日の始まりと、懲罰
___ああ、最悪だ。
悪寒が止まらない。
吐き気と、眩暈が酷い。
気分が特に最悪だった。
私は手を伸ばし、平行感覚を確認しようとした。___だが、何かが違った。決定的に、普段とは違う違和感がある。いつも通りの寮室には、隣で寝ている筈の学友の姿は見えず独特な鉄に似た香りが漂って___。
……鉄の様な香り?
あまり動かない頭でも、何時もとは違う事だけが理解できた。
「大気中の酸素濃度低下。未知の物質の割合が急上昇しています」
__成程。
ヤブァいパターンだ、_実に。
実にヤバいので、今すぐにでも離脱しなければいけない。頭の隅で意識が落ちかけるのを理解し、せめて、その匂いを嗅がないように口元を手で押さえるが、……どうにも間に合う気がしない。
どうヤバいのか簡潔に述べるのなら。
意識の混濁が垣間見える今現在。隣の友人たちが夜な夜な作り出した劇薬が混合している臭いが充満しているのだけが理解できたからだ。
人的被害が確実に起きると何度注意しても変わらない。紫立ちたる煙が周囲を包み込んでいるのを理解した時にはもう遅い。
「ドクタースペースへ避難。大気中の酸素濃度さらに低下。未知の物質が侵食していきます。危険域に到達まであと二分__ご友人様。大丈夫でしょうか?」
その少女と目が合い、瞼を空け瞳孔を確認している彼女に対して私は一言を添える。
「死ぬ」
というか、もう既に死んで_。
最後の最後に、焼きたてのパンを頬張りたかったと遺言を残す暇もなく、意識が消えていくのに身を任せようと目を瞑ろうとした。
私は熱々の麺麭を食すことを日課としている。
朝食として並べられるバターの香りと小麦のさわやかな風味で構成された麺麭は、私の身の回りで起きている問題に対しての精神的薬品だからだ。
「意識レベルが低下。ドクターの必要性を確認。健常状態の維持の為、強硬手段を発動。ドクタースペースへの入場許可。”ダイレクトインパクト”」
視界の端でぼんやりと浮かぶ彼女は、そうして拳を躊躇なく振り上げた。
躊躇なく振り下ろされたその手は、的確に呼吸器系を叩いて無理やり意識を保たせる。肺に溜まった空気が無理やり押し流され、清々しさが埋め尽くす。
「__!」
それは、煙を遮る膜として有った。
直径五メートル程度のその空間は、先程までの空気を浄化し、人体に害のないレベルまで空気を整理する。そして、常に循環される空気は清々しささえ感じ程に、清く正しく何物も無い者となる。
吐き出した煙が嗚咽となって吐き出される。
私は呼吸を再開し、生きる意味と呼吸のすばらしさについて涙を浮かべた。
透明な膜は実態を作り出し、現世と切り離され異界と化していく。
「_っ!」
「意識レベルの回復を確認。大丈夫ですか?痛い所は在りますか?もう一度治療を受けますか?命令を受諾。もう一度、生命維持活動を実行。”ダイレクトインパクト”」
(物理)を付けてほしいグーパンが迫る。
無理やり蘇生された私は、その行為に感謝を述べながらも物理的治療に不満を漏らした。治療の為に仕方なくと答えるだろうが、この空間だけで十分に治療になる事は明白だったからだ。
「俺はサンドバッグじゃあないぞ?」
「ご友人様はショック療法をご存じないのでしょうか?」
「肺がダイレクトインパクトするところだった」
「それはご愁傷さまです。弾けて破けなくてよかったですね、ご友人様。それよりも、私はご主人様に呼ばれたのですが状況の説明をお願いできますか?」
病室を象った其処で、彼女は答える。
私は、改めて思い出した。
此処は、アルベール魔術学園。
その寮の一室であり、唯一の三人部屋として存在する角部屋。通称、窓辺部屋と呼ばれる此処は、七不思議の一角である幽霊の噂が尽きない”曰く付き”の場所であり、奇人変人がこよなく使用する部屋として有名である。
そんな、部屋の住人は、主に三人。
私を含めた、この暴力幽霊のご主人医療系術者と、天才的な奇人である秀才だ。
魔術校とは、いわゆる魔法について専門的な知識を学ぶ場所であり、数々の著名人を輩出したこの学校も、その名に恥じぬ姿を見せている。
魔術解析の専門家。異端殺しの宗教家。善悪の区別な曖昧な危険思想たちやアクが強いが優秀な魔法使い達の多くが、若かりし頃この学校の門を叩いた。
当然競争率も高く高等な教育を受ける者は、大抵が貴族階級であり一般的には畏怖と尊敬の対象として知られているらしい。
まあ、そんな学校だ。学びの門を叩くのは曲者ぞろい。
その中でも、異端児として恐れられている者は居る。
「って言われてもな。私もさっぱりなんだよ」
「ご友人様。未知の物質はラボ側から流れているようです。未知の物質を検知。貴方は此処で留まるべきです」
「ちょっと待って」
「何でしょう?」
「_あいつらは?」
「ご主人様は生きておいでですよ。ご友人様。モルモット様も、多分大丈夫だと思われます」
心配している訳ではないと答えると、彼女はそうですかと答える。
……それにしても_。
「___、又か」
「またですね」
「今度はどっちだ?」
「そう言えば、ご主人が実験を行うと申しておりました」
その場所には、私以外の人が眠っていた。
死体の様にピクリとも動かない患者が、真っ白なシーツの下で動かずに眠っている。
その少女は目の前の人物によく似ている。_当然だ。彼女の肉体がそれだ。
心臓を、腕を、表情を、肺を。
全て動かさず、殆ど死んだ状態で。
それでも彼女は、死体寸前のままで生きている。
ドクタースペースは、肉体の状態を固定する空間だ。この場所では、あらゆる治療が無意味であり、あらゆる損傷が無意味となる。肉体がこれ以上崩壊する心配も無ければ、治る事も無い。停滞された空間だ。
私の前で欠伸を漏らす人らしい彼女は、唯の精神体に過ぎない。
彼女。アリス・ドクターは、診察台に重ねられた書籍を取り読書へと戻った。
「外の様子は?」
「ご主人が実験の最中だと思われます。外に出るのは危険です」
「_部屋を壊すのだけはやめてくれよ?」
「ご主人様にお申し付けください」
「アイツが私の言う事を聞いたことがあるか?アリス」
「_一つだけ。ありましたよ?ご友人様」
「あったかな?そんな事」
「ありました。ご友人様」
アリスは、手元の書籍から目を離し純粋な目を向ける。
彼女が読みふけっているその書籍は、彼女の主人であるグレーの私物であり医学知識や魔法学に対して事詳細にまとめられている書物だ。
その知識を以て、彼女は自分自身の病を解決しようと奮闘している。何時か外の世界で、きちんと生きる為に。
「私と初めて出会った時。貴方は覚えていますか?」
「__アレは勘定に含まれない」
「そうですか?私は、十分に含まれると思います」
何せ。
「あの時、私は”貴方達”に救われたのですから」
天幕から光が零れ、世界が戻る。
何時も通りの自室は其処にはなく、思った以上に悲惨な光景が目に飛び込んできた。
最初に出たのはため息。そしてどこか片頭痛さえ感じる。
でもそれはこれだけが原因ではなくて、あの日あの時の後悔は未だにある。
あの日、手を伸ばした友人はこの子を確かに救って見せた。
隣で見て居ただけの私は、救う事も言葉を掛ける事も出来ずに居た。
隣のアリスも半透明となる。
彼女はあの世界の住人であり、この世界にいる彼女はいわゆる精神体だ。
契約者であるグレーの術式により、彼女は幽霊として存在している。
「_青空が奇麗だな」
「そうですね、今日は清々しい快晴です」
見事に吹き飛ばされ塵芥と化した壁際を見て、元”七不思議”はそこにたたずむ。
友人様と慕い御主人に救われた彼女は、今でも報われているか分からない。
何せ彼女は、未だに幽霊なのだから。