親分猫のささやかな美談
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雑踏著しい街の路地裏を根城として、俺は当たり前のように野良猫をやっている。ときどき心無いニンゲンが子分をいじめたりする。それが許せないから急いで走って現場に赴いてニンゲンに吠えかかる。最近、俺が飛びかかる機会は減った。俺の力の成果だとは言わない。いままでヒトの横暴によって死んでしまった同僚は見たことがない――とも言わない。だからいまの俺は多少は幸せだし、それでも誰も死なない世界であればそれでいいと猫の生を謳歌している。俺もそうだ。みんなもそうだ。どんな猫でも生を謳歌できる世の中になればいいなと思う。
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美人の白猫に子が生まれた。俺は口をあんぐり開けてしまうくらいに驚き、仲間のみんなは「ひゃーっ」と揃ってばんざいをした。でも、白猫の夫はわからないらしい。あるいは一時の快楽を求めた結果として子種を宿してしまったのかもしれないのだから、だとしたら許せることではないと思った。にしても――困ったなと思った。清潔とは言えない路地裏だ。みゃあみゃあ鳴くのは三匹もいるけれど、どこか綺麗なところに寄越してやりたい。切なる希望、願望だ。
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親分、親分!
路地裏からなんとはなしに青く狭い空を見上げていたとき、顔見知りの黒猫が駆けてきた。なにかの折には「俺はクロだ! 名前で呼べ!!」と言ってはばからない面倒な奴である。時折威張りはするくせに俺のことを親分と慕ってくれるかわいい奴でもある。俺は「どうした?」と訊ね、するとクロは「例のチビたちのもらい手がつきそうなんです!」と声を弾ませた。おぉ、ほんとうかと俺は喜びに満ちた声を発した。――だが、いやしかし、ニンゲン様が野良猫を拾ってくれるというのはレアケースだ。保護してくれる。ほんとうなのだろうか。
「あー、親分、メチャクチャ心配してるでしょう?」
「心配したくもなる。相当なことがない限りは寄越したくない」
「だいじょうぶですよ。とっても綺麗なお嬢様ですから」
「見た目と優しさは比例しないと思うぞ」
「それ、すごく親分らしいセリフですね」
そこまで言うと、クロはぽろぽろ泣き出してしまった。
俺は驚きまではしないし、だってそれは情けをかけることにすぎないから。
「俺も、親分もですよね? 俺たち、きっと飼い猫はもう無理です。大きくなりすぎましたから。それだったら、せめて小さな仲間を送り出してやろうとは思いませんか?」
思う。
思うぞ、クロ。
おまえはほんとうにいい奴なんだな。
だけど、メチャクチャ情けないオスネコであることもまた事実だよな。
「あのチビどもを連れていってやろうっていうんだな?」
「はい。くわえてどこにでも連れていきます」
「母猫は?」
「私は寂しいし、子どもも寂しがるだろうけれど、ここに残ると言ってます」
俺は改めてビルのあいだから見える青空を見上げた。
「だったら俺たちが白猫のことはずっと守ってやらないとな」
「はい。俺、がんばります」
「がんばるのはいい。ただし途中で投げ出しちゃダメだぞ」
「わかってますよ。俺、がんばりますから!!」
ひょっとしたら、クロはくだんの母親である白猫のことが好きなのではないのかと思った。だけど、そうだとしても、クロはもう割り切った顔をしている。白猫のナイト。それを一生気取るつもりだろう。
「でもな? がんばりすぎるのは良くないぞ」
俺がそんなふうに言うと、クロはきょとんとした表情を見せた。
「敵を前にして、親分は逃げたことがあるんですか?」
「あるさ。そうでなくても、思えば、俺の生せいは逃げてばかりだ」
「どういうことですか?」とクロは不安げな顔をする。「親分が逃げるとか、想像がつきません」
俺は苦笑を深めて。
「ナイフを持ち出してきたんだ」
「えっ」
「相手からすればお遊びだろう、でもナイフを向けられたとき、俺はびっくりした。怖いと思った。逃げなきゃって思った」
「で、でもそれは――」
「俺はそのとき負けたんだ。そのことを後悔して、いまも生きている」
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今日も天気がいいので散歩していた。シャープな肢体を誇るスマートな奴らと比べると俺はそれなりにでっぷりしていて目つきだってよくない。それでも「わぁ」と丸い声を出して寄ってくる、特にメスネコがいる。そのたび、どうしてだろうと俺は申し訳のなさに駆られ、目を伏せ俯き、とっととその場を立ち去る。少なからず他者が怖い。具体的にはかつて俺を捨ててくれたヒトが怖い。俺はヒトのことを信用できない。それはとても悲しいことだからだ。でも、考えようによってはただ捨てられたというだけだ。捨てられたからこそいまがある。俺には仲間がたくさんいる。だから、悪い人生だとは考えていない。猫のくせに「人生」っていうのは変かな?
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三匹の子猫、真っ白な猫。俺たちはそれなりに賢いので、それぞれ一匹ずつくわえてくわえて家――豪邸を訊ねた。まさか俺たちが三匹ともくわえてやってくるとは思っていなかったのだろう。「わぁ、わぁぁっ」と弾んだ声を発し、大学生くらいだろう、彼女は喜んで見せた。これで俺たちの仕事は終わった。白猫たちは「おかあさん、おかあさん!」と叫んだけれど、どう考えたって彼らのためにはヒトに飼われたほうがよいのだ。だから託すのだ、預けるのだ。白猫らの母親は泣いていた。「猫という生き物は苦しいです」そう漏らして、帰り道、ずっと泣いていた。
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俺に餌をくれる若い女子がいる。話を聞くうちに近所のキャバクラで働いているのだと知った。キャバクラ、キャバクラかぁ、キャバ嬢かぁ。こんなことを言っては叱られてしまうのかもしれないけれど、あまり高尚な仕事であるようには思えない。キャバ嬢は大学に通いながら仕事をしているらしい。身体はことのほか華奢で俺はそんな細い体躯が心配で、だから気になった。キャバ嬢は俺に猫缶をくれる。都度、俺は仲間を呼びに行って、猫缶をシェアする。「君は優しいんだね。偉いね」とキャバ嬢に言われる。俺は優しくなんてない。偉くもない。俺に付き合ってくれる同僚どもこそ尊いんだ。
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仲間のクロが酔っ払いのおっさんの足でおなかを蹴飛ばされたらしい。それはかなり強烈な一撃でだから血を吐くくらいで、だから俺は親分だからこそ慌てふためいた。クロが死んだら非常に困る。大切な友人――子分であることはもはやいうまえでも無い。どうあれ俺にはなすすべがない。どうしよう、どうしよう。そんな折に、くだんのキャバ嬢が現れた。瀕死の息を継いでいるクロを見てただ事ではないと一目で認めたらしい。俺は思った。祈った。俺にはクロを助けることができないから、どうかなんとかしてくれと弱音を吐き、そしてニンゲンのことは許せないながらも、かはっ、かはっと血を吐くクロのためにニンゲンに「にゃあにゃあ」甘えるのだ。
「だいじょうぶだ、クロ。くそったれなニンゲンの中にもきちんとしたニンゲンくらいはいるみたいだ。きっと助かるぞ」
「そうは思えません、あの親分」
「腹が痛いんだろう? もうしゃべるな」
痛みに耐えてのことだろうか、悔しさが強いからだろうか。
クロはえんえーん、わーんわーんと泣き出した。
「もう泣くな、クロ。猫は弱い、弱いんだぞ」
「俺は、でも、親分……」
「仲間の一匹も助けられないんだ。俺は親分失格だ」
「でも、俺は……」
「おまえが死んだらたまらない。そこにあるのは律義さでもなんでもなく、悲しみだ」
クロは「ありがとうありがとう」と述べ。やはり一方的に泣き出してしまったのである。
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俺はどうあれ白猫とは遠くはない立場だから、いろいろと言い聞かせるように説明した。彼女を妊娠させた猫のこと。あるいはそれはどうしようもないであろう猫だったこと。だけどそこにはきっと間違いのない愛があったこと――それはあまりに綺麗事か……。白猫もそれくらいは理解していたようで、だからこそぽろぽろ泣いたのだろう。
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要するに白猫は誠実極まりないクロを好きになったらしい。クロは白猫のことが初めから好きだったらしい。だけど、クロは結局早々に死んでしまった。病院で治療を受けたものの、やっぱりニンゲンの力で腹を蹴り上げられてしまったことが直接の死因だったようだ。
今際のとき、仲間に見守られながら、白猫にも見守られながら、「死ぬなんて嫌だ嫌だ!」と叫びながら、クロは息を引き取った。なんの義務もないし責務もない。だけどクロが愛した白猫のことは一生をかけて守ってやろうと俺は誓った。クロ、これは約束だ。
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最後の話だ。キャバ嬢が俺のことを「飼いたい」と言い出した。すでにペットOKのアパートに引っ越したのだという。まるっきり順番が逆ではないか。俺の了承を得てから部屋を決めるべきだろう?
俺には友人がいる、仲間がいる。だからぎゃんぎゃん騒いで喚いて断った。そしたらキャバ嬢は泣き出した。「君も私の友だちになってくれないっていうの?」――。そういうわけじゃない。ないのだけれど……。
――俺に対する勧誘を心配してのことだろうか。闇に満ちたそこらへんの路地から次々に野良猫諸君が現れた。みんなそろってにゃんにゃん泣く。そら見ろ、キャバ嬢殿、俺には捨て置けない親友がたくさんいるんだぞ?
だけど、キャバ嬢のことは嫌いじゃないから、顔を見かけたらそのたびちょっかいくらいはかけてやろうと思う。
だいじょうぶだ、キャバ嬢殿。
おまえももはや友人だ。
かけがえの仲間だ。
ああ、ほんとうに俺には親友が増えたなぁ。