第4話 ハバギア大森林地帯 ー深層ー
第4話 ハバギア大森林地帯 ー深層ー
深層に潜って、どれほどの時間が経っただろうか。
日の光を遮るこの場所では、時間の経過があいまいだ。厳重に周囲を警戒しているからこそ、時の進みも遅く感じる。
マイトは、額から流れ落ちる汗をぬぐった。異様な緊張感と高い湿度が、体力を奪い去っていく。ふとした瞬間に吹く涼やかな風が待ち遠しい。
「……これは、環境としても……」
呟きが漏れる。人間が長い時間探索できる場所ではない。これほどの汗をかくのであれば、水分補給も難題だろう。目に入りそうになった汗をもう一度拭いながら、マイトは――
「……ッ!」
――恐ろしい想像を思いついた。
「ロイ、カンゼ……暑くないか?」
汗が止まらない。すでに皮鎧の中はなかなかの臭気になっているだろう。だが重要なのはそこではない。
「言われてみれば……」
「……かなり暑い、ですな」
どこかぼんやりとしていた2人も、はっとした様子で周囲を見回す。マイトは周囲を見回し、地面にしゃがみ込む。手のひらをかざせば、落ち葉まみれの地面から熱が立ち上っているのがわかった。大量の落ち葉を、そっと剣先で掘り返す。
「うわっ!?」
瞬間、無数の生き物が全力で逃げ出した。ひとつは……おそらく《腐蟻》。地面の中に潜み、落ち葉を食する分解者。そしてもう1種類いたのは、熱を放つ鱗を持つ《灼蜥蜴》。
それが大量に足元に紛れていたのだからたまらない。おそらく、このエリア全体がこうして熱気にあぶられている空間、《腐蟻》の巣であり《灼蜥蜴》の捕食場所なのだろう。
「通りで魔獣とぶつからないわけだ……」
「魔獣のほとんどがこの暑さを避けるなら、逆に安全な場所かもしれませんな」
ロイとカンゼの言葉に、マイトも頷く。この暑さは厄介だし、思考も鈍るが、ほかの魔獣に襲われる可能性が減るという利点は環境の辛さを上回って余りある。
「毛皮のある魔獣にここはしんどいだろうな……俺らでもキツい。さっさと進もう」
そうして、マイトが先へと視線を向ける。落ち葉まみれのエリアの先には、涼しげに開けた空間があった。おそらく、風はあそこから吹いてきているのだろう。
それに気づいたカンゼが、ほっと息を吐き出したのがわかった。いくら有用だとはいえ、暑いというのはかなりしんどい。心なしか足早になったロイとカンゼを、マイトは後ろから追いかけ、ふと足を止めた。
今は初夏だ。先に見える開けた場所の木々は、青々とした葉を茂らせている。ならば、今までのエリアで落ちていた葉はなんだ? なぜああも葉が落ちている? いや、それよりも。何か違和感が残る。さっきまでいたあのエリアは、今までの森とは何かが違った――
振り返り、木々を見上げる。熱で観察力が落ちていた、今の今まで誰も気が付かなかった。
木々の幹に黒い焦げ跡が残っている。
「カンゼ! ロイ! 止まれ!」
ギリギリ、間に合った。
マイトの切羽詰まった声に、カンゼとロイが訝しげに立ち止まる。
「――白狼だ」
マイトの言葉に、2人が素早く伏せて周囲を伺う。マイトが示した焦げ跡のついた木……それを見て、カンゼが頷く。
「この火力、白狼のものとみて間違いないでしょう。つまり、ここはすでに白狼の領域です」
カンゼに断言され、マイトは周囲の魔力濃度がさらに引きあがったような気がした。魔玉を食らい、特異種となった一代限りの最強種。
ハバギア大森林地帯の特異種――“三火尾の白狼”、シンギュラ。
「上等だ。どっからでもかかってこいや……!」
先手を取られる不利は理解しているのか、小声で唸るロイ。きょろきょろと周囲に素早く目を走らせながら、手は投げナイフを仕込んだ場所から動かないカンゼ。
マイトは何も聞こえなかったし、根拠があるわけではなかった。だが、何か偉大なものがそこにいるから――視線が引き寄せられた。
森の切れ間、陽光降り注ぐ深緑の領域。木漏れ日に似た光を一身に浴びながら、この地の王はただそこに在った。
輝く純白の体毛に、悲哀を湛えた深い碧の瞳。滑らかに輝く体から伸びるのは、3つに分かれた尾。
4つの碧眼が、睥睨する。見ればわかる。近くに寄れば圧倒される。
(これが、特異種……! 魔玉を食らい、魔王になりかけた、人類の敵……!)
知っていたつもりだった。わかっていたつもりだった。
エミスフェル勇王国に甚大な被害をもたらした“銀剣翼の大鷲”ワンザ。
瓦礫街を生み出し、いまだに根強い禍根を残す“災厄の魔人”ゼルセズ。
文献で、語り部で、連綿と継がれてきた特異種の脅威。
マイトは思い知る。伝説に挑む重みを。
「あれが“白狼”……!」
だから、自分の後ろから感じる強烈な『喜び』、『高揚感』を理解できない。挑むべき強敵が現れたことに歓喜する、ロイという男の存在が、思考が、感情が――理解できない。
「“白狼”……」
まだカンゼが見せる『諦観』、『絶望』、『憎悪』……こちらの方が理解できた。
「……抑えろ、ロイ! 退くぞ!」
小声で叫ぶマイトに、ロイがありありと不満げな表情を浮かべた。
「なんでだよ? ここでぶっ倒せば終わりだろうが」
どこまでも過剰に映る、彼の自信。『この世に倒せぬものなどない』――それはマイトもわかっている。ただ『それができるのは自分ではない』と思っているだけで。
今回の任務は偵察任務。情報を得た、ルートも確認した。これ以上ない。命を失う前に撤退し、あとはあの女に任せるべきだ。
「……ずっとそう言ってただろうが。作戦を練り直す」
幸い、白狼はまだこちらに気付いていない。カンゼもマイトの言葉に同意を示し、ロイも不承不承それに従う。何か考えている様子ではあったが、指示に従ったロイに、マイトはほっと息を吐き出した。
3人がゆっくりと後退し、白狼の姿が見えなくなったとき、それは聞こえてきた。
『――【Singyura tn qeruz】……』
唸り声でありながら、世界に広がっていく不可思議な響き。
特異種は魔術を使う。
マイトはそんな単純な事実も、頭から消し飛んでいたことを自覚する。10ほど放たれた火球が次々と木に直撃、大量の蒸気と煙を生み出し、森の中は一瞬で見えなくなった。九死に一生を得た3人は、呆然と目の前で煙を吐き出す森を眺める。
「ふー……」
押し寄せる熱気と突風に煽られながら、カンゼが深いため息を吐く。
「底が見えませんね……特異種、白狼。衰えてはいないようです」
マイトはなんとか頷きだけを返し、急いでその場を離れてグランティアに向けて駆け戻る。不満げにしていたロイ、何かを考え込むカンゼもまた黙々とマイトの後ろについてグランティアへと戻ったのだった。
† † † †
城塞都市グランティア、猫の額亭。
『給仕が転んだジョッキを、中身をこぼさずにキャッチする』という少し変わった芸がブームとなっている飲み屋だが、その本来の役割は冒険者たちの情報交換場所である。日々を刹那的に生きる彼らの中にも、真剣に冒険者を生業として営む者がいる。
『運が悪ければ死ぬ』――そんな秘境に挑む彼らは、だからこそちょっとした噂に敏感で、ジンクスや験担ぎを大切にする。少しでも自らの幸運を信じなければ、続けていけない職業だからだ。
明日尽きるかもしれない命を担保に、彼らは今日も秘境に潜る。そんな自暴自棄にも似た狂騒の中で、不穏な空気を醸し出す一団がいた。
「――だからずっと言ってるだろうが。俺らの役割はあくまで、偵察と調査。特異種と戦うのは本隊の仕事だ」
“勇者候補”マイト・ディンガ率いる特異種白狼調査隊である。本人も隊員もあまり率いられている自覚はなかったが、一応正式に名前をつけるならそういう名前になる。
「それはお前の役割であって、俺は違う。俺は白狼と戦いたい」
腕組みをして、1歩も引かぬと妥協の意思を見せない青年、ロイ。マイトは表情を崩さなかったが、内心では頭を抱えていた。白狼と戦うなんて正気の沙汰ではない、あの偉容を見てなおそう思えるのは大したものだが――付き合わされるこっちの身にもなってほしいというのが正直な気持ちだった。
「何回言えばわかる。お前が戦う必要はない」
「必要かどうかは俺が決める。マイト、俺たちで白狼を倒せばいいだろうが。なんの問題がある?」
「問題って……」
「俺は『勝てる』と思う。これは、己の証明だ」
爛々と輝くロイの黄色の瞳を見て、マイトが気圧される。ただ腕組みをして座っているだけだというのに、ロイから放たれる威風は冒険者の域を超えていた。少しの間にらみ合う2人だったが、やがてロイからの圧力が弱まった。
「頑なな男だな。お前が思う事情を話してみろ。俺よりも、本隊とやらの戦力が信用できるのか」
「……お前に頑ながどうとか言われたくはないが……」
言われたマイトは真剣に考える。かつて見た最強の剣である勇者候補の力と、常軌を逸した膂力を持つ目の前の青年。どちらの方が強いのか、と言えば――
「まあ本隊の方が強いな」
「なら、白狼は俺では倒せない敵か?」
間髪いれずに飛んできた次の問いに、マイトは口ごもる。
「……わからない。倒せる気もするし、倒せないとも思う」
「では、聞こう“勇者候補”のマイト・ディンガ。俺と、お前と、カンゼ。3人で挑んで、白狼に勝てるか?」
マイトは、ロイの言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。ロイに言われるまで、考えたこともなかった。勇者教の指示を受けて、調査の任務に当たる日々。訓練は欠かさず、自分は勇者候補として恥じないだけの働きをしてきた自負はある。
だが――どこかに諦めが混じっていなかっただろうか?
もし、この手で特異種を倒せたなら……
マイトは急に喉が渇いてきて、慌ててエールを流し込んだ。特異種白狼を、本隊到着前に討伐する。確かに、夢のような物語だ。
「俺の攻撃は白狼に通じるだろう。カンゼの警戒と知識があれば白狼に辿り着けることは証明された。あとはお前が隙を作って、俺が拳を叩き込むだけ。違うか?」
酒精で濁った脳が急速に澄み渡り、脳内で勝利への道筋を組み立て始める。リスクは非常に高い。一か八かの賭けと言ってもいい。だが、確かに賭けるだけの価値がある。特異種に通じるだろう攻撃力を持つ男なんて、今後知り合える保証はないのだ。ましてや、そいつが運良く自分と同行を認めてくれる可能性なんて。
「カンゼは……」
マイトは明日から歩いていくはずの道が、急に崩れていき、足場が不安定になったような感覚に襲われる。自分の選択次第では、明日も明後日もいつものような安定した道ではなくなる。ただ続いていくはずだった退屈で安心した未来を、この手で覆せる可能性に気付いてしまった。
「私は、2人の方針に従いますが……」
くたびれたおっさん、という雰囲気を終始崩さないカンゼは、それでも瞳に昏い情念を浮かべていた。
「それでも、希望を言えば、この手で白狼に報いを。恨みを晴らせるのであれば、手を貸しましょう。私も、マイト殿とロイ殿と一緒なら可能性はあると思います」
カンゼは、「元々いつ死んでも良い独り身です」、と肩を竦めて見せる。
自分の倍以上は生きているであろう先達の、昏く重い覚悟に、マイトは黙り込む。
昏く自分を見つめる、情念の籠もったカンゼの瞳。
爛々と自分の覚悟を促す、己を誰よりも信じるロイの瞳。
それに比べて、自分の主張のいかに軽いことか。
偵察任務だから、戦うのは自分の役割ではない? ――その通り。
本隊の方が強いから、倒すのは任せれば良い? ――その通り。
考えは正しい。だけどそれは、正しいだけだ。しかも、勇者教という組織から見て正しいだけ。
「俺がどうしたいか、なんて……全然考えたことなかったな」
そしてその欲望に気付かせたのは、ロイの言葉だ。“勇者候補”マイト・ディンガは現状に不満を抱いている。下働きのようにあちこちに送り込まれ、露払いをして、使い潰すつもりで便利扱いされる現状に納得していない。
ならば、成果でひっくり返そう。誰も予想していない奇跡で、評判も評価も全てひっくり返してやる。そして、そう心を決めたなら――確かに今以上の機会は巡ってこない気がしてきた。
特異種を倒せるかもしれない戦力が手元にあるのだ。全てをひっくり返す成果として、これ以上のものはない。
「……やるぞ、ロイ、カンゼ。俺たちで――」
そこから先の言葉を吐くには、酒精の勢いが必要だった。一気飲みしたジョッキを机に叩きつけ、マイトは告げる。
「――特異種、“三火尾の白狼”シンギュラを討伐する」
マイトの両目は、ロイと同じように爛々と輝いていた。