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いつか、剣と拳が交わる場所で  作者: 夜野 織人
第1章 白狼は温もりを夢見る
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第10話 特異種白狼――名はシンギュラ。

第10話 特異種白狼――名はシンギュラ。


 不意打ちの一撃で、シンギュラが大きく吹き飛ぶ。マイトに振り抜きかけていた尾は、致命打にはならなかった。歓声をあげかけたカンゼに比べ、殴った本人であるロイは顔を歪めていた。振り抜いた右拳に、命を絶った感触がない。


「――逃げやがった!」


 抉れるほどに踏みしめられた地面。事前に練った作戦通りに行ってなお、シンギュラの運動能力は3人の予想を上回った。ロイの拳が当たる直前、飛び下がることで衝撃を緩和したのだ。


 自身の脚力で跳ね飛んだシンギュラが、煌々と輝く瞳で3人を睥睨する。器用に体勢を立て直し、大樹の表面に垂直に着地。間髪入れず、呪詛が蠢く。


「【Singyura(我が呪詛) tn() qeruz(応えよ)】……」


 瞬間的に形成された火球が3つ。それぞれが直線的な軌道を描いて、3人に襲いかかる。


「っ!」

「うおっ!」

「……ッ!?」


 あまりにも早い反撃だったが、3人とも火球を躱す。彼らの脳内に油断はない。そしてそれは、シンギュラも同じだった。


「くっそ……!」


 カンゼが避けながら放ったナイフを意に介さず、シンギュラは火球を避けたロイに襲いかかる。体毛で、ナイフが弾かれて落ちる。体勢を崩したロイにシンギュラの牙が迫り、ロイは両手で顎を押さえた。


「ぐっ!」


 シンギュラの勢いを受け止めきれず、ロイが背後に押し飛ばされた。背中を木に打ち付けてようやく止まったロイは、そのまま右手で上顎を、左手で下顎を押さえつける。


 噛み殺されないよう、全力の力で顎を押さえるロイ。地面に深く体重を預け、牙を身体に食い込ませようとするシンギュラ。2人の力比べは均衡を保っていたが、シンギュラの三尾が唸る。


「【Singyura(我が呪詛) tn()】……」

「マジかよ!?」

「 ……【qeruz(応えよ)】!」


 たまらず、ロイが顎から手を離して地面を転がる。三尾から放たれた火球がロイがいた場所に炸裂、炎上。地面を転がったロイは、直後頭上から振り下ろされた前足を見て、必死に跳ね起きた。


 地面が揺れる振動に、思わずマイトは身を竦めた。あんな踏みつけを喰らえば、頭は砕けて内臓はぐちゃぐちゃになるだろう。


 仕切り直し、と言わんばかりに飛び下がったシンギュラが順番に3人を見る。


 カンゼには冷たい目を。

 マイトには怪訝な目を。

 そしてロイには――警戒の目を。


「へへっ、わかってるじゃねぇか……お前の相手は、俺だ」


 視界に重なる落ち葉を払い、ロイが不敵に拳を合わせる。ゴッ、ゴッ、と響くその音は、シンギュラの意識をも強制的に引き寄せた。その拳をまともに喰らえば、特異種とてタダではすまない――警戒を、更に引き上げる。


 理想は遠距離で仕留める。接近戦は、反撃されない確信があるときのみ。


「【Singyura(我が呪詛) tn() qeruz(応えよ)】」

「またそれか!」


 避ければ、さっきと同じパターン……と足踏みをするロイが目を剥く。火球が3つとも、ロイに向かっていた。


「チッ!」


 舌打ちひとつ、判断は一瞬。強く地面をって身を投げ出し、前方に向かって跳ぶ。火球の下をくぐり抜けながら、ロイの視線は真っ直ぐシンギュラを見据えていた。背後で炸裂した火球の熱を背中に感じながらも、その熱よりもなお焦げ付くような熱が胸中より湧き上がってくる。


 相見えた時から感じていた、シンギュラに対する郷愁に似た思い。攻防を繰り返すほど、その思いは徐々に強くなっていく。物悲しくも猛々しい、恋にすら思えるほどの衝動。


(アレは俺の獲物だ! 誰にも渡さない!)


 熱に浮かされたように動き続けるロイに対するシンギュラの反撃は、右足による踏み付け。ロイは避けず、真っ向から右拳で迎え撃つ。衝突の衝撃が周囲を走り抜け、落ち葉を舞い上げる。


 足を傷つけず、音を消すために発達した肉球の柔らかさを感じながら、ロイはその奥に潜んだ恐るべき力を迎え撃つ。人ならざる膂力を誇るロイですら、全身の力を振り絞らなければ押し負けることを確信するほどの力。そのまま食らっていれば、一瞬で地に叩き伏せられ、意識を失っていただろう一撃だ。


「楽しいなぁ、シンギュラ!」

「【Singyura(我が呪詛) tn() qeruz(応えよ)】!」


 返答は火球。全身の力を振り絞っている状態でありながら、魔術を放てるほどの戦闘能力。命知らずの冒険者たちが、『死の象徴』として扱う特異種––白狼シンギュラ。


 胸中から湧き上がる熱に突き動かされるロイとは対照的に、シンギュラの瞳に映るのはどこまでも冷徹な計算高さ。力比べを嫌い、自分の体毛を焦がしてでも、火球によってロイと距離を取る。


 地面を転がって火を消したロイと、煩わしそうに頭を振って火を振り払ったシンギュラ。ともに、戦闘継続に支障はない。


 視線の交差は一瞬。


 距離を詰めようと地面を蹴ったロイを、シンギュラの火球が迎え撃つ。ロイが構えた拳を素早く突き込み振り払うと、火球が爆散する。確かに火に触れたはずの黒のグローブは、いったい何の素材でできているのか、焦げ目ひとつない。


「はーーっはぁ!」


 ギリギリの戦いを繰り広げるロイとシンギュラ。2人ーー否、2頭の争いは加速し、火球で木々が炎上し、踏み込みや叩きつけで地面が抉れる。たった数十秒で、次々に森が耕されていく。


 その光景を、マイトとカンゼは遠巻きに見守っていた。


(わかっちゃいたが、とんでもない戦いだ……!)


 マイトは襲いくる風や砂利から右手で目を守りながら、必死に戦いの行方を追う。最初に立てた作戦は失敗したが、シンギュラとロイが互角に戦えるようなら戦闘は継続。もう一度隙を生んで、今度こそ拳による致命の一撃を叩き込む。マイトとカンゼはそのサポートだ。


(魔力はまだあるが、あまり大規模な幻影魔術は使えない……状態もあまりよろしくない……)


 けほ、とマイトは咳き込む。熱量のある火球––直撃こそ避けたものの、着弾による熱気までは凌ぎきれなかった。軽い火傷だろう、顔の肌がヒリヒリと痛む。


 だが、倒すと決めたのだ。たとえ特異種であろうとも。


「……よし。リズムも掴めた」


 とん、とん、とマイトは自分の膝を叩く。戦闘時の呼吸ともいうべきタイミングが測れてきた。それは攻撃の溜めであったり、回避行動であったりしたが、シンギュラとロイの高速戦闘は、拮抗しすぎて一種の芸術と化しつつあった。もはや火球を放つ余裕もないのか、シンギュラはひたすらに必殺の一撃を叩き込むために地上と空中を駆け回る。ロイはシンギュラの攻撃を時に迎えうち、受け流し、渾身の一撃を狙う。


「殴る。躱す。踏み込む。回避する––」


(止まる。ここ!)


「【shrumy(幻影よ)】!」


 魔術が起動する。ロイとカンゼにも聞こえるように、声を張る。何らかの魔術であることはシンギュラにもバレてるのは間違いないが、僅かにでも気が引ければいい。魔力とマイトの想像で作られた、実体なき幻影であるとわかるはずもない。


 シンギュラは予期していたようだった。


「ーー【Singyura(我が呪詛) tn() qeruz(応えよ)】!」

(チッ、さっきから火球を控えていたのはこれが狙いか!)


 シンギュラが咄嗟に放てる火球は、巨大な1つか、中サイズの物が3つ。だが、先日森を焼いた時は、10以上の火球が森を焼き払っていた。ある程度時間があれば、火球の数は増やせるのだろう。


 シンギュラの三尾の上には、火球が8つ浮かんでいた。


 サイズは小さめだが、いずれにせよ食らえばタダでは済まない。


「切りどきか!」


 マイトは絶えず持ち歩いていた魔導具を取り出す。『魔術の保存』は困難を極める上に性能・威力が2段落ちる。だが不可能ではない。お守りがわりに持たされたのはーー


「注げ!」


 ーー白狼の火球への対抗策。瞬間解放された魔術は、シンギュラを中心に膨大な水量の雨となって降り注いだ。


「《塔》の奴らの魔術でも相殺しきれないのか……!」


 ただの水の魔術ではなく、瀑布や豪雨といった災害、自然現象を模した 現象系(エルミルン)魔術。いくら威力範囲が2段落ちるとは言っても、人類最高峰の魔術師が作った逸品だ。だがシンギュラの火球は勢いを弱めたものの、未だに熱量を保っている。マイトの握った魔導具が、鈍い音を立てて砕けた。


「十分!」


 ロイが駆ける。決戦級の威力だった大技の弱体化を受け、シンギュラにも動揺が見えた。もう一度、火球を形成し直すかどうかを迷っているようだ。明確な隙を突くべくひた走るロイの頭の中は、雨に打たれてなお熱で浮かされたままだった。


(俺は俺を証明する――記憶がなくても、俺の体と意志が叫んでる。俺の最強の武器は、今も昔もこれ1つ!)


 握り込まれた右拳へ、痛いほどに血が巡っているのがわかる。自分の意志に呼応し、周囲に漂う魔力が渦を巻く。それはまるで、世界が己の誕生を祝福しているかのような全能感。右腕に全てを預け、世界を捻じ曲げるという強い意志。


 言葉は、勝手にこぼれた。


「――【魔拳】」


 ロイには光の道筋が見えていた。ただその道を走り、右腕を振るえばいい。それはシンギュラとやり合ったからこそ見える、勝利への道。


(ここで右へ)


 火球が外れる。


(左手で払う!)


 火勢を弱めた火球を打ち払う。


(潜り込んで)


 集中的に放たれた火球すら、ロイは最小限の動きでかわす。ただ、見えた答え。まるで全身がすでに対処法を知っているような、火球が放たれるタイミングも前からわかっているかのようなーー未来を見通しているかのような動きに、マイトが息を呑む。


「さよならだ、シンギュラ」


 うわごとのように呟き、ロイの拳が振りぬかれーー避けようとしたシンギュラの腹を撃ち抜いた。


 毛皮と筋肉が多少衝撃を吸収したはずだが、振り抜かれたロイの拳は少なくない量の肉を抉り飛ばした。シンギュラが盛大に吐血し、腹からは血がこぼれる。赤黒い血が大量に吐き出され、ふらりとよろめいたシンギュラが座り込む。すでに戦う気力はなさそうだった。


「本当に……?」


 半信半疑で白狼を見つめるマイトと、長く息を吐き出すロイ。止めていた呼吸を再開させ、肩を上下させる。火球の熱と雨の湿度に包まれた空間は呼吸がしづらかったが、かなり長い間息を止めていたのもあって、ロイは荒い呼吸を繰り返す。


「っ、ふー……立つ気力は……なさそうか」


 ふらつきながらも立ちあがろうとするシンギュラだったが、すでに深刻なダメージを受けているせいで、立ちあがることができない。再び前足を折りたたみ、地面に伏せる。腹から赤黒い血が流れ出て白毛を汚し、あとは死が訪れるのを待つばかりに見えた。


 マイトとロイが、体の緊張を解いた瞬間だった。


「【Singyura(我が子) tn() dert(熱を)】……」


 ため息を吐くかのように唱えられた魔術。


 聞き慣れた火球を放つ魔術とは別の魔術だ、とわかってはいたが、体が反射的に後ろへ下がる。最後の悪あがきか、と自分の武器を構えるマイトとロイだったが、そのあと起きた光景に愕然とする。


 何処かから舞い降りるように落ちてきた光の粒がシンギュラに触れた。ロイが殴り抜いた腹に柔らかな光が触れると、抉り取られた肉が再生していく。


「っ、治癒の魔術⁉︎」

「何だそりゃーー」


 事態を悟ったマイトの視界がぐらつき、顔面を蒼白にした。ロイがあまりの理不尽に驚きつつ、不敵な笑みを浮かべて地面を蹴る。回復しながらもロイに向き直った白狼が威嚇する。


 その瞬間は空白だった。治癒という隠し球に驚くマイト、驚きつつ回復される前に仕留めようとするロイ、そのロイを噛み砕くつもりで戦う意志を見せた白狼シンギュラ。


「食らえ、『黒顎(くろあぎと)』」


 静かな、空白を縫うように囁かれた言葉。軽い衝撃に気づいたシンギュラがーー眼前の脅威のロイではなく、思わず視線を落としてしまうほどの存在感。いつの間に近づいたのか、喉元に短剣が刺さっていた。それ自体はさほど深い傷ではない。治癒魔術の光が触れれば一瞬で修復される程度の傷。


 だが、僅かでも白狼に傷をつけたことによって、カンゼの《遺志の短剣》は役割を果たす。


 娘の復讐を願い続けた父の意志に呼応し、魔力によって構成された黒の顎が、シンギュラの喉を食い破った。


 ロイが抉った腹よりも大量の血が噴出した。カンゼはそれを避けようともせず、全身に浴びながら、シンギュラと視線を合わせる。


「終わりです」


 シンギュラは何も告げずーーその冷徹な瞳から、光が失われた。最後に少しだけ持ち上がった頭が、地面に落ちる。光を放っていた治癒魔術も光を失い、急速に遺体が朽ちていく。


「特異種は死体を残さない……こういう意味でしたか」


 毛も、肉も、心臓すら朽ち果て、黒い液体になり地面を蠢く。残ったのは、地面に転がった漆黒の球体と骨だけだ。球体から放たれる威圧感に、マイトが唾を飲み込む。先ほどカンゼが使った《遺志の短剣》以上の威圧感を放つ魔力の塊。


「これが、あいつの力の源か」


 ロイが何の気負いもなく、球体を拾い上げた。

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