②
~ 喫茶店店主 巨田ミドリ ~
……また来た。あの変な……。
「いらっしゃい」
「あーもー、疲れたあ。ブレンドくださいなっ」
「はい」
カウンターに座ったお客さんの前に水のグラスを置く。彼は、ここ三年くらい、週に一、二度程度、来店する。今日はよほど、疲れているらしい。水を一気に飲みほして、カウンターに肘をついてダラダラし始めた。カラになったグラスに水を注ぎなおし、カウンターに入る。コーヒー豆を丁寧に引き、セットする。カップも忘れずに温める。毎日していることだけれど、一つ一つ、丁寧に、確認しながらコーヒーを淹れるのが好きだ。
このお客さんはいつもブレンドを注文するので、気に入ってくれているのだろう。ブレンドを頼むお客さんは、割と多い気がする。評判がいいのは、嬉しい事だ。
不思議なこのお客さんは、妙に店が暇なときを狙ってくる。彼が来ているときは、そこまで店は混まない。もしくは、誰もいなかったりする。たまたま……ではないっぽい。ここまで偶然は重ならない。明らかに、すいている時を狙って来ている。
まあ、人間じゃないっぽいから。そういうこともできるんだろう。
熱されたフラスコ内のお湯がコポコポと上がっていくのを眺める。毎日、毎日、何度も何度も見ている光景だけれども、見飽きない。そっと攪拌した後、出来上がったコーヒーがすーっと落ちていくのも、好きだ。
「どうぞ」
「はいはーい」
「ごゆっくり」
サービスのバタークッキーを美味しそうに齧った後、コーヒーの香りをゆっくりと嗅いでいる。この店を継いで二十年。それなりに過ごしてきたので、人外の者が常連になっても、そんなこともあるわな、としか感じない。
世の中には不思議なことがある。科学で解明できるのかもしれないけれども、解明しなくたっていいんじゃないかと思うような不思議なこと。なんでも白黒つけるのが一番だとは思わない。曖昧だっていい。だから、このお客さんの正体がなにかなんて、知ろうとも思わない。
どうして人間じゃないと分かったかというと、一度、影がなかったことがあったのだ。雨の日だった。空は真っ暗だったけど、店には照明がある。どの角度から見ても、このお客さんは、その日、影がなかった。
そこから二年が経った。定期的に通っては来るが、なにか悪だくみをしている様子もない。ただただ息抜きしているだけみたいだし、支払いもちゃんとしてくれる。正体なんて、どうでもいいやと思うまでは早かった。
店内に流れているクラシックが静かに時を刻み、運んでくる。大体、ジャズかクラシックを流している。こだわりはない。詳しくもない。その日の気分だ。そして、ただ好きなだけだ。ほんとうはレコードがたくさんある。けれど、プレイヤーが故障してしまって、修理ができないと言われてからは、同じ曲が入っているCDを買った。なんとなく、ネットのサブスクで音楽を流すのはイヤだった。
この店を作り上げたオバはセンスのいい人で、調度品やコーヒーカップ、食器に至るまで、徹底して質が良くて品のいい物を選んでいた。その、オバが作り上げた雰囲気を壊さないように心がけてやってきた。
この喫茶店を、知識もセンスもない姪の私が受け継ぐことになって、申し訳ないくらいと思うくらい、オバのつくりあげたこの店は居心地がよかった。この店で一番、心地よく過ごしているのは、間違いなく私だ。
店は、ちょっとだけ分かりづらい場所にある。商店街の通りから裏通りに入り、更に細道を入った奥にある、蔦が絡まったレンガの建物。四角くてレトロな、電飾の外看板。店の入口の扉は糖度の低いチョコレートみたいな色で、艶がある。外観的には一見さんお断り、にも見える。そんなことはないんだけど。扉を開ければ、光沢のある渋い焦げ茶色のカウンターが目に入る。カウンターの前には、サイフォンがズラリ。フロアからカウンター越しに目をやると、壁に一面の棚があって、コーヒーカップが行儀よく整列している。中には、アンティークもある。お客さんからリクエストがあれば、希望のカップで提供することにしている。店の一番奥にトイレ。トイレの扉はステンドグラスが小さくはめ込まれた木戸だ。片隅にはボンボン時計。照明は暗めだけれど、暗すぎるということはない。カウンターが八席、四人掛けのテーブルが二つに二人掛けが六つ。四人掛けは片方がソファ席だ。入り口付近には小さな二つの窓。客席側にも大きすぎない窓があり、そこから日差しも入る。メニューは、外側が革製。中は和紙。万年筆で手書きしている。
老舗の喫茶店のようで、実際、オバがやっていた期間を入れると、そう呼ばれてもいい程度には営業している。なのだが、老舗、と呼ばれるのは、どこか落ち着かない。だって、この店の今の店主は、私だ。ただのオバサン。一応、白いシャツを着ているけど、下はジーンズ。清潔感には気を付けているが、化粧っ気もあまりない。店にふさわしい格好ができなくて、オバには申し訳ないとは思っている。でも、気恥ずかしくって、いかにもな格好はできないままだった。
資産家だったオバの遺産を、そのまま受け継いだ。喫茶店はギリギリ赤字ではないが、遺産を食いつぶしている自覚はある。生前、上手く経営できないかもしれないと不安を告げると、それでもいいの、と病室で笑ったオバは、生涯を通じて穏やかな人だった。
「こんにちはー」
カウンターにいるお客さんはのんびりと頬杖をついていて、私はオバのことを思い出していた。そんなときに、明るい声とともに扉が開いた。半年ほど前から足しげく通ってくるようになった、今は無職だという男性だ。
「いらっしゃい」
「今日は、ハムチーズのホットサンドとキリマンジャロで」
「はい」
妙に明るい彼は、以前から店が気になっていたのだという。三回目の来店のときだったか。「敷居が高くて、なかなか入れなかったけど、無職になった記念に入ってみたんです!」と、一向に読み進められないミステリー小説を片手に、いろいろ話をしてくれた。ミステリーは普段、読まないらしい。どうしてミステリーを手に来店したのかと尋ねると、「喫茶店でコーヒーときたら、ミステリー小説ですよね!!」と無邪気な笑顔で返事をくれた。今日も、あの時と同じミステリー小説を手に持っている。挟まれた栞は、まだ四分の一ほどだった。
彼のお気に入りは、カウンターの一番奥の席だ。今日は別の客が座っているので、入り口に一番近い席に座った。
「どうぞ」
「はーい」
「ごゆっくり」
お決まりのセリフと一緒に注文の品を置く。伝票は小さな木のバインダーのようなものに挟んで伏せる。追加があれば、それに書き足す。
「これからは、こんなにしょっちゅう来られなくなるんですよ」
彼は、本の続きを読むよりも話しかけてくることが多い。元来、話し好きなのだろう。今日もまた、話しかけてきた。
「そう」
「再就職が決まって。来月から。あっ、でも、また休みの日に来ますから」
「ありがとう」
「土日って、混みます?」
「そうでもないかな」
ちょっと分かりづらい場所にある店だ。入りにくい店構えなのもあるし、店主である私が愛想がある方ではないから、そこまで賑やかに混むことはない。たまにはあるが。
「そうですかあ。よかった!あっ。ごめんなさい」
「いいえ」
失言だったと思ったのか、慌てて謝る。素直な性格だ。
「こういうレトロな喫茶店、流行ってるから。ここも土日は混んじゃうかなって思ってたもんで」
「そう。でも、ウチは写真や取材は断っているから。ネットに店内の写真はあんまりないんじゃないかな」
「えっ。そうなんですか?」
「外観は撮られても分からないけれど、店内は断っているよ」
そのおかげで、ネットでの評判はよくない。スマホを操作しているだけなら何も言わないが、写真を撮ろうと構えた辺りで、声をかけるからだ。イマドキさあ、とか、店主がぶっきらぼう、とか、割と言いたい放題言われている、らしい。これもお客さんからの情報だった。
ネットで何を言われようと、実際は、写真は丁寧に断っているし、偉そうにしたこともない。お客さんをないがしろにしたことだってない。ここは喫茶店だ。コーヒーを飲んで寛いでもらいたい。そう思っている。そのことに、文句を言われる筋合いはない。
「そうですか。俺、全然、知らなかったです。入るのをより楽しみにする為に、ネットの評判は検索したことなかったし」
「いつも、その小説だけしか持ってないもんね」
「そうなんですよ。ここに来る時は、スマホは置いて来てるんです。それがいいんですよ」
「そう」
それからも彼は話し続けて、結局、小説は開かれることはなかった。
お会計お願いします、と立ち上がったのは一時間後だった。いつもありがとう、と言うと、また来ますね、と、お決まりのように言って帰って行った。
「いい店だよねえ」
カウンターを片付けていると、例のお客さんが頬杖をついたままこちらを見ていた。
「そうですか」
「うん、そう。余計な干渉しないしね」
「混みあった時は、声をかけることもあるけれど」
「滅多にないでしょ」
「そうね」
「ねえ」
そこで声音が変わった。それまでどこか人を食ったような感じだった、その雰囲気も。カウンターを拭いている最中だった。手元の布巾から視線を上げるのが、なんだかイヤだった。
「俺の仕事の手伝い、してくれないかなあ?」
「お断りします」
間髪入れずに断って、視線を合わせずにカウンターの中に入る。
「そう言わずに。ミドリさん、俺が人じゃないの、とっくに分かってるんでしょ?」
返事はしなかった。私の名前を知っていることも、別に驚かなかった。今の時代、調べようと思えば、いくらだって手段はある。まして、私は店を経営しているわけだから。ただ、このお客さんが人外だと、私が気付いていたのを指摘されたことに、驚いた。どうして分かったんだろう。態度は変えてなかったはずなのに。
「正体、知りたくない?」
知りたくない。興味はない。
ザアッと雨の音が響いてきた。大粒の雨が、ガラス窓を叩いている。返事をしないでいると、勝手に話しだした。
「お金に困ってない、聞き上手なのに口が堅い、必要以上に人に干渉しない、人外にも驚かないし動じない。堅実で誠実。おまけに、警戒心も正常だ。なかなかいない逸材だよねえ。また、スカウトしにくるねっ。考えておいて」
仕事内容も言わずにスカウトだなんて、冗談じゃないと思いつつ会計をする。手伝いなどする気もないから、問わずに見送る。それにしても、警戒心が正常とは、どういう意味だ。
「またねん」
「ありがとう」
コーヒーを飲みに来るのはいいけど、スカウトには来ないで欲しい、という願いもむなしく、その客はまた、定期的に姿を現すのだった。
~ 田中ナカ ~
あ。俺、間違えちゃったんだ。
咄嗟にそう思った。それまで楽しく酒を飲んでいた心が、スッと冷えた。飲み屋の、心地いいザワザワした音が遠ざかって、血の気が引いた。カウンター席で隣に座る同僚の顔を見ることができなくて、日本酒のグラスに視線を固定した。落ち着こうと思って、グラスを持ち上げ、一口、含む。ふんわりとした香りがして、優しく喉を滑り落ちていく。
「……ありがとう。ごめん」
絞り出した声は小さかったけれど、彼女の耳に届いたようだった。頬の辺りに感じていた視線が感じられなくなった。俯いたのかもしれなかった。しばらくして、椅子が硬い音を立てた。立ち上がった彼女が店を出て行く。席が空いたカウンターの上に、千円札が数枚、置かれていた。
はあ、とため息が漏れた。自覚はしていなかったけれど、どこかで調子にのっていたんだろう。彼女の人生に大きく介入してしまった。そのことが重く心にのしかかった。
「あれっ?どうした?」
居酒屋を出た後、真っ直ぐアパートに帰る気にならなくて、近くの公園のベンチでぼんやりしていたら、コンビニの袋を下げた井頭さんが通りかかった。こんな夜中に誰が鼻歌を歌っているんだろう、と顔を上げたら、それはご機嫌な井頭さんだったのだ。
軽い口調で言いつつ隣に座った井頭さんは、返事をしなかった俺に気を悪くした風もなく、袋の中から缶ビールを取り出して飲み始めた。俺に一本差し出してくれたので、受け取る。
プシュ、ごくごくと喉を鳴らす音に続いて、袋を探るガサゴソという音。そして、バリ、と袋を開ける音がして、バリバリと煎餅をかみ砕く音がした。なんだか、連続でたくさんの音がしたなと笑ってしまう。話さなくても、音って結構、たくさん出るもんなんだ。おかしくて、ふふ、と笑い声のような息が漏れた。
ベンチの背もたれに寄り掛かった井頭さんは、夜空を見上げてビールを飲む。時折、煎餅を数枚、続けて食べるバリバリという音と、ガサガサという音がする。遠くで救急車の音が響いて小さくなっていった。
手の中でぬるくなったビールの水滴が手をすっかり濡らした頃に、重たい口が開いた。誰かに聞かせるような話でもないしとは思うものの、誰かの人生に介入してしまったという事実が、ひどく重たかった。耐えられなかった。
「と、いうわけっす」
「うん」
すっかりぬるくなったビールをそこで開ける。プシュル、となんだか間の抜けた音を立てたそれを、一気に煽る。爽快感は全くなかった。ビールを煽った勢いでそのまま空を見たら、月がぽっかりと浮かんでいた。
「あるなあ。そういうの」
井頭さんの声は静かだった。しんみりした、といった方がピッタリくるだろうか。俺を見ずに、斜め上を見上げたままのその視線は、どこか遠い目をしていた。
「全然、そんなつもりじゃなかったんす。こんなこと言ったら思いあがってそうですけど」
「うん」
そうだ。俺は五十年、独身だった。自分の生が終わっているのも分かっている。親孝行の一つもできなかった両親を、ただただ、見守りたかった。その為に、選択したことだったのに。まさか、同僚に告白されるなんて。
居酒屋で凍り付いたのは、彼女だけじゃない。俺もだった。とんでもないことをしてしまった、と思った。彼女がいつか忘れてしまう記憶と感情だったとしても、人生の中で、少しでも俺が彼女の時間を奪ってしまったことが、すごく恐ろしかった。
そんなつもりじゃなかったのに。そんな言葉で頭が埋め尽くされてしまった。頭が冷えた後、とんでもなく失礼だな、って自分に嫌気がさした。失礼極まりない。やるせなくってどうしようもなくって、乾いた笑いが口から漏れる。
井頭さんは、特にそれ以上は何も言わなかった。ただ一緒に、月を見ながら酒を飲んだ。
飲まないか、と井頭さんに誘われたのは、ベンチに座って二人で酒を飲んでから、一ヶ月後くらいだった。落ち込んだ気分をどうにもできず、ただ、表面上はいつもと変わりなく、会社へと行っていた。同僚はぎこちなかったけれども、平然と対応した。俺よりもずっと、彼女の方がツラいと思った。だから、ものすごく気合いを入れて、普通っていうのを装った。成功していたかは分からない。
リーズナブルな居酒屋チェーン店のテーブル席。隣の席とは大きいスダレで区切ってある。以前はこういう仕切りはなかった気がする。様々な事情があるんだろうけど、個人的にはありがたい配慮だ。ふとしたときに、隣のテーブルの人と視線が合うと、妙に、酔いが覚めることがあるからだ。会話は丸聞こえ、と言いたいとこだけど、賑やかな各テーブルの話し声が大きな雑音になり、会話の内容は聞き取れない。店内に流れている音楽も、一役買っている。
「どうする?生でいっか?ツマミは?」
「あ。スルメ、あります?」
「店に来てもスルメかあ。好きだな。でも、残念ながら、ない。あ。焼きイカならあるな。どうだ?」
「じゃあそれと、焼き鳥を」
「盛り合わせな。後は適当に頼んでいいか?あ、飯は?」
「ツマミでいっす」
あれから全然、食欲はなかった。コンビニのおにぎりを朝昼晩、と一個ずつ。中身の具を選ぶのも面倒で、端から順に買って食べていた。けど、痩せない。そういう体だ。病気にもなりにくい。ある意味、生きていないからなんだろう。
「俺、大食いの仕事はどうですかね」
お待たせしました、と店員が持ってきた生ビールのジョッキを掲げた後、ぐいぐいっと勢いよく飲んでいた井頭さんが、思いっきりむせた。おしぼりを慌てて差し出す。ごぼ、と変な音をさせた後、井頭さんはおしぼりで口を拭きながら大笑いし始めた。
「どうしたんだよ?」
「いや、適職かなって」
「マジかよ。ナカちゃん、おもしろすぎるでしょ!」
「考えたことないです?」
「ないなあ!!俺、そういう発想はなかったな!一瞬、スタントマン考えたことあったけどな」
「どうしてやめたんですか?」
「万が一、ケガしたとして、絶対治るけどさ。痛みはあるじゃん?痛いの苦手なの、俺」
「なるほど」
「ナカちゃんも、元から大食いじゃなかったら、自分のキャパオーバーした時点で、苦しいぞ」
「……やめます」
そうか。満腹中枢も胃の大きさも変わらないわけだから、そこをオーバーすれば苦しいか。自分自身のキャパは変わらないのだ。中身は年数を重ねていっても、基本的な身体スペックは生前の俺なわけだから。
「なに?もう次の職業考えてんの?」
「そうで……」
そうですね、と言いかけて、そうじゃないことに気が付いた。日常生活にも会社にも不満はない。支払いも順調だな、と思う。ならやっぱ。
「逃げたいだけっすね」
「そうかあ」
井頭さんは、いい、とも悪い、とも言わなかった。相槌を打っただけだった。その距離感がちょうどよかった。井頭さんはアドバイス的なことは言わない。受け止めてる、ってよりも、程よく流してる、って感じだ。薄情とも違う、独特の距離感だ。
「オヤジさんは?どうだ?」
こんがりといい色に焼き目がついた焼きイカが運ばれてきた。皿の隅にはマヨネーズが添えてある。いいか?と聞きつつ、井頭さんが軽く七味を振る。
「あんまりっすね」
母ちゃんは去年、逝った。父ちゃんの方が体は弱かったんだけど。一人になった父ちゃんは、驚くほど小さく見えた。身内として手伝うことのできない自分に、とんでもない苛立ちを覚えた。けれども、なにもできない。結局、たまに、父ちゃんの様子を見に顔を出しているくらいだ。父ちゃんは持病がある。近所づきあいはしている方だけど、心配で。
“お迎えさん”に聞いてみたけど、母ちゃんがその後、どうなったかは教えてもらえなかった。
「息子といえども、教えられないんだよー、その人の人生だからねっ」て、笑顔でキッパリと言われた。確かに、母ちゃんの人生は母ちゃんのものだ。そして、“お迎えさん”に無理は押し通せないことは、重々承知していた。霊感というものがあれば、違ったのかもしれない。でも、俺には霊感はない。母ちゃんは、それっきりだった。
ん?あれ。
「俺、先に支払いが終わったらどうなるんだろう」
今更ながらのことに思い当たった。七味マヨネーズをつけた焼きイカを食べている井頭さんを見る。
口ごもった井頭さんは質問には答えずに、お前も食えよ、と焼き鳥や焼きイカ、枝豆を取り皿にのせてきた。
「井頭さん」
「……支払いが終わったら、延長はねえよ。それが決まりだ」
「そうですか……」
「だからといって、わざと引き延ばすようなこと、すんなよ。それを企んで実行したら、あの世に強制連行になるぞ」
強制連行……ってことは、強制労働ってことだろうな。なんで知ってるんですか、とは聞かなかった。以前、聞かない方がいいなって思ったのもあるし、理由なんて聞かなくたって、ダメなものはダメだ。俺の人生は終わっている。未練があろうとなかろうと。絶対にそれは覆らない。
「井頭さんは……」
「ん」
「だから、フリーターなんですか?」
「……ではないかな」
苦笑いでビールを煽ったその顔は、悟っているようにも、なにかを諦めているようにも見えた。空になったジョッキを置き、追加の生ビールを何故か二つ頼んだ。目の前の、半分しか減ってない自分のジョッキをぼんやりと眺める。すぐにビールがきて、慌ててぬるくなったビールを飲み干す。間髪入れずに、目の前に置かれた冷たいジョッキを手にして、勢いよく飲む。ビールは冷えてる方が美味い。
「……あの」
「ん?」
焼き鳥が歯に挟まったらしい。口をモゴモゴさせているので、相槌がくぐもっていた。
「俺の人生って、なんだったんですかね」
「んー」
モゴモゴとくぐもった相槌が耳を打つ。他の席の賑やかな声が、別世界みたいに遠くに聞こえた。俺たちだけ、どっかに弾かれてるみたいだった。
聞いたって仕方ない質問だった。聞かれた方だって、答えようのないことだ。井頭さんは俺の生前を全て知っているわけでもない。俺の事なんて、知らないことの方が多い。けれど、なんか、聞かずにいられなかった。俺がここにいる意味っていうのが、根柢から崩れているような錯覚に襲われて。いや、いる意味の根柢は支払いなのだから、崩れてはいない。ただ、その無味乾燥な支払いという行為の中で、両親を看取るというのが俺の中の……なんていうか、心の支えだったのだ。
父ちゃんを看取れないかもしれない。その無情な現実が、あまりにもショックだった。本を正せば、そもそもが看取れてないんだが。自分の人生の清算中の、オマケみたいなもんで許されてるだけのことなんだけども。ただ……二度も親不孝することになるかもしれないのか、俺は。
焼き鳥は無事に歯から外れたらしい。モゴモゴしていた口でビールを煽った後、井頭さんは話しだした。
「俺は人の人生についてアレコレ言えるほどの人間じゃねえよ?」
「はい」
「でもさ、俺、ナカちゃんのこと、好きだよ。会えて、こうして一緒に飲んでくれて、嬉しいよ」
「……はい」
そうかもしれない。たまたまアパートが隣だっただけだけど、井頭さんとこうして一緒に飲んだりするのは、清算中の身では貴重な時間だった。お互いの境遇も分かっているし。だからこそ、余計なことも聞かない。けれど、こういう状況の辛さも分かり合える。合える、って言ったらおこがましいかもだけども。
「俺も、井頭さんと飲みに来たりできて、よかったっす」
「うん。……あのさ、ナカちゃん。酷なこと言うけどさ。俺たちは、夢や希望を持ってもいいかもしれない」
「はい」
「ただ、そこに未来も猶予もない。絶対に」
「……ですね」
この、どうしようもないやるせなさも、もどかしさも。人生の清算の内の一つなのだろうかと思った。
~ 南良モモカ ~
付き合ってください、と言われたのは、独身でいようと思ってから数年経っていた。三十半ば。まさか。ちょっと離れた年下の人にそんなことを言われるとは思いもしていなかった。
相手は、数年前に転職してきた人だった。やたら明るい人が入ってきたな、と思っていたけれども、前の職場はブラックで、体を壊しかけてしまってやめたんだって。「道端でバッタリ倒れて、誰も助けてくれなかったときに、会社辞めようって思ったんです!」と歓迎会の場で笑って話しているのを聞いたとき、凄い人だと思った。そんな過酷な経験を笑い飛ばしているなんて。
彼は繊細な空気を読む、ということはできなかったけれど、根本的に人がいいのだろう。誰かが嫌がるようなことはしなかったし、注意をすれば素直に反省して、次に生かす人だった。同じ部署の先輩として一緒に仕事をすることも多かったので、彼の明るさに救われることもあった。けれども。
緊張した面持ちで、珍しく硬い表情を崩さないままに返事を待っている彼に、頭を下げる。
「ごめんね」
「年齢差ですか」
「ううん。違うの」
「僕自身がダメってことですか」
「それも違う。ごめんね」
居たたまれなくて、下げた頭を上げざまに走り去る。いつの間にか習慣になっていたランニングのおかげで、ダッシュしても平気だった。ドキドキしている心臓をなだめて走っても、転んだりすることはなかった。そのまま、駅まで走り続けた。週末でいつもと雰囲気が違う駅前は、ドキドキした心臓を逆になだめてくれた。立ち止まったら迷惑になるので、駅に入る前に、人の流れに沿うようにスピードを落としていく。駅の構内の明るさにちょっとだけ目をパチパチする頃には、ドキドキも止まっていた。電車に乗って最寄り駅で降り、改札から出たところで、以前はコーヒーのチェーン店だった場所が目に入る。今は別の企業が経営しているカフェになってしまった。
あの子、どうしてるかな。
人生を生きる気力を取り戻すきっかけになってくれた、名も知らぬ彼女の笑顔が浮かんだ。
親しい友人が亡くなって、私は亡霊みたいに生きていた時期があった。二十代後半から三十くらいかな。かろうじて社会人生活を送っていたけれど、今から考えれば、限界だった。周囲にも迷惑をかけていたんだろうと、回復してきてから分かった。自分に精一杯のときは見えていなかった、同僚たちの気づかうような言葉や表情、安心したような表情が認識できるようになっていったから。ああ、こんなに心配かけてたんだな、って分かった。ずっと音信不通だった実家へ連絡をしたら、親は泣いてた。生きててよかった、と。帰省もせず、ピンポンが鳴っても出ることもなかった。連絡も全てスルーしていたその間に、妹は結婚して子どもを産んでいた。
パンパンに膨らんでいたポストと、山のように部屋に積んであった郵便物やチラシの中から、妹の結婚式の招待状が出てきた。なんてことをと再び落ち込んだけれども、姪っ子を連れてきた妹がやかましく部屋を掃除しつつ、笑い飛ばしてくれた。その声が震えていることには、気付かないふりをした。「ダメな姉ちゃんでごめんね」と言ったら、「ほんとだよ!」って勢いよく笑ってくれた。
ちょっとずつちょっとずつ、何年もかかって私は生活を取り戻した。まともに食事をとるようになって、睡眠も安定してとれるようになり、部屋の掃除もして、二年くらいかかったかな。ふと、朝、マラソンをしてみようと思った。高校時代は陸上部に入っていた。記録とは無縁だったけれど、走るのは好きだった。当時は短距離だった。
スマホを片手にマラソンができそうな場所を探した。一駅先に大きな河川敷があって、そこが走りやすそうだった。犬の散歩をしている人も多いらしい。
最初は週一。そこから次第に増やして行って、週三で走るようになったのは何年前だったか。いつの間にか丸まっていた背中は伸びていたし、老け込んでいた表情も変わった。それもこれも、全部、彼女のおかげだった。駅の構内で大声を上げ、更に、具合いが悪くなった私を心配してくれて、一緒にコーヒーを飲んでくれた、名前も知らないあの子。最初は、亡くなった友人かと思った。そして、成人しているのに未成年だと思ってしまい、二重の意味で失礼なことをしてしまったけれど、彼女は気にしてなかった。そして、彼女の言葉で私は救われたのだ。出口のない、真っ暗な迷路から。
「元気かなあ、彼女」
彼女とそっくりな、亡くなった友人の写真を眺める。一緒に写っている私も高校生だ。リノという名前の大切な友人を、一度たりとも忘れたことはない。忘れるつもりもない。あの世というものがあって、いつか彼女に謝れるのなら謝りたいと、今でも思っているからだ。彼女がこの世からいなくなったのが私のせいではなかったとしても、酷い言葉を投げたことに変わりはないからだ。
そして、駅で一緒にコーヒーを飲んだ女の子には、きちんとお礼を言いたかった。走り去っていく後ろ姿までリノにそっくりで、別人だなんて信じられなかった。でも、絶対に別人。だって彼女、高校入学時のリノにそっくりだったんだから。
回復して、日常生活を送れるようになった頃に、独身でいい、そう思った。焦ったり、無理はしない方がいい。今、それでいいならいいじゃん、って。リノのことについても、割り切れたり吹っ切れたわけではなかった。わだかまりなんて、ありまくってる。リノのことを思い出すたびに胸が痛む。そして、その都度、思うのだ。見ず知らずの私を笑い飛ばしてくれた、リノにそっくりの若い彼女を。抱えたまま、生きていく。自分のことだけで精一杯だから、独身でいい。そう決めた、はず、だったんだ。それが。それなのに。
「ぎゃーっ!」
ベッドに顔を埋めて声を上げる。わけの分からない羞恥心みたいのが一気に襲ってきた。丸野ショウタ、という名の後輩の顔が浮かんでくる。ぐおおおお、と言葉にならない感情にジタバタし疲れたところで、バタン、と床に倒れる。
「ほんとに、ごめん」
彼が悪いのではなかった。年下だからダメ、ということもない。ただ、誰かと付き合う、という行為はもう、選択肢にすらなかったから、どうしていいか分からなかったのだ。それに、自分の年齢を考えると、彼の時間を無駄にするわけにはいかないなって思った。お付き合いが順調にいったとして、じゃあこれから先の人生設計、ってなったとしてよ?選択肢、限られちゃうんじゃないかなって。
「無理無理」
天井を眺めつつ言った自分の言葉に思ったよりもショックを受けて、考えるのやめよう、と体を起こす。スマホを手に取った。ありもしないのは分かっているのに、リノに謝る方法を探していたときに行った蕎麦屋さんを思い出したからだ。
美味しいお蕎麦屋さんだったな。また行こうって思えるほどは近くないけど。店主夫婦は、今、どうしてるかなあ。
「え。ウッソ」
お蕎麦屋さんは閉店していた。検索結果を読んでいて、心配になった。経緯が酷かった。ネットにある都市伝説系の実証、みたいなのが発端で、店に人が押し寄せて、更に、炎上したっぽい。それがどうにもならなくなって、閉店した、らしい。
「ひど……」
閉店してからもう、何年も経つ。優しい笑顔のオジサンと、愛想がいいわけじゃないけど優しさが伝わってきたオバサン。なんてことだろう。こんなこと、あるんだ……。居ても立ってもいられなくなったけど、店はもうとっくに閉店しているし、どうしようもない。何度か立ったり座ったりを繰り返した後に、台所に行ってコーヒーを淹れてきた。
一口飲んで、思い出す。
帰りのタクシーに乗る前に、オジサンたちに、口外しないでね、と穏やかな口調でお願いされたことを。
口外していたら、私、どうなっていたのかなあ。どうにもならない、かな。
口止めをされたことに違和感はあるけれども、どっちみち口外はしなかったな、とも思う。だって、信じてくれる人なんていないと思うし、そもそも、ある、ともハッキリ言っていなかったし。あくまでも、噂は噂だ。しかも、眉唾ものの。
~ 丸野 ショウタ ~
「フラれたんですぅううううう」
カウンターに座って、ブレンドとホットサンドを注文した後に言うと、店主のミドリさんは驚いた顔をした。注文をして、そのまま流れるように言ったからだ。しかも、語尾が引きつって伸びたし。
「あ、ああ、そうなんだ」
「そうなんです!残念極まりないです。笑顔がとっても素敵な人なんですよ!」
自分でも支離滅裂の言葉がダダ漏れで、お前が残念極まりないわ、と心の中で突っ込む。ミドリさんが困惑している。カウンターの奥に座っている、たまに見かけるお客さんはおもしろそうにしてるけど。あ。うるさかったかな。せっかく喫茶店で過ごしてるのに。
「すみません」
「いえいえ~」
奥のお客さんに謝ると、手の平をヒラヒラとさせて返事をくれた。その様子にホッとする。
その間にミドリさんはカウンターの中に入った。コーヒーをセットして、ホットサンドを作り始めている。それはそうだよね。僕の話し相手になってたら注文の品も作れないし、他のお客さんにも迷惑だし。今のところ、僕とカウンター奥のお兄さんだけだけど。
水のグラスの隣に置いた、読みかけのミステリー小説の表紙が、いい感じに年季が入ってきている。それもそうだ。僕がここに通うようになってから、ずいぶん経つ。もうずっと、この一冊がここへ来る時のアイテムだった。超有名な海外ミステリー小説の翻訳。犯人は追いつめられ、残されているのはトリックだった。憧れていた喫茶店での、ミステリー小説の読書。あまりにも憧れが強すぎて、僕はこの小説を読み進めることが難しくなっていたのだった。人間の心は複雑だ。ああ。南良さんの心も複雑なのだろうか。ダメなのは、年齢差でも僕でもない。なら、どうして断られてしまったんだろう。嫌われているようには思えなかったのに。か、勘違いだったんだろうか。
水のグラスと年季が入ったミステリー小説の表紙を睨んでいるうちに、時間は経っていた。ミドリさんがお待たせ、とブレンドとホットサンドを持って来てくれる。
軽く会釈をして、カウンターに置かれたそれに手を伸ばす。ブレンドのいい香り。ホットサンドはハムとチーズが挟まれている。カットされた断面から、チーズが今にもこぼれ落ちそうだった。手に取って、ガブリと頬張る。あち、と声が漏れた。少しずつ熱を冷ましながら、頬張ったホットサンドを食べる。チーズとハムの塩気が、こんがりと焼かれた薄いパンに合う。バターの香りも、いい。ここに通い始めた頃はいろいろ頼んでみたけれど、いつの間にか、この注文が僕の定番になっていた。好きなんだ、この味が。
夢中になって食べ終えて、ブレンドのカップを持ち上げる。詳しくはないけれども、シンプルで品があるコーヒーカップは、王道のミステリー小説を彩ってくれるような気がしていた。
一口飲む。いい香りが広がる。飲んだ後に、ほんの微かな苦味。ふう、と知らずに息が漏れた。半分ほどゆっくり飲んだところで、カウンター内のミドリさんに声をかける。
「聞いてもらっても、いいですか」
チラリ、とミドリさんがカウンター奥に視線を走らせる。気にしないよ、とばかりに手を振ったお兄さんは、カウンターに突っ伏して寝てしまった。いいの?寝ても。でも、僕だって、これからプライベートな話を聞いてもらおうとしている。お互いの事なんて、なんにも知らない相手に。喫茶店っていう、公的な場所で。
今更、自分が非常識に思えて口ごもったら、ミドリさんが頷いてくれた。理性がやめろと言っていたけれど、失恋のショックが勝ち、コーヒーの香りに誘われるように口を開いた。話してしまって、行き場を失っている気持ちを吐き出したかった。
「一昨日、会社の先輩に告白したんです」
南良さんは、転職先の会社の先輩だ。ちょっと歳が離れた彼女は落ち着きもあって、大人の女性、という第一印象だった。目立たないけれど、気配りがすごくて、さり気なくいろんな人のサポートをしているのに気がついたのは、転職して二年目くらいだったかなあ。最初の一年もフォローされていたんだろうけれど、いっぱいいっぱいだった僕は、そのことに全く気が付いていなかった。
素敵な先輩だな、と思うようになって、その感情が大きく育っていくのには、更に時間がかかった。ゆっくりとゆっくりと、彼女の優しさが僕の中に沁み込んでいったのだった。
僕だって、歳が離れているとか、いろいろ考えた。でもやっぱり、思いを伝えずに諦めることは難しいと決意して、玉砕覚悟で告白したのだ。結果は残念だったから、別にそれに否を唱える気はない。だって、仕方がない事なのだ。彼女の気持ちは、彼女のものだ。僕の気持ちが、僕のものであるのと同じように。それに、年齢が離れているということは、彼女にとって僕は恋愛対象にはならない可能性もある。弟みたい、とか思われているかもしれない。
それでもいい。それでもよかった。ただ、僕は。
「断られた理由が、飲み込めないんです」
そう。そうなのだ。年齢差でもない。僕がダメなのでもない。ただ、ごめんって。それがどうしても、飲み込めない。
話し終えて、コーヒーを飲もうとしてカップを持ち上げ、カラになっていることに気が付いた。ブレンドをもう一杯頼む。ミドリさんが頷いて、サイフォンをセットしていく。
コーヒーの液体がガラスの球体へと落ち、ああキレイだな、なんて思ってるうちに追加のブレンドが置かれた。小皿にバタークッキーが添えてある。
「あのね。私は恋というものをしたことがないから、君が思うようなことは言ってあげられない」
「はい。いいんです。聞いて欲しかっただけなので」
「うん。それでね、イヤだったら答えなくていいんだけど、一つ、聞きたいんだ」
「はい。なんでしょう」
「玉砕覚悟でも告白する気になったのは、どうして?」
「道で倒れたときに、名前を呼びたい相手だったからです」
「え?」
相当、意外な返答だったらしい。ミドリさんがぎこちなく首を傾げた。
「ええと、ですね」
「うん」
「僕、前の職場がブラックだったんですけど、限界が分かっていなくて。道端で眩暈がして、倒れたことがあったんです。大通りの歩道で。でも、誰も手を差し伸べてくれる人はいなかったです。動画撮ってる人はいたけど。その時に、ああ、誰も助けてくれないんだな、でも逆に、こんなときに名前を呼びたい相手が、僕にはいないな、って思ったんですよ」
「うん」
「そういう時に、名前を呼ぶほど愛しい人に出会いたい、って思って。それで会社を辞めました」
そう、と頷いたミドリさんが、そのまま俯いた。自分の靴の先に視線を落としているようだった。あんまり気分のいい話じゃなかったよ、な。
あの時は結局、自力で救急車を呼んだ。手に持ったスマホを、倒れたときに落とさなかったのが不幸中の幸いだった。立ち上がれないまま、必死でロック画面の緊急を押した。意識を失う寸前にサイレンの音が聞こえて、なんかドラマみたいだなって思ったんだった。
人にはいろんな事情がある。行きずりの人が手を差し伸べてくれなくても、それは別に恨んでいない。生きてるし。むしろ、あれがきっかけで転職する決意もできたし、この喫茶店にも入れた。南良さんにも出会えた。よかった、とは言いづらいけれども、悪い事ばっかじゃないって思ってる。
曲名の分からないクラシックが流れる時間が続いた。何曲目かで、ミドリさんが顔を上げた。いつも通りの、穏やかな表情。
「それは、すごい人に出会えたんじゃないかなと、私は思うよ」
その一言が、コーヒーの香りみたいに、穏やかに、心を満たしていく。そうか。僕は、すごい人に出会えたんだ。僕にとって。
「……もうちょっと、頑張ってみようかなって思います」
会計の時にそう言うと、ミドリさんは頷いた。店を出る直前に振り向いて、カウンターで寝たままのお兄さんに、頭を下げつつ、ありがとうございました、と小さく言った。
なんとなく、彼はわざと寝てくれたんじゃないかと思ったんだった。
~ 喫茶店店主 巨田ミドリ ~
「ありがとう」、「また来ますね」、とやりとりをして、ミステリー小説を片手に丸野くんは笑った。カウンターを片付けに行くと、例の、人ではない常連が、むくり、と体を起こした。やっぱり、狸寝入りだったか。そんな気はしていた。
「そろそろ、引き受けてくれる気になった?」
この、人ではない常連から、自分の仕事の手伝いをしてくれないかと誘われたのは、何年も前だった。その後、現れるだけでその話しをしないので、諦めたんだとばかり思っていたのに。
引き受ける気はなかった。この常連の正体にも興味はなかった。聞こえなかったフリをしつつカウンターへと戻る。洗い物を片付けて在庫確認をしていると、カウンター越しにまた話しかけてきた。
「話しを聞くだけでいいんだよ。もちろん、無理に聞き出すんじゃなくて、本人が話しだしたらでいいからさっ」
ねーねー、聞こえてるんでしょー、と人を食った声がしつこいので、仕方なく顔を上げた。
「それのどこが、仕事を手伝うことになるの」
「俺が、ここの喫茶店いいよって教えるのさ」
「その人が来るだけで言いわけ」
「そう。来るも来ないも、本人次第。ここに来たところで、話すも話さないも本人次第。ミドリさんはいつも通りでいいのさ」
そこまで話すと、じっと私の顔を見つめてきた。なんの感情も表さないその視線に耐え切れず、目を逸らすように頷いた。
「やった~。じゃあ、よろしくね」
「気付かないかもしれないよ」
「いいんだよ。それがいいんだ。あ。報酬もあるけど」
「いらない」
「内容だけでも、聞かない?」
「受け取る気もないから。聞かなくていい」
キッパリと言うと、人外の男は笑った。カラッとしているけれども、やっぱりなんの感情も見つけられない笑顔だった。
「やっぱりいいな~、ミドリさん」
そんなにいいとは、自分自身では思えなかった。
中年と呼ばれる年齢になって、こんなことが起きるなんて思いもしていなかった。自分はこのまま、平々凡々と毎日を過ごしていくんだと信じていた。早いかもと思いつつ、今後の事をそろそろ具体的に考えなければと思い、懇意にしている税理士に相談を始めていたところだった。
基本的にお客さんにプライベートな質問はしない。だから、常連であっても名前を知らない人も多い。自分の名前は聞かれれば答えてきた。丸野くんは、何度目かの来店で自己紹介をしてくれたのだ。だから知っている。が、人外の常連の名は知らなかった。仕事を手伝うことを了承したときに聞いておくべきだったかもしれないけれど、踏み込んだ質問はしたくなかった。君子危うきに近寄らず、ではないけれども、無暗に要らぬ藪をつつかぬ方が平穏に暮らせたりもする。
閉店後、店の掃除まで終わらせて、二階の自宅へと戻る。いつもは飲まないけれども、今日は少しだけ飲みたい気分になった。冷蔵庫を開け、いただきものの地ビールをだしてグラスに注ぐ。晩ご飯用に店で作ってきたハムチーズのホットサンドはもう冷めて、チーズが固まっている。サラダにドレッシングをかけ、ビールを一口飲む。
美味しい地ビールだ。グラスに注いだ液体はちょっと赤みがかった焦げ茶色で、黒ビールとも言い切れないその風味が絶妙で。
「はあ~」
ため息が漏れた。話しを聞くだけなら、今までもしてきたことだった。オバが生きている頃からバイトとしてこの店に立った。それからずっと、話したいお客さんの話しには耳を傾けてきた。いろんな人生がある。私自身はこの喫茶店にいるだけだけれども、いろんな人の人生の、切り抜かれたようなその一部を、聞いてきた。それはまるで、物語みたいだった。アドバイスが欲しい人はいなかった。みんな、ただ聞いて欲しいだけなのだった。
人の話しを聞くのは嫌いじゃない。けれども、それが人外の存在の手伝いとなれば、一体どんな恐ろしいこともあるのだろうと身構えてしまう。来るのは人だけなのだろうか。報酬はいらないと言い張ったのは、単純に恐ろしかったからだ。タダより高い物はない、という言葉があるけれど、明確なやりとりがないモノの報酬だって、恐ろしい。後で何があるか分からない。興味を示したり、聞いたりしたら、絶対に拒否できないんじゃないかと感じたのだ。
ハッキリとどうこうではないんだから、私は今までと同じ毎日を過ごせばいいだけだ。けれども、やっぱり気が重かった。
ビールばかりを口にしてしまっていた。冷めてしまったチーズサンドを頬張る。丸野くんがいつも美味しそうに食べる。彼は明るくておっとりしていると思っていたけれども、印象よりもずっと芯が強い人なんだと、今日、話しを聞いていて思った。
コーヒーもサンドイッチも、意識はしていないだろうが幸せそうに楽しんでいく。その様子は心が和むほどだった。ミステリー小説が進まないのもご愛敬で、ここで寛いでくれるなら喫茶店冥利につきるな、と微笑ましかった。
過酷な経験をして、それでも誰も恨まずに、あんなふうにしていられるなんて、と昼に話を聞いて驚いた。こんな人もいるのか、と。
私は恋愛経験はないし、職場の人間関係で悩んだこともない。だから、アドバイスなんてしたことがなかった。話しを聞くだけしかできない。そうしてきた。だけど、彼のことを応援したくなってしまった。
フラれた理由が分からないと嘆くのならば、せめて、フラれた理由が分かるまでは、諦めなくてもいいんじゃないかと思ったのだ。彼が思いを寄せる人ならば、それでも受け止めてくれるんじゃないかと。だから、言ってしまったのだ。すごい人に出会ったんじゃないかと。
けれど、やっぱり、余計な一言だったかもしれない。
その日、私はやってしまったな、という少しの後悔と、ホットサンドは温かい方が美味しいという事実を抱えて眠りについたのだった。
~ 井頭イツキ ~
いい喫茶店があるよ、と“お迎えさん”がすすめてきたのは、幾度目かのペナルティの時だった。
「へえ。アンタが店をすすめてくるなんて、初めてじゃねえ?」
「いいとこなんだ。定期的に通っててさ~。よかったら、行ってみてよ!」
どういう風の吹き回しだ、と訝しみつつも興味が湧いた。コイツが気に入る喫茶店。もしかして、人ではない存在がやってるんだろうか。
「あ。言っとくけど、人間だよ。俺の正体も知らない。だから、余計なことは言わないでねっ」
ふうん、と適当に相槌を打ちつつ、興味が湧いた。どんな意図かは知らないが、コイツがすすめる、人間がやってる喫茶店。普通の客として行ってみろ、ってことだよなあ。イヤ別に、コイツと違って人外とも言い切れないけど、俺は。
どうせ暇だ。世の中は相も変わらずクソなことが多いけれども、俺は以前よりはずっと、この世に興味を持っていた。生前では経験しなかったような人間関係を、今更ながら、俺は経験していた。この世も捨てたもんじゃない、と長い事フリーターをしつつ、そう思えるようになってきていた。が、暇なモンは暇だ。支払いはまだまだあった。
店がどこにあるかを聞いて、早速、次の日に行ってみた。
……っていうのが、数年前の話。俺はもうすっかり、ミドリさんの喫茶店が気に入っちまって、三日に一回くらいは通っている。たまに“お迎えさん”と鉢合わせするが、お互い知らぬフリだ。
コーヒーも食い物も美味い。店の雰囲気もいい。居心地が良くて、ついつい長居したくなる。けれども、一番いいのは店主であるミドリさんだった。
少し低めの落ち着いたトーンの、柔らかな声。早くもなくゆっくり過ぎない速度の話し方。人との距離感もよかった。構い過ぎず、けれども、きちんと気配りはされている。
店の混み具合いは日によって違うけれども、長年通っている人が多そうだった。分かる分かる、なんて思いつつ、コーヒーを、ぐびり、と飲む。添えられているバタークッキーは、ミドリさんが焼いたときだけにサービスされる。クッキーがついてきた日は思わずニヤリとしてしまう。このクッキーがサクッとして美味いのよ。
通い始めて一年くらいは、注文と会計のときくらいしか話をしなかった。ポツリ、ポツリ、と挨拶以外の言葉を交わすようになり、ちょっとした会話をするようになったのは、いつからだったか。
気付けば俺は、ここに通うのが楽しみになってしまっていた。そう。あんなに毎日飲んでいた酒をほとんどやめたくらい。ま、たまには飲むけど。煙草もやめた。臭いが急に気になりだしちゃってなあ。急にスパッとやめたんじゃなくて、少しずつ吸う量が減っていって、気が付けば吸ってなかった、ってのが正しいんだけどな。
布団と冷蔵庫と電子レンジ。鍋兼用のフライパンが一つに百均で買ったまな板と包丁。丼が大小一つずつにグラスとマグカップが一個ずつ。長い事、そんな台所だったアパートに、コーヒーメーカーが増えた。なんか、自分でも淹れたくなったんだよな。ミドリさんのコーヒー飲んでてさ。だけど、サイフォン式を買うのは照れくさいっていうか。だから、手で淹れるタイプのコーヒーメーカー。ネットで散々調べて、あちこちの雑貨屋へ行って現物見て、悩みに悩んで買った品物は、結局、大手の老舗のシンプルな品だった。
殺風景な部屋に、一通り揃えたコーヒーのセットを並べて、悦に入る。なかなかいいじゃんか。うん。
何度も本やネットで調べた方法を、頭の中でリピートしつつ淹れたコーヒーは、なんか苦味が勝っていて香りもイマイチで、首を傾げる代物だった。コーヒーって、奥が深いな。
ミドリさんにコツを聞いて、イマイチだったときと同じコーヒー豆を買って、何度も入れ続けた。及第点のコーヒーができたと思ってからは、隣の部屋のナカちゃんにも声をかけて、一緒に飲むようになった。
美味しいですね、と笑うナカちゃんは、俺と入れ違いのように酒を飲むようになっていた。元々はそこまで深酒するヤツじゃなかったんだが、……まあ、いろいろあるからな、俺たち。やりきれないことも、割り切れないことも、どうしようもないことも、たくさんあるし。
体を壊すってこととは無縁だから、余計、深酒しているナカちゃんが心配だった。けどなあ。俺が口を出すことでもない。力になりたいけれども、なれない。もどかしい日々が続いていたときだった。ナカちゃんが、ちょっといいコーヒー豆を片手に訪ねてきた。隣の駅にある、生豆を好みの加減に焙煎してくれる専門店の豆だった。高くて、なかなか手が出ないんだよな、フリーターで清算中の身としては。
「あの、よかったらこれ」
「おっ!!いいの?!ありがと~!飲んでいくか?」
「いえ。あの。俺、支払い終わったんです。お世話になりました」
差し出されたコーヒー豆の紙袋を受け取って手招きをすると、首を振ったナカちゃんが丁寧に頭を下げた。
ああ、と思った。うん。慣れっこだ。だって俺たちは本当はもう、人生を終えているから。
それでも湧いてくる一抹の寂しさを拭って、視線を廊下の奥にやると、既に“お迎えさん”が立っていた。容赦ねえもんな。ま、それも当然。
そういえばナカちゃん、引っ越してきた日もこうして挨拶にきてくれたっけなあ。なんて律儀な、って思ったもん。お礼に何かを渡したいけれど、何を渡したところでアパートに残して行くしかないことも分かっていた。あの世に何かを持って行くことはできない。
オヤジさんはどうなった?なんて、聞く必要はなかった。俺にはどうにもできないことだからだ。そして、そのことについて俺に何も言わない、ナカちゃんの心に土足で踏み込んじゃいけない。
「俺こそ世話になったよ。ありがとうな」
「はい」
ちょっと笑ったナカちゃんは、笑ってはいたけれども疲れ切っていた。
「それじゃ」と、“お迎えさん”と自分の部屋へと戻っていったナカちゃんを見送る。ドアを閉めようとしたら、反対側のお隣さんのドアも開いていた。顔を出しているのは、若い女の子だ。
「……あの人、逝くんだ」
「ああ」
どんよりした目と、重たくて暗い声でそう言って、音もさせずにドアを閉めた。カチャリ、と鍵をかける音が廊下に響く。
部屋に戻って、ナカちゃんにもらったばかりのコーヒーを、早速、開けた。いい香りがする。俺の為に、準備してくれてたんだなあ。湿っぽくなりそうな自分を誤魔化すように、道具をゆっくりと並べて、淹れる準備をする。この、淹れる準備もいいんだよなあ。時間がゆったり流れてるみたいで。
胡坐をかき、ゴリゴリとミルで豆を挽きつつ、隣の女の子の目つきと声を思い出す。
「ヤバいな、アレは」
どんな事情かは知らないが、彼女は若くしてこのアパートに来た。ってことは要するに、若い時代を繰り返し続ける、ってことだ。支払いが終わるまで。自分の享年までの姿しか持たない俺たちは、そこがマックスの人生を繰り返すことになるんだ。マックスがそこ、ってことは、いつまでもお若いですね、が限界が来たら、ペナルティをくらって再度、戸籍をもらう。中年の外見年齢は前後に幅があるけれども、若い人はそこまで幅はない。だから、繰り返すことになるんだ、短い期間を延々と。支払いが終わるまで。
彼女は俺みたいに、のらりくらりと日々を過ごしているようにも見えない。煙草を吸っていた時期はまだ、頻繁に交流があった。一方的に怒鳴られてたんだけど。ベランダで吸ってたから。あの頃はまだ元気だったよなあ。俺が煙草吸わなくなってからは、廊下でたまに会うだけだったけど、段々、ヤバい目つきになってきてはいたんだよな。アレは結構、きてるな。
「……連れ出してみるか」
断られる可能性が大きいけどなあ、とため息を吐く代わりに飲んだコーヒーは、とびきり美味しかった。ありがとな、ナカちゃん。




