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選択してください  作者: 大福満代
1/1

~ 田中ナカ ~


「いらっしゃ~い」

 やけに陽気な口調の、鎌を腰にさしたTシャツジーンズ姿の男が俺に向かって両手を広げた。

「いや誰」

「お迎えでっす!」

 田中ナカ。享年五十歳。平均寿命まではとどかなかった人生が終わった途端に、おかしな現実というか、非現実が迎えに来た。

「なんでTシャツでジーンズなん」

「暑さ対策ですねっ」

「ほんとに鎌、持ってるんだ」

「あ、これですか。そうですねえ。イメージがあるもんで」

 イメージ。イメージ商売なんだろうか。いや。どんな?

「あ、えっと」

 お迎えに現れた男に戸惑いつつも質問しようとしたその時、病室に両親が駆け込んできた。

「あぶなっ!!」

 ものすごく動転して急いでいて。もう八十近いのに前のめりになって来たせいで、母ちゃんが足をもつれさせて転びそうになった。父ちゃんが間一髪で支える。

 顔面蒼白で、二人で支え合うようにベッドサイドへと歩いてくる。機械はもう全部取り外されていて、室内は静かなもんだった。

「な……ナカ……」

 母ちゃんが俺の手を握る。俺の体なのに体温がどうなっているかも分からない。冷たいんだろうか。それとも、まだ温かいんだろうか。

「そんな……」

 扉の前にいる看護師さんに振り向く。黙って下を向く看護師さんが、なんだか気の毒だった。

 ガックリと肩を落として、ベッドサイドに膝をつく。みるみるうちに両親の目に涙が盛り上がってきた。父ちゃんがメガネを外す。

 一人っ子で独身で。一人暮らししてて。親孝行も満足にしないうちに旅立ってしまった。

「親不孝して、ごめん」

 届かないけれども呟いたところで、“お迎えさん”の陽気な声が響いた。

「ほんとそう!!ほんとだよねえ!愛されてたよね!それでですね、ナカさんには親不孝をしてしまったってことで、ちょっと頑張ってもらいます」

「……は」

 心を痛める時間くらいくれよ。両親が自分の亡骸の前で泣いてんだぞ、という思いを込めて睨みつける。

「あっ。そういう目つき、よくないですねえ」

「誰のせいだと」

「俺は自分の仕事を遂行してるだけでーす。睨むのは間違ってるよん」

 かっるいなあ。ものすごい対照的なんだけど。右に泣いている両親、左に陽気な“お迎えさん”。左右の温度差が酷い。生きてたら風邪ひきそう。

「さ、じゃあ早速、選択してくださいねっ」

「……何を?」

「今後の行き先を」

「え?」

 あの世なんて信じてなかったけど、目の前にこうしてつきつけられたんだ。嫌でも信じるしかない。それを前提にして考えると、だ。

「行き先を選べって。決まってるんじゃないの?」

「いやまあ、そうでもないです。人それぞれですねえ。まあその、それぞれの選択肢の中から、選択してくださいねってことです!」

「そんな」

 バカな、と言おうとした瞬間、“お迎えさん”がやたら現実的な仕草をした。親指と人差し指で丸を作って顔の前に掲げたのだ。

「え」

「コレで清算ってことになるんですけどね~」

 チーン、といろんな意味でその音が聞こえた気がした。……マジかよ。

「それでね、ナカさんはご自分でもおっしゃってましたけど、親不孝しちゃったってことでねっ」

 ジーンズの後ろポケットから取り出したペンと紙で何かを書き始める。さすがに電子ではないのか。そこはアナログなのか。それとも、個別に対応しなきゃいけないからか。

「あのさ、しんみりする時間はないの?こう……葬式まで見届けるとかさ」

「あー。前はその流れだったんだけど、最近はスピード化してね。選択した後、見届けたかったら好きにしていいから。ま、それくらいはね。……っと、こんな感じかなっ」

 軽い口調と仕草で、ペラリ、と薄い紙を俺の顔の前に突き出す。

 選択肢は三つあった。


 その一、このまま悪霊になる。その場合は料金発生なし。

     ただし、あの世から別の“お迎え”がくる。捕まった場合はあの世で強制労働。

 その二、現世で働きつつ、お金で清算する。生活しながら両親を見守ることが可能。

 その三、次の人生に全てのツケを背負わせる。


 その二には結構な金額の料金が表示されていた。いわゆる大企業で五年働いて、その年収全部を支払わないといけないくらいの。生活費抜きで。その一とその三には料金が表示されていなかった。その三は分かる。来世の自分に全てを押し付けるんだから。どう押し付けるかは、全く想像できんが。その一の料金がないのは……有無を言わせず強制労働だからかな。悪霊になるって書いてあるから、その一は多分、その二よりも過酷なんだろう。けども。

「は」

 “お迎えさん”と紙を交互に見比べる。これ、マジなのか。

「あの世に逝くっていうのは」

「んー。その選択肢は今はないねっ。清算が終わってからだよ」

 ってことは、この三択から選べってってことだよな。っていうか。

「二を選んだらどうなるの?俺もう、体ないんだけど」

「そこは大丈夫!!二を選ぶんなら、ちゃんと社会に戻れるようにしてあげるし」

「え」

 混乱は激しいけど、なんかこう、じっくりゆっくり考えている暇はなさそうだ。“お迎えさん”はすでに時計で時間を確認し始めている。イメージなのか、懐中時計だ。Tシャツジーンズのくせに、小物は凝ってる。

「二を選んだとして、両親を見守り終えたら?」

「ああー。見守り切れるかどうかも、支払い次第なんだよねっ。ま、見守り終えたとして、支払いが終わってなかったら、その時点で改めて、選択してもらうことになるかな。一でもいっけど?」

「……社会に戻れるって、どういうこと?」

「戸籍を用意してあげるよ。この魂を若返らせて実体化させて、働けるようにしてあげる。若返らなくてもいいけど。年齢は選べるよ。知ってる人に会っても、似てるな、と思われるだけ。戸籍が別だからね。安心して」

「この、三を選んだら?」

「まあー、料金は発生しないけど、次の人生がメッチャ大変かなあっ」

 一通り説明を聞いてみても、なるほどとは到底思えないし、疑問は残る。詳細を聞きたい。が、この“お迎えさん”、いきなり、もうタイムリミットです、強制的に俺が選択しちゃうねっ、とか言い出しかねない雰囲気を醸し出してきた。なんでそんな時間ないんだよ。こっちは想像もしてなかった選択を迫られてるんだぞ?!そんなすぐに決めきれるかっ!

「住むところは」

「平気平気!!そういう人たち用のアパートがあるし、希望であれば、不眠不休、飲まず食わずで平気な体にもできるし!」

「不眠不休で飲まず食わずはイヤです」

「はいはい。分かりました。あ、どうしても今選べないなら、四っていうのもあるよ?」

 早口で畳みかけるように不穏過ぎる言葉が飛び出してきて、このままだとヤバいと勘が告げる。もうなんか、すごい前傾で迫って来てるし。主張しなければ。どうでもいいけど、なんで敬語とタメ語が混ざってんの?!っていうかさ、この選択肢に入ってない四なんて、怖すぎて内容も聞きたくないよ!!

「二で」

「了解!!じゃあ、お葬式終わるまでに準備して迎えに来るねっ」

 そう言うと“お迎えさん”は紙だけを残して宙に消えた。残された紙には、二のところに赤い丸印がついていた。


 そういうわけで、俺は現世で別人として働くことになった。年齢は若返らせてもらった。享年付近の年齢では、いくら戸籍が違うとはいっても、違和感が出まくることになると思ったからだった。実家の近くのアパートに入れたので、町内会という名目で、両親のことは見守れる環境だ。最初に引っ越しの挨拶に行った時は泣かれて、ちょっと困ったけど。

 意外にも俺のような人間は多いらしい。他人の空似、というのは、こういうパターンもあるのかと、なんだか不思議な気分だった。他人じゃなくて本人なんだけどな。でも、戸籍は別人だから、以前の俺本人ではないわけで。まあ、複雑だ。

 “お迎えさん”が用意してくれたのは、なんの変哲もないアパートだった。下宿でもない。ただ、格安だった。料金とんの?って思ったけど、格安なだけいいと思うことにした。

 住む場所はどこにでもあるようなアパートだけど、住人は全員、俺みたいなヤツだった。老若男女、揃っている。自分の享年までなら外見の年齢は選べるから、実際の年齢は分からないけど。戸籍は選択した年齢に合わせて準備された。

 清算に日数がかかればかかるほど、いつまで経っても変わらないですね、と言われ、外見と戸籍上の年齢の差が大きくなっていく。そうして誤魔化しきれなくなったあたりでペナルティをくらって、戸籍を変えられる。年齢も、かな。それにしても、そんなに戸籍って簡単なの?あの世の力を使うと?

「って、俺もう食らってんのよ、ペナルティ」

「ほんとですか」

「マジマジ。だってさ、のんびりフリーターでも可なわけよ。そしたら企業でバリバリやるよりはその方がいいなあ~とか考えちゃってさ。そしたらあっという間に時間過ぎちゃって」

 アパートの隣の部屋で仲良くなった中年の男性は、井頭さんという。缶ビール片手に笑っている。たまにこうして、どちらかのベランダか部屋で飲んだりする。

「ペナルティって、なんだったんですか」

「もちろん、コレだよコレ」

 親指と人差し指を作って顔の横に上げる。ししし、と奇妙な笑い方をする井頭さんは愛想も面倒見も良かった。

「あー。アイツ、ちょっとまけてくんねえかな」

「無理っすよ」

 アイツというのは“お迎えさん”のことだ。名前を聞いたけれども、彼は名乗らなかった。名前はあるけれども名乗らない。そういうモノなのだという。好きに呼べって。そう言われても、俺には名づけのセンスはない。なんとなく、“お迎えさん”って呼んでる。

 そして、このアパートは彼が連れてきた人だけが住んでいる。そういうものらしい。担当制なんだろうか。それとも、縄張りってヤツかな?

「それにしても、そんなに現金集めてどうするんですかね」

「へ?そりゃ、あれよ。現実社会でのアレコレに使うんよ。例えば、不動産の管理会社経営とか」

「えっ。現実の人間がやってるんですか、ここ」

「そりゃそうだよー。まっ、俺たちみたいのが代行するのってのもあるみたいだけど」

「どうやってっすか」

「そこまでは知らんけど。あちこちにいろんな職業の人が紛れてるらしいよ。ヤツらの息のかかった」

「はあー。ビックリですね」

「なあ」

 スルメをかみつつ答える。スルメは長持ちするツマミだ。味も良くて気に入っている。この体になってから、酒は強くなった。何故かは分からなかった。

「どうやったらなれるんですかね」

 気軽に聞いてみたら、井頭さんは真顔になった。

「なろうって考えない方がいいぞ」

「でも、収入よさそうですよね」

「いいだろうけどなあ」

 厳しい表情がやめておけ、と物語っていた。

「井頭さんって、どこからそういう情報集めてくるんですか」

「長いことこんな状態だし、フリーターだからな。いろいろよ~。いろんな話も聞くし。都市伝説だったりとかな」

「はあ。都市伝説って、どうやって確かめるんっすか」

「そりゃもう、アレコレよ」

 深く聞かない方がいいなと判断して話題を変えると、元の笑顔で缶ビールを飲み干し、レモンサワーの缶を手に取った。いきなりの都市伝説の話題に煙に巻かれた気分になるけど、まあいいかと思い直す。

「この世はあの世、あの世もこの世ってな」

 はは、と笑った井頭さんは、どうしてそんなに長く、この世に留まっているのだろう。

 

~ 井頭イツキ ~


「晴れた日の昼ビールってな、最高よな」

 ベンチに座ってボソリと呟いたら、通りすがりの人が嫌そうな顔をしつつ俺を一瞥して、足早に去っていった。桜が咲いてるんだ、花見したっていいだろうよ。なんであんな顔されなきゃいけないんだ。話しかけたわけでもないのに。

 あーヤダヤダ、とため息をつきつつ、ベンチの背に体をあずける。桜は毎年見てるが、毎年キレイだ。今年の桜はイマイチだなんて思ったのは、自分にお迎えが来た春だけだったな。

「あーあ」

 よっこらせ、と体を起こしつつ、そのまま膝に肘をついて下を向く。指先に引っかけた缶ビールはもう空になっていた。

 ツマンナイ話。俺がこんな風になったのは、実にツマンナイ話だった。

 

 子どもの頃は神童と呼ばれた時期もあったらしい。ド田舎の、せまあい地域で。実際、俺は特に勉強しなくてもスムーズに国立大学に入学できた。嫌味だよなあ。それに何の疑問も抱いてなかった。できて当たり前、みたいな?

 国立大を出て、大手銀行に就職。景気もいい時代だったから、世の中に勢いがあった。エリートコースを歩んで、適当に遊んで、二十代半ばで結婚。マイホームを購入して子どもを……と思った矢先、想像もしていなかった不景気に襲われた。

 嘘だろ、と思う間もなくいろんなことが変わっていった。わき目も振らずに全力で前進、みたいだった世の中は、あっという間に金も勢いもなくなり、失職する人や破産する人が大勢出た。

 銀行も例外じゃなかった。

 美人で性格もよくて、まあそれなりに愛情もあって、と結婚したはずの妻は、俺の肩書きと結婚しただけだった。職を失ったアナタに興味なんてないの、とアッサリと離婚を告げられた。子どもはいなかったので、もめることもなく離婚した。三十直前。

 再就職は厳しかった。それまではなんの苦労もなく生きてきたのに、初めて挫折を味わった。高学歴で、大手銀行に勤めていた俺の履歴書は、ほとんど意味をなさなかった。不景気とはそういうことだった。そして、調子に乗っていた俺は、時代が追い風になってくれていただけのことに、その時初めて気が付いたのだった。

 苦もなくなんでもできたはずだった。努力なんて必要ない。それが当たり前だと思っていた。そんな傲慢な俺には何も残らなかった。

 それでさ。気付いたらあの世だったのよ、俺。ってか、空中に浮かんでた。んで、やたら軽薄な“お迎え”ってヤツがきたのさ。どーもー、って。ヤツは言ったね。

「自分がどうなったか知りたい?」

「いや、全く興味ない」

 即答だった。あんな人生に未練も興味もなかった。どうなったかなんて、どうでもよかったんだ。クソだと思ってた。世の中全てが。

「はいはい~。じゃあ、この後どうするか選択してくださいネッ」

 ソイツが示した選択肢を比較して、よくよく考えて聞いてみた。

「人生やり直せるってことか?」

「そういう見方もあるねえ。でも違うよ。やり直せない。君の人生はもう終わった。やり直すんじゃなくて、ただの支払いのための労働だよ。清算、ってヤツだね」

 にべもなく簡潔に言い切った“お迎えさん”は軽薄な口調だったけれど、内容にはゾッとした。人生は終わった。その人生をまっとうできなかった分の清算をしろ、ってことだ。目に見える、金銭的な形で、って。

「何も望んじゃいけないのか」

「何したって自由だよー。犯罪以外は。でも、人生は一度きりだ。それはもう、君は終わってるってことだけは忘れないでねん」

「分かった。ところで、俺がこの先、犯罪を犯すとどうなるんだ?」

「それはもう、大変なことになるよ。たいっへんな、ね」

 全然大変そうじゃない口調で告げるが、口調が与える印象とは違うんだろうなと感じた。

 結局俺は、現世で現金を稼いで支払う道を選んだ。強制労働と何が違うのかは分からなかったけど、勝手知ったる現世で、限られているとはいえ好きに職を選べるのなら、そっちの方がいいと思ったんだ。

 ペタリ、と紙に赤い丸印をつけたあと、“お迎えさん”は新しい戸籍と住む場所を用意してくれた。別れ際に聞いてみた。

「なあ。その腰の鎌、切れんのか?」

「試してみる?」

「今はやめとく」

 鎌よりも、試してみるかとアッサリ聞いてきたソイツが怖かった。


「らっしゃっせ~」

 迷った末に会社員になるのはやめた。生前は会社員にこだわって、正社員の口ばっか探してたけど、嫌気がさしたんだ。

 新しい履歴書も戸籍も、住む場所もある。戸籍があるから、いろんな契約にも困らない。二十代半ばを選んだ俺の体は、体力もあるしなってことで、フリーターを選んだ。派遣会社に登録しようとしたけど、なんかやめた。フラリと入った町中華で求人募集をしていたから、その場で申し込んでみた。

「ごめんね。履歴書、一応、提出してくれる?」

 手ぶらだった俺に、困ったように店主が言った。以前は面接だけで雇うかどうか決めていたけれど、ご時世的に履歴書は必要なんだって。

 言われるままに履歴書を提出した。飲食業は初めてです、と言ったら、まずは接客と皿洗いってことになった。

 俺、飲食業をなめてた。現役で国立大も入って出た、大手銀行で働いてた、できないわけないって。でもさ、違う。実際やってみたら、想像と全然違った。

 立ちっぱなしで足腰が痛い。いろんな客がいる。無駄に偉そうなヤツも、優しい人も。大量に頼んで残して行く人。美味しそうに食べる人。投げつけるように金を置くヤツ。ごちそうさまでした、と言葉をかけてくれる人。間違いなく頼んだくせに注文と違うからタダにしろと言うヤツ。それぞれにその場で考えて対応しないといけない。瞬間的な判断力と決断力が必要だ。更に、ランチタイムの目まぐるしさは、ひとしおだ。夜、酒場になると客層も注文も変わる。客席内も厨房もスペースが限られている。その中で滞りなく注文をさばいていかないといけない。

 皿洗いも、最初はできなかった。思えば俺は、台所になんて立ったことはほとんどなかったんだった。

 職業に貴賤はない、という言葉は、そこで実感した。

 おもしろくなっちゃって、そのまま町中華でバイトし続けた。そのうち常連さんが顔を覚えてくれたり、店主に教わって、客に出せる料理もできるようになっていって、楽しかった。 

 でもさ、やっぱり来るのよ、その時が。

 十年経ってもそのままそこにいて、姿形が変わらない俺を、周りが訝しみ始めた。そりゃそうだ。俺を雇った時に初老だった店主は、老人になっていた。

 いつまでも若々しくていいよね、から、このままバイトでいいの、と聞かれたのはいつだったか。

「その気があるなら、店を譲るよ」

 常連たちに、あのバイト怪しくないかとかいろいろ言われても相手にしなかった店主は、にこにこと人のいい笑顔で俺にそう言った。

 ちょっと気持ちが動いた。このまま、店を譲ってもらおうか。想像してみて、無理だと諦めた。陽気な顔と声の“お迎えさん”がパッと頭に浮かんだ。一ヶ月に一回やってくるアイツが、残金だいぶあるけどどうすんの、と言っていたのだ。先月。

「あー……。ありがとうございます。でも、考えさせてくださいっす」

 頭を下げてそう言うのが精一杯だった。

 帰って、アパートのベランダで煙草の煙を吐きつつ夜空を見上げる。星も月も見えねえけど。曇ってて。

 経営ができないわけじゃない。でもただ、不老不死みたいな姿で、店主が長年大事にしてきた店を譲ってもらうわけにはいかなかった。そして気付いた。店主が他の人に店を譲る機会すら、俺が奪ってしまったことに。

 店主はもう、結構な年齢だ。今から誰かに店の味を継がせることは難しいだろう。

 はは、と空虚な笑い声が出た。もう人生終わったのに、迷惑かけたよ。人の人生に。取り返しつかないじゃん。……なんてことだ。

 その事実に打ちのめされていたら、隣のベランダのサッシ戸が開いた。おもむろにギターの音が響いてきた。これがまあ、下手くそなんてもんじゃない。原曲が分からないくらいに下手くそなそのギターを聞いているうちに、ヤケクソみたいな笑いがこみ上げてきて、俺はいつの間にか腹を抱えて笑っていた。なんか濡れてるなって思ったら、涙が流れてた。

 うるせえ!という他の住人の怒鳴り声で静止されるまで、俺とギターはそのままそうしていた。


 そうして俺は町中華の店を辞めた。“お迎えさん”には後五年したら別の戸籍と年齢になるよ、と忠告された。そのペナルティも金だった。

 この世は金、あの世も金だ。

 でも俺、ちょっと興味が湧いた。この世はクソだと思ってたけど、あの店主は違った。優しさとか、愛情とか、芯の強さとか。俺も抱いてみたい。クソみたいなどうでもいい感情だけじゃなくて。

「終わった人生、金稼ぎながらもうちょい生きてみますかね」

「いい加減にしてよ。手間が増えるんだから」

 ちょうどやってきた“お迎えさん”が嫌な顔をした。それから俺は、ヤツに嫌な顔をされつつもこの世に留まってるってわけ。ちゃーんと支払いはしてるけど、まだまだかかりそうだなあ。


~ 潟岡リノ ~


 せっかくだから、好き放題やってみよって思ったんだ。人生、終わったんだし。


「あー……」

 人生終わるのって、いきなりだな。

 気付いたらお葬式だった。自分の。遺影の正面に立つ。コレはアレだ。黒歴史というか。アイドルの完コピして踊ってた高校時代の。すっごい笑顔だ、私。

 我ながら笑っていいのかどうなのか微妙な気分になっていたら、同級生が三人、やってきた。高校のグループの子たち。みんな神妙な顔してて、ごめんねって思うよりも、笑っちゃう私は、どっかやっぱズレてたんだろうなって思っちゃう。

「リノ……なんで」

 棺の前で、三人のうちの二人が涙を流しながらハンカチを握りしめた。おーい。私、ここだよー。

 いっつも四人でいた。私はバカなことばっかりしてた。友だちが笑ってくれるのが嬉しくて、ふざけてばっかりだった。

 棺に顔を寄せている二人の後ろで、一番仲の良かったモモカが真っ白な顔で唇をかみしめている。ハンカチをギュっと両手で握り絞めている。

 ああ。ごめん。モモカ。負担、かけちゃったな。

 咄嗟にそう思った。何かリアクションしても意味がないのは分かっていたから、寄り添ってみた。モモカ、ありがとうね。モモカがいてくれて、よかったよ。モモカが私のすることをいっつも受け止めてくれて、笑っててくれたから、私、生きていられたんだ。

「…………私のせいじゃん」

 え。

 モモカがポツリと言った言葉に驚愕した。どうしてモモカのせいになるんだろう。私はモモカに救われていたのに。

 モモカが屈託なく笑うのが嬉しかった。バカだなーって言いながら、いっつも一緒にいてくれたじゃん。なんで?なんでそんな。

 涙をにじませたモモカは、涙を落としはしなかった。歯を食いしばって、激情と闘っているように見えた。……なんで。

「あの。次の人が」

「すみません」 

 式場の人に促されて、三人は棺の前からゆっくりと離れた。そのまま歩いて、式場の出口付近にいた両親の前で丁寧に頭を下げる。

「ご愁傷さまです」

「忙しい中、来てくれてありがとう」

 当たり障りのない挨拶をする両親を見る目は、我ながらひどく冷たかった。……この人たち、悲しいのかな。卒業式で会っただけの三人を、覚えていたのだろうか。いや、そんなまさか、だ。年齢的なことで同級生って検討をつけて話してるだけだ、きっと。いや、そんなことよりモモカ、モモカ。

 短い挨拶を終えて去っていく三人の背中を追う。式場を出たところで、目の前にTシャツジーンズ姿の人が急に立ちふさがった。

「はいはーい。ストップストップ!!来るの遅くなっちゃって、ごめんねえ」

「は?!ちょっとどいてよ」

「いやいや、そうはいかないのよ。アナタのこと迎えに来たんだから」

「んなっ……」

 あ、そうか。私の前に立ちはだかれるってことは、この世の人じゃないわけで。なるほど。だからお葬式にTシャツジーンズ。

「えっと、潟岡リノさん。これからどうするか、この中から選択してくださいね」

「決まってるんじゃないの?」

「あー……決まっていそうで、決まってはないんです。アナタ、突然でしたしね」

 いやもうほんと、自分でもビックリ。気付いたら一歩を踏み出してたよ。無意識に。人生最後の一歩。

「あの、友だち追いかけてからじゃダメ?」

「ダメでーす。ただでさえ遅れたからね。さ、選択してくださいッ」

 遅れたのは自分の都合なんじゃん、と不服に思いつつ、その“お迎え”が出した選択肢をじいっと見る。

「ねえ。知ってる人に会いに行ってもいいの?」

「いいけど。顔そっくりでも名前違うしねー。戸籍も。アナタの場合、選べる年齢の幅は狭いけど。享年まで。義務教育の年齢には戻れないからね」

「……でも、会いに行っていいんだ」

「いいよっ。だって、戸籍も名前も違うし。相手だって、まさか本人とは思わないよ」

「じゃあ、これ」

「はいはーい。君、結構高額だから、頑張って働いてねっ」

「……その言い方」

「はいっ」

 差し出された、赤い丸がつけられた紙を受け取った。

「高校生くらいになってもいい?」

「もちろん。十五歳とか?ただ、天涯孤独になるよ?」

「うん。平気」

 よし。せっかくだから、全然違う自分になってみよう。


 家庭内のことはその家族にしか分からない。そんな残酷な現実を突き付けられたのは小学校のまだ低学年だった。

「リノちゃんのパパって、かっこいいよね!優しそうだし!!」

 無邪気な同級生の言葉に、内心、凍り付いた私は、えへへ、と笑うことしかできなかった。

 父は確かに有名企業勤めでエリートと呼ばれる人だった。外面も抜群によかった。母は専業主婦で、美しい人だった。私は一人っ子で、物心ついたときにはいろんな習い事をさせられていた。

 父は外面はよかったけれど、気分屋だったし、家のことは何もしなかった。急に機嫌が悪くなる。なにが悪いのかも分からなかった。遊園地でいきなり置き去りにされたこともある。話しかけても気分次第では無視だった。学校の成績はトップクラスじゃないと友だちと遊ぶことも許されなかった。

 母は私には無関心だった。母も外面がよかった。パパを怒らせないで、と口癖のように言われて育った。物がよく分かっていなかった子どもの頃には不倫現場によく連れていかれた。成長してから気付いた。習い事が多かったのも、私が習い事をしている時間に不倫相手と会っていたのだ。英才教育なんて、体のいい建前。

 いい子でいる為に、外では愛想笑いをしつつ、家では両親のご機嫌を窺う毎日。転機が訪れたのは中学校だった。いじめられたのだ。キッカケなんて、ちょっとしたことだったと思う。

 子どもは残酷だ、という言葉を耳にしたことがあった。けれども、大人だって残酷だ。

 いじめられているのを知っていて、両親は見て見ぬフリをした。いや、父は気付いてはいなかったかも。卒業式、懇親会の後に帰宅した母に言われたことに、なんだか絶望した。

「貴女、いじめられていたの?知らなかったわ」

 嘘だって知ってた。担任から連絡がきていたのを知っている。担任はいつでも真摯な人だった。私のことも、なんとかしようと関わってくれていたのを知っている。私が、なにも言えなかっただけだった。助けて、って。

 幸か不幸か、進学校であれば文句を言わなかった両親だったので、受験勉強を頑張って、ちょっと遠い高校に入学した。合格したときは、心底、嬉しかった。同じ中学の子は誰もいなかったし、人づてに地元に噂が流れることもない。通学はキツかったけど、その分、家にいる時間も減ったし。それはそれでよかった。

 恵まれていたとは思う。お小遣いはしっかりもらえていたし、家に帰れば手料理があって、清潔な布団で眠れた。

 けど、窮屈で窮屈で仕方なかった。家の中も、地元も。高校に通うようになってやっと、私は息ができるようになった気がしていた。幼い頃の習慣で人の顔色を窺うクセは抜けなかったけど、でも、屈託なく笑い合える友達ができて、すごくすごく楽しかった。のに。

「いやなんで?」

 “お迎えの人”が用意してくれたアパートの部屋に座り込んで首を傾げる。どうしてモモカのせいになるんだろう?全然分かんないな。

 十五歳からスタートして、今度は大学に行かなかった。そのまま就職した。高校の内に簿記の資格を取った。運よく事務職に就けて、なんとかかんとか、生きてる。生きてる?のとは違うかも。生活してる?

 あれから五年で、戸籍上は今、二十歳。けど、まだ私は、モモカに会いに行けていなかった。謎が解けない。あのときのモモカの呟きの意味が分からないのだ。

 すっごいバカ騒ぎした。高校では。両親の目も届かなくて、中学の知り合いもいなくて、近所の人もいない。さいっこうじゃん、って思って。

 アイドルになりたいんだよね、とか言って、女の子じゃなくて、男の子のグループのダンスの完コピしたりして。音痴だから、歌いながらやったらメッチャうけて。あー遺影の写真だな。

 ……どうでもいいけど、あの親、私のスマホの画像漁ったのか。データ消しとけばよかった。でもな。大事な思い出だったしな。私、いきなりだったし。消しとこ、なんて前もってやれないわ。まあ、ああなった以上、私がバカ騒ぎしてたのがバレたところで、なんの支障もないし。二度と会わないから。

 育ててくれて感謝はしてる。でもただ、家族としての愛情を受けたことはない。一切無縁だったから、私も両親に対する愛情なんて、欠片もない。血が繋がってただけ。義務しか存在しない関係だった。

 なんたって、私が高校に入学してからは、お互い愛人のとこに行きっぱなしで、それぞれ家にほとんどいないことにも気付いてないくらいの仮面夫婦だったからね。母は、バレないように家のことやってくれてたけど。なんで離婚しなかったんだか。娘の私にも謎なんだよな。外聞が悪いから、ってだけかもな。そういうことばっかり、気にする人たちだったから。

 いや、それよりもモモカ。住んでるとこは知ってるから、会いに行くことはできる……んだけど。

 私、十五歳のままなんだよな、外見。

 成長とか老いていく、っていうのが備わっていない、この体。それは最初に説明されたけど。スマホにメモしてある、支払金額の残金を確認する。このままだと、姿を変えないといけない。全額稼ぐには、まだまだ遠い道のりだった。だって、支払いが始まったの、十八歳からだし。それまでは、バイトしながら高校行ってた。二十四歳になって、そこから外見に違和感でるまで働いた方がよかったかな。でも、それだと知ってる人に目撃されたときに、面倒だなっていうのもあったし。仕方ないか。

 選んだ年齢によっては、生前の学歴と資格をオマケでつけてもらえるから、次は二十四歳を選ぼう。今回取得した、簿記の資格もつけてもらえるはずだし。それにしても、皮肉だな。生前の社会人歴は二年に満たなかったのに、今は五年。社会人歴は今の自分の方が長くなってしまった。

 そろそろ、外見と戸籍上の年齢にも無理がでてきた。“お迎えの人”も、そろそろかなって言ってたし。次は二十四を選んだとして……あのときの私がそのままモモカの前に現れたら、全くもっておかしい。私なら、腰を抜かす。行くなら、年齢を変える前の今、だ。

 よし。謎は解けないけれど、会いに行こう。

 決心して、ベランダのサッシ戸を開けたら、煙草の臭いが漂ってきた。台所へいって、ゴミに出す前に洗って乾かしていた空き缶を掴む。

「ベランダで吸うなっつってんだろ!!クソが!!」

「はいはーい」

 空き缶を投げつつ文句を言うと、軽い返事がきた。隣の男はたいして親しいわけではないが、お仲間、だ。仙人みたいな雰囲気を出している。どのくらいこの世に留まってるの、と聞いたことはなかった。長すぎるとああなっちゃうのかな。

「おーい。口悪すぎだぞー」

「余計なお世話!!」

 飛ばした空き缶をつぶしたのか、ぐしゃり、という音と一緒にのんびりとした声で言われた。

 そう。余計なお世話だ。生前は人の顔色ばかり窺って、言いたいことも言えなかったし、イヤなことをされても黙っていた。でも、これからはキッパリ言おうって決めたんだ。なんなら、悪い言葉も使う。勢いが出るから。

「よし。行くぞ」

 空を見上げて、両手をぎゅっと握った。


~ 南良モモカ ~


「ウソじゃん、なにここ」

 僻地と呼ばれるローカル線の単車の車両。延々と田園風景を走るのに飽き飽きしてスマホでも、と思ったら電波があやしい。人が住んでるのに、今どきこんな場所あるの。どうでもいいけど、単車両って短い。ってか、単車両に乗ったのも見たのも初めてなんだけど。

 新幹線が通っている駅もなんだか古めかしかったけれど、乗り換えでこの単車両が来た時は心底ビックリした。ポカンとしつつ、誰もいない車内に乗り込んだ。

 そこから延々、一時間田園風景。まだ背の低い苗が田んぼに並んでいて、ああ、キレイだなって思ったのは最初だけ。ずーっと変わらない田んぼと山の風景に、飽き飽きしてしまった。

 はあ、とため息をついたところで終点を告げるアナウンスが車内に響いた。立ち上がる。

 終点の駅も小さかった。駅員さんはかろうじていたけれども。

 駅前に立ってみる。なんもない。いや。ある。小さなタクシー会社が。それ以外は特になにも、店もない。民家ばっか。

 スマホの電波が復活していたので、目的地を確認する。ここからかなりの距離があった。バスも通ってない。仕方なく、タクシー会社へと歩く。

「すみませーん」

 事務所の入口で声をかけると、奥の小上がりからオジサンが出てきた。

「はい。お待たせしました」

「あの、このお蕎麦屋さんに行きたいんですけど」

「ああ、はい。今、車まわすんで、ちょっと待っててくださいね」

 このオジサン、一人しかいなさそうなのに事務所を空けて平気なの。というか、タクシー会社に一人しか待機してないって、どういうこと?そういうものなの?

「お待たせしました」

「あの、よろしくお願いします」

「はいはい」

 乗り込みつつ言うと、運転手のオジサンは軽く返事をして発進した。

 タクシーの運転手さんってさ、話しかけてくる人もいるじゃん。特に観光地だと。どこから来たの、とか。観光地じゃなくても、割と話しかけてくる運転手さんはいる。でも、この運転手さんは黙ったまんまだった。

 駅の小さなコンコースの前を通り過ぎて、ぐるりと大きなカーブになっている坂道をゆっくりと上がっていく。左手に大きな川が見えた。川沿いをずっと走って行く。大きな橋を左折して渡り、今度は右折して山沿いの細い道を走って行く。

「あそこですよ」

 運転手さんの声に前を見ると、年季の入った、こぢんまりとした木造の平屋が見えた。

「帰りは、電話をくださいね」

「はい」

 タクシーが走り去っていく道路の西側には、木々がうっそうと生えている山。振り向くと、少し先に川が流れ、その奥側にはまた山。盆地の中にある僻地の自然は、なんだか怖い。手入れなんか一切されていない山の木々は化け物のように生い茂っていて、来る者を拒んでいるみたいだった。

 歩き出すと、足元で砂利が硬い音を立てた。舗装されてはいるけれどもガタガタとひび割れや穴や傾斜が多い車道には、中央線もない。もちろん、ガードレールもない。そこから地続きに、砂利が敷かれている駐車場。広い駐車場の奥に、木造の平屋。屋根はトタン屋根だ。間口は広く、今は店の扉は開け放たれてある。

 蕎麦屋とだけ記された藍染めの暖簾が微かに揺れ、それにシンクロするように駐車場奥のタチアオイが揺れた。そして、その奥に。

「だ、ダチョウ」

 なんでダチョウがいるんだろう。二羽のダチョウが木製のフェンスの向こうにとぼけた顔をして立っていた。


「いらっしゃい」

 店に入ると、つるりとした頭で、背の低いガッチリした体格のオジサンが振り向いた。首から手拭いをかけていて、紺色の作務衣姿。店内は天井が高くて、太い梁がむき出しになっている。入り口に立って、正面が広い土間。土間を挟んで左手側が厨房、右手側が客席だった。客席は広々とした座敷だ。床の間もあって、大きな柱時計があった。天井が高いせいか、床の間の辺りはなんだか薄暗い感じもする。川に面して窓があり、吊るされた渋い風鈴が、ちりん、と涼し気な音を立てた。

「一人です」

「どうぞ」

 にこにこと人の好さそうな笑顔で座敷へと手を向ける。頷いて靴を脱いで上がる。四人掛けの座敷卓が間隔を置いて八席。四卓ずつ左右に分かれていて、真ん中が少し広く空いて通路のようになっている。それぞれに座布団が敷かれていた。

 川からの涼しい風が時折吹き抜ける。開放感があるその座敷に、どこに座ろうかと足元がウロつく。窓からの景色が見たいと思い、一番奥の席に座ったら卓の上にお茶が置かれた。

「どうぞ」

 ビクリとして顔を上げると、頭に手拭いを被った割烹着姿のオバサンと目が合った。曖昧に頷くと、すい、と厨房へと戻っていく。

 ビックリした……。

 湯呑に手を伸ばす。蕎麦茶だった。喉を通っていくときの香りがいい。メニューは、と卓上を探すが、なにもない。座敷に視線をさまよわせると、壁にいくつかのメニューが貼られているのが目に入った。

 ざる蕎麦、板蕎麦、中華そば。寒ざらし蕎麦あります。

 蕎麦屋なのに、中華そば?それに、どうして温かい蕎麦はないんだろう。寒ざらし蕎麦って何?スマホで検索をかけようとしたが、電波が不安定で繋がらなかった。

「すみません。ざる蕎麦を」

「はい」

 声に反応して顔を出したオジサンに注文する。入ってくるときは気付かなかったけれど、入り口すぐの場所がブースのようになっていて、蕎麦を打つのを見られるようになっていた。

 物珍しくて、キョロキョロと視線を彷徨わせる。窓の外をのぞくと、川は思ったよりも低い場所を流れていた。濃い緑色のようだけれども、透きとおっていてキレイだ。この辺は鮎も名物らしい。視線を上げると、生い茂った木々と崖のようになっている山肌が見える。

 視界の隅を何かが横切った。三毛猫だった。タタタタ、と厨房へと走って行く。

「お待たせしました」

 オバサンが蕎麦を持って来てくれた。丁寧だけれどもニコリともしないその姿に黙って頷いた。

 お盆の上には、丸くて小振りの徳利のようなものに入った麺つゆ。小皿にワサビと海苔。もう一つ、小皿に白菜とキュウリの漬物。なぜか七味が添えられている。結構なボリュームだ。メニューを確認する。七百円。安っす。

 ズズ、と蕎麦をすする。蕎麦ってあんまり食べないけど、なんだかここのは美味しい。麺つゆも出汁がきいてて、すごく贅沢な気分になる。それにしても、あったかい蕎麦のメニューがないのはなんでだろう。蕎麦って、あったかいイメージだった。年越し蕎麦とか。

 カラになっていた湯呑が浮いた。オバサンが注ぎ足してくれる。黙ってそのまま立とうとするので、思い切って声をかけた。温かい蕎麦がないのが気になる。

「あ、あの」

「はい」

「温かい蕎麦ってないんですか」

「冬になると鴨蕎麦しますよ。あったかいです」

「あ、そうですか」

 ペコリ、と会釈をして去っていく。無愛想だけれども怖くはなかった。優しい声をしていた。でも結局、どうして温かい蕎麦は置いていないのかは分からなかった。

 無心で食べ続ける。食べ終わった頃に、蕎麦湯を持って来てくれた。蕎麦猪口に注いで、ゆっくりと飲み干す。ちりん、と鳴った風鈴の音に背中を押されるように立ち上がった。

 上がり框で靴をわざとゆっくり履く。心臓がドキドキと音を立てていた。ここに来たのは、蕎麦を食べる為じゃなかった。予想以上に蕎麦は美味しかったけれど。

 ほんとうの目的は、これからだった。

「ごちそうさまでした」

「こんな辺鄙なところまで、ありがとうね。七百円です」

 小銭はちょうどあった。オジサンが差し出してきたザルに入れる。

「あの」

「あ、タクシー?呼ぼうか。先に呼んでおけばよかったね」

「あ、あのっ。違うんです」

 すまなそうに頭をかきつつ厨房へと向かった背中に、声をかける。なんだか引きつった声になってしまって、ドキドキしていた心臓が更に早鐘を打つ。ちょっと息苦しい。

 挙動不審な私に、穏やかな表情を変えずにオジサンが向き直る。

「はい」

「あの、亡くなった人に会えるお香があるって聞いたんですけれど、ほんとうですか」

 オジサンは驚かなかった。ああやっぱり、みたいな顔をした。明らかに土地の人間ではない者が来るのは、そういう時だけなのかもしれない。この蕎麦屋のネットでの評価は高いけれども、ひょいと来るにはあまりにも辺鄙すぎる。

「どちらから?」

 どこから来たのと問われたのか、情報源を問われたのかが分からずに戸惑って、情報源の方を答える。

「ネットで噂になっていて。それで」

「すごいね、最近のネットの情報。そういえば、この前のお客さんもそう言ってたっけかな」

 つるりとした頭を首に掛けた手拭いで拭いたオジサンの足元に、三毛猫がちょこん、と座った。腰をかがめてよしよし、と撫でてやりながら、オジサンは優しい声で言った。

「ウチはしがない蕎麦屋だよ。何かあったの?」

 お香については、ある、とも、ない、とも明確な返答はなくて、ガッカリする。ないんだろうか。ネットの噂話を鵜呑みにして、藁にも縋る思いでこんなところまで来た自分が恥ずかしい。

 恥ずかしさと落胆で涙が滲んだ。誤魔化すようにしゃがみこみ、猫を撫でる。

「あ、えっと」

 下を向いたら涙が零れてきた。あれから五年。五年経っても、私はまだどこかに救いを求めてさまよっている。

 ポンポン、と肩を叩かれた。オバサンが手拭いを差し出しつつ、座りなさい、と上がり框を撫でる。

 手拭いを受け取って涙を拭く。ずず、と鼻水がでた。猫が私を見上げて視線で追ってくる。こぼれてくる涙を拭くのは忙しかった。お葬式の時だって、泣けなかったのに。自分のせいだ、ってそんなことばっかり思って、泣く資格なんてないって思ってた。

 ひとしきり泣いた後、嗚咽を噛み殺しながら口を開いた。


 リノは高校で出会った友達だった。いっつも明るくて、アイドルになりたいって言いつつ、男の子のグループのアイドルのダンスを完コピするような子だった。目鼻立ちのハッキリした、キレイな顔立ちをしていた。明るくて素直で、嫌味がない子だった。アイドルになりたいと言いつつも、音痴なところも愛嬌の一つだった。いっつも笑顔で楽しそうで。リノといると明るい気持ちになれた。大好きだった。

 ふざけたりおどけたりするのは大好きだけれども、どこか品がある子だった。食事の仕方はビックリするほどキレイだった。あんまり家族のことは話さなかったけど、それぞれいろんな事情あるし、と思って聞かずにもいた。

 大学は別々だったけど、社会人になっても付き合いは続いた。一週間に一回は連絡を取っていたし、月イチかニで会ってた。

 仲が良かった。すごく。そう思ってた。

「な、仲がよかった子、が。亡くなったんです」

 あまりにも突然で、早すぎる訃報だった。リノの両親が、彼女のスマホの履歴から連絡をくれた。

 事故でも事件でも病気でもなかった。

 棺に納められたリノを、同じグループの友だちの背中越しに見て思った。私のせいじゃん、って。そして、初めて会った両親の態度を見て思った。私はリノのことはなにも知らなかったんじゃないかって。静かに挨拶をする両親には、疲労も憔悴も感じられなかった。一人娘のはずなのに。

「すごくいい子で。明るい子で。大好きでした」

 そうだ。大好きだった。ただ私、最後に会った時に疲れてた。彼氏にフラれて、仕事も上手くいかなくて。そんな時期は、人生で誰にでもあり得るだろうに。なのに私、いつも通り笑っているリノに八つ当たりをした。素直に愚痴を言えばいいだけだったのに。いつだって、私の愚痴に気が済むまで付き合ってくれる子だったのに。

「最後に会った時に、私、八つ当たりをしたんです。笑っている彼女に、人生楽しそうでいいねって。悩みなんてないでしょ、って」

 その数日後、リノは帰らぬ人になった。遺影は高校時代の写真だった。見慣れた笑顔で、それがまた、辛かった。

「そしたら彼女、うん、楽しい、って笑って。それが最後になったんです」

 再び溢れてきた涙が視界を歪ませる。三毛猫が滲んだ。

「か、彼女に謝りたいんです。だ、だから私、ここに……」

 五年。五年の間、私は彼女に謝る方法を探し続けた。そんなのないって分かってる。だけど、探さずにはいられなかった。そうして、都市伝説系のサイトの片隅に、見つけたのだ。小さな記事を。地方の小さな蕎麦屋で、亡くなった人に会えるお香を買える場所があるって。本当か嘘かなんて、どうでもよかった。リノに謝れるチャンスがあるなら、眉唾ものの話でも、それにかけたかった。

「お願いします、私にお香を売ってください」

 二人をしっかり見た後に、頭を下げた。手が震えた。しばらくは、ちりん、という風鈴の音だけが、途切れがちに響いていた。

「お客さん、そのお香があったとして、何を引き換えにするかは知っているの?」

「え。お金じゃないんですか?」

「……違うよ」

 オジサンが私の目線に合わせて屈みこんだ。

「君の残りの寿命の半分だよ」

「え」

「どうだい?それでもいいのかい?」

 お金かと思っていた。お金では買えないのか。お金だったら、どれだけ高くても支払う覚悟ではいた。分割ででも。でも、残りの寿命の半分、と言われて、それでもいいとは言えなかった。覚悟ができてなかった。

 オジサンがゆっくりと、容赦なく続きを話す。

「残りの寿命がどれくらいなのかは、誰にも分からない。お代としていただいた直後に、君は倒れるかもしれないよ」

 視線が浮いた。そう言われて頷けるほどの覚悟は持っていなかった。私は結局、自分がかわいいってことか。そんな自分が心底嫌になるけれど、それでもいいから売ってください、とは言えなかった。

「タクシーを呼ぶよ」

 穏やかなオジサンの声に力なく頷いた。厨房に入って電話をかけているオジサンの声を遠くに聞きながら、ぼんやりと土間に視線を落とす。その私の背中を、オバサンがさすってくれた。

「その友だち、謝って欲しいとは思ってないかもしれないよ」

 涙が出そうなほどに優しいその声に、けれども私の気持ちは救われなかった。


~ 潟岡リノ ~


 いた。

 モモカが住んでいた最寄り駅に通うようになって数週間。引っ越しちゃったのかなと思い始めた頃に、モモカの姿を改札越しに見つけた。

 大きく息を吸い込んで、スマホで電話をしているフリをしてモモカへと近づく。なんだか顔色も悪いし、フラフラしている。近づいてくる私に気付く様子もない。ちょっと声量を上げる。

「でさあ~」

 すれ違う直前だったからか、モモカが気付いた。肩が軽くぶつかった。

「あ、すみません。ちょっと切るね。……すみませんでした。よそ見しちゃってて」

「リノっ!!」

 通話を切るフリをしてから、謝る。謝っている途中で、モモカが私の両肩を掴んで叫んだ。周囲の人が何事かと視線を寄越すけど、それだけで通り過ぎていく。

「あ、えっと……」

 モモカは想像以上に鬼気迫る顔だった。その表情に、驚いた。数歩下がると、モモカは我に返ったように手を離した。

「あ、ご、ごめんなさい」

「いえ。ぶつかったのは私ですから。私こそ、すみません」

 うん、と頷きつつ、チラチラと忙しく私に視線を投げる。無理もない。高校生のままの姿のリノが目の前にいるのだ。生きていたら三十なのに。

「あの、リノさんって」

「ごめんなさい。友人なの。あまりにもそっくりだったから、ビックリしてしまって」

 そもそも顔色が悪かったモモカは、言いながら更に真っ青になっていった。ちょっと、尋常じゃない。

「お姉さん、大丈夫ですか。よければコーヒーでも飲みませんか」

「あ、えっと」

「あそこ、どうですか」

 ちょっと先にあるコーヒーのチェーン店を指さす。カウンター席だけれども、空いてる。

「学校帰りで寄り道して平気?」

「私、成人してますよー」

「え」

 モモカはなぜか、更に青くなった。


 コーヒーを頼んで二人でカウンターに腰掛ける。座ってもモモカは具合が悪そうで、カウンターに両肘をついて頭を乗せた。その姿を、コーヒーを飲みつつ観察する。

 痩せた。明らかに。モモカは元陸上部で、しっかりした体つきだった。姿勢も良かった。今はガリガリで、背筋も丸まってしまっていた。年齢よりも老けて見える。

「あの、何かあったんですか」

 あまりにもモモカがそのままの姿勢で動かないので、声をかける。自分のコーヒーはもう、ほとんど飲み切ってしまった。

「あっ、ごめんなさい。その、ちょっと。あなたがあまりにも友人に似ていて……」

 慌てて顔を上げたモモカは無理やり笑顔を作ったが、話しているうちに歪んだ。眉間に深い深い皺が刻まれ、目尻に涙が浮かんだ。

「喧嘩したんですか」

「……ううん。そうじゃないけど」

「……よかったら、話してみませんか。気持ちが楽になるかもしれないですよ」

「でも、あんまり気持ちのいい話しじゃないと思う」

「いいですよ。聞き流しますから」

 にこりと笑うと、胸をつかれたような表情をした後に、にモモカは頷いた。

 一部始終は知っているので、聞き流す体で話を聞くのは簡単だった。うんうん、と相槌を打ちながら、モモカがどうしてこんなに苦しんでいるのかと、そればかりが気になった。葬式のときの、私のせい、という言葉が引っかかって仕方がなかった。

「それでね、私、その友人に言ってしまったの。人生楽しそうでいいねって」

「はい」

「それが、最後になっちゃった。その友人に次に会ったのは、お葬式だった」

「はい」

 知ってる。え。でもそれが?人生楽しそうでいいねって言われて、私、嬉しかった。実際、モモカたちに会ってからは楽しかった。楽しそうに見えて、それが伝わっているなら、メッチャ嬉しかったんだけど。

「私のせいだ。彼女の苦しみなんて考えもしないで、八つ当たりして酷い事言った」

 衝撃だった。モモカはそんな風に思って、この五年、面影が変わってしまうくらいに苦しんできたんだ。私は確かに急だった。その最後の一歩を踏み出させたのは、子どもの頃から蓄積された家庭の歪みだ。無意識に、私は一歩を踏み出してしまったのだ。

 モモカのせいじゃない。その気持ちを強く込めて、私は能天気な声をだした。伝われ。

「そうですか?私、同じようなこと言われたことあるけど、嬉しかったですよー。だって、人生楽しそうに見えるって、メッチャ嬉しくないですか?誉め言葉だと思ったですもん」

 緊張して声がかすれそうになる。コーヒーは飲み切ってしまったから、頑張って声を張る。

「そう思いません?」

 満面の笑みでモモカを覗き込む。戸惑ったようなモモカの瞳に、また涙が溢れてきた。

「……そんな風に考えたこと、なかった」

「そうですか?少なくても、私は嬉しかったですよ~」

 あはは、と笑い声をあげると、モモカは鼻水を啜りながら頷いた。言葉はなかった。

 モモカの涙が止まった頃に、私は立ち上がった。

「そろそろ帰らないと!明日も仕事で朝早いし」

「あ、れんら……」

「それじゃ!」

 連絡先を教えて欲しい、と言いかけたっぽい言葉を遮って、明るい声をだして手を振って、一目散にコーヒーショップを出た。振り向かずに改札へと走る。

 元気出して、とか、大丈夫ですよ、考えすぎですよ、とか、そういうことは言えなかった。思い浮かんではいたんだけれど。言ってはいけない気がして、言えなかった。まぎれもなく私は本人だけれども。それに、連絡先を交換することだって、できるわけがない。私の人生はもう終わっている。これ以上、できることはない。はは、と乾いた笑い声が出た。

 でもせめて、偶然駅で出会った、リノそっくりの若い子が笑い飛ばすことによって。

「モモカの心の重荷が少しでも軽くなったら、いいな」

 胸のわだかまりに堪えきれず、わざとおどけたように独り言を呟いたら、聞こえたらしい男の子が気味悪そうにこちらを見た。


~ 蕎麦屋 ~


「まだ六月なのに、暑いなあ」

 店先に打ち水をしている妻に話しかけると、黙って頷いた。

 妻は愛想がいいとは言えない。口数も多くはない。そのせいで誤解されることも多いが、実はすごく優しい人だ。働き者だし、俺にはもったいないくらいだ。会話がたくさんあるわけではないけれども、不思議と心が通じ合っている。お互いを支え合い、そうして俺たちは暮らしてきた。

 ずいぶんと、長い間。

 店の入口のガラス戸に目立たないように貼ってある、「求ム」という紙が日に焼けて変色している。そろそろ替えないといけないな。

「ダチョウを見てくる」

「ああ」

 妻はダチョウが好きだ。見ていると元気になるし、ダチョウはすごく強いんだそうだ。そう言って微笑む。思えば、ずっと彼女はダチョウが好きだった。だから、ダチョウの形にしてもらったのだ。

 そう。我が家にいるとぼけた顔の二羽のダチョウは、本物のダチョウではない。足元にすり寄ってくる猫も。

「そろそろですかね」

「そうだねえ」

 話しかけると、猫がのんびりと……いや、ちょっと人をくったような口調で返事をした。

「あまり暑いのは苦手なので、次は涼しい場所がいいです」

「分かったよん」

 返事をして、猫はただの猫の気配に戻った。この猫は使い魔というヤツだ。腰に鎌をぶら下げた、死後にお迎えに来る存在の。

 俺たちはとうに、自分たちの寿命を終えている。けれども、現世に生きる人のちょっとした手助けと、鎌を持つ彼の手伝いをする為に、こうして番人として存在しているのだ。

 目の当たりにするのは苦しいことが多い。けれども、長い事やっていると、ほんのちょっとだけ心が救われるような出来事に出会ったりもする。

 こうして長い時を過ごすことを選んだことに、後悔はない。なによりも、俺たちはまだ一緒にいたいのだ。

「さ、今日も元気に働くか」

 蕎麦屋とだけ記された、藍染めの暖簾を店先にかける。ヒラリ、と暖簾が風に揺れる。

 一度、彼に聞いたことがある。人生を終えた人たちが清算をする場所が、どうして現世なのか。そこで現金を稼いで生活し、その金を渡すシステムなのか、と。あの世ではないのかと。そうしたら。

「まあ、あの世で清算ってのもあるけど。それはまた別。大多数の人は現世で働くことになるよねえ」

 ケロリとした返答に、どうして、と聞いてみた。

「どうしてって?よく言うでしょ。この世は地獄、ってね」

 無邪気な声で返ってきた答えは、冗談ではないようだった。

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