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樹海の底   作者: 葉るい
1/1

樹海の底 ①


 高校時代の友人の田村咲とファミリーレストランへ行った由依は、トイレに篭ったきり出られなくなった。トイレの個室の角で壁に向かって体を向け、指は小刻みに震えている。同時に足もカタカタと震えだした。呼吸は浅くなり、唾を飲み込むことも空気を吸うことも苦しく感じ、今いるところから一刻も逃げ出したかったが、友人を残して出ていくことも、テーブルに運ばれたであろうシーフードドリアもすべてが自分を待っている材料で逃れられなくなった。誰がこの私の心境を知ってくれよう。由依は自分の心と体に閉鎖されたように、トイレの小さな個室に立って震え続けた。ここから出て田村咲と談笑をすることも逃げたかった。この世界から、この時間からすべてから逃避したい。そんな気持ちと裏腹に、誰かがトイレに入ってきた。個室から出たいが出ることができない。誰かがわざと咳払いをする。息をひそめながら立ちすくむ。

「……遅いわねぇ」

 不貞腐れたようにそう言い、誰かがドアを開けて去っていった。由依は体の中が分解されたかのような神経を全身に感じながら、水中を漂う瀕死で酸欠の魚みたいな自分自身を、頭の一部分で宥めながら、個室を出た。洗面台の鏡を見て、なぜこんなにもこの世を絶望した目で見ているのか、鏡の中の自分の顔を見た。

「短大だったけど、結構充実してたし、楽しかった」

 そう言った田村咲の言葉を思い出した。楽しいなんて思ったことはない。周囲の人間が楽しいと感じて過ごした時間と今の自分自身の差を埋められずに胸の鼓動が高鳴る。けれでも、たった今の自分がどうであろうと、ここから一歩出なくてはならない。由依は整わぬ呼吸をそのままにして、トイレのドアを開けて恐る恐る出た。テーブル席が近づくと、さまざまな匂いが鼻につく。レストランの美味しく感じるはずの匂いに吐き気を催しそうだった。震える足元がおぼつかなかったが、田村咲のいるテーブルに向かった。由依の姿を見つけると、田村咲はさらっと言った。

「遅いから食べてた。このピラフ美味しいよ。どうかした?」

 由依は頭を軽く振り、席に座る。自分の目の前に置かれているシーフードドリアから目を逸らした。

「なんか、調子悪そう……。……もしかして生理とか?」

 田村咲は由依の顔を覗き込みながら、ピラフを頬張る。

「……うん、そう。急にね。あんまり食欲もなくって」

 由依は女性特有の都合のいい嘘をついた。ごまかしたかった。自分が今の自分から逃れたい気持ちと、人に壁を作ることに怯えながら、嘘をつく。

「でも、ちゃんと食べたほうがいいよ。女の子はしっかり食べなくちゃダメだって、お母さんがよく言うんだ。生理のときは貧血になりやすいし、栄養をとることが一番だからって」

 由依はただ頷く。咲が言うことは正しい。けれども、私は人をだましている。すべてを見過ごしてくれたら、私は楽になるのかもしれない。由依は田村咲の正しい言い分を受け入れられずにいた。食べ物を前にして、この世の終末のように絶望する。心も体も壊れていく。瀕死の魚の気持ちがわかる気がした。体中が硬直し、そして溶けていく。息もままならず、脳が麻痺して現実の感覚が奪われていく。

「……重いんだよね」

 由依は困ったように口を開いた。

「何が? ドリアが?」

「……うん。今は食べたくないし、田村さんが言った言葉も重い」

 咲は顔を曇らせ、頬に掛かった髪を片耳にかけた。

「だったら食べなきゃいいじゃん。変に真面目に考えちゃってさ。たかが、女子の話の一部じゃない。そんなことに深刻に重いって言われちゃったら、何も話せないよ。体調悪かったら食べなきゃいいし、私はちょっと楽しく過ごしたかっただけなのに」

 田村咲は明るく言い放ったが、少し捻くれた。由依は少し呼吸が整い、足の震えも少し収まった。咲はただ黙々と食べ、一人分の量を平らげた。由依は手つかずのドリアを前に、何ということもなく食べる咲の様子を見ては驚き、自分とは違う異質な人のように思えた。

「気分悪くした? ごめんね」

 由依は田村咲の機嫌をとるように優しげに言った。こんな気分にさせた自分が悪いのだ。由依は嫌われたくなかった。目の前のドリアは冷めてしまった。それを見つめながら、この感覚と記憶。あの時空を脳のどこかで覚えている。冷めた視線を落としながら、妙に冷静になった。

「気分、べつに悪くはないけど。もっと楽しい話がしたかったなって。だって、そのために会ったんだし。短大出て、臨床検査所に勤めることになってさ、総務やってるけど、雑用ばっかりでね。まだ全然慣れてないよ。でも、それでも周りの人がいい人だから一日過ごすのは快適だし、特別不満もないなぁなんて。今はお給料貰えるのがやたら楽しみで。なんかね、好きなもの買えるってのが嬉しいんだ。川西さんは仕事しないの? 大学も辞めちゃったし」

「……あぁ、そうだよね。まだ、何も……」

 由依の不安定になっていた神経はすっかり収まり、妙に食欲が湧いてきた。冷えたドリアをスプーンですくいあげ、口に入れた。

「もう冷めちゃっし、まずくない?」

 田村咲は少し笑って言いながら、由依を見つめた。

「せっかく大学入ったのに辞めるってさ、まずくない? ちゃんと卒業してれば就職だってしっかりできたと思うし。親だってがっかりでしょ。親不孝者だよ。もったいないことしてさぁ」

 由依は黙り込んだ。自分が大学を辞めたことに後悔がまるきりなかったからだ。人がそう思うのは理解をしていたが、私自身を傷つける人があまりに多く、そこに足を向ける理由がなくなったからだった。けれども、世間は私を責め続けるだろう。田村咲もその世間の一人だ。正論を言われれば言われるほど、自分自身が無になっていくのを由依は感じた。

「冷たいのに、よく完食したね、そのドリア」

 田村咲は笑った。自分に向けられる呆れた視線が、由依はなぜか快くもあった。

「……仕事、したほうがいいよ。ハローワークじゃろくな求人出てないだろうけど。世間にどんどんついていかなくちゃ。辛くったって皆頑張ってるんだし。仕事しなくちゃ生活できないし。生活できるようになったら一人前。二十歳過ぎたら大人じゃないんだ、働いてこと一人前。それ、知ってるよね?」

「……知ってるよ。誰だってそんなことわかっているんじゃないかな」

 由依は少し反抗的に言った。波立つ心が弱くも強くも揺れる。高校の友人であった田村咲は、いつの間にか自分を説教する大人になっていた。友達って何だろう。相手を示唆するための知り合いに変化していくのだろうか。本当に私のことを思って言ってくれているのだろうか、由依は疑問だった。高い壁がそびえたっている。越えられない壁。心の中にある遠い昔から存在している壁。誰にも理解できない壁……。

「今度会えるときに、変わっていてよ。期待してるから」

 田村咲はそう言って立ち上がり、伝票を自ら手にした。

「ここは私が払うから」

 由依は慌てて立ち上がり、ありがとうと言ってレジへ向かう咲の後を追いかけるように早足で歩いた。


 ファミリーレストランを出て、互いにバイバイと言って別れた。バイバイがさようならに思えた。由依は自分自身を怒りたかったが、心は萎えてできずにいた。怒る勢いより目の前を吹いていく風のように思えた。過ぎていった時間と過去。自分が壊れていくのを感じた。




 由依が家に帰ると、和子は待ち構えていたように言った。

「食べられたの?」

 由依はうんと小さな声で答えたが、今日の出来事を思い出すととても楽しく食べたとは程遠かった。和子はあと一時間後に学童保育所のパートに出かけるのだと言い、なんだか不機嫌で苛々しているかに由依には映る。私のせいだろうかと思いながら、洋間のソファに座っている和子の横で立ちすくんだ。

「昨日、パートの橋川さんに由依ちゃん何してるの?って聞かれたわ。私、何も答えられなかった。大学辞めて、アルバイトもしていないし、家にいるなんて恥ずかしくて答えられなかったわよ。……子供の頃からねぇ、心配が絶えなかったよね。ちっとも食べないし、友達も少ないし、痩せっぽちで。消極的でね。いつも私はひやひやして見てたの。やっと二十歳まで育てたのに、まだ友達と食事に行って食べた食べられないって心配しなきゃいけないの? どこまでいったら安心できるの。今日だって聞かれるかもしれないし、仕事に行きたくないわ」

「お母さんがそんなに心配することじゃないし。大学、辞めちゃいけなかった?」

 由依は心の空洞がさらに広まっていくのを感じた。母の心配を埋めるために自分が認められる立場を生きることは難しく思える。この後の言葉たちに心がえぐられていくのを予想し、体だけ身構えた。

「当たり前じゃない。大学入るのだってただじゃないんだよ。お父さんの働いたお金で入ったんでしょ。当然、努力して頑張って、卒業してるんじゃない、皆。大学辞めたことが一生の傷に残るんだから。もうやり直せないんだから。私は大学がとっても楽しかったし頑張ったし、それ後小学校の教員になったでしょ。市長さんに褒められたわ、よく頑張ったねって。その時涙が出そうになった。そういう感覚を由依は味わったことないでしょ。なんだって中途半端で生きるための元気も何も……。由依が生まれる前の十年間、私が教員やってきて、あなたみたいな子は一人も見たことないわ。生命力奪われたように生きてる子に出会ったことがないの」

 一気に言い終わると、大きな溜息をついて和子は黙り込んだ。由依は右手で左手首を掴んだ。たまに人から細すぎると言われる手首。折れちゃいそうだねと言われる手首を力強く掴んだ。母親の本心はそうなのだろうと思った。自分がなぜこうであるのか理解できない。頑張って水面を跳ねる魚のような生命力を見せねばならないのだろうか。自分のためではなく、相手を納得させるために行動のひとつひとつを形に見せなくてはならないのだろうか。

「……なぜ黙っているの?」

 和子は眉間に皺を寄せ、横に立ったままの由依の顔をちらりと見た。悲しいわけでも苦しいわけでもないぼんやりとした表情を浮かべる由依を、和子はさらに問いつめる。

「何を食べたの? 友達の田村さんって子と会ったのよね。なぁに、浮かない顔をして。楽しくなかったの?」

「……シーフードドリア。楽しいっていうより、田村さんの意見ばっかりで辛かっただけ」

「また、そんな……、子供みたいなメニュー選んで。もっとしっかりしたもの食べればいいじゃないのよ」

「……しっかりしたものって?」

「バクバク食べるようなものよ。ハンバーグとか、ステーキとか、そういうガツンとしたもの。生きるために食べるの。食べたいってものを体に入れる。エネルギーになるものをね。そうすれば、体も強くなるし、大きくなる。そういうものでしょ?」

 由依の頭の中を和子が言う言葉たちが通り過ぎる。自分にとっては意味のないことで、正しい言い分を多くの人が頷いても由依自身は頷くことができない。どこかで聞いた話で、誰かが言った言葉の多くは心揺さぶられることがない。新しい発見もない。ただ、どうしてもこう人は似たようなことを口にするのだろうと由依は疑問に思う。

「大人になったのに、大人になれないんだから、しょうがないわね。親に世話にならないように生きていかなきゃね。そのときが大人になったってとき。私はそれを期待してるんだから」

 田村咲が同じく、期待していると言ったのを思い出した。一体私に何を期待するというのだ。由依は下を向いた。教室で怒られて立たされているみたいに、反省なんてせずに無になる。そんな心境だ。

「せっかく大人になりかけたのに、また子供に戻ったの、由依は……。まだまだ心配は尽きないし、私はあなたの母親だから心配するの。そういうものよ」

 和子は電気のついていないテレビの横の窓の方を向いて宙を見ては、楽になりたいと呟いた。そして、テレビの上の掛時計を見ては驚いたような顔をした。

「準備しなきゃ、もう二時になるし」

 そう言って立ち上がった。横にいる由依の体を軽く押して壁の方に追いやり、洗面台へ走っていった。

 由依は立ち尽くした。和子が洗面台で流している水の音や廊下に響き渡る荒っぽいスリッパの音、家の外の鳥の甲高い鳴き声や、子供たちがはしゃいでいる晴れやかな声も、自分自身を取り残していく材料にしか思えずにいた。

「ねぇ、カレー作っておいてよ。家にいるんだからそれくらいできるわよねぇ? 材料は冷蔵庫に入っているから」

 和子の声が遠くから聞こえる。

 由依は返事をしなかった。母親も田村咲も正しい。私自身に向ける言葉は当たり前で、正義であり、誰もが頷く内容なのだ。けれども、そんな当然のことができない自分。なりえない自分を恨めしく思った。人を裏切って生きているのだ。それから先に敷かれた道は湾曲している。どこをどう進もう。周囲が言う正しい道は正しいはずだが、自分は進むことができない。そして、人が私を評価してくれる人間になるために、自分自身は生きているのだろうか。わかっていながらできないという矛盾している自分。由依は悲しいのに涙すらでなかった。

「ね、カレーわかったわよね。ちゃんと作ってね。じゃぁね、行ってくるから」

 和子は、未だ洋間に立ち尽くしている由依の背中に勢いのよい声を投げかける。由依が小さく返事をしたが、玄関で靴を履いている和子に声が届くはずもない。

「ほら、ボーッとして。返事は? 私は元気ない子嫌い。学校でもそうだった、元気がいい子が好きだったから。先生にも好き嫌いがあってね、好きな子嫌いな子いるの。だってね、先生も人間だから。仕方ないよね、それって」

「お母さんは先生辞めて何年経ってる? もう先生がどうだなんてやめてよ。先生は終わって親なんでしょ。最悪なことに、うちのお父さんも先生やってたっけね。一生ここから逃げられないんだから」

 和子は急に喋りだした由依の背中をじっと見て、背筋を正して腕を真っ直ぐおろして握り拳を握った。

「あら、生意気に大きなこと言うようになったのね。親の世話になってるうちは何も言えないんだから! 親のこと文句言える立場にないでしょ。子供のこと考えない親なんていないんだから。少しは私の気持ちもわかってよ」

 和子は投げやりにそう言い、玄関を乱暴に閉め、鍵をかけるととっとと行ってしまった。

 由依は口をへの字に曲げ、顔は一気に歪んだ。涙がぽつりぽつりと頬に零れた。涙は枯れることなく、目から次々と零れ落ちていく。家でたった一人になり、閉鎖した部屋の淀んだ空気の中で立っている。こんな自分を誰かが心から抱きしめてくれるわけもない。父親も母親も田村咲でもない。自分に纏わりつくのはこの家を漂っている空気だけなのだ。独りを感じた。孤独が私を抱きしめているのだ。





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