#1
その日もいつもと同じ、何ら変哲のない一日だった。
ヴーヴーヴーという目覚まし音で夢から引きずり起こされる。携帯から鳴り響いているそれは、まるで警報のようだ。すがすがしい寝起きにとても似つかわしい、と軋む身体を伸ばしながら顔をしかめる。
7:30pm。タイムリミットまで、残り10分と少し。着替えと洗面だけ終え、朝飯も食べずに家を出た。いつもと同じ、お決まりの朝だった。
その日はいつもと違い、朝から雨が降っていた。
ここらへんは、全くと言っていいほど雨が降らない。曇りの日は多いが、そこから雨が生まれるところまで到達しない。俺らが生まれる前から、とある科学者の研究のせいで、この地域だけじゃなく地球全体の天候がおかしくなっているのだと、担任の矢川ちゃんが言ってた。矢川ちゃんの担当教科は国語であるけど、色んなことに恐ろしく詳しい。しかも、あざと可愛い。あれで巨乳だったら、俺は完璧に惚れていただろう。
「おー、祥じゃん。はよ。」
肩を叩き、いや、もはや殴りながら声をかけてきたのは、同じクラスの快だった。俺と快の傘がぶつかり、雨粒が散った。
「いってええな、お前はまじで力加減ってものを…」
「わりぃわりぃ、でもよ、そんな力入れてねえって」
快は俺よりも10cmくらい背が高い上、運動部で鍛えられた筋肉がいいかんじについている。おまけに、顔も悪くないからそこそこモテる。これだけ聞くと嫌味なやつだが、俺はこいつの底抜けに明るい性格が嫌いになれない。高校からの付き合いだが、うまがあうっていうのはこういうことなのだろう。
「お前の力入れてないは一般人の全力だ…」
わ、と口を開いたとき、突然耳鳴りが襲った。思わず、ウッと呻き声をもらす。
「どうした?祥?大丈夫か?」
快が心配そうにこっちを覗き込んだ。
「いや、大丈夫だ、ちょっと頭が痛くてさ。」
俺は片頬だけで笑顔をつくった。耳鳴りのことは、なぜか人に話してはいけない気がしていた。
「それより時間やばくねえか、学校まで走ろうぜ」
話題を転換しながら、快に自分の腕時計を見せた。長針は少し歪んだデザインの40を指している。
「ほんとだ、やばい遅刻する。」
軽快に走り出した快の背中を追いながら、左手で傘の柄をぎゅっと握りしめた。耳鳴りがくるのは、これで何回目だろう。
ここらへんは、全くといっていいほど雨が降らない、が、年に1回か2回は雨が降る。そのとき、決まって耳鳴りがした。物心ついた時からずっとだ。晴れの日も曇りの日も、全く起こらない。健康面に異常があるわけじゃない。ただ、雨の日には決まって、一日中不規則に起こる。しかも、何回か前の耳鳴りから、それが少しずつ誰かの声に近づいていた。
雨粒が傘の上で踊る音がする。結構ひどい雨だな、と空を仰ぎみようとしたとき、また耳鳴りがした。
ワァァァァ…ァ…ェ…ァァ…キコエル…
さっきより音量がでかい。俺は水溜りを避けながら走っていた足を止めた。快は俺よりも数メートル先を走っていた。
ネェ…ショウ…キコ…エ…ル…
今度ははっきりと女の声が聴こえた。俺は眉を潜めた。こんなにクリアに聴こえたのは今までになかった。
「快!!わりぃ、俺忘れもんしたわ。矢川ちゃんの授業の課題。ちょい取りに戻る!先行っててくれ!」
快の背中に呼びかける。快は足を止めて振り返った。
「え、祥!取りに戻ったら間に合わないって…」
「矢川ちゃんの課題は遅刻しないことより大事なんだよ」
快の制止も聞かずに俺は走り出した。傘が鬱陶しくてたたむ。住宅街の風景が後ろへと流れていく。今まできた道を逆戻りしていた。角を二つ曲がって、家の近くの公園に駆け込んだ。平日の朝は、ぱったりと人気がなかった。ベンチに鞄を置いて座る。整っていない息とぐしゃぐしゃに濡れた自分に、少し苛立った。深呼吸を2回する。さっきのを聴いてから、何故か、「耳鳴りサン」に今すぐ話しかけなきゃいけない気がしていた。もう1回呼吸を整える。すぅっと息を吸った。
「お前さあ、だれ?どっから話しかけてんの?」
反応はない。
「何もかもわかんないんだけど、なんで俺の名前知ってんの?」
いきなり、雨脚が強くなった。目の前も、雨で歪む。
雨粒が目に入り、思わず舌打ちが漏れた。顔を下に向けながら、カッターシャツの袖で拭った。
シャツの袖までぐっしょりだったせいで余計に目に雨水が染みた。自分の馬鹿さ加減に眉根を寄せていると、ふっ、と目の前に影が落ちた。反射で顔を上げる。
「ショウ…アイタカッタ…ズット…アナタ二…」
驚きで、息が詰まった。今まで人の影1つなかったのに、いきなりそこにいたのは、耳鳴りの声の正体だった。銀色の髪に黄金の眼、透き通るような肌をしている。白くて、ふわふわしたワンピースを着ていた。裾からのぞく脚に、ドキリとする。今まで見たことのないあまりの可愛さに、思考が停止した。
「ショウ、わたし、迎えに来たの。」
俺がフリーズしていることも気にせず、少女は囁き声でいった。今度はさっきよりも鮮明に耳に届く。耳鳴りの声と若干トーンがずれていた。こんなにきれいな声だったのか、とまた驚く。俺の思考回路はまだ戻らないみたいだ。
「ほら、ショウ??早く行こう??」
急かすように手をとられて、ハッと我にかえった。傷つけないように気をつけながらも、はっきりと少女の手を振り解く。
「ちょい待って??えーと。いろいろ聞きたいことがあんだけど。まず誰?なんで俺を知ってるの?てか、どうやって俺に話しかけてた?なんでここにいる?一瞬でどうやってあらわれた?行くってどこに…」
まくしたてる俺に少女は首を傾げた。
「ショウ?どうしたの?なんでそんな..」
「どうしたもなにも…お前はなんなんだよいったい」
かみ合わない質問の応酬に、少女はさっきとは反対側に首を傾げた。
「.......」
少女は、すっと黙り込んだと思ったら、目を閉じて何かぶつぶつと呟いた。途端、ぱっと目を見開き、続いて顔をしかめる。ため息を短くつきながら言った。
「ごめんなさい、時間がないの、とにかく今は一緒に来て、ショウ」
少女はまた俺の手を取った。話が通じねえ、いったいなんなんだこいつは、と手を振り解こうとしたが思いの外、力が強かった。多分、快よりも強い。
そのままぐいっと引き上げられ、俺はベンチから腰を浮かす。少女に引かれ、歩き出していた。また、思考が停止する。少女の不思議な引力に、頭の磁石が狂っているみたいだった。2、3歩進んで少女は、マンホールの上で足を止めた。それは、少しさびついていて、少女と俺の2人がぎりぎり円のなかに収まるくらいの大きさだった。少女はすっとしゃがんで手を中心に添える。
よく聞き取れないが、なにか呟きながら、マンホールの蓋の模様を複雑になぞった。
刹那、グワァァァァァァァンと耳鳴りが起こった。今まで経験したことのないほどの、目眩にも襲われる。目をギュッと瞑り、頭を抑えた。ぐらぐらと頭がゆすぶられる。そのまま、俺の頭の中は暗闇に支配された。
「ショウ?大丈夫??」
いつのまにか座り込んだままで気を失っていたらしい。手で頭を押さえながら立ち上がる。
「いってえ...」
ズキズキと頭が痛んだ。和らげようとするが、痛みはひかない。
「えーと、ここはどこだ?」
思わず記憶喪失になったかのような言葉が漏れた。さっきまで公園にいたはずの俺の目に飛び込んできたのは、あたり一面の花畑だった。マンホールだけが、変わらず俺の足元にあった。頭の奥まで溶かすような、甘い花の匂いが漂ってくる。なぜか、ものすごく懐かしい気がした。頭がぼうっとしてうまく働かない。
「カユヅ!どこいってたんだ、国王様がお呼びだぞ。」
現実に呼び戻すかのように、突然、空から声と影が降ってきた。変な見たことのない動物の上に、人が乗っているのが確認できた。茶色の羽に、黄色の角が2本ある。脚のようなものが四本生えていた。象よりも大きい。鳥のような、それでいて鳥ではないような。俺の知っているものと違いすぎて、形容できない。
「バジ!」
カユヅ、と呼ばれた耳鳴りの声の少女は、少し驚いたようだった。形容できない謎の動物は、俺たちから2,3メートル離れたところに着地した。
すとん、と地上に降りたのは、少女と同じ銀色の髪に黄金の目の少年だった。カユヅと同じで、全身ふわふわした白い服をまとっている。上と下がつながっていて、下はズボンになっているみたいだった。よくみると、足ははだしのようだ。今まで気づかなかったが、カユヅも靴を履いていなかった。バジ、と呼ばれた少年はこちらに駆けよってくる。快よりも背が高かった。俺のことを認識して、そいつは驚きの表情をつくる。
「こいつ、もしかして、地球人か?」
「バジ、あのね、ショウは.....」
「なにしてんだ!ユヅ!!地球とは不可侵条約を結んでいるのに、地球人をこっちに連れてきたとばれたら...!!」
「だから、違うの、ショウはディビナシオ(占いの子)なの。なぜか記憶を失っているみたいなんだけど、でも、チキュウにつれてこいってオオババさまが。」
カユヅの言ったチキュウは、地球と少しイントネーションが異なっていた。
「ディビナシオ?あれは伝説じゃなかったのか?いくらオオババさまが言っているからって..それに、国王様は知っておられるの..」
ハッと気づいた表情になって、バジは慌ててまくしたてた。
「そうだ、国王様が、至急カユヅを呼んで来いって、とりあえず、この話は国王様に会った後だ」
何が何だかわからない会話に呆然していた俺は、バジ、という少年がカユヅを、あの見たことない動物の上にのせているのをぼんやりとみていた。いつのまにかそいつは、俺たちの近くまで寄ってきていた。近くでみると、より迫力がある。それに、独特のにおいがした。頭が、痛むのを思い出したかようにズキズキと鳴る。
「おい、チキュウ人、悪いが説明してる暇も話を聞いている時間もない。一緒に来い。」
一体ここはどこなのか、ディビナシオとは何なのか、すぐにも聞きたいことがたくさんあったが、ここは大人しく従ったほうがいいだろう、と鈍っている頭でなんとか現状を把握した。逆らったところで、何も得られないし、それに、俺の直感が、こいつについていくべきだと言っていた。バジは、動物にぐっと近づき(後から聞いた話だと、こいつはザトカキズという動物で、人間と意思疎通が図れるほど賢いそうだ。)何か話したあと、俺をまた呼んだ。近くに寄ると、ザトカキズの顔がズイっと近づいてきた。
「うわああ!!!!!」
食べられると思い、思わず叫ぶ。反射的に自分をかばった手の隙間から、間近に顔が見えた。聡明な瞳が陽の光に当てられて、きらきらと輝いていた。
「あれ、食べられてねえ..」
とほっとした瞬間、ぐるん、と身体が90度回転した。俺は、パクリ、となすがままにくわえられていた。といっても、痛くない程度に加減されている。
「悪いが、こいつにくわえられていてくれ。こいつは賢いし、草食だから食べられることもない。まあ、お前にとって上に乗るよりも安全だろう。」
バジが俺の顔のに来て言った。先に説明してくれ、と思いながら俺はうなずく。ここで文句を言っても仕方がない。それに俺は馬に乗ったことも、こんな大きい動物の上に乗ったこともない。落ちる未来が見えていた。
バジが乗り込む気配がした、と思ったら、もう空を飛んでいた。予想以上のスピードに俺は目も開けていられなかった。
体感にして5分くらいだろうか。降り立ったのは、湖のそばだった。周りは背の高い木で囲まれているが、湖の近くだけぽっかりと穴が開いている。ザトカキズが、口をひねりながら、俺をおろしてくれた。2人も、上から降りてくる。2人が下りた後、ザトカキズはピアノのような音で短く鳴いた後、どこかにいってしまった。多分、挨拶をして森へ帰っていったのだろう。
「じゃあ行くか。」
バジが、俺の手を引っ張って湖の前に連れていく。よくみると、湖は寒くもないのに凍っていた。それに、複雑な模様が浮かび上がっていた。ほかの部分は透明なのに、その部分だけ白かった。その模様は、まるで、
「マンホールみたいだ..」
ぽつり、と呟くと、カユヅが説明してくれた。
「王の住む場所にはね、こういった特別な魔方陣からしか行けないの。地球とチキュウもそう。地球
でいうマンホールっていうのは、こっちとむこうをつなぐ魔方陣なのよ。地球でそのことを知っているのはごくわずかだけど...」
「ユヅ、急がないといけないからその辺にしてくれ、えーと、地球人」
「ショウよ。」
「そう、ショウ、悪いが説明は後でする。とにかく今は急ぐんだ。」
バジがすっとしゃがんだ。ぶつぶつ呟きながら複雑な模様をなぞる。その仕草は、カユヅがマンホールの上で行ったものと似ていた。やばい、あれがくる、と思った瞬間またすさまじい耳鳴りと眩暈に襲われて、俺の意識は暗転した。
「ウ...ショウ!!!!!!」
カユヅに揺り起こされて、呻きながら目を開けた。そこは、透き通った水の中のような場所だった。壁も天井もガラスで覆われ、瑠璃色の光が差し込んでいる。天井には、青色のランプがいたるところに吊り下げられており、その空間全体が青色に染まっていた。床には、ガラスでできた魔方陣が(さっき湖と勘違いしていたのも、精巧につくられたガラス細工だったのだろう)敷かれている。高校の教室くらいの広さだろうか。俺は、その中心でだらしなく、うつぶせに寝そべっていた。
「申し訳ございません。ライハ様。ショウは空間移動に耐性がないみたいで...」
俺の右にいるバジは、膝をつき、深く頭を下げながらどこかに話しかけていた。俺が気を失っていたのは、ほんの一瞬のようだった。
まだ痛む頭を押さえながら起き上がり、一応バジに習う。カユヅも、俺の左側にさっと姿勢を直した。多分、国王に対する作法なのだろう。いきなりこんなところに連れられてきてなんだが、ただ、不思議な雰囲気が自然とそうさせた。頭を下げながら、もう一回注意深くあたりを見渡す。しかし、バジが話しかけている相手は見当たらなかった。
「よいのだ。バジ。それは既にきいておる。」
深くしみわたるような重低音が頭上から響いた。
「顔をあげよ、ショウ、バジ、カユヅ。」
ゆっくりと顔をあげると、そこにはさっきまでなかった人の影があった。
燃えるような髪の毛に黄金の瞳をした、初老の男がそこにいた。ライハ、という国王なのだろう。まとっている雰囲気で肌がピリピリした。
「よく来た、ショウ。記憶が戻っていないようだが、それも致し方あるまい。カユヅが随分と無理やり連れてきたようだが..」
ライハがちらっとカユヅのほうに視線を向けると、カユヅは慌てて弁明をした。
「違うのです、ライハ様!許された滞在時間があまりにも少なかったため..ショウに説明している暇がなくて..」
「別に責めてはいない。ショウが記憶を失っていたことも我々は知らなかったのだ。てっきり、ディビナシオには生まれた時から記憶が備わっている思っていたが、例外もあるのだろう。」
ショウよ、とライハは俺のほうを向いた。緊張で思わず身体がこわばるのを感じた。
「突然つれてきてすまなかった。我々にもいろいろと事情があってな..どこから説明すればよいか..」
まあ、楽な姿勢で座ってくれ、とライハは腰をおろした。バジとカユヅは姿勢を崩さないが、俺はもうすでに疲労が限界だったので、お言葉に甘えることにする。体全体がしびれている感覚があった。
ライハはまっすぐこちらをみて、少し悲しそうに微笑んだ。瑠璃色に照らされた部屋と、紅い髪のコントラストがしみじみときれいだった。すっと息を吸う音が、静けさをさらに助長させる。
「それは、今から200年くらい前のちょうど雨の日だった...」
ぽつり、とライハが語りだしたのは、200年前、地球とチキュウの間に起こった物語だった。