは笑った。よくよく見てみると、腰に鎌がぶら下がってる。

「さ、じゃあ、選択してねっ」

 またしても、さっきの紙を出される。

 強制労働はイヤだな。こんな高額なお金払うのも、イヤ。

「来世の自分に全部背負わせるっていうのは?」

「いいけど。君の場合は、今世の記憶持って、更に、とんでもなく重たい、不利な人生になるけど、いーい?」

「いいわけねえだろ」

「もう、ワガママだなあっ」

 あ。いいこと思いついた。コイツをどうにかしちゃえばいいんじゃん?今までも、それで上手くいってたじゃん。

 上目遣いになって顎を引き、小首を傾げて見上げる。控え目な笑顔を使って、目に少しだけ涙を浮かべる。

「ねえ、ごめんなさい。私、気が動転していて。失礼なこと言ってしまって」

 男はおもしろそうに眉を上げた。体をすりよせる。

「お願い。いじわるしないで。こんな支払いとか、いらないよね?」

 体を押し付けようとしたら、す、と後退された。預けようとした体重がそのまま斜めに傾き、転ぶ。

「そういうの、間に合ってまーす」

「ねえ、お願い~。それか、生き返らせて?」

 転んだくらいでめげるか。自分が一番かわいく見える角度で、ちょっと涙をこぼしながら見上げておねだりする。これで、うんって言わなかった男はいない。

「生き返らせるの?生き返りたいの?」

 ほらきた!!やっぱりねえ。あの世もこの世もチョロいわあ。笑っちゃう。

 横座りになって、両手を組んで、顎の下に持って行く。もちろん、上目遣いのままだ。

「お願いっ」

「体ないから、むっりでーす!」

 くそっ。何だコイツ。通じねえのか。万歳して、楽しそうに言ってんじゃねえよ。

「どれもイヤなんだけど」

「そう。なら、四つ目にする?」

 それまで軽薄そうにしていたのに、急に真顔になった。スラリ、と腰の鎌を抜く。草刈鎌くらいの大きさだったそれが、みるみるうちに大きくなった。両腕を伸ばした以上に刃渡りがある。

「これで狩ってあげようか?」

 それまでと全く違った笑みを浮かべて、鎌をすい、と首筋にあててきた。ゴクリ、と喉が鳴る。手を上げずにそのまま、かろうじて目だけを左右に振った。首を少しでも動かしたら、そのままスパリといきそうだったから。

「はい、じゃあ選んで」

「二番目」

「はいはーい」

 あ、いいこと考えた。出してもらえばいいじゃん、今までみたいに。男なんて簡単だし。

 ペタリ、と赤い丸印がついたその紙を受け取る。まだ引かない冷や汗が背中を流れていく。でも、そうだよね。男に貢がせればいいんだわ。今までと変わんないし。

「あ、そのお金、自分で稼いだ金じゃないとダメだから。自力で返済です!とりあえず、準備して迎えに来るまで、テキトーにしてて。じゃね」

「はあ?」

 呼び止める間もなく、ソイツはふいっと姿を消した。

 どういうことよ?どういうことよ?どういうことよ?ふっざけんな!なんっでアタシが、こんな目に合わないといけないんだよ?!

「聞いてないんだけど!!」

 アタシの叫びに応えてくれる人はいなかった。ふざけんな。


~ 潟岡 リノ ~


「モカで」

「はいよ」

「ねえ。その口調でいいわけ」

「いいの、いいの。俺はミドリさんにはなれねえから。しかもお前、知り合いだし」

「お前とか言うな」

「すまんな」

 お待たせ、と置かれたコーヒーカップを手に持つ。ミドリさんが亡くなって、オールドはどうなるんだろうと思っていたら、井頭さんが継いだ。この喫茶店がなくならなくて、ホッとした。私にとって、思い出の店になったから。

 味、変わっちゃうかなって、ちょっと残念だったけど、そんなことなかった。この人、飄々としつつ、実はすごい人なのかもな。

「来月だって?」

「うん。長かったあ」

「頑張ったよな」

「……そうかな」

「おお。頑張った」

 自分の人生の清算をしただけだけど、そう言われるとなんだか誇らしい。私、きちんと、自分で自分の清算をしきったんだ。

 一口、モカを飲む。通ううちに、いろんなコーヒーを試すようになった。飲んだ後の少しの酸味が気に入って、私はモカを定番で頼むようになった。

 モモカと名前も似てるし。

 モモカとは、あれ以来、交流が続いていた。今は、モカさんって呼んでる。頻繁じゃないけど、月イチくらいで連絡を取る。孤独だった生活が、ちょっと変わった。オールドにも一人でくるようにもなった。それもまた、私の孤独を救ってくれた。コーヒーの香りと、ミドリさんの植物みたいな雰囲気は、何を言わなくても私を癒してくれるようだった。井頭さんとは、最初の一回だけ、一緒に来ただけだった。たまたま、店で会うことはあったけど。

「あのさ。あの時、ここに連れてきてくれたでしょ」

「お?……ああ」

「……ありがとう。私、あのことがなかったら、どうなってたか分からなかった。おかげで、なんとか、清算しきることができたよ」

「そうかよ」

「うん」

 照れたように笑った井頭さんがあさっての方向をみたところで、モモカが店へと入ってきた。

「ごめん、遅れちゃって」

「全然。モカさん、忙しいのに無理言って、ごめんなさい」

「いいの、いいの。最近、あんまり会えなかったもんね。どう?元気にしてた?」

 トラジャをお願いします、と井頭さんに言いつつ隣に座る。モモカはトラジャが好きだ。若い頃も、トラジャがある店では、いつも頼んでいた。

「はい。元気です。モカさんは?」

「元気、元気!!ちょっと走るのはサボりがちだけど」

「はい、トラジャ。そういえば丸くん、この前、やっと読み切ってたよ、小説」

「えっ。とうとう?」

「うん。次は何読もうかなって言ってた」

「次は、どれくらいで読むのかな」

「ほんと。私が好きなミステリー、すすめてみようかな。あ、でも、それだと彼の楽しみ奪っちゃうよね。静観しよっ」

「それがいい」

 会話が弾む。楽しい。あの頃の、絶望と孤独をごちゃまぜにして飲み込んだような塊を胸に抱えていた頃とは、全然違った。

「モカさん、今日、ちょっと話があって」

「ん?なになに?」

「私、引越すことになったんです。それで、ちょっともう、会えなくなっちゃうから……」

「え。遠いの?」

「はい。すごく」

「あ、でも、連絡くらいは」

「僻地も僻地で。スマホの電波とか、ないんです」

「……そっか」

「今日で最後になると思います。今まで、ありがとうございました。モカさんのおかげで、すごく楽しかったです」

 ぺこり、と頭を下げると、モモカがそっと肩に触れた。

「ううん。私こそ。ほんとうにありがとう。ノリちゃんのおかげで、私こそ、いい時間を過ごすことができたよ」

 顔を見合わせて、笑う。最後になるのだから、湿っぽいのはイヤだった。モモカはどこか、なにかを察したように思えた。「私」という存在自体に、何かを感じ取っていたんだろう。リノとして、名も知らぬ女の子として、そうして、ノリとして。三回も出会った私に。

 だからこそ、それ以上は何も言わなかった。

 いつものように何でもない会話をして、オールドを出た。さよなら、と店の前で握手をした。

「元気で」

「はい」

 精一杯の笑顔で別れた。カラッとしていた。涙とか、そういう、湿っぽい空気も感情も湧かなかった。

 よかった。ただ、それだけだった。


「はい。お疲れさん。頑張ったねえ!」

 “お迎えさん”にもそう言われ、なんだか複雑な気分になった。コイツにそう言われるとは思わなかった。

 あれ。でもそういえば、コイツも喫茶店に行ってみないかって言ってたな。あれって、オールドのこと、かな。そうしたら、もしかして、コイツ、私のこと心配してたんだろうか。そんな義理、ないはずなのに。

 微かな違和感と符号のマッチに疑問が残るけど、それは聞かなくていいことだと思った。いいじゃん、謎が残ったってさ。悪い事じゃないんだし。

「行こうか」

「あ、ねえ。一個だけ聞いてもいいい?」

「一個ね!!」

 なんだかんだと、優しい気はする、この“お迎えさん”は。他の”お迎えさん“知らないけど。コイツだけってことはないだろう。人は大勢いる。一人でさばき切れるはずがない。

「あのさ、あの清算額、親不孝分も入ってた?」

 親より先に逝く、それは親不孝だという言葉があったはずだった。だから、人生の清算に含まれていたのかと、疑問に思って、なんだかそれだけは、確かめたかった。

「ううん!!アナタの場合は、含まれてないよ!」

「そっか!!」

 素直な笑い声が口から出た。清々しかった。よかった。あの長くてツラい時間の中に、そして、モモカとの再会後の時間に、それが含まれていなくて。

 私の人生は、私の人生だった。

 心が今までにないくらい、晴れやかだった。心おきなく、逝ける。そう思った。

「ありがとう」

「いえいえ。お礼を言われることでも」

 Tシャツジーンズで、腰に鎌をさした“お迎えさん”は、最後までおどけていた。

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