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盗みの冤罪で追放され美形の剣士に拾われた元女中ですが、剣士まで「盗みをしたらしいな」と言い出しました

作者: 赤林檎

 梅雨時の雨が石畳を濡らし、帝都の通りは仄暗い。


 魑魅魍魎が跋扈する時間には、まだ少し早い、宵の口。


 生垣に咲く紫陽花のそばで蹲っていた女は、濡れ鼠のような姿だった。


 名は紫。ゆかり、と読む。


 容姿は平凡。たまに「垂れた目元が優しげだ」と言われるくらい。


 数時間前までは、女中として華族である黒羽家で奉公していた。


 事の発端は、黒羽家で盗難事件が起きたこと。舶来品の香水瓶が、お嬢様の部屋から消えたのだ。


 紫が盗んだという証拠などなかったが、『貧しい家の出で、今では身寄りもない』というだけで、犯人に仕立て上げられるには十分だった。


「この盗人! お前みたいな者は、この黒羽家には相応しくないわ!」


 お嬢様は紫を犯人だと決めつけた。


 降りしきる雨の中、紫は打ち捨てられるように、黒羽家から追い出された。


 紫はぬかるむ道を、履き慣れた草履で歩いてきた。


 どこへ行けばいいのかもわからないまま、紫はただただ歩き続けた。


「戻ってくるなよ、泥棒女」


「お嬢様の香水瓶を盗んだんだってな。卑しい女は、高価な品を嗅ぎわけるって訳か」


 奉公仲間の蔑む声が、耳にこびりついて離れない。


 紫は空腹に震えつつ、濡れた着物の重みに耐えながら、それでも歩き続けた。


 そして、疲れ切った紫がついに動けなくなった場所こそ、この雨に咲き誇る紫陽花のそばだった。


「そこのお嬢さん、傘もささずに何をしている?」


 低く艶やかな男の声が、頭上から降ってきた。


 雨の帳の向こうに現れた男もまた、傘をさしていなかった。


 男は濃紺の着流しに身を包み、腰に日本刀をさしている。


 洋風に整えられた髪。目元は涼やか。異国の血でも混じっているかのような、彫りの深い顔立ち。どこか浮世離れした、美しい男だった。


「俺の名は鷹司東也。剣士をしている」


 そう名乗った男は、紫を抱きあげた。


 知らない男に連れ去られそうになっているというのに、紫はただ黙って震えていることしかできなかった。


 紫には、もはやこの男から逃げる気力など、少しも残っていなかった。


 鷹司は、そんな紫を己の住まいへと連れて行った。


 鷹司の住まいは、帝都の外れの高台に建つ、古い洋館だった。古さに反して、中は意外なほど整っていた。使用人はいないようであるのに、床は磨かれ、応接間には茶器や刀が整然と並ぶ。


 洋館の離れは、住まいというより、なにかの道場のように見えた。


「しばらくここにいろ。そうだな……、どこか良い働き口でも見つかるまで」


 そう言って案内された部屋は、まるで華族のお嬢様が住む部屋のような設えだった。


「助けていただき、ありがとうございます」


 紫は鷹司に頭を下げた。『身分不相応な扱いである』などと言う気力も、今の紫にはなかった。


「礼など不要だ。俺はつまらんものを斬り捨てるのが仕事でね。たまには人助けでもしないと、なにか帳尻が合わないかと思ってな」


 それがどういう意味か、紫にはすぐにはわからなかった。


 だが、この洋館で暮らすうちに、鷹司がただの剣士ではないことが見えてきた。


 鷹司は、夜な夜な闇深き帝都へと出ていく。そして、時折、灰色の返り血を浴びて帰ってくる。


(あの人は、魑魅魍魎を斬っている……)


 紫は鷹司の言葉の意味を理解した。


 鷹司は通称『物の怪狩り』、人々が恐れる魑魅魍魎討伐隊の隊士だったのだ。


 紫は鷹司が『物の怪狩り』であることよりも、鷹司からの扱いの方がよほど恐ろしかった。


「紫、面白い西洋菓子が手に入ったぞ」


 紫が少しでも鷹司の役に立とうと思い、家の掃除をしていると、鷹司はキャラメルなる甘美な塊を、紫の口に放り込んでくる。


「今日はやたらと蒸し暑い。汗をかいただろう? 風呂に湯を張っておいたぞ」


 雨の中、紫が細々とした日用品の買い出しから戻ってみると、鷹司は玄関先で紫を出迎えてくれた。


「梅雨時は食べ物が痛みやすい。腹など壊すなよ?」


 などと言いながら、今が旬の、アジや、イサキや、イワシの刺身を買って来る。どれも脂がのっていて、新鮮で、とても美味しかった。


 紫が眠れぬ夜には、鷹司は襖越しに話し相手にもなってくれた。


 ある朝などは、体調の悪い紫よりも早く起き、味噌汁を作ってくれていたこともある。


 鷹司は女中だった紫より、ずっと甲斐甲斐しく立ち働く。


 そんな奇妙な男だった。


 紫は、いずれ鷹司によって、魑魅魍魎を呼び寄せる餌にでもされるのではないかと疑った。





 ある夜、鷹司は湯呑を片手に言った。


「お前、黒羽家で盗みをやったんだってな」


「どうして、それを……?」


 紫は顔色を失った。鷹司は誰かから、紫が盗人だと聞いたのだ。


「俺は人間の『匂い』がわかるんだ。『悪党の臭さ』ってやつがな。お前には『盗人の臭い』などないよ」


 紫を見つめる鷹司の瞳は、かすかな怒りをたたえていた。


 紫には、鷹司がこの件について、なにか確信があるように思えた。


「俺の言い方が悪かった。そんな悲しそうな顔をするな。俺が真実を暴いてやる」


 鷹司の声は、いつも以上にやさしかった。





 それから一ヶ月ほど後――。


 紫の元奉公先である黒羽家から、鷹司の屋敷に使いがやってきた。


「紫様、お戻りくださいませ。あの件は誤解でした。……盗難の犯人は別にいたと判明いたしました」


 黒羽家の長男が、恋人であるカフェの女給への贈り物にするために盗んだのだった。黒羽家のお嬢様は、それを知っていながら兄を庇い、紫に罪を押しつけた。


 すでに世間にはその噂が広まり、黒羽家は名門の面目を保つため、『紫を養女として迎え入れる』という形で挽回を図ろうとしていた。


「華族の籍も、もうご用意しております」


 女中だった頃に夢見た日もあった、『華族のお嬢様』としての生活が、目の前に差し出されていた。


 だが、紫は、きっぱりと断った。


「拾われた先で、私は貴重な花のように扱われています。今さら、雑草のように引き抜かれ、打ち捨てられた庭に戻る理由などありません」


 使いは絶句し、顔を引きつらせて帰っていった。





 その夜、紫が、居間のソファでくつろぐ鷹司にこの出来事を話すと、鷹司は紫を横に座らせて、髪にそっと触れてきた。


「これからも俺の隣で咲くつもりか?」


 鷹司は紫に囁いた。


「お許しいただけるならば……」


 紫は顔を赤らめて、鷹司から視線を逸らした。


 鷹司はそんな紫に目を細める。


「許すもなにも、むしろ、こちらが頼む側だ」


 鷹司は紫の肩を引き寄せた。その眼差しには、魑魅魍魎を斬る剣士の鋭さではなく、男の熱が宿っていた。


「もし、あの時、東也様に拾われていなかったら、私は今、生きていたかどうか……」


「そうだな……。帝都の夜は物騒だ」


 鷹司の目が昏く陰った。


 紫はやっと気づく。自分はたしかにあの夜、この男に拾われた。


 だが、共に暮らすうち、この男から一人の女として選ばれていたのだと。


「生きているからこそ、こうして東也様をお慕いできます」


「洒落たことを言ってくれる」


 鷹司は紫に口づけた。





 その年の秋、鷹司の洋館の庭でひっそりと、二人の婚礼が執り行われた。


 庭の木々は赤や黄色に色づき、二人の洋装姿は、華やかな錦絵のように美しかった。


 世間では、『黒羽家を袖にした平民の女』がすっかり噂になっていた。


「あの拾われ女、今では魑魅魍魎討伐隊の隊長の奥方様なんですってよ」


「その隊長さん、華族の鷹司家の隠し子だという噂だけど、本当なのかしら?」


 噂は華族から平民にまで広まり、黒羽家は社交界から姿を消した。


 紫のことだけが原因ではないだろうが、黒羽家は華族の位まで剥奪されて、一家は帝都を離れることになったという。


 紫の身に起きた出来事は、ついには芝居にまでなった。


 人々は帝都劇場で、世間を騒がせた『拾われ女の逆転劇』を楽しんだ。





 そして、季節は一巡し――。


 鷹司の洋館の庭には、梅雨の晴れ間に洗濯物を干しながら、幸せそうに笑う女が一人。


 咲き誇る紫陽花が、紫を見守るように風にそよいでいた。

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