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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鈍色の波間に

作者: S

 十二月の海というものは途方もなく冷たい。砂浜を歩く素足を波が撫でては帰っていく。その一撫で毎に神経の先まで凍り付くような痛みが何処か安心するのは、疲れ切った心の所為だろう。太陽も顔を見せぬ鈍色の空は合間から僅かな希望を漏らし、それでもその顔を変えるつもりもない。


 その日は朝から灰色だった。写真立てに切り抜かれた二つの笑顔もいつの間にか色褪せ、遠い過去の遺物に見える。粘土のような食パンを一口食べてすぐに吐きだしゴミ箱に葬った。意味が無いとわかっていながら、立ち直らなければならないとわかっていながら、日々を放擲し、荒んだ心を治す気もない。毛先はささくれて、爪もボロボロになっている。けれど人生が底にある限りこれ以上辛くなることもないという安心が心の隅に芽生えていて、それがこの墜落しきった生活を支える頑強な柱となる。何が原因でこうなったのか、それはとうに理解しきっているというのに。

 何も食べる気にならず、やせ細った白い腕で暗黒色の灼熱な液体をマグに注ぎ入れて食卓へと倒れ伏した。手のひらに収まる情報の塊を見つめ始めれば、もう動けなくなることは明白だ。それでも世界から目を背けるには、そうするほかない。この行為は功利主義の賜物のようだ。

 見れば世界というものは現実とは裏腹に希望に満ち溢れているらしい。人々が電脳空間上で共感し、賞賛し、いがみ合って、仲良くしている。キラキラSNSなどとは程遠いと嘲りながらまた今日も一つのアカウントを見つめる。一年前から何も変わっていないそのアカウントを毎日のように確認し、ありもしない希望を願って落胆し、閉じる。無益な行為だと自覚していても止めることはできない。恋人はとっくに完全と成り果て久しい。私もそう成れたらと願う心もないわけではないが、人間の崇高な精神は簡単に自らの高尚なDNAを谷底に捨てることは許さず、首に掛かった縄で現実へと引き留めるのだからこれは無理と言って差し支えない。SNSという現代の大言壮語な殺戮的虚構掲示板には今日も笑顔の仮面が大量に並んでいる。『カルペ・ディエム』の言葉すら今は息の詰まる現実を生き延びるための自己暗示にしか見えなくなるのだ。ニ十分、三十分と死体のように親指と目線だけを動かしていると一つの絵画が目に入ってきた。たった一枚の陽気な海の絵画が私の心を強く握りしめて動かなくなってしまった。

「海……」

 目を覚まして初めての言葉が自然と口から零れ出し、脳裏によぎったのは数年前の記憶。恋人と共に夏の海に行ったことが一度だけある。太陽の光を十分に吸い込んだ砂をサンダルで踏みしめ、人生で数少ない海水浴を楽しんだ過去の記憶。あの日ほど世界の空気が輝いていた日などなく、鬱陶しいと思っていた紫外線も必要不可欠な要素と思えた程だった。

 海に行こう、そう決意するのに必要だった時間は刹那ほどにも満たない。冷めきった珈琲を全て飲みくだし、立ち眩みと相対しながら立ち上がる。食を求める他に家という領域から出る行為をいつしたか。それは遠い過去まで遡らなければ思い出せない。久しぶりに姿見の前に立てば、いつしか真白になった髪が腰ほどまで無造作に伸びている。細く折れそうな程の白い手足、言い表せない恐ろしさと美しさがそこに同居している気がした。別に旧友に行く訳でもない、見苦しくない程度に整えればそれでいい。寒さで凍えてしまわないように家の奥から外套を引きずり出し、忘れてしまったほど昔に買ってもらった小さな鞄をひとつ取り出して家を後にした。


 北から吹き荒ぶ風は手を震わせる。時の止まった住宅街は音がしない。吐き出す息は白く染まり空へと消えていく。通行人と交わす言葉もなく、足元を見つめて歩いていた。


「私、死んでなかったら今日も二人で遊んでたのかな」


 耳元からそんな声が聞こえた。驚いて振り返ってもそこにあるのは変わらぬ住宅群。けれどしかし、確かに彼女の声が聞こえてしまった。振り返った拍子に身体の軸を崩し地面に手を付いた。

 彼女の声が聞こえたのはかなりの久方ぶりだった。あの日から暫くは自滅的な思考に苛まれ多くの幻覚と幻聴を得た。今は大方寛解したと信じ込んでいたが私の身体の中にはまだあの日を恐れる気持ちが少しは残っていたのか、と自らがついた手を眺めていた。落ち着いて立ち上がれば心臓が嫌に跳ね上がる音と右手に存在を主張する僅かな痛みを残して跡形もなく何処かに消えてしまった。生きていることは常に痛みを伴うと誰かが昔言っていたことを思い出した。けれど痛みでしか生きられないのなら、とそう思うのも無理は無い。


 公共交通機関というものは常に人が多い。他人を観察することは好きではないが押し付けるように目に入ってくるのだから目を閉じる以外に避ける方法は無い。扉から遠い場所に追いやられ、力無く耐えることしか出来ないのは非常に情けない。軌道が安定していればそう怖くないものだが不規則に跳ねるときに壁や手摺りへとぶつかる。思い出せば彼女はこんな時に守ってくれていた、全てのものが彼女との思い出と重なる。けれど辛いものばかり何度も思い出されるのは私の性なのだろうか。答えを教えてくれる者もいない私にとって、これが永久論題と成ったのは過去の話だ。電車は乗っているものの心持ちなど関係なく、淡々と目的のみをこなす。突きつけられたものに対してそうだと割り切れたら世界はもっと明るかっただろう。

 騒がしい車内は暖房と熱とで次第に湿気を帯びてくる。髪が絡まり、張り付き、不快度を増すが何も出来ないのは知っての通り。『集うだけで不快になる』誰がそんな視点でこの壮大に発展した偉大なる種を評価したか。気分は未だ低空飛行、これを抜け出すために必要なものは私にはひとつしか思い出せない。


「ちょっと暑いね〜。まぁ、最寄り駅まで我慢だよ」


 また不意に電車が大きく揺れると同時に、隣から声がした。掴まる手摺りも無いまま人の身体へと強かに己が身を打ち付ければ、罪を恐れて巻き取られた手に支えられることもなく自力で這い上がる他なかった。やはり世界というものは着実に猜疑と怯えを主とするものへと変わっている。今日は2度、聞こえた。何が私の心に眠っていた蛇の尾を踏んだのか分からない。ただ、聞こえる事は何故か嬉しいと思う心もどこかにあった。外界から切断された意識が汗をかいている。焦燥とも絶望ともつかないただ一つの感情が根をはって周囲の音が消えていく。私にいま足りないものは何なのか。


 目的の駅まで送り届けられれば隙間を逃げるようにして駅に降り立った。立っていただけなのに疲労は凄まじく、生きた心地がしない。揺られたせいで胃から込み上げる不快感を押し下げて、冷たい風に汗を拐わせる。最寄り駅、南比良坂。縁起の悪い駅名を一瞥し、この出口までの分かれ道の無い階段を一歩づつ歩いていく。同じく駅に降り立った者たちは足早に駅を抜けていくが、落ちきった体力では階段も辛く思う。思い出の道、といえば聞こえはいい。自己防衛本能の過剰機能で震えが止まらなくなるといえば語弊ない。蓋をした記憶を少しづつ覗き込むようにあの日が想起されていった。


 彼女が死んだのは凍り付くような6年前の日だった。何故死んだのか、それは私にも分からない。遺書にはたった一言、消えるような字で『愛していました』とそれだけ残された。だから私は見えない何かを恨んだ。人情のない世界は異物を嫌う。生物学的に嫌悪を抱く。まるで私たちが狂っているかのように扱う。次第に墨を投げ捨てたように思考が澱んでいく。


「貴女に愛されたから。私は死んだ」


 窒息するような痛みが胸を襲い崩れ落ちる。理解している。彼女は人を傷付ける者では無いことを、これは私の空想が彼女の声で聞こえているだけなのだと。私を気遣うものは多かった。口を揃えて貴女の所為では無いと云う。けれど、そうで無いとしたら何が彼女を殺したのか。私が愛したばかりに彼女に荷を課し、共にいることと死というものを天秤にかけ、傾いたものが彼女を連れ去ったのだとしたらそれが結論でしかない。事実周囲の人物が私を異物と認識して遠ざけたのなら間違いではなかったと思う。

 彼女を初めて見つけたのは私だった。浴槽で一人、眠っていた。穏やかな顔で浮かぶ彼女をハムレットで見たことがある、とそう思った事が心に焼き付いている。現実を受け入れたくなかったのか、それとも真の意味で狂った感性がそれを受け入れるために芸術という皿を用意したのか、またはそのどちらもなのかは分からない。少なくともタナトスというものが私の内面から密やかに顔を出した事は間違いない。


「お客さん。大丈夫ですか」


 一人の制服を着た男の声で目の前が現実に戻る。階段で胸を抑えて座り込んでいた人間は相当奇異に思えただろう。軽く頷いて足早に去ろうとし、僅かに重心を不安定にさせながらも移動した。改札の階段を下れば嘗ての記憶に凍結された世界とはまるで表情を変えた陰鬱な街に遥か遠くから微かに夏の聲が響いているようで、未だ完全にあの街が無くなってしまったわけではないのだと理解する。雨の降りそうな曇り空だが海までは自らの足で行くしかない。漠然とした緊迫を抱えながら一歩、また一歩とあの理想へ向かって歩き出した。


 地と足が触れるたびに体には痛みが走る。行動は共に精神を消費する。この頃の社会は死というものが随分と近い。単なる悲劇的な消費型娯楽の一部として死が用いられ、格段の悲嘆さも神秘さもなくなってしまった。私があの時から持ち合わせているような不変不可到達な畏怖を伴う憧れも窺えはしない。死んでしまえたら、そう願うことすら忌避される。反対に取れば娯楽が増えたのだ。娯楽としてあらゆるものが消費され、ときには人の命すら消費するらしい。役に立つかも分からない思考は螺旋を描いて深みに繋がり、無駄を作り出しては無に還元する。これは意味のないことだ。そんなものが人生の大半を占めていたなら、その人生は意味のあるものなのか。悲嘆と消沈の中で日々を暮らし、理想を描いて実現不可能性を測る。生産性のないものと言われればそうなのだろう。


 縁石に足を引っ掛け、前を見れば随分と海は近づいていた。海に来れば気分は晴れる、と信じていたのだが信仰とは"そう"いうもので現実を修正してくれるものではない。相変わらず心の一部は抜け落ちたままで海風も砂浜も隙間を埋めてはくれない。美しいものを求めている。現実にはない、記憶と、空想と、過去との集合を求めている。次第に存在を主張しだす波の音が随分と不快な音に聞こえて仕方がない。海から吹く強い風は荒立った波の音と、腐ったような海の匂いを叩きつけ、居場所のなさを見せつけてくるように感じた。それでもとこれまでの労に見合った希望を抱いてコンクリートと砂浜の境を跨いだ。今日の砂は暖かくない。じっとりとしていて重く冷たい。粘土のような砂だった。輝きを放つはずの海面は白く汚れたものを浮かばせて何も見えない。寄せて帰る波は一定に、単純に、ただ繰り返しているだけ。人も見えず、"何も無い"。一縷の望みを抱いて靴を脱ぎ捨てた。あの日のようにと水へ歩みを進めて黒い海の中へと進んで行く、騒々しい風が耳元を通り抜けて髪を後ろにひっぱるのだ。手を伸ばしてあの日の記憶を補完しようとする。けれど、何も思い出せなかった。あの脳内に浮かび上がった電撃的な夏の記憶は現実を埋め合わせてはくれない。十二月の海というものは途方もなく冷たい。砂浜を歩く素足を波が撫でては帰っていく。その一撫で毎に神経の先まで凍り付くような痛みが何処か安心するのは、疲れ切った心の所為だろう。太陽も顔を見せぬ鈍色の空は合間から僅かな希望を漏らし、それでもその顔を変えるつもりもない。

 色の無い海に溶けるように、海に為っていく。冷たいけれどどこかそれが暖かい。代替不可の谷底の安心。霧散した希望の底溜まり。あの日を繰り返すように背から水へと倒れこめば海が私の体となり、感覚が鈍化して四肢が無限に伸びていく。三十六度の体温が溶けて同化していく。呼吸と単調な波が共鳴して、次第に一定になっていく。遥か北の彼方の海とこの痛みは同じだろうか。孤独を胸に社会から立ち退いたものと同じだろうか。海の音も段々と消え失せ、耳には無音が広がる。嘗て希望と情熱との象徴たる海はいまや死と孤独との象徴でしかなく、それは私が変わったのか世界が変わったのか推し量る術もない。


「────おいで」


 水底から一つの声がした。すでに声は驚くべき恐怖の対象ではない。水底から聞こえるようでいて、自らの体の内側から聞こえるよう。かつてない衝動と激情とが静かに心の中で発露する。彼女のいない世界に意味はあるのか。なくとも生きていかねばならないのか。失った二度と戻らぬ私の一部を抱えながら数十年と生きることが本当に"善い人生"か。死ぬことは本当に悪か。生の合理的判決の結果としての死は社会にとって、善にとって受け入れられないものか。

 急な思考の加速は海によって急速に冷却されながらも止まることは無い。少なくともただ一つの私が持ち合わせている解は『死とは一つの芸術の結果である』。そこに宗教も倫理も存在し得ないただ一つの理想を求めた終着がそうならば誰が止められようか。アリストテレスがかつて語ったように、幸福が最善美ならば死も美の一つだ。モノクロームの幸福な世界。幸福も苦痛も調整可能な完全な世界。解放と自由、人類の求めたものを実現できる。それが死だと私は思う。愛した者を失って代わりに得た苦痛を解消し、彼女の存在するその場所へ向かうただ一つの方法。この考えはきっと悲劇的でも短絡的でもない。合理を求めた人の思考の導き出した一つの結果。


 目を見開けば、虚無が全てを包んでいる。今の海は私を優しく包んで暖かく受け入れる、タナトスの行きつく先にやっと辿り着けたのだと、そう静かに彼女の元へと沈んで行った。

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